家康没後400年の年に際して その7 督姫 2
- 公開日
- 2015/11/10
- 更新日
- 2015/11/10
校長
督姫 その2 「毒饅頭事件」の真相
立冬を過ぎ、山茶花(さざんか)の咲く頃となりました。
家康関係のお話も、だいぶ長くなりました。
少々、飽きてきました・・・というか、ねたがきれてきました!?
戦国期の政略結婚について、家康に絡めて真田家のお話もと思っていたのですが、「真田丸」が始まったら追々お話しします。
今回は、「督姫毒饅頭事件」の真相です。これで、家康関連はおしまいとします。
督姫を妻にした池田輝政(てるまさ)は、慶長6(1601)年に姫路城(兵庫県姫路市)を大改築し、9年後に完成し今の姿になりました。白鷺城とも呼ばれるこの城は、平成5年に世界文化遺産に登録されました。
当時の姫路城は、豊臣秀頼(ひでより)のいる大坂城(大阪市)を攻略する拠点の1つであり、秀吉の小姓として仕えた秀頼を慕う、安芸国(広島県西部)の福島正則(まさのり)や肥後国(熊本県)の加藤清正らが攻め上ってきた場合の山陽道の防御を担う徳川幕府の要の城でもありました。
督姫は輝政との間に、忠継(ただつぐ)、忠雄(ただお)、輝澄(てるずみ)、政綱(まさつな)、輝興(てるおき)と5人の男子に恵まれています。
前回お話ししましたが、輝政には4人の男子がいます。督姫の一子、忠継が誕生したとき、輝政の長男利隆は16歳、次男政虎は10歳。そこで、忠継を次男とし政虎を三男とします。その後督姫は4人の子を生んだので、政虎は七男になった。本来四男の利政は九男として扱われます。
なぜ、このような不可解な兄弟関係が作られたのでしょうか・・・?
当時の大名家では、正室の子を側室の子よりも優先するのがならいであったようです。
ですから、年齢的には上でも側室の子である政虎は七男とされたのでした。
池田家は次男・忠継の備前国岡山藩28万石、三男・忠雄の淡路国洲本藩6万石、弟・長吉の因幡国鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)の所領となり、輝政は「西国将軍」「播磨宰相」「姫路宰相」ともいわれています。
慶長18(1613)年1月、輝政が痛風で50歳で亡くなると、督姫は良正(りょうせい)院と号します。
督姫の望みは、自分が産んだ息子が亡き夫の跡を継ぐことでしたが、督姫の息子たちは、まだ幼く、姫路52万石の家督は、先妻の絲(いと)の息子、利隆(としたか)が継ぐことになります。
そこで登場するのが「督姫毒まんじゅう事件」です。
簡単に言うと、「督姫が実子忠継を世継ぎにしようと、毒入り饅頭で嫡子利隆の毒殺を企てる。ところが、その饅頭を忠継が食べて死んでしまう。悲観した督姫も毒をあおって後追い自殺をした。」という内容です。
督姫は何としてでも自分の息子に跡を継がせるため、饅頭(まんじゅう)に毒を仕込んで、利隆を毒殺しようとした。が、それに対し、忠継は母の陰謀を恥じて、利隆に代わって、毒入り饅頭を食べて死んだという噂が流れます。
実際に二人は慶長20(1615)年に相次いで亡くなっています。督姫は天然痘が原因で2月4日に、忠継は19日後の2月23日に亡くなります。
昭和39(1964)年に忠継の墓所移転にともない骨を鑑定しています。が、毒物反応は検知されていません。翌年6月には利隆が亡くなっています。
利隆を督姫が毒饅頭で殺したという説もあるようですが、利隆の死は元和2年(1616)で、督姫はその1年前に亡くなってますから、この説は成立しません。
池田氏の主要人物3人が立て続けに亡くなったことで生まれた噂が、「督姫毒まんじゅう事件」の真相のようです。
その後、池田氏は相次ぐ不幸で家中が不安定になり、幕府から国替えを命じられ、因幡国(鳥取県東部)に転封となります。
代わって親藩の本多忠政(ただまさ)が、元和3(1617)年に姫路城に入城します。父は本多忠勝。真田信之の妻・小松殿と、亀姫の長男奥平家昌の妻・もり姫は忠政の実の姉です。
幕府は、忠政の息子、忠刻(ただとき)に、第2代将軍秀忠・お江(ごう)の娘、千姫を嫁がせています。(千姫は秀吉の次男・豊臣秀頼の正室でしたが、慶長20(1615)年の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により大坂城から救出され、翌年、忠刻に嫁ぎます。秀頼の母は、お江の姉ちゃちゃです。)
お江は浅井長政(あざいながまさ)の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。浅井三姉妹の長姉は豊臣秀吉の側室・淀殿(茶々)、次姉は京極高次の正室・常高院(初)。秀吉の意向で、お江は信長の次男の織田信雄(のぶかつ)の家臣で従兄の佐治一成に嫁ぎます。次に秀吉の甥の豊臣秀勝に嫁ぎますが、朝鮮への出兵(文禄の役)で秀勝が亡くなります。3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠です。
岡山藩主、池田光政(利隆の嫡男、督姫の孫)には池田家永代墓地として「和意谷墓所」がありますが督姫の墓碑はありません。また、光政は岡山城内に祖廟を設けていますが、ここでは、父利隆の実母絲姫(離縁)を祀り、督姫は祀っていません。
督姫の墓所は京都知恩院にあるようです。
以上が督姫にまつわるお話しです。
20数年前、改修前の姫路城(白鷺城)は行ったことがあるのですが・・・改修された城も見てみたいですね。
城内にはお菊の井戸というのがあります。この井戸は播州皿屋敷の井戸として有名です。
余談ですが、各地に皿屋敷に関する話しが残っているようです。江戸を舞台とした番町皿屋敷も有名ですね。内容的には播州皿屋敷も番町皿屋敷も似ています。
番町皿屋敷の概略は次の通りです。
火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため:何処かで聴いたことがありますね。そうです、鬼平犯科帳の長谷川平蔵と同じ役職です。)・青山播磨守主膳の屋敷があり、菊という下女が奉公していた。承応二年(1653年)正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまう。怒った主膳は皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁します。菊は縄付きのまま部屋を抜け出し、裏の古井戸に身を投げます。まもなく夜ごとに井戸の底から「一まい、二まい・・・」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさを青山一家は味わうことになります。
菊は平塚宿宿役人眞壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳の屋敷で行儀見習いをしていたようです。そのお墓は平塚の晴雲寺近くの眞壁家墓所にあります。元々は平塚駅の近くにあり、現在、紅谷町公園には菊塚と刻まれた石碑が建っています。
幕府は凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることにし、「盗賊改」を寛文5(1665)年に設置し、その後「火付改」を天和3(1683)年に設けています。
しかし、「番町皿屋敷」の時代にはまだ火付盗賊改は役職として存在していません。
青山主膳も架空の人物です。
では、「貞室菊香信女」の戒名をもつお菊は・・・・
夏でもないのに、余談が怪談になってしまいました。