学校での子どもたちの様子をお伝えします。

プチャーチンが来た(1)

プチャーチンが来た(1)

今回から数回に分け、江戸時代末期のロシアとの外交についてお話をしようと思います。

嘉永7年(1854)、アメリカ遣日大使ペリーがサスケハナ号など7隻の軍艦で浦賀に来航した10ヶ月のち、伊豆半島下田沖に3本マストの異国船が姿を現します。ロシア遣日大使海軍中将プチャーチンを乗せディアナ号(約2000トン)です。

少し長くなりますが、この間の経緯についてお話しますね。

ロシアはかねてよりアジア進出を企て、寛政2年(1792)、ロシア・ロマノフ王朝の女帝エカチェリーナ二世の命を受け、アダム・ラクスマンが国書を持って根室に来航し通商を求めます。
この時、天明2年(1782)にロシア領アリューシャン列島に漂着した大黒屋光太夫ら日本人漂流民を連れていました。
松前藩は幕府の指示に従い、漂流民の受け取りは箱館(函館)で、国書の受け取りは長崎で、と伝えます。ラクスマンは箱館(函館)で漂流民を引き渡しましたが、長崎には向かいませんでした。

文化元年(1804)にはレザノフが長崎の出島に通商を求め来航します。レザノフは半年間出島に留め置かれた後、幕府に通商を拒否されています。

米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀に入港します。6月9日(7月14日)、幕府側が指定した久里浜に護衛とともに上陸し、大統領の親書を日本側に手渡します。ここでは具体的な協議は行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの回答の猶予を求められ、翌年の来航を告げ引き上げます。

その後、嘉永6年7月18日(1853年8月22日)、ペリーに遅れること1ヶ月半後に、プチャーチンが4隻の艦隊を率いて長崎に来航し開港と通商を求めます。長崎奉行は幕府へ急飛脚を出し、幕府全権の川路聖謨(かわじとしあきら)、筒井政憲(つついまさのり)が交渉にあたりました。この時はロシア側の要求を拒否し、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与える事などで合意します。

嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に再びペリーが浦賀に来航し、江戸湾奥深くまで侵入します。軍事的圧力をかけたペリーとの交渉を現在の横浜開港記念館の地で行い、幕府は同年3月3日(3月31日)に日米和親条約を締結・調印します。

いよいよ本題です。
前年に引き続き開港と通商を求め、プチャーチンは嘉永7年8月30日(10月21日)、箱館に入港しますが、同地での交渉を拒否されたため大坂へ向かいます。翌月に大坂天保山沖に到着、大坂奉行から下田へ回航するよう要請を受けて、同年10月14日(12月3日)に下田に入港します。報告を受けた幕府では再び川路聖謨(かわじとしあきら)、筒井政憲(つついまさのり)らを下田へ派遣、11月1日(12月20日)からプチャーチンとの交渉を行います。

下田で、日本側の交渉担当としてプチャーチンとの交渉を進めていた川路聖謨たちは、交渉場所や宿に寺を使っていました。
11月4日(12月23日)午前8時に安政の大地震が起きます。石段、石垣が崩れ落ち、地面に亀裂が走ります。
川路たちは庫裏の下敷きになりながらも必死に脱出し、裏山へ走り逃げ、命を取り留めます。大津波で町は波に覆われ、大型の和船も町に流れ込んできたようです。

本題に入ったばかりですが、今回はここまでとします。
次回は、被災後のプチャーチン一行の様子についてお話しする予定です。

※日付については基本的には旧暦(太陰暦)を使用し、( )内にグレゴリオ暦(西暦)で表記しました。




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