家康没後400年に際して その5 亀姫 3
- 公開日
- 2015/10/14
- 更新日
- 2015/10/14
校長
亀姫 その3
「宇都宮城釣天井事件」
「ロッキード事件」って何ですか・・・?
そうか、「ロッキード事件」知らないんだ。
1976年、僕が大学に入学する年に発覚した汚職事件ですからね。
田中角栄首相の秘書であった榎本敏夫秘書官の妻美恵子さんの証言「蜂の一刺し」に至ってはいわずものがな、「とどめの一撃」「逆転満塁ホームラン」に言い換えましょうか(笑)
元和8年(1622年)、将軍・秀忠が家康の七回忌に日光東照宮に参拝した後、宇都宮城に泊まる予定でした。
本多正純は城主としての腕の見せどころとばかりに、しっかりと城兵を管理し、将軍家の味方として屈強なと見せたかったのでしょう。城を修復し、鉄砲を準備しと、将軍家を迎えいる準備を入念に行い始めます。
城の改修や武器等の増強は武家諸法度(元和令:1615年、秀忠が発布)に従い、幕府に届け出て許可を得るべき内容なのですが、正純としては、本多家の忠義を秀忠に見せたいという思いと、本多家は父の代からの側近中の側近という、おごりともいえる甘い考えが相まって、幕府に無許可のまま準備を進めます。
常日頃からチャンスをうかがい、本多家の情勢を内偵していた亀姫は、早速、行動を開始します。
参拝を終えた秀忠に、姉の亀姫から「宇都宮城の普請に不備がある」と密訴があります。
簡単に言うと、「宇都宮は、城を修復し、仕掛けを講じて、無届けで鉄砲などをそろえ、何やらたくらんでいる様子。危ないから行かないほうがいい」ということです。
内容の真偽を確かめるのは後日とし、秀忠は「御台所(みだいどころ:将軍の正室)が病気である」との知らせが来たとして、予定を変更して宇都宮城を通過して江戸城へ帰還します。
この一件について、後日、真実かどうか正純への詰問が行われます。
もともと、よかれと思っての様々な準備ですから、正純は否定する事なく、城の修復や鉄砲の買い入れを認め「将軍家の御ため」と弁明しますが、それこそ「ルールはルール」です。城の公共物を持ち逃げしたのとは、ワケが違います。
取りようによっては、謀反とも取れる無届の改修工事と武器調達。
必死の弁明は一蹴され、正純は所領は召し上げられます。が、先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽由利郡に5万5000石を与えられます。
謀反に身に覚えがない正純がその5万5000石を固辞したところ、逆に秀忠は怒り、本多家は改易となり、正純の身柄は久保田藩主に預けられ、出羽横手への流罪となります。
これが、有名な『宇都宮城釣天井事件』です。
釣天井とは、つり上げておき、下に落として室内にいる人を押し殺すように仕掛けた天井のことです。後の検分では釣天井は存在しなかったようです。
もちろん、これには、幕府内の権力争いも絡んではいたんでしょうが、もしかすると亀姫は、そんな権力争いも計算に入れていたのかも知れません。
やがて、成長した忠昌は5千石の加増を受けて、実際には釣天井など存在しなかった宇都宮城に、見事、返り咲きます。
釣天井は、将軍の頭の上ではなく、本多正純の上に仕掛けられていたわけです。
まさに、亀姫こそが釣天井だったのですね。
幼くして藩主となった孫たちの後見役を見事果たした亀姫ですが、寛永2年(1625年)、加納において66歳で死去します。
亀姫についてのお話はこれでおしまいです。
余談ですが秀忠は、大名・公家・寺社に領知(地)の確認文書(領知宛行状:りょうちあてがいじょう)を発給し、自ら全国の土地所有者としての地位を明示します。
大名とは1万石以上の領地を与えられ、将軍との主従関係を結んだ武士をいいますが、軍事力を備えているだけにその統制には苦心します。元和5年(1619年)、広島城主福島正則(49万8千石)を武家諸法度の城郭補修の項に違反したとして津軽へ、そののち信州川中島(4万5千石)へ転封しています。もともと福島正則は豊臣秀吉の側近でしたが石田三成との仲が悪く、関ケ原では徳川に従い武功をあげ、安芸広島と備後鞆(びんごとも)49万8,000石(広島藩)を得た外様大名です。将軍よりも年功の西国有力外様大名をも処分できる圧倒的な力を示したのでした。
その後、奥平家は出羽山形9万石、丹後宮津9万石、そして最後は豊前中津10万石の領主となります。
豊前中津は当初、黒田如水(官兵衛)の所領でした。歴代の藩主としては黒田⇒細川⇒小笠原⇒奥平と続きます。
中津藩出身者には『解体新書』を著した前野良沢や下級藩士出身の福澤諭吉がいます。
豊前中津(大分県中津市)も訪ねてみたいところです。耶馬溪(やばけい)や中津城、黒田官兵衛ゆかりの平田城、長岩城、一ツ戸城も素敵なところなのでしょうね。