家康没後400年に際して その2 戦国期の知恵
- 公開日
- 2015/09/18
- 更新日
- 2015/09/24
校長
戦国期の知恵 真田家と奥平家
このところ雨の日が多く続きます。
暑さが去ったあとの長雨が降り続くこの時期を、「秋黴雨(あきついり)」「秋湿り」「秋霖(しゅうりん)」と古くは云ったそうです。
なかなか趣のある言葉です。
しかし、現実に目をやると大雨により各地で災害が起こったり、運動会の練習ができなかったりで、困っております。
さて今回は、関ヶ原の戦いで活躍した真田家と、長篠の戦いで活躍した奥平家に焦点を当ててお話をしてみます。
“来年の「真田丸」も原作・脚本は三谷幸喜さんです。三谷流の幸村が登場するのでしょうね。もう50年ほど前のことですが、TBSでナショナル劇場「戦国太平記 真田幸村」というのをやっておりまして、眠い目をこすりながら見ていた記憶があります。中村錦之助(萬屋錦之介)さんが主演でした。猿飛佐助、霧隠才蔵ら真田十勇士の名を覚えたのもこの番組の影響でした。幸村の実名は信繁ですが、幸村の方が認知されてますね。”
と昨年度のこの欄、「佐久間象山」のところで書いたのですが、いよいよ9月1日から「真田丸」の撮影が開始されたそうです。
「六文銭」、「真田の赤備え」、「真田十勇士」と、真田家にまつわる話題は大変豊富です。とりわけ石田三成らが挙兵した関ヶ原の戦いで、父・真田昌幸と幸村(信繁)共に西軍に加勢し、兄・真田信之の妻が本多忠勝の娘であったことから家康率いる東軍についた兄と袂を分かち、父子、兄弟が争ったことが有名です。
戦国の世は、親、兄弟、骨肉といえども心を許さず、袂を分かつことはしばしばあったようです。考えようによっては真田家も賢い選択をしたのかもしれません。敵味方に分かれ争いが始まったとしても、いずれか一方の「真田家」は後世に残ることができるのですから・・・「家」を重んじるという点からは、日本的な賢者の選択かもしれません。
関ケ原の際の真田家より25年ほど前の「長篠の戦い」でも同じような例が見られます。
長篠城主「奥平家」にまつわるお話をしてみたいと思います。
「奥平家」は三河北部の有力な国人でした。奥平家は今川家に属していましたが、桶狭間の戦い以降、今川家の衰退を見て徳川家に従います。奥平信昌(のぶまさ:初名は貞昌さだまさ)は、徳川家の合戦に従軍して姉川の戦いなどで奮闘しています。しかし徳川家康と武田信玄の抗争が始まり、武田家が優勢になって三河にも侵攻を始めると、奥平家は武田家に寝返り、信昌も父・定能(さだよし)に従い武田軍に参加して徳川軍と戦います。
1573年に武田信玄が死去し、徳川家康が反撃を始めると、奥平定能・信昌父子は徳川家へ寝返り、賛同した一門と家臣を連れて武田領から逃亡し、徳川領へ移ります。一方、祖父の貞勝をはじめ奥平一門の半数が武田家に従い続けることを選び、甲斐へ移住します。
奥平父子の寝返りを受け、武田家は奥平昌勝(信昌の弟)や分家の娘を含む人質を処刑します。
一族の間で武田と徳川に別れて戦うことは戦国期に強国の間に挟まれた小豪族の宿命というか、「家」を護るための知恵だったのでしょう。
余談ですが、武田の騎馬隊は最強といわれていました。が、当時の「馬」はサラブレッドではありません。映画やテレビで戦国ものや時代劇を扱うときに馬が登場しますが、これらはみな明治期以降に日本に入ってきたアラブ系や西洋系の馬です。
日本の在来馬は「駒」とも呼ばれ、その平均体高は130センチ程度、平均体重は250kgで、サラブレッドの160センチ、500kg程度と比較するとかなり小さいです。が、当時の日本人の身長も成人で150センチほどであったそうです。簡単に言うと、ポニーに乗った騎馬軍団です。想像できますか?
刀と弓、槍の時代の足軽(人)VS騎馬隊の時代の戦いから、鉄砲隊VS騎馬隊の時代になると・・・いくら“飛び道具を使うとは卑怯なり”といったところで雌雄は決するわけで、時代の変化について行けないものは滅びる運命だったのでしょう。
次回は、奥平家について少し詳しくお話しします。