家康没後400年の年に際して その6 督姫
- 公開日
- 2015/11/04
- 更新日
- 2015/11/10
校長
家康と北条氏 〜 督姫
前回まで亀姫についてお話ししてきましたが、戦国時代の姫君というのは、自らの意思とは関係なく、同盟や駆け引きのための道具として政略結婚に使われることが日常的に行われていました。
家康は亀姫の外にも督姫(とくひめ)を北条氏直に嫁がせておりますし、家康の譜代家臣である本多忠勝の娘(小松殿)を家康の養女にして、真田信幸(関ケ原以降は信之と改名)に嫁がせています。
今回は徳川家康の娘で、北条氏直に嫁いだ督姫(とくひめ)についてお話しです。
北条五代祭りでも、督姫が登場しますね。
天正10年(1582年)に織田信長が本能寺で明智光秀によって倒されると、甲斐国や信濃国を巡って徳川家康と北条氏直との間に領土争い(天正壬午の乱)が始まります。一進一退の攻防が続く中、旧織田領の甲斐と信濃を徳川氏が、上野国を北条氏が治めることを互いに認めて和睦します。家康は自分の娘、督姫(とくひめ)を天正11(1583)年、19歳で北条氏直(22歳)へ嫁がせ、北条氏と同盟を結んだのでした。
この同盟の背景には、真田氏が絡んできます。
家康としては、自分が羽柴秀吉とならんで中央進出を果たすためには、どうしても背後の北条父子と争うわけにはいきません。しかし、北条父子に関東から上信二州へ、大きく進出されることは、家康にとって「おもしろくない」ことです。
そこで家康は、「真田安房守昌幸(真田源二郎信繁(幸村)の父)を傘下におさめ、北条の進出を押さえよう」と考えます。
安房守昌幸が、上田と沼田を確保しているからには、この上、北条軍の侵入を決して許さないであろうと、上州沼田を中心にした真田−北条両家の、過去の争乱や確執を、家康は充分にわきまえていたのでした。
後日、家康は冒頭にも述べたとおり、真田安房守昌幸の長男、源三郎信幸をひどく気に入り、家康の譜代家臣である本多忠勝の娘(小松殿)を家康の養女にして、信幸に嫁がせています。このことについてはいずれお話しします。
話を督姫に戻しますね。
永禄8(1565)年、徳川家康と側室の西郡局(にしごおりのつぼね)との間に生まれたのが督(とく)姫です。
余談ですが、西郡局の祖母は、今川義元(よしもと)の妹といわれてます。
承知の通り、家康(幼名:竹千代)は今川義元の人質として駿府で幼年期を過ごします。
家康の父である岡崎城主の松平忠広は、今川との同盟の際、6歳の家康を人質として差し出します。ところが、家臣の裏切りにより今川と対立していた織田に引き渡され、2年後、織田から今川に引き渡されます。
今川家では厚遇だったようですが、家康自身は人質として苦労したと語り、苦労人というイメージが植え付けられています。
北条氏直との結婚生活は長くは続きません。関東の覇者である北条氏は、伊達も上杉も秀吉の傘下にあるなか、家康の説得を聞き入れず、天正18(1590)年、小田原城に籠城し、豊臣秀吉と戦うことを選択します。
籠城戦もむなしく北条氏は降伏。氏直の父、氏政(うじまさ)と弟、氏照(うじてる)は切腹。氏直は、家康の娘婿だったため、家康の助命嘆願で秀吉から助命されて高野山に送られました。
氏直はしばらくすると、秀吉から許され、河内国(大阪府)に1万石を与えられます。しかし、督姫の威光で北条氏を再興することに悩み続け、翌、天正19(1591)年、30歳で病没します。
文禄3年(1594年)、北条氏を滅ぼした秀吉の計らい(仲人)で池田輝政(てるまさ)に嫁ぎます。輝政には既に4人の男児がいましたが、督姫は忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興、振姫など5男2女をもうけました。
話が前後しますが、家康と秀吉は天正12(1584)年、小牧(こまき)・長久手(ながくて)の合戦で激突します。この時、秀吉に従軍し、合戦を主導した池田輝政の父、恒興(つねおき)は、家康軍に敗れ戦死してます。池田氏にとって家康は、憎い敵でした。秀吉はこの両者の間を取り持とうとしたのでした。
池田氏には複雑な思いがあったのでしょうが、お家安泰を考えれば、家康は豊臣政権で最大の実力者であり、悪い話ではありません。家康が慶長5(1600)年の関ケ原の合戦で勝利すると、輝政は、播磨国(兵庫県)姫路52万石を与えられ、大大名へと成長します。
今回はここまでです。
次回は、督姫「毒饅頭事件」をお話ししようと思います。