家康没後400年に際して その4 亀姫 2
- 公開日
- 2015/09/30
- 更新日
- 2015/09/30
校長
亀姫 その2 「本多家との確執」
いよいよ本日で9月も終わりです。
運動会の練習とともに前期の終了にむけ、慌ただしい日々を送っております。
早速ですが、亀姫の晩年についてお話ししてみます。
奥平信昌は慶長7年(1602年)加納で隠居し、三男・忠政に藩主の座を譲ります。慶長19年(1614年)には、忠政と下野国(しもつけこく)宇都宮10万石の長男・家昌に先立たれますが高齢を案じられてか、息子たちに代わる大坂の陣への参陣を免除されています。翌、元和元年(1615年)、信昌も世を去ります。
今回は宇都宮藩と亀姫の関わりを中心にお話ししたいと思います。下野国宇都宮10万石は亀姫の長男・家昌が藩主でしたが、その家昌が38歳で亡くなり、その息子(亀姫にとっては孫)の奥平忠昌が、わずか7歳で家督を継ぐ事になります。
当時の宇都宮は、徳川にとっては東北の玄関口となる重要な場所です。2代将軍となった異母弟の徳川秀忠から「やはり幼い領主では・・・」との提言があり、結局、元和5年(1619年)江戸に近いが宇都宮より格下の下総古河への転封(てんぽう、移封:国替え)となります。
このことは亀姫も理解していました。宇都宮は要所ですし、領地替えに際しては1万石の加増もされ、引越し準備にあたっていました。が、そんな亀姫のもとに、宇都宮城の後任は亡き家康に寵愛された本多正純で、しかも3万3000石から15万5000石に加増されての宇都宮入りとの情報が入ってきます。
正純は父・本多正信と共に知恵袋、参謀として家康の側近として初期幕政を牛耳った謀臣です。しかし武功は皆無に等しく、そのために戦場働きの武功派の功臣に妬まれていました。正純にとっては栄転といって良いでしょう。
その本多正純と亀姫との間に確執があったようです。秀忠の姉である亀姫は、長篠で大手柄を立てた奥平家より文治派の正純を大幅に加増して宇都宮に置いたことと、忠昌が12歳になってからの転封に大いに不満で、秀忠に抗議までしています。
亀姫と本多家との確執は、慶長19年(1614年)亀姫の四女の嫁ぎ先であった大久保忠常の父・忠燐(ただちか)が、不可解な改易を申し渡され失脚したことに始まります。この件には、大久保家のライバルであり、幕政に強い影響力を持つ本多正信・正純親子が関与していたのでした。亀姫が娘の嫁ぎ先を失脚させた本多家が転封に際し、大幅に加増されて宇都宮城に入城することを腹立たしく思ったのも道理です。亀姫は城の植木や畳、建具のいっさいがっさいを持ちだしての引越しを決行します。
転封の場合、一般的には私物以外は全てそのまま後任に引き継ぐのが定めですから、将軍の姉とはいえ、結構、無茶なことを行ったわけです。
結局、国境で見つかり、全て返すように要求され、もとに戻します。
将軍の姉が、家臣に注意される格好になったワケですから・・・
面目は丸つぶれです。
“この怨み、晴らさずにはおくものか”
と、思ったかどうかは推測に過ぎませんが・・・
亀姫は、相当頭にきたのでしょう。その後、亀姫は本多家の内偵を命じます。
余談ですが「石高制」について少しお話しします。
豊臣秀吉が実施したいわゆる太閤検地の検地帳は石高で記載され、全国の生産力が米の量で換算された「石高制」が確立します。それまでは貫高制(かんだかせい)等が用いられてました。秀吉は曲尺(かねじゃく)1尺(約30.3センチ)の検地尺を基準に全国統一基準で6尺3寸(約191センチ)四方を1歩(ぶ)、30歩を1畝(せ)、300歩(10畝)を1段(たん)、10段を1町(ちょう)とする新しい単位を採用します。今でも1反(段)=300坪(歩)といった使われ方がされますね。
また、穀物の量を量る枡(ます)も京枡に統一し、これに基づく石(こく)、斗(と)、升(しょう)、合(ごう)を基本単位としました。この単位の歴史は古く、何と大宝律令(文武天皇の時代701年に制定、刑部親王(おさかべ)、藤原不比等(ふひと)らにより編纂)にも記されています。
江戸幕府も300歩=1段の基準を採用しますが、6尺(182センチ)四方を1歩としたため、土地の面積表示は太閤検地の時よりも大きくなりました。また、京枡も太閤検地の時よりも大きな容量のものが使われていたようです。
太閤検地では、村ごとに田畑、屋敷地の面積、等級を調査し石高を定めました。個々の田畑に等級がつけられその生産力を米で表したのです。年貢率は石高の3分の2を領主に納入する2公1民が一般的でした。各村ごとの石高を集計した村高に応じて、村が一括して納入するといった村請制度(むらうけせいど)がとられ、連帯性で年貢の取り立ては厳しいものがあったようです。年貢率は時代と共に5公5民、4公6民など変化します。
年貢米は城下町に集められ家臣に給付したり、城下町商人に売却したほかは大阪の蔵屋敷に廻米(かいまい)され、米市場(こめいちば)で換金して藩財政にあてました。
加賀100万石の前田家を例にあげると、年貢米として40万石ほどが税収としてあったと云うことです。
当時と今とではシステム上の違いがありすぎますので現在の金額に単純に換算することはできませんが、不都合を承知で換算してみます。
1 米の重さに換算すると1合の米は約150グラムですから、1石は約150キロということになります。仮に米10キロ=3000円とすると、1石は45000円です。
2 江戸時代は1両で1石の米が買えたといわれています。米ではなく当時の大工などの労働賃金水準などを目安に考えると金1両は、20万円から30万円の価値だそうです。
映画にもなった磯田道史さんの著書「武士の家計簿」に、石高と現代価値の対応表があります。この本の時代背景は天保14年(1843年)の加賀藩です。
米価換算だと 1石= 50,000円
労働価値換算だと 1石=270,000円
ということでこれをもとに計算すると、米価換算と労働換算とではとんでもない差が出てきます。
5万円×100万石×0.4= 2000億円
27万円×100万石×0.4=1兆800億円 (4公6民で算出)
ちなみに、平成27年度の石川県の歳入概算は5438億6400万円です。
さらに秀吉は、一揆を防止し農民を農業に専念させるため「刀狩令」を出し、建設中であった京都方広寺の大仏の釘として再利用するという名目で武器を没収します。
また、人掃令(ひとばらいれい)を出して、武家奉公人が町人や百姓になること、百姓が商売や職人仕事に従事することを禁止します。
今年は国勢調査の年でしたが、当時も職業別にそれぞれの戸数、人数を調査、確定する全国的戸口調査が行われ、諸身分が確定することになり兵農分離、農商分離が完成します。
やがて、江戸幕府はキリスト教禁止令を発布し、寺請(てらうけ)制度を確立させ、民衆がどのような宗教宗派を信仰しているかを定期的に調査するようになります。これを宗門改(しゅうもんあらため)と呼び、これによって作成された宗門改帳(宗門人別帳)が、今でいう戸籍原簿や租税台帳として使われたのでした。
余談のほうが長くなってしまいました。
このへんで本日は終了とします。
次回は亀姫の “蜂の一刺し” についてお話しいたします。
・・・ロッキード事件を連想された方は同世代です(笑)!