学校での子どもたちの様子をお伝えします。

家康没後400年目の年に

家康没後400年目の年に

 今年は、徳川家康が亡くなってから400年目を迎えます。1616年6月1日、駿府城で亡くなり久能山東照宮に埋葬されますが、翌年日光東照宮へ改葬されます。家康ゆかりの地では、400年を顕彰するイベントも開かれるようです。

先日開催された嚶鳴フォーラムで作家の童門冬二氏は、「家康が江戸に入城した際、北条氏の政治を民は求めた。それは北条氏が徳による政治を展開していたからだ。」と話されました。北条氏は代々、税も安かったようです。氏の話とは直接関係はないのですが、家康の関東入りについての思いを述べてみます。

 天正18(1590)年8月に、家康は三河等5ヶ国から旧北条領の関八州に転封となり、豊臣秀吉の薦めもあって本拠地を江戸に定めます。大久保彦左衛門が著した『三河物語』などには、父祖伝来の所領である三河を奪われた家康主従は、泣く泣く未開の関東に下っていったように描かれています。大河ドラマ「江」でも、そうした表現をしていました。

 しかし、僕はそんなことがあろうはずがないと思います。家康は「ラッキー」とばかり小躍りしたくなったんじゃないのでしょうか。所領は150万石から250万石になるのですから、経済力、軍事動員力は飛躍的に増します。加えて、しがらみのない土地であれば、徴税や徴兵の仕組みも一から作ることができ、かえって統治がしやすいわけです。三河国内は一向一揆なども起こり、家康は統治に結構苦労していました。家康の家臣にとっては慣れ親しんだ土地を離れる辛さがあったのでしょうが、大名としての家康の損得勘定はそんなところじゃないかなと思います。

 老獪な秀吉が何故このような提案をしたのか理解に苦しむんです。政敵をより強力にするように仕向けただけですから。その当時の秀吉は、家康と日本を二分してもよいくらいのことを考えていたのかもしれません。小牧・長久手の合戦以来、秀吉が家康に対して一貫して好意的であることを考えると、あながち考えられないことではないと思うんです。

 秀吉の真意や家康の思いについても、想像の範囲を超えることはありません。上記以外にも様々な興味を引かれる点があります。
 400年目のイベント等で家康だけでなく、江戸時代の知恵や思い、文化に少しでも触れてみたいと思います。
 歴史って面白いですね。


イベントの一例
東京大江戸博物館 「大関ケ原展」 3月28日から5月17日
静岡市商工会議所、静岡市、浜松市、岡崎市でも史跡巡りをはじめイベントがあります。
日光東照宮も将軍家が参拝した道を東京から歩いてたどるイベントを実施するようです。
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