学校での子どもたちの様子をお伝えします。

殻を打ち破れ! 〜 変化への対応

先日23日に、修了式に引き続き離退任式を行いました。
私を含め8名の職員が、子どもたちとお別れの挨拶を交わしました。
私からは、「おかげさまで」「ありがとう」と感謝の言葉を伝えました。

そういう訳で、この「校長室から」もとうとう最終回となりました。

4年前、2014年8月に始めてこれまで何とか続けられたのは、学校内外の多くの方々に感想や励ましをいただいたことが大きかったと思っています。お世辞でも、面白い、と言っていただいたその言葉が、背中を押してくれました。

当初の校長としての校内外へのメッセージや広報的なものから、自分自身や社会の出来事、歴史事象や宇宙に絡んだ話が多くなり、ほとんど私的雑感になっていったと感じています。
一個人として、時事の話題や歴史等の趣味に関連したことに、自分なりの解釈や注文、苦言などを入れていくことに楽しみを感じるようになりました。
一方では何か書かないと、というストレスも感じながらの4年であったと思います。
とはいえ最後は “its a fun” という心境でした。

何やかやでこれまで記事の総数は120となりました。ここ2年は記事が多くないのですが、自分ながら良くこんなに書いたなと感心しています。
正直、学校運営や未来構想などで思うように進まない時期もあり、後半の2年はトーンダウンしました。自分の気力と相関があったのかとも思います。また、外部からのクレームもなかったわけではありませんし、私的な事ばかりでいいのかなと悩まされもしました。
しかしながら、いろいろあったストレスや壁に立ち向かった時の息抜きでもありました。言い換えると、ここに逃げていたのかもしれません。そういう反省もあります。
まぁ、すべて思うとおりに出来るわけもないので、それなりに仕事に対する自分のモチベーションの維持にも役立ったと思っています。

さて、最後にあたっての私のメッセージですが、“殻を打ち破れ! 〜 変化への対応”であります。
組織や制度、そして教育界に厳然として存在する古い殻、壁に風穴を開けよう、ということでもあります。

本校に着任した際に、“組織対応とボーダレス”を旗印にしました。この二つはお互い切り離せない関係で、学校の方針を決める上で役立ちました。小学校は完全にアウェイで、知り合いも全くおらず、中学校とは勝手が違い、カルチャーショックを受けっぱなしでしたが、いつまでもそうとばかり言ってるわけにも行かず・・・様子見というよりは、私はこうです、こう思ってますとアピールしてきました。しかし、細かいところではボーダレスについては解釈がまちまちの所もあり、壁を取り除く、殻を破る、という所には至らなかったところも残念ながら多数有ります。古い因習・古い壁が破れない、破らない、という所を切り開く突破口が、組織対応とボーダレスではないですか、と改めて感じています。

もう一つのメッセージは、2015年1月7日付の「今日から明日へ 〜変化への対応〜」で引用した、ダーウィンの「唯一生き残るのは変化に対応できる者である」です。殻を破ることと、変化への対応とは相通じるものがあります。茶道江戸千家開祖、川上不白の「守・破・離」にも通じると思ってます。足柄小の関係者は、殻を打ち破り、本校の新たなステージに向かって欲しいと思いますし、校外の方々には足柄小への変わりないご支援をお願いしたします。私自身は少し暇ができそうなので、30数年ぶりに茶道をまた、「守」からスタートしてみようとも思います。これまでのお付き合い、本当に有難う御座いました。




卒業式

本日20日、足柄小で平成29年度卒業式が、市議会議員、教育長、来賓の皆様、保護者の皆様のご臨席を賜り挙行されました。
78名の卒業生達は、堂々と胸を張り、自信を持って卒業証書を受け取りました。どの顔も、未来への希望に満ちあふれておりました。

卒業式での校長の話を掲載いたします。

木々にも新芽が伸び、若い命が成長、躍動する春が
めぐってまいりました。

この春の佳き日に、PTA会長様をはじめ、
ご来賓の皆様、保護者の皆様のご臨席を賜り、
平成29年度 足柄小学校卒業式を挙行できますことは、
本校関係者一同 大きな喜びでございます。
ご臨席をいただきました皆様に、厚く御礼申し上げます。

卒業証書を授与されました78名の卒業生の皆さん、
義務教育9年間のうちの6年が終了しました。

今以上に、使命と責任を背負う中学校への門出をお祝いし、
足柄小学校での最後の授業を行います。

次のステージでは、様々なことに直面すると思います。
そのときの参考にしてください。

【未来を切り拓いていこうとするとき】
 チャンスは百万回与えられていると挑戦しよう
 それは誰の課題なのかと考えよう
 自分の存在価値や使命を見つけよう
 自分以外の人の存在価値や使命に思いを馳せよう

【もう限界だと思ったときには】
 腹式呼吸で、大地の元気を吸い込み、不安を吐き出せ
 顔を上げ、胸を張り、笑顔を作れ
 あと3日、あと3時間、あと3分だけ、全力を尽くせ

【何をすべきかわからなくなったときには】
 目の前にいる人を喜ばせることに集中しよう
 目の前の小さなことを一所懸命にやり遂げよう
 そうすればやがて自分の夢や使命に辿り着く

どれだけ充実した人生を送るか、
どれだけ深く人を愛することができるかは、
あなた次第です。
意志と情熱を両手に、愉快で素敵な人生を送ってください。

南直哉(じきさい)さんの
「なぜこんなに生きにくいのか」という本の中に、

 人は、関係の中でしか生きられない以上
 自分だけで、なにがしかの価値があると思うのは
 幻想です
 自分が価値ある人間になるには、
 「他者」にそう思ってもらうしかありません
 しかし、まともに人から敬われないのだとすれば
 それは自分も人を敬わないからでしょう
 人を敬わない人は、自分も敬われません
 「自分」の価値うんぬんを考える前に
 まず自分が、人に対して、まわりとの関係において
 相手を敬う気持ちがあるかを、考える必要があるのです
 ここで言う「敬う」とは、根本的には想像力です
 どんな人でも みんな心配事、
 何かを抱えて生きているんだろうなと、思えるかどうか
 これが、人を敬うということです
とありました。

また、最近話題となった
「君たちはどう生きるか」という本の中にも、
 世間には、他人の目に立派に見えるように、
 見えるようにと、振る舞っている人が随分ある。
 そういう人には、 自分が人にどう映るか
 ということを一番気にするようになって、
 本当の自分、ありのままの自分がどんなものか
 と、いうことをついついお留守にしてしまうものだ
とあります。

小学校の卒業は、
今までの少年時代との別離であると同時に、
新しい青年時代への出発でもあり、
皆さんが大人へ近づく、新たな「巣立ちの日」となります。

これから始まる 中学校生活においては、
先生や家族、友だち、色々な人に相談することがあっても、
自分がどうなりたいのか、何をしたいのかは 
本当の自分、ありのままの自分が決めることです。
そのためにも 学び続け、考え続け、
正しいと信じられる事を選択して、行い続けることです。

その際に、先生や家族、友だちなどと
互いに敬う関係を築けたら、
心豊かな人生を送ることが、できそうな気がします。

世界は資源や富を巡って、競争を繰り広げています。
そうした時代にあって
敬い敬われ、助け助けられる世界を、
自分の周りから、どう創り上げていくかが問われています。
あなたの周りの人とともに
心豊かな人生を送ってください。

さて、保護者の皆様、本日のご卒業おめでとうございます。

先日、冬季オリンピックが閉幕しました。
アスリート達の活躍に一喜一憂しながら観戦していました。
メダルを獲れたというのは、本当に凄いことですが、
結果を得るまでの努力に 勝るものはありません。
これは、子どもたちにとっても同じ事です。

保護者の皆様には、是非、
子どもたちが努力したことを、
苦労したことを、
くじけそうになった時に、心を強くして乗り越えたことを、
子どもと共に振り返り、共有して欲しいのです。

そんな思いを込め、「未来へ」という曲の歌詞を紹介します。

 ほら 足元を見てごらん これが あなたの歩む道
 ほら 前を見てごらん  あれが あなたの未来

 母がくれた たくさんの優しさ
 愛を抱いて 歩めと繰り返した
 あの時は まだ幼くて 意味など知らない
 そんな私の手を握り 一緒に歩んできた

 夢はいつも 空高くあるから
 届かなくて怖いね だけど追い続けるの
 自分の物語だからこそ 諦めたくない
 不安になると手を握り 一緒に歩んできた
 
 その優しさを 時には 嫌がり 離れた
 母へ 素直になれず

 ほら 足元を見てごらん これが あなたの歩む道
 ほら 前を見てごらん  あれが あなたの未来
 未来へ向かって ゆっくりと 歩いて行こう


どうぞ これからも しっかりと見守りながら、
子どもたちの持つ力を信じて、
子どもたちの自立を 応援してくださることを
重ねてお願い申し上げます。

以上をもちまして最後の授業、「餞の言葉」といたします。




サクラサク

サクラサク

昨日、15日のニュースで、
高知で昨年より7日早く桜が開花したとの報道がありました。

今年は各地で平年より早い開花が予想されておりますが、
本日、本校(体育館前、2年3組、5年2組前付近)の桜が開花しているのを確認できました。
卒業式に、桜が色を添えてくれます。

確実に春が近づいております。


白山中学校卒業式

白山中学校卒業式

本日午前中、白山中学校の卒業式に参加してきました。

夜半からの雨も小止みとなり、厳かな雰囲気の中、194名の卒業生に卒業証書が渡されました。
西村校長や在校生、卒業生の言葉の中から、彼らが3年間頑張ってきた事の思いと新たなステージへの決意が伝わってきました。
卒業の歌も大変伸びやかで、聴く者の感動を誘いました。
白山中での経験をそれぞれの胸に、もっともっと輝いて欲しいと思います。

個人的には、昭和60年4月から平成5年3月まで白山中に在職しておりました。
白山で卒業生を送り出してから25年、四半世紀が過ぎた事になります。

25年前の卒業生の中には、今の卒業生の保護者になっている方もおりまして・・・
中学卒業時のイメージしか持っていないのですが、この25年の間にはいろいろなことがあった事と思います。が、みな立派な志を持って自分の人生を切り拓いてきたのでしょう。

卒業生も、荒波にもまれながらも自分の活路を切り拓いて欲しい。
そんなことを思いながら、「大地讃頌」と「白山中校歌」を生徒達と一緒に歌いました。

とても温かい時間の流れた卒業式でした。




PTA総会での校長の話

PTA総会での校長の話

記録的な大雪や寒さが続いた今年の冬ですが、「春一番」など、春らしい言葉を見聞きするようになってきました。来週の火曜日は「啓蟄」です。

本日は、授業参観、PTA総会・学級懇談会にご多用な中、参会いただきまして誠にありがとうございます。

次年度の新たな役員が選出されました。
学校を、子どもたちを、次年度もしっかり支えていただけると、安心しました。

各委員会の活動のどれもが、「子どもたちのために」行われています。PTA活動は同学年だけでなく、異学年の子どもを持つ保護者がつどえる機会でもあります。
子どもたちも縦割り班での活動もしておりますし、他学年の情報を知る機会にもなります。保護者の皆様にとってもプラスの作用があると思います。
次年度も、会員の皆さんが誰でも気軽に参加し、より一層のPTA活動が活性化することを期待いたします。

足柄小では、今年も様々なことがありました。
校舎管理面では、子どもたちをはじめ、皆様に不便をおかけしておりました外壁工事も終了し、きれいになりました。
また、トイレの洋式化工事も完了し、すでに子どもたちは使用しております。
今年度はPTAでジェットストーブを購入していただき、先日の6年生を送る会や卒業式の練習で早速活用させていただいております。

新しくなった環境で、3月20日にはこの場所で、卒業式が行われ、78名の6年生に卒業証書を渡すこととなります。

今週の火曜日、27日には公立高校の合格発表がありました。
3年後、彼らは進路選択を迫られることになります。自分の道は自分できり拓くことが求められることになります。成長段階に応じて、求められるものが替わってきます。

さて、ご承知の通り学習指導要領が改訂されました。
およそ10年ごとに改訂されているのですが、この度の改訂では、「何のために学ぶのか」という学習の意義を共有しながら、知識理解の質を高め、資質・能力を育む「主体的・対話的で深い学び」
を追求し、「何ができるようになるのか」(生きて働く知識・技能)を明確にしていきます。
また、「理解していること・できることをどう使うか」(思考・判断・表現力)や「どのように社会・世界と関わりよりよい人生を送るか」(学びに向かう力・人間性)についても身につけていくことになります。

これに伴い、教科の編制が少し変わることになります。
完全実施は32年度からですが、それに先立ち平成30年度からは「特別の教科道徳」が導入されます。32年度からは5・6年生で「外国語」が教科として導入され、成績もつくようになります。

来年度からの変更点をお知らせします。

来年度といってもこの4月からですが、道徳の教科化がスタートします。教科ということで、評定を行うことになりますが、通知票には◎○△ではなく、文章でコメントします。 

完全実施に向けての移行期ということで、外国語活動では、5・6年生の時間数が15時間増えます。
実施に伴って、時数確保のため行事等の精選を行っています。

また、来年度は「放課後児童教室」が開設されます。
足柄小では、平成30年6月の発足を目指し、準備を進めております。週1回程度、1〜3年生を対象に、学習や昔遊びなどのイベントを予定しております。開設の際は皆様のご協力をお願いいたします。

以上、よろしくお願いいたします。



オリンピック閉幕  〜アスリート達の言葉〜

冬のスポーツの祭典、冬季オリンピック。ピョンチャンオリンピックが閉幕しました。
今回も、観るものに多くの感動を与えてくれました。
そして、何より “笑顔の大切さ” を実感したオリンピックでした。

アスリート達の言葉の全てを紹介することはできませんが、
気になるいくつかを紹介します。

<スノーボードハーフパイプ>
平野歩夢選手
「また4年かー」
「本当にこの4年間つらかったし、けがもした。1歩1歩が、大変だった」
ショーン・ホワイト選手
「ライバルの滑走はいつも、見ている」
「相手がどのような技を決めてくるかを見て、自分の技を変えたりもする」

<スキージャンプ>
伊藤有希選手
「沙羅ちゃんが苦しんで4年間過ごしてきたのを見てきたので、メダルを獲れて良かったと思います」

<フィギアスケート>
羽生結弦選手
「自分が弱いと思えるときは、自分が強くなりたいという意思があるとき。だから、自分は逆境、自分の弱さが見えた時が好き」
「五輪のために色々なものを捨ててきた。緊張は毎日していた。しんどいなぁと思っていた。でもしんどいからこそ、最終的に絶対に幸せがくるんだろうなっていうのを、ひたすら待っていた。明けない夜はない!」

<スピードスケート>
小平奈緒選手
「不安と焦り、悔しい思いを何度もした。スケートの楽しさを忘れてしまうくらいつらくて、自信が持てない自分が嫌いになった。結果が出ないから大好きなはずのスケートも楽しめるわけなくて、氷上で『笑う』ということがなくなった」
「本当のガンバレは顔が晴れたこと。つらくても笑顔は忘れちゃいけない」
「笑顔でいること。良い記録を出すことより、何より笑顔で顔晴(がんば)ることが、今の私にできる、感謝の気持ち、恩返しだと思う」

また、ライバル同士の支え合いも印象的でした。
小平奈緒選手のオリンピックレコードを出したレースで、湧き上がる観客に対して「静かにしてね」というジェスチャーや、その後のイ・サンファ選手へのいたわり。「彼女のお陰で次のステップに進めることがあった」「金メダルは名誉、でも生き方が大事」とインタビューでも語ります。

アスリートの言葉は、本当に奥が深いですね。


オリンピック異聞

オリンピック異聞

ピョンチャンオリンピックも終盤に近づいてきました。
開幕前は、さほど気にもしていなかったのですが、競技が始まると連日テレビをつけっぱなしで、アスリートの活躍に一喜一憂しております。メダルの数も2月21日現在11個となりました。

冬季オリンピックというと、20年前の長野と、46年前の札幌を思い出します。
長野も、ついこの間のような気がしているのですが・・・
20年前の長野ではジャンプ陣が個人・団体でメダルを獲得し、スピードスケート500Mでは清水宏保が金、岡崎朋美が銅、スキーモーグルでは里谷多英が金、と大活躍でした。
小田原市中学校体育連盟で距離競技を観戦に行った事を思い出します。

1972年は非常に衝撃的な年でした。
2月3日に開幕した札幌大会は、スケートでは銀盤の妖精といわれたジャネット・リンが人気を独占してましたし、スキージャンプ70m級では、笠谷幸生が1位、金野昭次が2位、青地清二が3位と、日本人が冬季オリンピックでは初めて表彰台を独占しました。当時中学2年生の僕は、トワ・エ・モアが歌う「虹と雪のバラードを」聴きながら、連日テレビに釘付けになっていました。
この札幌オリンピックは2月13日に閉幕したのですが、その6日後の19日から28日にかけ、日本中を震撼させた「浅間山荘事件」が起こった年でもあります。

当時、神奈川方式と呼ばれる高校選抜方法が行われており、中学1年、2年の3月に県下一斉に行うアチーブメントテストがありました。2・3年の内申(50%)に加え、ア・テストの段階点(25%)、入試(25%)の3本立てで選抜が行われました。現在の入試重視の選抜とは違い、中学校での内申とアテストの結果で入試資料の75%が決まり、一定の成績をとっていれば、入試での逆転が起こらないシステムです。ですから、2月から3月は中学生にとって、入試も含め勉強の季節でした。部活動もア・テスト1ヶ月前から中止となりました。
その直前にオリンピックと浅間山荘事件が重なったのですから、もう勉強どころではありませんでした。

この年の9月に行われたミュンヘンオリンピックでは、松平康隆監督率いる男子バレー、男子体操で塚原、中山、加藤の各選手が金メダルをとりました。その一方、パレスチナ武装組織「黒い9月」により、イスラエル選手人質11人全員が射殺されるという事件も起こります。

同月、田中角栄首相が中国の北京を訪れ、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に、周恩来首相と共に署名し、日中国交正常化が実現します。
これを記念し、11月には中国からパンダ(カンカン、ランラン)が寄贈され、上野動物園にやってきたのでした。この時もパンダ人気で上野というか、日本中が盛り上がったのでした。

ピョンチャンオリンピックをテレビで観ながら、時の移ろいと、平和であることの喜びを再確認したのでした。


立春に寄せて

立春に寄せて

立春とは名ばかりで、まだまだ寒い日が続きます。
インフルエンザは峠を越えたようですが、風邪で学校を休む子どももまだおります。

立春といえば「早春賦」。
春の訪れを待ちわびる人々の心情を見事に歌います。

 春は名のみの 風の寒さや
 谷の鶯 歌は思えど
 時にあらずと 声も立てず
 時にあらずと 声も立てず

 氷解け去り 葦は角ぐむ
 さては時ぞと 思うあやにく
 今日も昨日も 雪の空
 今日も昨日も 雪の空

 春と聞かねば 知らでありしを
 聞けば急かるる 胸の思いを
 いかにせよとの この頃か
 いかにせよとの この頃か

この曲は、長野県安曇野・穂高周辺の情景を綴り、1913年(大正2年)に発表された吉丸一昌作詞、中田章作曲の文部省唱歌だそうです。

100年以上も前に作られた歌なのですね。
残念ながら、最近は余り聞くことが少ないような気がします。

作詞の吉丸一昌は、明治6年(1873)に大分県臼杵(うすき)で生まれ、東京帝国大学を卒業。「尋常小学唱歌」編纂の作詞委員長として活躍します。
「早春賦」が有名ですが、「桃太郎」「かたつむり」も、吉丸一昌の作品ではないかといわれています。
作曲を担当した中田章は、「夏の思い出」「ちいさい秋みつけた」「雪の降る街を」などを作曲した中田喜直の実父です。
いずれも、僕にはなじみの深い曲です。

人は皆、古くから春の訪れを待ち焦がれておりました。

従二位家隆(じゅにいいえたか、藤原家隆)は、秋の気配を感じさせる一首で「百人一首」に歌われました。
  風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
が、春を待ちわびる、
  花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春を見せばや
もあります。

本当に、春の到来が待ち遠しいですね。

余談ですが100年前の大正7年(1918年)2月4日、
海軍中将秋山真之(さねゆき)は小田原の「対潮閣」で亡くなっております。




真冬の天体ショウ

真冬の天体ショウ

6年生は理科で「月と太陽」の学習を、4年生も「星や月」の学習を行いました。

今年は1月31日と7月28日の2回、皆既月食が観られます。
7月は真夜中の2時13分頃からの天体ショウとなり、小田原周辺では部分食しか観られません。今回の月食の方が条件が良さそうです。

明日は、南東にある月が20時48分に欠け始め、21時51分には完全に欠けて皆既食となります。
皆既食が1時間17分続いた後、23時8分には輝きが戻り始め(皆既食の終わり)、真夜中を過ぎた0時12分に元の丸い形となります(部分食の終わり)。

皆既食中の月は、真っ暗になって見えなくなるわけではなく、赤黒く、赤銅色(しゃくどういろ)のような月を見ることができるようです。

この時期、東の空には火星や木星、土星が見えます。皆既食中、どのように見えるか楽しみにしてます。
明日の天体ショウを観て、「宇宙の不思議」を目で、肌で感じて欲しいと思います。

昨年秋に、白山中のプラネタリウムを観た方も多いと思いますが、今回の皆既月食を機会に、月や星・宇宙、天体に興味を持っていただけたらと思います。
そして、なぜ月食が起こるのか? 調べていただけると嬉しいです。

寒さが厳しい時期です。
月を見る際は、くれぐれも防寒対策を忘れずに!
明日、晴れることを祈ってます。




西郷どん

西郷どん

昔はテレビばかり観ている子どもだったのに、いつの間にか、ニュースと天気予報以外はほとんど観ない大人になりました。が、NHK大河ドラマだけは毎回観ております。今年は明治維新から150年にあたり、林真理子さんの原作で、幕末から維新にかけて活躍した西郷隆盛を扱います。

西郷さんは、上野公園で犬を連れている銅像が有名ですが、この像を作成したのは「老猿」で有名な高村光雲です。西郷さんを実際に描いた肖像画や顔写真等は存在せず、弟の西郷従道や従兄弟の大山巌の姿をもとに、得能良介の意見を参考にしてイタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが肖像画を作製し、それを元に光雲が作成したのだそうです。

明治150年と云うことですが、この明治維新という激動期には、気になる人物がたくさんおります。先週の放送で、島津斉興の重鎮として引責自決した「調所広郷」も興味ある人物の一人です。

広郷は下級武士から抜擢され、薩摩藩の家老になります。深刻な財政難を解消するため1827年から改革に着手し、商人から500万両に上る借金を無利息250年賦返済というウルトラC(表現が古いですね。宮地秀享選手の鉄棒「ミヤチ」はウルトラIだそうです)を実現します。さらに、奄美特産の黒砂糖の専売の強化、幕府が清国との間で取引していた蝦夷地産の俵物(海産物)を、松前から長崎に向かう途中の船から買い上げ、これを琉球を経由して清国に売るという密貿易を行い藩財政を立て直したのでした。

さらに、渡辺謙さん演じる「島津斉彬」も凄い人物です。
工業力こそが西洋列強の力の根源であるとし、アルファベットを学び、電信機を試し、反射炉(製鉄所)の造築に成功し、集成館と名付けた造船所やガラス製造所(薩摩切子)、紡績工場などの洋式工場を建設しています。イギリス人貿易商グラバーから洋式武器も購入し、軍事力を強化します。日本の近代化は薩摩・島津斉彬からと言っても過言ではないように思います。
 「人材は一癖あるものの中に撰ぶべしとの論は、今の形勢には至当なり」
の言葉の通り、西郷や大久保などの個性的な人材を登用したのでしょう。

西郷関連の書物は、司馬遼太郎さんの「翔ぶが如く」と「南洲翁遺訓」しか読んでません。実際、どのような人物であったのか? 司馬さんとは違った林さんの西郷像、彼を取り巻く人物の扱い(佐幕派や薩長土肥を中心とする倒幕派、維新の思想的背景については様々ですが、藤田東湖や横井小楠の影響は計り知れないものがあります)、また、先週の放送で登場した中村半次郎(人斬り半次郎=桐野利秋)が、この後どのように展開していくのでしょうか。楽しみにしております。




夢から目標へ

穏やかなお正月を迎えられたことと思います。

今年も三が日は、テレビでスポーツ観戦をしながら過ごしました。
実業団駅伝、箱根駅伝、ライスボウル、天皇杯、高校サッカー・ラグビー・・・
それぞれの種目で連覇するチームも多くあり、個人の技術・体力・メンタル面での強化はもちろんだが、チーム内での切磋琢磨がよい結果に繋がったのだろう。
自分も彼らのように、目標を一つ高いところに置きたいと思った年の初めです。

今朝の朝会では、宇宙飛行士の金井さんのお話しをもとに、「夢から目標に繋げること」の重要性について話しました。
原稿と口述とではだいぶ違ってしまいましたが、論旨は以下のとおりです。


新しい年が始まりました。2018年、平成30年です。
新年を迎え、新たな夢や希望をいだいたのではないでしょうか。
今日は「夢」のお話をします。

もう一月ほど前のことになりますが、12月17日、金井宣茂さんが12人目の日本人宇宙飛行士として、ロシアのソユーズ宇宙船で国際宇宙ステーションへ旅立ちました。

金井さんは、自衛隊の医師から転身し、宇宙飛行士の「夢」を実現させました。
飛行士選抜試験の結果は補欠でしたが、諦めずにに体力作りや語学の勉強を続け、追加合格の知らせを受けました。宇宙に対する憧れと医師としてのやりがいに思い悩んだそうですが、「一歩を踏み出すことが大事」と挑戦したのです。

960人の受験で合格は2人だけ、補欠でした。「いつ呼ばれてもいいように」と、休み時間や仕事後はランニングや語学の勉強を黙々と続けたそうです。
「何があっても最後は自分で対処するしかない」と語っています。

宇宙飛行士になりたいと思っている人全てが、宇宙飛行士になれるわけではありません。どの世界でも同じです。たとえば相撲の世界。横綱になりたいと思うだけでは横綱にはなれません。そこには、なるための努力が必要になります。ましてや、なりたいと思わない人は、絶対になれませんね。

夢を持つことは大切です。みんなも夢を持っていると思います。
その夢を実現するために、みんなには、「夢を目標に換える努力」をして欲しいと思います。
 
そこで、年の初めに、足柄小のみんなには二つのことを求めたいと思います。

一つ目は、様々なことに興味を持ち、視野を広げ、深く考えてほしい。
つまり、思い切り勉強しよう。ということです。

二つ目は、思い切り勉強できるように、強くなれ、身体も心も鍛えよう。
つまり、自分で決めたことをやり遂げられる人になろう。ということです。

小さなことからでいいので、強く決心して、やり通してください。
決めたことを一つずつやり遂げていくと、いろんなことに挑戦できる強さが身につきます。

4月からは、6年生は中学生になる。5年生は小学校での最上級生にというように、各学年が1つずつ上の学年に進級します。
1月から3月までの3ヶ月間は、4月からの新しい学校生活へむけての助走期間です。良い助走をしないと力強いジャンプをすることは難しいです。

これからの日本を担い、リーダーとなるのはあなたたちです。
一人ひとりの思いの強さが、日本や世界を変えていくのです。
今年の夢や目標を見失うことなく、挑戦し続けて欲しいと思います。




宇宙監視2017

宇宙監視2017

ロシアのソユーズ宇宙船で国際宇宙ステーションを目指す金井さんの打ち上げが成功したとのニュースが伝わった12月17日、政府は防衛省自衛隊内に、宇宙・サイバー空間、電子戦の担当部隊を統括し指令機能を持つ上級部隊を新設する方針を発表しました。

アメリカは月などの宇宙空間へ有人着陸をする方針を発表しましたし、日本でも民間企業が人工的に流れ星を演出する計画も発表されました。
今や宇宙は、様々な人々の、様々な思惑が交差する空間となっています。

3年前の10月、この欄で「宇宙監視」についてコメントした内容を一部加筆して再掲します。

宇宙空間での安全保障上の脅威が高まっており、日本はJAXAの衛星の安全を監視してきたが、宇宙空間では衛星攻撃兵器(キラー衛星)を使った実験を行っている国もあり、この破壊実験や宇宙ゴミと呼ばれる機能停止した人工衛星などによって、現在運用中の衛星やGPSが使えなくなる可能性や、レーダーや無線通信の電磁周波数帯域を分析して妨害する電子戦への備えとして専門部隊を新設するのだそうです。

夜空を輝かせる星に、人類は太古の昔から憧れと畏れを持って接してきました。
星の動きや星座の移り変わりで季節を知り、日常生活に役立ててきました。
その私達の最も身近な宇宙空間で人類の知恵が衝突してます。
人間の傍若無人な振る舞いのつけが回ってこないよう、科学技術は平和利用を前提に発展して欲しいものです。




夜空を仰いで 2017 冬

夜空を仰いで 2017 冬

今年も「ふたご座流星群」を見ようと、このところ毎晩、夜空を眺めています。

毎年12月5日頃から活動を開始し、12月20日頃に活動を終えます。
今年のふたご座流星群の活動が極大になるのは、14日の16時頃だと予想されています。極大を迎えるまでは出現数がじわじわと増加します。

昨年は雲に覆われていることが多く、なかなか見ることはかないませんでした。
今年は12月4日から時々夜空を見上げているのですが、すでに数個の流星を観測できています。

今年のふたご座流星群は、13日の夜から14日の朝にかけて、最も多くの流星が出現すると予想されています。
20時頃から流星が出現し始め、22時頃から本格的な出現となります。流星の出現は明け方まで続きます。月の影響もなく、天候さえよければまずまずの条件で観察できそうです。

防寒対策をしっかりして、夜空を眺めてみてください。
流れ星が観られるかもしれませんよ!

そして星が流れたら、消えないうちに願い事を祈る事を忘れずにネッ!



江之浦測候所

江之浦測候所

昨日10月9日、「江之浦測候所」がオープンしたので訪ねてきました。

杉本博司氏の小田原考のなかに、「眼鏡トンネル」がでてきます。
僕が中学生の頃までは、この眼鏡トンネルを通って小田原へ出かけたのでした。真鶴から小田原間のトンネルの数を数えたり、眼鏡トンネルの眼鏡の部分の数を数えながら、15分間の電車の時間を過ごしました。
中学3年生の時に真鶴隧道が完成し、赤沢(眼鏡トンネル)、八本松、長坂山の各隧道は使われなくなりました。

天気もよく、秋の爽やかな海南風が肌に心地よく感じられます。
ギャラリーの写真「海景」は、きっと「海の記憶」の一部なんだろうな、などと勝手に想像しながら相模湾を眺めました。
少し靄っていて、海と空の境界線がはっきりしません。
いつも見慣れている相模湾の風景ですが、石と光学ガラスを用いて各時代の様式を取り入れた建造物を通してみる景色はひと味もふた味も違った感じで、自分が歴史とアートの一部になったような気がします。

根府川・真鶴は古くから石の産地でもありますが、「藤原京石橋」や「百済寺石橋」、「法隆寺若草伽藍礎石」に興味を惹かれました。

杉本博司氏のお話を聞く機会はありませんでしたが、建設中の「化石窟」を見回られている姿を拝見し、おこまがしくも「海の記憶」を共有してますよ、とつぶやいたのでした。




ぼくの夏休み

ぼくの夏休み

今年の夏は、人生60回目の夏でした。
さらに幼稚園から通算して、56回目の「夏休み」でした。

「夏休み」、何と心地よい響きなのでしょう。
この言葉を聞くだけでワクワクしてきます。

僕が今まで経験してきた夏休みは、およそ42日間でした。
社会の変化と教育環境の変化に伴い、これも今後、変わって行くのかもしれませんね。
蝉を捕ったり蜻蛉を追いかけたり、昼寝をしたりと、小さい頃は一日が本当に長かった。
都会にはそんな自然がないから、ゲームばかりしているのなら学校へ行った方がよいというのは少し乱暴な気もします。
僕が育った時代と今とでは、教育の質も時数も大きく変化してますが、在り来たりな言い方をすれば「不易と流行」・・・変わっちゃいけないもの、なくしちゃいけないものはあるはずですね。夏休みにしかできないことを見つけさせるのも僕らの仕事なのかもしれません。

中国の五行説は、季節を「青春、朱夏、白秋、玄冬」の4つに分け、四季の終わりにそれぞれ「土用(土気)」を設けて、一年を「五時」に分けます(土用の丑の日というのもここに由来します)。また、青、朱、白、黒(玄)4つの色で表しています。

これを人生にあてはめると、
 青春  10代半ばから30代半ば   志学
 朱夏   30代半ばから50代後半   立身 不惑 知天命
 白秋   50代後半から60代後半   従耳
 玄冬   70代から          不超矩
となるのだそうです。

さしずめ今の自分は、人生の夏であり人生の真っ盛りの朱夏を過ぎ、白秋へとさしかかったところでしょうか。
この年代の前半は、子育てにおわれ、与えられた仕事をこなし、一人立ちする年代で、後半は、今までの成果の刈り取りをし、次の白秋や玄冬へつないで行く年代なのだそうです。

「白秋」というと小田原にも所縁の深い北原白秋を連想される方もいらっしゃるかと思います。
白秋は小田原の木菟(みみずく)の家に暮らした8年間で、生涯に作った1,200編におよぶ童謡作品のうち、約半数の作品を創作しています。
名前は中国の五行説に由来するとされてますが、実は学生時代に仲間と同人雑誌を発行する際、白に一字をあてたそろいの雅号をつけることになり、くじ引きで白秋なったそうです。城北中時代に「由紀さおり・安田祥子」さんをお招きし、子どもたちに白秋の童謡を聴かせていただいた際に、そんなお話を由紀さんから聞いたことを思い出しました。
9月2日から来年7月まで、小田原文学館では「白秋と童謡、赤い鳥」と題して、白秋の童謡を巡る主要な作品を館蔵資料から紹介します。

小田原の南町の西海子(さいかち)通りに小田原文学館があります(かつてはこの通りに保健所もありましたね)。

この小田原文学館は田中光顕(みつあき)別邸です。
田中光顕は天保14(1843)年、土佐藩(高知県)に産まれ、尊皇攘夷を掲げる武市半平太の土佐勤王党に参加します。幼名は浜田辰弥。叔父の須賀慎吾は土佐藩主山内容堂が絶大の信頼を置いた開国派の吉田東洋暗殺(1862.5.6)の実行犯で、田中光顕も暗殺計画に荷担したとされています。その後、1863.8.18の政変以降、土佐勤王党への弾圧が始まり、謹慎を命ぜられます。翌64年には土佐藩を脱藩します。このとき浜田辰弥から田中光顕と名前を変え、長州藩を頼り、薩長同盟の成立にも関わります。

1867年の近江屋事件では、坂本龍馬にいわれ軍鶏(しゃも)を買いに出ていた鹿野峰吉が戻り、陸援隊の詰所である白川屋敷へ龍馬らの遭難を知らせに走ります。田中は龍馬、中岡慎太郎の暗殺現場に一早く駆けつけ、中岡死後の陸援隊を統率していきます。維新後は陸軍中将、宮内大臣などを勤めています。

小田原城近く(二宮神社・報徳博物館近く)に「清閑亭」という黒田長成(くろだながしげ:政治家・貴族院副議長、黒田官兵衛から数えて14代目)の別荘があります(場所のイメージとしてはスポーツ会館、旧城内高校の周辺です)。その「清閑亭」の南側(国道側)、「山角天神社」の近く(野地サイクルの裏手)に「対潮閣」(山下亀三郎、山下汽船:現、商船三井創業者の別邸)がありました。ここは、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」、海軍中将秋山真之(さねゆき)の終焉の地でもあります。山下とは同じ愛媛の生まれで、秋山はここから山縣有朋の別邸「古稀庵」を訪ねて国防について語っていたようですが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7年(1918年)2月4日対潮閣で亡くなっています。

小田原の偉人は二宮尊徳翁だけではありません(尊徳翁、映画になるようですね)。
小田原所縁の文学者や政治家、実業家は多いです。
秋の一日、ゆかりの地を訪ねてみるのもよいかも・・・

ウーム、いつもながら脈絡滅裂で・・・

昔、NSPが歌った「ぼくの夏休み」という曲がありまして、夏の終わりになるとこの曲と吉田拓郎の「消えていくもの」という曲を思いだし、懐かしみながら口ずさみ、秋の到来を待つのです。

 遊園地 ローラースケート 二人で行くはずだったのに
 バイトして お金をためて 二人で遊ぶはずだったのに
 ギターを弾いて マークツーを 二人で歌うはずだったのに
 野菜の入ってない カレーライス 二人でたべるはずだったのに
 とうもろこしを 半分にして 向かいあって すわって かじったり
 海に行って 砂浜で かけっこしたり 泳いだり
 そんな夢 見られただけで 幸せだったのかしら ・・・

 僕は角のたばこ屋さんが好きだった
 たいした理由はないけれど好きだった
 毎日あそこを通って学校へ通った
 話をしたことはないけど
 何となく気になるおばさんがいて
 お茶を飲みながらいつも笑ってた

 僕は社会科の先生を覚えてる
 いつも仁丹を片手いっぱいほおばって
 独特の臭いがあの頃好きじゃなかった
 先生のことを少しキライで少し愛してた
 居眠りすると何も言わずに仁丹を食わされた

まぁそういうことで、ぼくの夏休み、朱夏の夏が終わったのでした。

以前にも紹介しましたが、ジョージ・バーナード・ショーというイギリスの作家が面白いことを言ってます。
  We don't stop playing because we grow old.
  We grow old because we stop playing.

  年をとったから遊ばなくなるのではない。
  遊ばなくなるから年をとるのだ!




ネムの木

ネムの木

先週の土曜日、梅雨の合間を縫って気分転換も含め、地元真鶴半島を散歩してきました。
普段は車や自転車で半島周辺に行くのですが、今回は細い路地に入り込みながら歩いてみました。
地元に住んでいながら、小学校時代以来通った事のない路地がたくさんあります。あの角には〇〇くんの家があったななどと、当時の記憶がよみがえってきます。
しかし、有ったはずの家がなかったり建て替わっていたりと、当時の風景とは大きく変化しており、時の流れを感じずにはいられません。
そんな中、周囲の環境は大きく変化しているのですが、山間には昔と変わらずに一本の樹が立っていました。
シュワシュワッと細い糸を束ねた様なピンク色の花が風に揺れ、甘い香りを漂わせています。合歓木の花です。

 象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)がねぶのはな

と松尾芭蕉が詠んだ(奥の細道〜象潟)、中国の四大美女西施を彷彿させる花だそうです。

ウィキペディアには、ネムノキ(合歓木、Albizia julibrissin)はマメ科ネムノキ亜科の落葉高木で別名、ネム、ネブ。葉は2回偶数羽状複葉。花は頭状花序的に枝先に集まって夏に咲く。淡紅色のおしべが長く美しい。香りは桃のように甘い。果実は細長く扁平な豆果。マメ科に属するが、マメ亜科に特徴的な蝶形花とは大きく異なり、花弁が目立たない。
とあります。
2回偶数羽状複葉が夜になると閉じて眠りに入る事から、ネムの木と呼ばれたとか・・・
合歓木の花の香りに誘われ、ノスタルジックな思いがよみがえってきます。昔から、印象深い樹でした。

海岸への降り口を探したのですが、なかなか見つかりません。
確か、このあたりだったはずなのに・・・
まさに、灯台下暗し。
降り口は見つかりませんでしたが、草木の中に咲く百合を見つけました。

時間をつくって、ゆっくり地元を歩いてみようと思ったのでした。




大人の修学旅行 〜 京都慕情5 智積院から京都国立博物館

大人の修学旅行 〜 京都慕情5   智積院から京都国立博物館

昨日は横浜に出張でした。桜木町から紅葉坂を上り、県立青少年センターへ行ってきました。汗をふきふき、雨など降る気配は全くないのですが、「雨が降りそうだなあ」という昔に流行った歌を口ずさんでいました。
  僕 歩いて行くよ 紫陽花の花の中
  僕 歩いて来るよ 赤い煉瓦の家の前
  五月の横浜は 港の匂いがして
  僕のふるさとと 同じ匂いがして ・・・
好きな曲でした。横浜に似合いの曲ですよね。

さて、今回で「大人の修学旅行」を終了しようと思います。
早速、本題に入ります。

東山界隈は豊臣秀吉にゆかりの深い寺院が多数あります。
智積院もその一つで、豊臣秀吉が3歳で死去した鶴松のために建てた祥雲寺と、紀州根来山にあった大伝法院に由来します。その歴史は複雑なので省きますが、成田山新勝寺(千葉県成田市)や川崎大師の本山でもあります。

東山周辺はよく訪れ、智積院の前も何度も通っているのに、訪れるのは初めてです。
広大な敷地に見学場所は多数あるのですが、まず最初に宝物館を見学しました。
ここには、長谷川等伯一門の障壁画があります。等伯の大胆な色遣いに惹かれた秀吉は、祥雲禅寺の障壁画一式の制作を依頼したのだそうです。なかでも息子久蔵の描いた「桜図」と久蔵の死を悼んで等伯が描いた「楓図」は、豪華絢爛で観るものを圧倒します。

大書院は桃山城の遺構だそうです。その書院に面し、秀吉の時代につくられた「利休好みの庭」と伝えられる名勝庭園も見応えがあります。
もっとゆっくり観たかったのですが、拝観終了時間(16:30)が迫り大急ぎで回りました。

智積院の山門を出て右に曲がると東山七条の交差点です。ここを左折すると京都国立博物館や蓮華王院(三十三間堂)があります。蓮華王院も魅力なのですが、入館は16:30までなので次回とします。京都国立博物館は土曜日は開館時間が20時までなので余裕です。
特別展の「海北友松(かいほうゆうしょう)」をまず観ます。ここもそれほど人が多くありません。

狩野派や長谷川等伯、海北友松、雲谷等願(うんこくとうがん)は桃山文化を代表する画師ですが、中学校社会科では既出の狩野派や長谷川等伯を中心に扱い、海北友松は「山水図屏風」「牡丹図梅花図屏風」が、出版社によって資料集に載っていたりいなかったりです。同行の家人も、「この人、なんて読むの?」といってました。確かに、なかなか読めないですよね。雲谷等願に至っては中学では扱いません。等願は毛利輝元の庇護を受け、雪舟画の再興を担った人物です。等願の「山水画」は東京国立博物館に所蔵されています。「東福寺普門院障壁画」は狩野山楽、雲谷等願、海北友松らの作とされています。

海北友松の特別展の出品目録を見ると、海外からの里帰り作品が大変多いことに気づきます。開国・維新後、日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本古来の屏風や襖絵、浮世絵等の日本美術には芸術的価値を見いださず、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響もあり奈良の興福寺五重塔などは250円で売り出されたり、寺院や仏像の破壊が行われ、薪として使われたりしたそうです。海北をはじめ、このころに多くの日本美術が海外に流出したのでしょう。

友松の絵の特徴は、余白にあります。この余白をうまく使って、絵全体の構成をつくりあげています。

友松は浅井(あざい)家の家臣の家に生まれ、3歳で東福寺に預けられそこで絵の才能を見出されて狩野元信に学んだとされています。が、浅井家の滅亡と共に兄達も討ち死にしたため、「誤落藝家(誤りて藝家に落つ)」と、武家の家に生まれながら絵師となり、武士の本分を全うできない身を嘆いていたようです。武家としての再興が叶わないのならば、絵師として海北家の名をあげようとしたのかも知れません。

本格的に絵師として活動し始めたのは60代以降だそうです。狩野永徳が亡くなった後、狩野派を離れ82歳で没するまで、精力的に描いたのでしょう。水墨画が中心ですが、濃絵(だみえ)もあります。

60代以前の作としては、「柏に猿図」「山水図屏風」が目を引きます。どの作品も凄いの一言ですが、「松竹梅図襖」、「飲中八仙図屏風」、「放馬図屏風」、「月花渓流図屏風」、「雲龍図」、「花卉図屏風」が特に印象に残りました。

「武家に生まれ 桃山を生きた 海北友松」
「この絵師、ただ者ではない!」
のキャッチコピー、まさにその通りです。

友松の作品群はもちろんですが、展示をする上での光などの演出も見事で、年代別、テーマ別に展示がなされており、謎の多い友松の人物像が浮き彫りになってきます。
機会があれば、是非ご覧いただきたいと思います。

気がつけば、18時をまわっております。
時間さえ許せば、明治古都館(旧 帝国京都博物館 本館)や茶室「堪庵(たんあん)」もゆっくり観たいのですが、特別展を行っている平成知新館の前の、ロダンの「考える人」にご挨拶して博物館を辞しました。

三十三間堂前から京都駅までバスに乗るのですが、バスが混んでいて2台見送りました。駅に着き、定番の土産を買おうとしたところ売り切れでした。デパ地下に行けば大丈夫だろうと行ってみると、何とその店舗の前は長蛇の列。そんなに人気があるんだぁと、驚くやら呆れるやら。横浜のデパートの地下でも売ってるからいいかと、言い訳をしながら土産よりも食事ということで、エレベーターで11階へ。お目当ての和食のお店に着くと、“予約以外の人は8時半からでないと”といわれる始末。土曜日であることを侮っていました。一つ下の階へ降り、ライトアップされた京都タワーを眺めながら食事をし、
   ♫遠い日は 二度と帰らない 夕やみの東山
などと口ずさみ、グラスを傾けたのでした。
なごりを惜しみながら駅構内で土産物を少し買い、京都発20:53分のひかり538号に乗車。予定通り22:51分に小田原に着きました。

急な思いつきで出かけた京都。約13時間の京都滞在。「慈照寺東求堂」と「海北友松」をゆっくり見学するつもりが、結構いけいけ旅行になってしまいました。
それでも、白い京都の片隅に想い出をつくることができました(笑)。

時期さえうまくずらせば、京都もすいてます。
でも、桜や紅葉の盛りの季節にも訪れてみたいです。

次回は、計画的に、時間にゆとりを持って、旅してみたいと思います。



大人の修学旅行 〜 京都慕情4   「御寺」の謎

大人の修学旅行 〜 京都慕情4   「御寺」の謎

GWもあっという間に終わってしまいました。
皆さん、リフレッシュはできたでしょうか?
それにしても、今年のGWは暑かったですね。
まるで夏を思わせるような陽気でした。
前置きはこのくらいにして、お話しを進めますね。

東福寺まではタクシーですぐでした。
東福寺で拝観料を払おうとすると、期間限定で“初夏の東山「東福寺・泉涌寺・智積院」三ヵ寺巡り”というキャンペーンを行っているので時間があれば是非との誘いを受け、三ヵ寺巡りのチケットを購入したのでした。

ここも人はあまりおらず、じっくり庭園を拝見することができました。
寺の名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」としたのだそうです。通天橋も紅葉の時期には大変な人混みと聞きますが、秋に訪れたことのない僕が言うのも何ですが、秋は最高でしょうね。訪ねる価値はあると思います。
またここは、京博で特別展を行っている「海北友松」が、幼少期に預けられた寺でもあります。方丈庭園も素敵です。
時間があれば塔頭(たっちゅう)も訪ねてみたいのですが、今回は東福寺や泉涌寺が初めての家人がおり、急遽、智積院も訪ねることとなったので、庭園中心の見学となりました。
広い境内を歩きながら、東福寺は、幕末の鳥羽・伏見の戦いの際には野戦病院さながらの役割を果たし、この戦で亡くなった方々の御位牌も多く残されていると家人に話したのですが、説明の仕方が悪かったのか余り興味を示しませんでした。

この後、泉涌寺に向かいます。タクシーを捕まえられず、山道を歩けばさほどの距離でもないからと、日吉ヶ丘高校の脇の山道を抜け、東山泉小中学校の横を通って泉涌寺道に出ます。東福寺から泉涌寺まで、ずっと登り坂が続きました。以前同じコースをたどった時は平気だったのに・・・日頃の運動不足の身には、結構きつかったです。

泉涌寺道をすすんでくると、「拝跪聖陵(はいきせいりょう)」と書かれた石碑があります。右に行くと泉涌寺、左に行くと塔頭の今熊野観音寺、砂利が敷きつめられた道ををまっすぐに進むと皇室の陵墓です。時間に余裕がないので、泉涌寺のみの見学とします。

東福寺や泉涌寺は、修学旅行のコースとしてはマイナーな部類だと思いますが、それにしても人がいません。何と閑静なことか。泉涌寺では出会った方が6人です。完全に貸し切り状態です。ゆっくり庭園を堪能できました。

泉涌寺は、貞応3年(1224年)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められました(この年は、承久の乱を経て、北条泰時が執権となった年でもあります)。後堀河天皇と次代の四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれ、この頃から皇室との結び付きが強まったのだそうです。後水尾天皇(在位期間1611〜1629年、2代将軍徳川秀忠、3代将軍家光の治世。譲位した後、4代にわたって上皇として院政を執った)から幕末の孝明天皇までの39の陵墓がある皇室の菩提寺です。泉涌寺の霊明殿には、天智天皇から昭和天皇に至る歴代天皇皇后の御位牌が安置されています。内部は非公開です。
本坊から御座所へ行き、御座所庭園を見学します。海会堂(かいえどう)に面して、緩やかな勾配の築山があり、鶴島と亀島の間の白砂が海を表現しています。ここにある八角形の雪見灯籠は仙洞(せんとう)御所より移されたもので、「泉涌寺型(雪見)灯籠」といわれ、桂離宮の雪見灯篭(桂離宮型)と双璧をなすものだそうです。泉涌寺型は雪見灯籠の原型といわれています。また、仙洞御所とは退位した天皇(上皇・法皇)の御所のことで、寛永4年(1627年)、後水尾上皇のために京都御所の南東部に造営されました。

余談ですが、「院政」は中学校社会科歴史で扱います。1086年、白河天皇は譲位して上皇となり院で政務を執ります。これが院政の始まりです。白河上皇は天皇在位期間を含め57年にわたり政治の実権を握っています。
白河上皇の言葉に「天下三不如意」(てんかさんふにょい)があります。「賀茂川(鴨河かもがわ)の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師」の三つのみが、わが心にかなわぬものという逸話です。その権力は絶大なものでした。山法師とは延暦寺の僧兵のことです。

話を泉涌寺に戻します。祖先の墳墓を築き、累代の位牌を安置してその冥福を祈るために建立した寺のことを「香華院(こうげいん)」というのだそうです。泉涌寺は皇室の「香華院」として、御寺(みてら)と尊称されるようになったとのことでした。

しかし、不思議なことに天智天皇の次からの天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、称徳(孝謙天皇が重祚(ちょうそ)して称徳(しょうとく)天皇となります。同一人物です)の御位牌は祀られていません。
その辺の詳しい事情はわかっていないようです。が、天武系最後の天皇、称徳(孝謙)天皇が道鏡事件を引き起こしたからという説や、天武系の血を継ぐ皇族がいなくなったからとする説があります。

天智天皇と天武天皇の関係性につきましては、2015.6.10のこの欄、「時にまつわるお話その1」を参照されてください。

孝明天皇の崩御については、毒殺説や意図的に痘瘡に感染させたとする説など多くの疑惑が残されています。また、岩倉具視や伊藤博文が関与していたとする説もあります。幕末の謎の一つです。

東福寺の鳥羽・伏見の戦いでの御位牌や泉涌寺の御位牌にまつわる謎を紹介しましたが、もう一つ、孝明天皇に関連して皇女和宮の御位牌にまつわるお話を紹介します。

2015.02.25のこの欄、大河ドラマ「花燃ゆ」〜松蔭と象山1でも触れましたが、箱根塔ノ沢温泉元湯中田家(明治23年、伊藤博文が還翠楼と命名)で終焉を迎えた皇女和宮(静寛院宮)は、孝明天皇の異母妹です。
箱根塔ノ沢の阿弥陀寺には、和宮の御位牌が置かれています。
御位牌には「静寛院殿二品親王好誉和順貞恭大姉 尊儀」と書かれています。
しかし、明治10年に宮内省が発表した法号は「静寛院宮二品内親王好誉和順貞恭大姉」となっております。
現在、芝増上寺増上寺大殿右横の安国殿には、14代将軍家茂の戒名「昭徳院殿大相國公光蓮社澤譽道雅大居士」とならんで、「静寛院宮贈一品内親王好誉和順貞恭大姉」と記された御位牌がならんでおります。比較してみると、
 阿弥陀寺 : 静寛院殿二品親王好誉和順貞恭大姉
 宮内省発表: 静寛院宮二品内親王好誉和順貞恭大姉
 増上寺  : 静寛院宮贈一品内親王好誉和順貞恭大姉
少しずつ違いがありますね。
これにはきちんとした謂われがあるのですが、いずれまたの機会にしますね。

いつもながら脈絡滅裂で、何の話をしていたのかわからなくなっております。

今回はここまでです。




大人の修学旅行 〜 京都慕情3     哲学の道からねねの道

大人の修学旅行 〜 京都慕情3     哲学の道からねねの道

慈照寺を後にして、橋本関雪の白沙村荘へ駆け足で寄りました。
関雪の絵画はもちろんですが、ここは庭園が素敵です。さりげなく置かれた石像に魅せられます。
皆、慈照寺へは行くのに白沙村荘に寄らないのはもったいないです。
機会があれば是非! お薦めです。

白沙村荘を一通り見学したあと、哲学の道を歩きました。
ところどころで名残を惜しむように桜も咲いており、人通りも少なく、のんびりと歩くことができました。

途中の熊野若王子(にゃくうおじ)神社の近くには、今は営業していませんが喫茶「若王子」があります。
僕が中学生の頃、最初に読んだ司馬作品が「燃えよ剣」でした。
当時も新撰組は人気で、テレビ(10チャンネル)でも放映されました。
土方歳三を栗塚旭、沖田総司を島田順司、町医者とナレーションを左右田一平の各氏が演じていました。
小説では、司馬さんの新撰組血風録や子母沢寛さんの新撰組始末記、新撰組物語などが人気でした。

その、栗塚さんのご家族がこの喫茶店を営まれており、栗塚さんもよくお店に出ていたそうです。営業中に2度ほど尋ねたことがありますが、残念ながらお会いすることはありませんでした。そんな昔語りをしながら南禅寺まで歩いたのでした。

余談ですが、僕が読んだ「燃えよ剣(完結編)」は、ポケット文春という新書版の大きさで、280円の定価がついてます。講談社発行の「俄」や「軍師二人」も同様の大きさで、250円でした。文庫版よりも当時は一般的だったのでしょうか?

さて、南禅寺といえば「楼門五三桐」(さんもんごさんのきり)。
かの石川五右衛門が煙管を吹かして、「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両・・・」というせりふは聞いたことがありますね。満開の桜の景色を愛でて言ったせりふです。歌舞伎の人気演目です。

同行の家人は三門に上がったことがないというので、500円払って上がると、思わず“絶景かな”と叫んでいました。土曜だというのに、自分たち以外には異国の方が二人いらっしゃっただけで、その方たちもすぐに降りられたので絶景を独り(二人)占めしたのでした。南禅寺の三門は、別名「天下竜門」とも呼ばれ、日本三大門の一つに数えられています。三大門の残り2つの門は、知恩院と久遠寺(山梨県)です。
ここから知恩院は近いのですが、先ずは食事です。

南禅寺界隈の有名な湯豆腐のお店は、さすがに混んでいます。
時間待ちするものもったいないので、タクシーの運転手さんに茶屋風で手頃な食事処を紹介してもらい、連れて行ってもらいました。
東山安井の交差点近くの路地を入ったお店は、コスパに優れ、十分満足できるものでした。部屋の壁には種田山頭火の句が飾ってありました。

食事後、石塀小路を抜け高台寺へと向かいます。途中、どこからともなく三味線の音が聞こえてきます。何と茶屋の店先で長唄のライブを行っていました。しばし聞き惚れていました。お座敷で食事をしながら長唄などを聴くには、一体どのくらいの福沢さんが必要なのかな? などと考えました。まぁ、庶民の僕には考える必要もありませんが・・・

高台寺は、北の政所(ねね)が夫、豊臣秀吉の菩提を弔うため伏見城の化粧御殿とその前庭を移築し、77歳で亡くなるまでの19年間を過ごしたのだそうです。家康の庇護もあって広大な敷地があります。

余談ですが、伏見城は文禄5年(1596年)に指月(しづき、しげつ)山に完成しますが、直後に起きた慶長伏見地震によって倒壊してしまいます。その際、いち早く秀吉の元へ駆けつけたのが加藤清正だったそうです。その後、場所を近くの木幡(こはた)山に移して再建されます。伏見城は秀吉終焉の場所でもあります。秀吉の死後、豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、徳川家康が伏見城で政務を執ります。また、関ヶ原の戦いの折には家康の家臣鳥居元忠が伏見城を守っていましたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失しています。焼失したこの城は家康によって再建されますが、京の城郭は二条城に集約され、元和5年(1619年)に廃城となります。木幡山伏見城跡は明治天皇・皇后の墓所「伏見桃山陵」となっております。

話を高台寺に戻します。霊屋(おたまや)では、「左側の白い布をかぶっているのがねねさんで、その下2メートルを掘るとご遺体が出てきます。右側の秀吉の下を掘っても何も出てきません」とガイドの方が説明します。以前訪れた時も同じ説明をされたことを思い出し、思わず笑ってしまいました。さらに、「高台寺蒔絵は世界的にも有名ですからよく見ておいてください」と、これも同じせりふです。一人でニヤニヤしていると、家人にそんなに面白い? と聞かれました。お笑い番組を観ても笑わないばかりか、時につまらないと怒り出す僕が笑ったのが、よほど不思議だったのでしょう。
ガイドの方の説明はありませんでしたが、須弥壇や厨子の蒔絵だけでなく背後の壁画も素敵でした。

高台寺の高台には、傘亭と時雨亭という二つの茶屋があります。
茶の湯をたしなむのが好きだった秀吉が伏見城で使用していた茶室を、ねねは高台寺の庭園に移築させました。「傘亭」は、利休の意匠で、傘を開いた時のような放射状に組まれた天井に特徴があります。「時雨亭」は2階建ての茶室(1階が水屋)で、「傘亭」とは土間廊下でつながっています。
大坂城落城の折、ねねはこの「時雨亭」から眺め、涙していたそうです。時雨亭の命名も、ねねの涙からという説もあるそうです。

高台寺とねねの道を挟んで円徳院があります。円徳院は木下家ゆかりの寺院です。方丈には豊臣家の家紋である五七の桐がちりばめられた長谷川等伯(とうはく)の襖絵があり、見応えがあります。当時は後に江戸幕府御用絵師として活躍する狩野永徳・光信・内膳・長信を中心とする狩野派が一世を風靡しているのですが、狩野派以外にも海北友松(かいほうゆうしょう)・雲谷等願(うんこくとうがん)・長谷川等伯は、金箔地に青・緑を彩色する濃絵(だみえ、金碧画(きんぺきが)ともいう)の豪華な障壁画を描きます。高台寺蒔絵も含め桃山文化の代表的作品でもあります。

この等伯の襖絵は、元々は大徳寺三玄院にあったものだそうです。
三玄院が建てられた時、等伯が襖絵を描かさせて欲しいと頼んだのだそうですが断られたため、住職の許可を得ないまま、その留守中に上がり込んで描き上げたのだそうです。なぶり書きで描けるようなものではありません。どのくらいの時間を費やしたのでしょうか・・・?

ねねの道周辺では、和装の人を多く見かけました。
レンタルの着物を着て、石畳を歩く・・・それはそれで、風情があるのですが・・・
僕らの世代は、京都といえば、
 ♪結城(ゆうき)に塩瀬(しおぜ)の素描(すがき)の帯
  大島つむぎにつづれの帯
  塩沢がすりに名古屋帯♪
というイメージなのですが、時代錯誤ですかね(笑)・・・
紬や絣の着物を着た方は見かけることはありませんでした。
いずみたくさん、永六輔さんも遠い存在となりました。

時間もだいぶ押してきましたが、少し欲張って東福寺と泉涌寺に向かうことにします。

今回はここまでです。




大人の修学旅行 〜 京都慕情2  慈照寺 銀沙灘と向月台

大人の修学旅行 〜 京都慕情2  慈照寺 銀沙灘と向月台

東求堂の見学は、10人ずつ2グループに分かれ説明されます。僕らのグループは先に同仁斎の見学をし、その後、方丈(本堂)を見学しました。
前回言い忘れましたが、同仁斎の違い棚の横にある机、出文机(だしふづくえ)と読みます。付け書院ともいわれるようです。

方丈には、与謝蕪村と池大雅、富岡鉄斎、奥田玄宗の襖絵がありました。
方丈は江戸時代に建てられたようです。蕪村も大雅も享保年間の生まれです。享保といえば、徳川八代将軍吉宗の治世です。彼らが襖絵を描いたのは1760年前後だそうです。襖には仙人が描かれていました。杜甫の飲中八仙歌をモチーフに多くの画人が画題としており、後で訪れる海北友松(かいほうゆうしょう)にも飲中八仙図があります。

余談ですが、以前「渡辺崋山」をこの欄で紹介した際に(2015.1.26)、「18世紀半ば以降に、明・清の南画の影響を受けた文人画(南画)と呼ばれる画風がおこり、池大雅と与謝蕪村の合作「十便十宜図」がその代表作です。」と紹介しました。南画は見るとすぐに、中国の影響を受けてるな、とわかります。

大雅の作は、仙人が釣りをしたり酒を飲んだりしています。
蕪村といえば蕉風復興を提唱した江戸中期の俳諧のリーダー的存在です。その蕪村の飲中八仙図の仙人は大変ユニークで、酒に酔った仙人が弟子たちに介抱されています。ただの飲んべえ親爺(失礼)といった感じで、親近観を覚えました。
鉄斎は明治期を中心に、玄宗は昭和期に活躍した人物だそうです。

かの有名な銀閣は観音殿で、東山殿内で最後に建てられ、また創建当初からの遺構を現在に伝える建物だそうです。宝形造(ほうぎょうづくり)、柿葺(こけらぶき)の二重の楼閣で、1階は心空殿(しんくうでん)と呼ばれる書院造、2階は潮音閣(ちょうおんかく)と呼ばれる禅宗様(唐様)で観音像が安置されており、屋根には鳳凰が飾られています。
銀閣には銀が貼られていたのか調査したところ金属反応はなく、銀ではなく漆が塗られていたとの説明がありました。

銀閣(本堂)の内部は公開しないのでしょうか? 
是非、観てみたいですね。
観てみたいというのは、内部はもちろんですが、本堂から見ると月明かりを反射した銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台(こうげつだい)は、どのような感じになるのでしょうか。興味を引かれます。

銀沙灘は砂で急流の流れを表し、中国の西湖の波打つ風景を描写したものといわれます。また円錐状に盛られた「向月台」は西湖の山をかたどったといい、月に照らされる光の反射を意識して造られたといわれてます。
いつ見ても、美しさと不思議が混在し、印象に残ります。
ただ、向月台と銀沙灘は、足利義政の時代からあったものではなく、江戸時代の18世紀半ば以降に生まれたとされています。どのような理由や背景のもと、だれが最初につくったのかなど、はっきりしたことはわかってはいないようです。

「太陽の塔」や「芸術は爆発だ」、「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」で知られるモダンアートの巨匠岡本太郎さんも、「日本の伝統」という著書のなかで、「銀閣寺の銀沙灘はまったく、だれにも意外なものであるに違いありません。正直にいって、はじめて見たとき、私じしんがギクッとしました。」といってます。

余談ですが、私の住む真鶴町には中川一政美術館があります。
1990年代の初めの頃だったと思いますが、中川美術館を訪れた時、中川一政や武者小路実篤、岸田劉生らの所属する春陽会に岡本太郎が入会したいと申し出たのに対し、“岡本は変わり者だから入会を断ろう”と、相談する内容の書簡がありました。これを見て、僕は大変興味を持ち、岡本氏の著書を読んだのでした。
「日本の伝統」も、今から60年ほど前に書かれたものですが、文庫本として復刻されてます。
「法隆寺は焼けてけっこう。自分が法隆寺になればよい・・・」
興味を引かれませんか?
川崎の岡本太郎美術館も素敵ですよ。

まだまだ袈裟型の手水鉢など、慈照寺の魅力は紹介しきれていませんが、日帰りの旅なので、先を急ごうと思います(笑)。

本日はここまでといたします。



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