学校での子どもたちの様子をお伝えします。

冬休みを前に〜朝会での校長の話

明日から、子どもたちにとって待ちに待った冬休みです。
今年も日一日ごとに少なくなります。もうすぐお正月です。

その前に「明日」が来ます。その「明日」を「あって当然の明日」にするのか、「とっても大切な明日」にするのか、そこが大事なところです。
今日から続く明日を「とっても大事な明日」にしたいと思っています。そんな気持ちを持って今年を振り返り、新年を迎えたいです。

本日の朝会では、子どもたちに次のような話をしました。

12月は一年を終わる月。
しめくくりをつけて片付ける月。閉じる月。
ほっとする気もあり、苦い反省もある。
だが、くよくよはしまい、今年の終わりは新年へ続く。

これは、作家の幸田文さんの言葉です。
皆さんにとって、この一年はどうだったでしょうか。

この一年、様々な出来事がありました。
御嶽山の噴火や豪雨・地震など、今年も自然災害も多く発生しました。
東日本大震災以来、「絆」という言葉を聞く機会が増えました。
大規模な災害で、家族や仲間との絆の大切さを
あらためて感じた国民が多かったのだと思います。

「絆」という一字に込められた思いのなかに、
人間は一人では生きられない、
そして、人の暮らしにおいて信じるということがいかに大事かを
教えてもらった気がします。

学校の中での学級という集団は、
非常に運命的に皆さんと先生が出会い、
皆さん同士も運命的に出会ってできあがった学校の最小単位です。
その中では、人が人としてどうあったらいいか。
人間としての生き方を学ぶ場所になっています。
「絆」なくして学級は成り立ちません。
2014年の終わりに、各学級の「絆」がどうであったか、
振り返ってほしいと思います。

特に6年生は、あと3ヶ月で別れが待っています。
「深まってきた学年や学級の絆」を大事にしながら、
自分の成長に挑戦し、人間としてお互いに成長し合う、
小学校生活の最後の日々を過ごしてほしいと願っています。

また、年末年始は家族と過ごす時間が多くなると思います。
家族の一員として自分のできること、
しなければならないことを積極的に行ってください。

それでは皆さん、家族みんなでよい年をお迎えください。

年末年始の過ごし方

年末年始の過ごし方

 先日、久しぶりに家族と買い物に出かけました。美しいイルミネーションが、師走の人々を夢見心地にさせ、街はクリスマスセールから新年の「福袋」まで、一気に盛り上がります。1年が過ぎる早さに驚くと共に、自分が子どもだった頃と年末年始の雰囲気が全く違ってきていることを実感してます。

 僕が子どもだった頃、大掃除は一家総出で行いました。12月に入ると天気のよい日に、祖父母が障子紙の張り替えを行いました。この時とばかりに障子に穴を開け、濡れタオルで桟についた残った古い障子紙を剥がすのが子どもの役割でした。子どもの役割はここまでで、刷毛で糊を塗りたくてしかがなかったことを覚えてます。畳を干したりもしてました。水道水が冷たいのでバケツに汲んだ水に指先でつまんだ雑巾を浸しただけで、雑巾洗いを済ませました。それが母親に見つかり叱られたものでした。

 暮れも押し迫ってくると、餅をつき、つきたての餅に取り粉をまぶし、のし餅や鏡餅を丸めました。もちろん、子どもの楽しみはその後に出されるきなこ餅やあんこ餅でした。また、近くには稲作農家はなかったのですが、どこから仕入れたのか稲わらで松飾りをつくりました。玄関や神棚、台所、トイレに飾りました。「一夜飾りはお正月の神様に失礼」、二十九日の飾りは「二重苦で縁起が悪い」ので、飾るのは三十日と決まっていると、祖母は毎年同じ話をしていました。
 年末の思い出には、身近な大人との関わりがいつもより多く、大人たちの華やいだ気ぜわしさを肌で感じ、お正月を迎える喜びを覚えていったのだと思います。

 「年末年始の過ごし方」は子どもの原体験ともなるものです。暮れには大掃除をし、年賀状を書く。年が明けたら新しい服や下着をおろす。お雑煮を食べる。書初めをする。お年玉を自分の通帳に自分で貯金しにいく・・・。
 風習や行事は、この国に生まれ育つ者としてのアイデンティティーの形成に大きな役割を果たします。子どもたちは年末年始の風景から我が国の文化への親しみを感じるようになり、人間形成の基礎を自然のうちに獲得し、日本人としての基盤を養っていくのです。

 しかし、時代の移ろいと共に年末年始の過ごし方もかわってきています。凧や独楽を回す子どもたちの声は遙か遠い昔のものとなりました。大人になった僕は街に流れるジングルベルやイルミネーションで季節を感じ、大掃除はしますが、我が家からは障子が消え、畳を上げることなどありません。近所のお店も元日から営業するので、餅や松飾りも含め、お正月用品はスーパーで少しだけ買い、食材はネットでも購入したりして済ませます。初荷の幟をつけたトラックも目にすることもありません。伝統文化、風習の継承を自分自身も手放してしまっている平成26年の暮れ、自責の念に駆られています。

 身勝手な言い方ですが、時代は変わっても、変わって欲しくないもの、なくしてはいけないものはいっぱいあります。特に子ども時代の原体験は大切にしたいものです。

 皆さんは、どのように年末年始を過ごすのでしょうか。

ノスタルジーのすすめ〜 チッチとサリー

ノスタルジーのすすめ〜 チッチとサリー

2014年も残すところ2週間余りとなりました。
今年も様々な出来事がありました。
今年の世相を表す漢字は「税」でした。
消費税の値上げは延期されましたが、10%になっても財政赤字が解消されるわけではありません。
1995年から始まった今年の漢字も、ここ数年は「絆・金・輪」と世相を如実に反映しているように思います。

年末が近づくにつれ、今年の10大ニュースも話題になります。
事故や災害が多く起こった一年でもありました。
楽しい出来事もあったのだと思いますが、振り返ってみるとマイナス面の出来事ばかりが思い起こされます。

今年は、52年間続いてきたみつはしちかこさんの漫画「小さな恋の物語」が最終巻を迎えました。
学生時代以来、約40年間手にすることはなかったのですが、書店で平積みになっていた “チッチとサリー” に、懐かしくなって手を伸ばしたのでした。
その43巻が、何と最終巻だったのです。

半世紀以上の間、いろいろな世代の方に読み継がれてきたのだと思います。
僕が読んだのは昭和40年代の後半ですから、それから40年余りの時の流れの中でもその画風はかわらず、キラキラした輝きや切なさ、懐かしい背景は、忘れかけていた世界に僕を引き込むには十分でした。

古い書物や写真などを見て、年の瀬にノスタルジックな気分に浸ってみるのも良いですね。

赤穂浪士討ち入り〜その2

歴史のアイデンティティー

赤穂浪士討ち入りは旧暦の元禄15年12月14日ですが、西暦になおすと1703年1月30日だそうです。内蔵助は熊本藩細川家江戸下屋敷(現、都営アパート)で、息子主税(ちから)は伊予松山藩松平家三田中屋敷(現、イタリア大使館)で切腹し、高輪の泉岳寺に埋葬されています。

学生時代、泉岳寺が近かったので時々行ってました。近くにある高輪消防署もなかなか趣のある建物です。東京・品川方面に行った折りに是非、寄ってみてください。

忠臣蔵といえば赤穂が舞台ということで、赤穂市内にはいたる所に忠臣蔵関係の史跡があります。赤穂城は既にないのですが門は残っているので、ドラマのロケなどはそこで行われるそうです。更に、大石内蔵助の屋敷跡が今は大石神社になっており、庭は往時のままだそうです。

しかし考え頂きたいんです。
赤穂浅野家は18世紀の初めに改易されてしまった訳ですから、浅野時代の遺物が現代までさほど残っていようはずがないわけですね。加賀の前田家や熊本の細川家、薩摩の島津家のように近代まで続いた大名家ではないのですから。

浅野家の後に赤穂に入ったのは永井家ですが、そのすぐ後に森家が移ってます。織田信長の重臣であった森可成(よしなり)長可(ながよし)、そして森蘭丸の一族といえばわかりますね。その後の歴史を考えると、赤穂藩を治めていた期間は森家の方が遥かに長いわけです。しかし現在の赤穂市には、可哀想なぐらい森家の存在感はありません。

その土地の人が郷土の誇りと感じている事跡というのは、歴史の長さとは関係がないということのようです。短くとも一瞬の光芒を放つことが重要なのであり、人はそれをアイデンティティとしないと生きていけないのかもしれません。

鹿児島に行くと分かるのですが、島津家の史跡よりも西郷や大久保、その他、明治の元勲ゆかりのものがいかに多いことか。
きっと鹿児島県民にとっては、鎌倉時代以来その地を治めてきた島津家より、維新の時に活躍したヒーロー達により愛着があるのでしょうね。
磯庭園と呼ばれる島津家ゆかりの仙巌園も人々には愛されていますが・・・

そのことを否定するつもりは毛頭ないのですが、そればかりに依拠していては重大な「事実」を見過ごしてしまいかねません。注意! 注意!


おまけ

播州の地は歴史的に見て、なかなか興味をそそられる場所の一つです。赤穂浪士のほかにも、様々な歴史事象があります。

今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」もいよいよ最終回ですが、官兵衛は播州姫路で生まれ、やがて小寺氏の近習となり才覚を発揮していきます。

歴史を少しさかのぼると、播磨の地は室町幕府六代将軍足利義教を殺害した守護大名赤松満祐の所領でした。将軍殺害後、赤松満祐は幕府軍に討伐(1441年、嘉吉の乱)されますが、将軍の権威は低下し、やがて応仁の乱へと歴史は動いていきます。

戦国時代になると織田氏と赤松氏の流れをくむ別所氏との合戦(三木合戦、みきかっせん:天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日))がおこります。織田軍の羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城します。秀吉の軍師であった官兵衛は、三木の干殺し(みきのひごろし、ほしごろし)と呼ばれる兵糧攻めを実行します。

関ヶ原の戦いがもう少し長引き、徳川家康と島津義久が和睦しなければ、官兵衛は九州を平定し次の一手を打っていたかもしれません。
「れば・たら」は酒のつまみ・・・十分承知してはおりますが・・・
最終回ではその辺りを扱うのでしょう。楽しみです。

歴史って、本当に面白いですね。

赤穂浪士討ち入り〜その1

赤穂浪士討ち入り

暮れが近づくと、赤穂浪士を題材にしたドラマや歴史番組が放映されます。そこで今日のお話しは赤穂浪士についてです。

時は元禄15年12月14日(旧暦)ですが、西暦になおすと1703年1月30日だそうです。討ち入り事件の発端は、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)に播磨赤穂藩主の浅野長矩(ながのり・内匠頭たくみのかみ)が、高家旗本・吉良義央(よしひさ・上野介こうずけのすけ)に対して江戸城殿中松の廊下において刃傷におよび、殿中抜刀の罪で即日切腹・赤穂藩改易を五代将軍綱吉に命ぜられたことに由来します。

内匠頭が上野介に刃傷に至った原因については、吉良が浅野に勅使御馳走役の作法について嫌がらせをしたとする説と、塩を巡るトラブルがあったとする説が有力ですが、いずれも決定的ではありません。
作法についてのトラブルだとすると、責任を取らされるのは上野介自身ですし、内匠頭は事件の18年前に勅使饗応役を務めていますから、今更作法を知らずに恥をかいたということはありえません。また、赤穂の塩の製法・販路をめぐるトラブル説もありますが、赤穂の塩が全国区だったのに対し、吉良の塩は地元で流通するだけのものですから、市場は競合していません。最有力な説は内匠頭の発作的な犯行という見方です。事件後の事情聴取でも、理由について「私的な遺恨でだが、詳細は今は言えない」と繰り返すばかりで、即日切腹させられてますから真相はわからずじまいです。

なぜ綱吉が、たいした吟味もせず即日切腹させたのか? 綱吉の生母桂昌院や側用人柳沢吉保も絡んだ逸話もあるのですが、詳細は略します。

林羅山の門下で朱子学を学んだ山鹿素行は、その後、幕府の正学であった朱子学を批判したことから赤穂藩お預けの身となり、赤穂藩士に儒学や兵法の教授します。大石良雄(内蔵助)も門人の一人です。吉良邸討ち入りで、内蔵助は山鹿流兵法を実践して見せたわけです。

上野介の領地三河国幡豆郡では、治水事業や新田開拓や人柄から名君とされています。しかし、旗本の多くは江戸に常住して領地は幕府が任命した代官に任せるのが一般的で、実際には上野介が領民と接する機会はなかったようです。 

討入りから4年後の1706年(宝永3年)、この事件に題材をとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座で上演されます。そしてその集大成が1748年(寛延元年)に上演された二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』です。当時の人々に大変人気で、すぐに歌舞伎の演目にもなります。


僕らの世代には、三波春夫さんの大忠臣蔵が印象深いですし、また、長谷川一夫さんの「おのうのう方、討ち入りでござる」のセリフも、印象に残ってます。

J R御殿場線開業80周年

J R御殿場線開業80周年

 御殿場線は今日12月1日で開業80周年を迎えました。
 かつて、東海道本線は国府津から御殿場、沼津へ抜けていました。国府津から先は熱海線と称し、丹那トンネルが開通してからは現在の姿となりました。

 その丹那トンネルが開通したのは1934年(昭和9年)、今から80年前のことです。丹那トンネル開通を題材にした吉村昭氏の小説「闇を裂く道」は、大正7年(1918)の着工から16年の歳月を費やし、水と土と熱の難工事の詳細を克明に綴っています。予定の倍以上の工期と当初予算の4倍近くの金、67名の犠牲者のうえに昭和9年9月30日に貫通します。又、トンネル上の村におこる渇水や伊豆大地震の様子も描かれています。

 余談ですが、大正7年(1918年)頃の日本は第一次大戦の好景気で農村人口は都市に吸収され、農産物価格も上昇して農家の収入は増大します。しかし、生活必需品の物価も上昇したので、収入増加の割には家計は楽にならなかったようです。また、都市でも大戦景気による「成金」が生まれます。工業労働者の増加と人口の都市集中は米の消費量を増大させ、インフレ傾向が続き、物価も相当高騰します。大正7年に入ると米価は急上昇し庶民の生活は脅かされることとなります。7月には富山県の漁村の主婦たちが米価の高騰を阻止しようと運動を始め、全国に広がり各地で米騒動が起こります。政府は外米の輸入や米の安売りを行うと同時に、軍まで出してその鎮圧に当たります。寺内内閣は世論の激しい非難の中、9月に総辞職します。

 昭和9年12月1日には丹那トンネルが開業し、東海道線は国府津−熱海−沼津を通るようになります。従来の国府津−沼津間は御殿場線と命名され現在に至ります。その御殿場線も昭和43年4月に国府津−御殿場間が、7月に御殿場−沼津間が電化されると、蒸気機関車やディーゼルカーに代わって電車が主役となります。最終列車を牽引したD5270は山北機関区跡の公園に記念展示されています。D5272は御殿場湯沢平公園に保存されていましたが、現在は御殿場駅前に移されています。

 国府津駅構内には機関車庫があり、もちろんターンテーブルもありました。前出の蒸気機関車D5272がしばらくの間、格納されていました。この機関車庫は明治43年製(1910)で、鉄筋コンクリート造りの大型構造物としては日本で1・2を争う古いもので、土木学会の論文でも紹介されていたようです。また建設を担当した大成建設(旧大倉組)のHPにも、会社の実績として紹介されています。小学生の頃、祖父に連れられ御殿場線蒸気機関車の旅も何度か経験しました。その後中学生になった僕は、部活の合間に何回かD52を見に行ったものでした。やがて興味が他のものに移り、正確な年は失念しましたが70年代の終わり頃(78年?)まで車庫はあったような気がします。
 現在、機関車庫やターンテーブルは京都梅小路機関区で、動態・静態保存されている機関車と一緒に見ることができます。

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