校長のつぶやき

教職員向けに不定期に発行している『校長のつぶやき』から抜粋した記事です。

人工知能(AI)

学力学習状況調査のA問題を人工知能(AI)にさせたら、間違いなくできるそうです。B問題はいわゆるビッグデータの蓄積がないと難しい。文章を読み取るためには、膨大な情報がないと正確に読み解くことができないからで、ここは人間の方がはるかに優れているわけです。
 ところが、だれでも正解を導いているかと言えばそうではありません。B問題のできが悪いことは大きな課題になっています。しかし、正答率や無答の割合は数値化されても、どうして無答だったのか、間違えた理由は何だったのか、そういった詳細な調査が行われたとは聞いていません。
 問題文は長く資料などもついています。時間がなかったり、読むのが面倒になったりするかもしれない。もしかしたら、読めないのかもしれない。この仮説に基づいて、こんな調査をしたという記事を目にしました。
 中学校社会科の教科書を読んで、正解を選ぶという問題です。
「オーストリア、次いでチェコスロバキア西部を併合したドイツは、それまで対立していたソ連と独ソ不可侵条約を結んだうえで、1939年9月、ポーランドに侵攻した。
問 ポーランドに侵攻したのは?
A オーストリア
B チェコスロバキア
C ドイツ
D ソ連 」
公立中学6校の生徒の正答率は75%です。
「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている。
問 オセアニアに広がっているのは?
A ヒンドゥー教
B キリスト教
C イスラム教
D 仏教          」
同じく正答率は53%です。
 太字のが正解です。読んだら誰でも分かりそうですが、実際は正しく読めていないということです。
 新井紀子さん(国立情報学研究所教授)の調査で、調査人数など明記されていませんでした。彼女は人工知能に大学入試を受けさせて、東大合格をめざすプロジェクトのリーダーとして、またわが国のAI研究の第一人者として高名な方です。
 結論として、教科書を正しく読めていない。読めるようにしないと、人間は性能の悪いAIレベルとなり、仕事はAIに取って代わられる。学力の最低保障として読解力を第一につけるべき、というものです。

教科書が読めること、内容が理解できることは、小学校では1年生から発達を追っていくので、どの位できているか一人ひとりを見取って、評価しています。ひらがな、かたかなはもちろん、漢字が読めなければなりません。問題を読んで答えるなら書いてある内容が分かるように、易しい表現で、漢字にはふりがなを振ってと配慮するはずです。
 読解力が極端に劣っている場合は、読めないことも想定するでしょう。日本語の習得が不十分な外国籍児童や、知的遅れが認められる児童などがその例です。
 しかし、中学校では教科書が読めない想定は、ほとんどしません。数学で九九ができないことが問題視されますが、できない原因としてすぐに目につくので、ことさら取り上げられるのです。
 教科書に書いてあることは、該当学年の生徒なら読んで分かる、ということを前提として、中学校の授業は成り立っているし、テストも国語を除けば、問題文が読めることを前提につくられています。
 中学校で社会科を教えていた頃は、教科書を事前に読んで、宿題の予習プリントをして、授業に臨むというスタイルを取っていました。読めば誰でも答えられることを問うていると思い込んでいました。できない理由が読めないことにあったかもしれないなら、生徒は大変だったろうと思います。
 学力学習状況調査の国語の問題は、先ほどの社会の問題よりずっと複雑です。社会の問題を読めていない生徒は、まぐれ当たりでなければ、小学生の時に国語の問題を、絶対に解けない。となれば、読解という学習の基礎を積み残したまま、中学、高校と学んでいる生徒の数が、相当にのぼると推測できます。
 なぜこうなってしまったのか、新井氏は英語教育、環境教育、プログラミング教育等々、学校教育にあれこれ詰め込みすぎたからではないかと、警鐘を鳴らしています。あれこれ詰め込んでも、AI以上にはなれないと認識し、確実に学力の最低保障をする。学ぶことの基礎である、読む、書くができてはじめて自ら様々なことを学ぶ、新たな創造を生むという、人間がAIを凌ぐ部分で勝負できるということでしょう。
 小学生の受ける普段のテストと、学習状況調査のようなテストは、大きな違いがあります。状況調査は中学校以降に受けるテストに近いものです。一定時間に読み取って答えなければならない。読み取ることができているのか、検証してみる必要があると同時に、私たちも読み取る力をつけるために、一層の努力をしていく覚悟が要りそうです。    6/29

放課後の居場所

児童が放課後安全に、学習や様々な体験をしながら時間を過ごせるような場所を提供するという文科省のかけ声の下、放課後子ども教室事業がスタートしています。小田原市でも 片浦小学校が平成24年度から、酒匂小学校が平成27年度から始めています。
 そして、3年後には市内全小学校に拡大していく予定でいます。
 本校では今年度6月を目途に、モデルケースとしてスタートさせようとしています。放課後子ども教室とはどういうものなのか、児童クラブとどう違って、私たちにどんな影響があるのかをお話ししたいと思います。

 小学生のお子さんをお持ちの先生はご存じと思いますが、児童クラブは厚労省の管轄であり、学童を保育の対象として預かる、という機能を持っています。従ってクラブに入るには児童クラブの開設時間に、保護者が就労中であること等の条件があります。保護者も負担金や保険料、おやつ代などの負担が生じます。
 そのかわり、預かるためには床面積に対する受入可能児童数や、指導員一人あたりの児童数等に規定があります。三の丸小の定員は最大96名になっています。希望者が定員を上回ると、いわゆる待機児童となります。
 一方、放課後子ども教室は文科省の管轄、小田原市でいえば、教育部教育総務課、児童クラブは子ども青少年部青少年課が担当部署になります。ちなみに学校が主としてお世話になっているのは、教育部教育指導課です。
子ども教室は子どもの居場所ですから、参加することに条件はありません。児童クラブは3年生まででしたが、最近6年生まで拡大されました。子ども教室は小学生すべてが対象です。国からの補助金があるので、今のところ無料です。受入人数や設置場所など細かな決まりはありません。
 児童クラブと子ども教室は別々のものなので、スタッフも場所も違うものです。小田原では空き教室を利用し、どちらも学校に設置しています。児童クラブに入所している児童は、一旦クラブに行って出席を点検した後、子ども教室に出かけて、終わればクラブに帰ってくる形を取っています。
 子ども教室だけ参加している児童は、直接教室へ出かけて、終わると自分で下校します。原則保護者が引き取る児童クラブと違って、子ども教室は自力下校なので、終了時刻に限度があります。日没を考慮すると冬季は4時くらいが限度、日が長い時期なら遅くはできますが、下校時に少数で帰る心配はつきまといます。

 三の丸小に当てはめて考えてみます。空き教室は出始めていますが、校舎のつくりから使用は難しいでしょう。放課後は防犯上教室棟が施錠されるので、位置から考え図書室も使用は困難です。
 児童クラブが使っているミーティングルームとPC準備室はすでに満杯です。残るのはふれあいホールしかありません。
 開設時間を放課後から4時までと考えると、5時間日課でないと参加できません。高学年も5時間日課の時は、会議や研修などでふれあいホールを職員が使用する可能性もあります。
 これだけ悪条件の中を、それでも子ども教室を開設しようと考えるのは、児童クラブの希望者が増えていることがあります。両親ともに働いていて、子どもを安心して預けたいという保護者のニーズは、確実に増えていると思います。
 ならば児童クラブの枠を拡大していけば良いと考えるでしょう。先行的な地域では児童クラブと子ども教室を一体化して、子どもなら利用できるものに統一しています。しかし、不特定多数の児童が入れ替わり立ち替わりになり、児童クラブの頃の家庭的な雰囲気や、おやつを提供することができなくなったと言う声も聞きます。
 片浦小学校のように少人数の学校であれば、子ども同士の関係も深く、おやつの提供もできていますが、本校の規模になると、やはり非常に難しいと思います。
 それに大きな課題として児童の把握という、安全面のノウハウについて子ども教室より、児童クラブの方に一日の長があります。誰が参加しているか、確かに下校したか、自主下校では把握が難しく、「まだ帰ってこない。」という保護者からの連絡が心配されます。そういう時の対応は、学校がせざるを得なくなります。

 そこで、児童クラブの子どもが参加する形の子ども教室を考えました。こうすれば、下校を心配することなく活動ができ、教室のスタッフがクラブの子に学習のアドバイスをすることができます。児童クラブのスタッフと協力して、多くの人数でみることも可能になります。
 そうした実践の上に、児童の受け入れ範囲を拡大し、保護者の迎えが可能なら参加できる、やがて充分自力下校ができるという風に、ステップアップすることが、円滑な方法だと思います。
 児童クラブに入っていない保護者から、不公平だという声が上がるかもしれません。子ども教室設置の趣旨から考えても合致しているとはいえません。しかし、もし相当数の児童が希望したら、受け入れる場所がありません。ふれあいホールには100名程度収容できますが、そこでの活動は限られるでしょう。学習支援だけを行うにしても、相当数のスタッフが必要ですが、人材の確保が難しく、予算も伴いません。スタートしたら希望者が少ないかもしれず、事業としての見通しは決して甘いものではありません。
 モデルケースとして、今ある資源を活用し、最大の効果を上げようと考えた方法が、まずは、児童クラブから始めて、保護者にも子どもにも、子ども教室がどんなものか見てもらう。その上で、ステップアップしていこうという形になったのです。
 この方法での最大の課題は所管する行政組織が違う中、どうやって協同的な関係を築いていくか。教職員の負担や学校施設の使い勝手を変更せずに、子どもたちの放課後の居場所を充実させられるか、ということだと考えます。

 児童クラブでは1年生から学年が上がるにつれてやめる子が出て来ます。本来自分の都合でなく、保護者の都合で入っていますから、放課後は自由にしたいのに、と成長と共に考えるのは当然でしょう。
 放課後の活動としてはサッカーやソフトボール、ミニバスなど地域のスポーツ団体のものや、水泳やテニスなどスポーツクラブがあり、ピアノや絵画、英会話など習いごとから、学習塾もあります。かなりの児童が参加しているはずです。
 アクティブ・ラーニングがもてはやされるように、子ども自身の意欲や、自主性に根ざすのなら、スポーツや習いごと、塾と同様、児童クラブも、子ども教室も、子どもが行きたいかどうかを決めるべきものです。しかし、それぞれの家庭の事情があり、保護者の都合が優先させられる場合がある。嫌々させている習いごとは続かないし、身につかないものです。
 そう考えると、子ども教室も魅力的なものでないと、子どもには選ばれないのです。子どものニーズは、学習よりは遊びでしょう。本来放課後は自由であるべきですが、時間も空間も仲間も限られた子どもは、与えられた選択肢から選び取ります。選択肢の一つなら、選んでもらえるように、価値ある体験ができる教室を企画して児童に参加を促すことが、大事な道だと私は思います。
 児童のニーズと合致しているか分かりませんが、幸い本校の施設を利用している外部団体に、ボランティアで協力をしてくださると伺っている所もあります。
 子どもが自ら選んだ放課後の居場所、学校以外の場でそういった場所があれば最高ですが、見つからない。それなら、今進めようとしている施策を、上手に活かす手を考えることが良いのではないでしょうか。多くの知恵と力を集めれば、もっともっと素晴らしいものが生まれると思います。是非、前向きに多くの人と考えていけることを願っています。  6/2

北風と太陽

明日から修学旅行、こんな昔のことを思い出しました。
 学校が荒れていた頃の中学生の修学旅行は、旅先で事件や事故が起きないようにすることが、最優先課題でした。他校の生徒との喧嘩やトラブル、寺社での迷惑な振る舞いなど、他人との接触がある場面では本当に気を張って管理という名の指導をしていました。気が抜けるのは自校だけになる移動中のバスくらいなものでした。
 しかし、旅館で夜更かしするため寝ていたり、機嫌が悪かったりするのが普通、苦労するのはバスガイドさんでした。
 昔はガイドさんが必ずいて、しかもまだ若いなりたての女性が担当することが多かったと思います。中学生にとって年齢が近いこともあり、話しやすいのですが、たいていはひどい物言いで、無礼な態度になりがちでした。説明はろくに聞かない、興味本位の下品な質問をする、ゲームや歌にもしらけて無視する、そんなことから中学生相手はガイド泣かせでした。
 私の同僚のクラスにも、文字通り「ガイドさんを泣かせようぜ。」と悪巧みをする輩がいました。それをかぎつけた同僚は、彼らが考える泣かせるための方法を、ことごとく否定しました。「するな。」でなく「そんなやり方では今時のガイドさんは泣かない。」と否定しました。そして、「先生が考えるやり方なら泣かせられる。」と豪語し、彼らを煽ったのです。
 もし泣かなかったら食事を全員におごるというということで、先生のやり方が実行されました。
 どんなやり方をしたか、表題から想像がついたと思います。彼らはガイドさんの話を良く聞き、積極的にバスの中を盛り上げようと、ガイドさんの思う以上に協力したのです。 私はそのバスにいなかったので具体的な様子は想像するしかありません。実際にバスを降りるときに、今までこんな経験をしたことがなかったと、ガイドさんが感激して泣きながらお礼を言ってくれたと聞きました。
 修学旅行という、学校ではない場所で出会う人との関わりで、子どもは成長します。私たちは教科だったり、特別活動だったりで教えますが、子ども自身にとって学んだかというと、心許ないものです。それより、たった一度の経験から学んだことが、先の人生に大きな影響を与えることの方が多いことは、実感として分かるでしょう。
 残念ながら生徒たちの後日談も、ガイドさんの後日談も聞いてはいません。しかし、修学旅行というと必ず思い出します。良い出会いがありますようにと祈りながら、今年は学校で帰りを待つことにします。    5/10

全体と個

先日、市教委の指導主事と相談室あおぞらの心理士がみえて、ケース会議がありました。集団での指導が難しい子について、知的能力や情緒の安定、社会性の発達度合いなどを考えながら、どう関わって行ったら良いか、取り出し指導や在籍変更などの必要性等を話し合いました。
 出典は忘れましたが、通常のクラスという30名ほどの集団の中で学習指導をするという点では、日本の先生は世界一だという報告があります。40人以上の学級だった頃より、今は人数も減っていますが、児童のかかえる発達の課題や、保護者を取り巻く状況を考えると、多数の集団への指導は難しさを増しているように感じます。
 指示が聞けない、指示通りの行動ができない、勝手な行動を取るなど、集団指導が入らない子のために、集団全体が影響を被って授業が滞る事態に遭遇された先生がほとんどだと思います。
 そんなとき、二つのことを同時に、バランスを取ってしなければなりません。ひとつは、できない個に対してすること、もう一つは、それ以外の全体に向けてすることです。
 当たり前ですが、バランスを取ることは難しいことです。どうしても個に対する指導が先に立ち、全体は待たせることが多いと思います。きちんとできている子たちを考えると、叱ったり指示したりは、短く済ませられるに越したことはありません。しかし、それで行動に移せない場合にどうするかが問われます。
先日のケースでは、勝手な行動をするのは、自分に注目させるためで、それに反応すると、たとえ叱られることだとしても、自分に意識を向けさせる方法として学習してしまう、というものでした。どうしても制止しなければならないような、命に関わることでないなら、無視する。かえって指示通りにできた行動であれば、些細なことでも、それを褒めて行動への動機付けとする方向が望ましいと話されました。
 まずい行動を無視するのは、集団全体が易きに流れないかという心配が当然あります。バランスが大切とは、集団全体にもしっかりメッセージを伝えておくということだと思います。
 皆さんは正しいよ。できてない子にはできるように指導するよ。すぐにできなくても、きっとできるようになるからね。
 処方箋はいつも同じではありません。でも個と全体のバランスが必要だと思います。  4/27

あいさつの価値

おだやかに新年を迎えました。年度末までの3か月は新年度をにらみながらも、今一度年度当初に立ち返って振り返る時期です。子どもたちが学年の階段を一歩上がるまでに、つけるべき力が獲得できるよう、最後まであがき奮闘して欲しいと思います。
 合い言葉とした「あったかあいさつ」はどうか。児童指導委員会での話し合いでは、芳しくない現状が報告されていました。
 あいさつを大きな声で自発的にする子は、一定数いると思います。その子に触発された何人かが、同じ場で一斉にあいさつをする場面に出会うことは、先生方も経験しているでしょう。5月に朝会で話をしたあいさつリーダーが、これにあたります。
 しかし、この子たちの影響力がまだ弱い、つまり相対的に人数が少ないのだと考えられます。子どもたち一人ひとりが、あいさつをすることに自覚的になってくれることが、最も望ましい状態ですが、一朝一夕にそうはならないでしょう。彼らを認め自発的なリーダーを増やしていきたいと思います。
 あいさつをすることは相手との関係において、自分は敵ではないということを伝えるメッセージです。これをきっかけとして対話が生まれ、関係を築いていくわけですから、コミュニケーションの最初の一歩なのです。あいさつの価値を認め、自覚的にしていくことが、コミュニケーション能力を高めていくことになります。ですから、高学年ではあいさつの価値に気づき、人に言われるからでなく、自らできるようになって欲しいのです。
 コメディアンの萩本欽一さんが、駆け出しの無名時代の話です。働いていた浅草の劇場で、当時の演出家から芸人の才能がないからやめさせようとなったとき、「彼のあいさつは快いからやめさせないで」という声が多く、首にならずにすんだという逸話があります。
 「おもてなし」に通じる「思いやり歩行」や「トイレのサンダル」の方がすることの意味は直接子どもに響くと思いますが、実際することのハードルは高いと感じます。しかし、どちらも「あいさつ」と同様に自覚的にすることが大切なことに変わりはありません。
 昔、強豪と呼ばれる高校野球部にお邪魔したとき、突然部員全員が練習を中断して、主将の号令のもと監督にあいさつをする場面に遭遇しました。しかし、監督はさも当然の如くそれを無視したので、指導者と生徒でもあいさつは返すのが筋だろう、練習の時間を割いてしているのだから、と若かった私は内心思ったのでした。  「あいさつ」お願いします。    1/8

人間は失敗からしか学べない

作家で理学博士でもある竹内薫さんの、『教職研修12月号』のインタビュー記事からお話しします。

 失敗には「よい失敗」と「悪い失敗」がある。「よい失敗」とは自分のその後の成長につながる。「悪い失敗」とは夢への道を閉ざしてしまうほどの大きなダメージを受けてしまうものである。
 子どもの頃から小さな「よい失敗」をたくさん積み重ねていくことが、非常に重要である。そうしていかないと、どこかで大きな失敗をしたときに、対応できず、潰れてしまう。
 人間は失敗からしか学べない。失敗したら、「あそこがまずかったのかな」と自分で考えるうちに、体で覚える。失敗しないと、何のおかげでそうなったのかが、わからない。
 失敗には常に必然な理由がある。不思議な失敗はない。しかし、成功には必然的な理由がないことが多々ある。理由の分からない、不思議な成功というのがある。だから、成功から学ぶことはできない。これは、必然を捨て、偶然に頼ることを意味する。成功には多かれ少なかれ、偶然が絡んでいるものである。

 学校で子どもたちが活動していく中では、様々なトラブルがあります。けんかや事故、けがをすることもあります。そういう小さな「よい失敗」経験から、子どもは学んでいます。
 親が失敗しないようにと先回りしすぎることで、成長の芽を摘んでしまう。我慢することや、人との付き合いかたを学ぶ機会を、摘み取ってしまう。そうならないようにしたいですが、ストレートな物言いでは、かえって火に油を注ぐこともあります。
 こちらが正しいと確信していても、意図が伝わらなければ誤解を生みます。保護者に伝えるときは、正論を述べ続けるより、気づいてもらうというスタンスでいくことが必要です。

 「失敗」に関する考え方の違いが日本人と外国人にはあるとも、竹内薫さんは書いています。
 日本では完璧を求めすぎて、失敗しないことを求められる。アメリカでは「失敗はある。失敗したときにどう考えるか。」を重視する。起業したベンチャー企業100社がすべて成功するとは最初から考えない。1社が成功してGoogleになれば、元は取れると考えるのだそうです。
 その代わり「自分の成功」を強く目指しているので、個人プレーに陥りやすい。日本は協力し団結できるという強みがあると言っています。
 様々な失敗があったときに、周りの同僚がフォローする、気になったらお互いに指摘できる。そんな風土を職場に創り出しやすいのが、日本人の特性だと言うことでしょう。また、逆に新しいこと、失敗しそうなことをやり始める勇気に乏しいのも、日本人の特性なのかもしれません。
 失敗から学びながら職業人として成長し、同時に失敗を恐れず挑戦する気持ちで新たな仕事をこなし、協力して職場を盛り上げていく、そうなって欲しいと願います。
 2015年お疲れ様でした。来年からもよろしくお願いします。    12/22

コミュニケーションについて

1相手の気持ちを想像し、勝手に悩む
「きっと〜に違いない」「どうせ〜だ」
2相手に気持ちを伝えられず、交流することを拒否する
「伝え方がわからない」「もめるのが嫌、伝えるのが怖い」「粘り強く伝えられない、すぐ諦める」
3相手の気持ちを読めず、強引に自分のペースを貫く
「ぼくはこうしたい」「〜でいいでしょ?!」
4伝え方が足りず、相手の気持ちを踏みにじる
「それ嫌だ(理由を言わない)」

 柴田先生の学級だよりから抜粋しました。人間関係が上手に築けない子どもたちの多くが、どれかに属しもがいているように思います。自分のクラスの子どもが浮かんだ方も少なからずいるでしょう。
 自分自身にもあてはまる所があるかもしれません。大人でも全く同じです。自覚しながらうまく付き合っていけるようになるのが、人としての成長であり、わかっていてもすぐに変われないのも、また人間です。まして子どもたち相手ならば、失敗することで伝え方を練習するのは同然です。そこから学ばねばなりません。先生や保護者、大人の出番です。
 1や2のタイプが増えて、社会と上手に関係を結べない大人になってしまうことは大変な損失です。ひきこもりの数は内閣府の2010年調査によると推定約70万人と言われています。学校時代なら不登校、社会人なら失業などから始まるそうです。
 3や4のタイプでもだんだん嫌われて、気がつくと周りに友だちがいないで孤立していく。それでもこのタイプはきっと先生や保護者などに叱られ、指導をされる機会はあるだろうと思います。けんかやいさかいになってわかるはずです。
 ただし、上手に指導しないと、反省せずに他へ責任転嫁する恐れはあります。「あの先生は自分ばかり怒る。」「あいつが悪いんだ。自分のせいではないんだ。」となると、せっかくの指導も台無しです。
 どちらも自信をつけさせ自己肯定感を高める、寄り添った指導が大切です。しかし、保護者も一緒に成長を助けていく心構えがないと、成果はなかなか上がらないでしょう。先生の一言が重いものになります。前号の「勇気づける」声かけができるか、私たちは次の世代をつくるという、とても重大な仕事をしているという自覚をしながら、過ごす必要がありそうです。     12/9

ほめると勇気づける

今回は教頭先生の投稿です。ぜひ参考にしてください。

 以前、児童指導に関連して数人の先生と話したことがあります。それは、「ほめる」ことと「勇気づける」ことの違いについてです。
 「ほめて伸ばす」という言葉もあるように、「ほめる」ことは「やる気」を引き出す大切な営みです。月末の不祥事防止アンケートなどに、「ほめる」ことをもっと増やしたいという反省を書かれる先生が多いのもうなずけます。
 さて、ここで考えてみたいことがあります。それは、子どもを「ほめる」ことを重ねすぎるとどうなるかということです。例えば、運動会の徒競走で1位をとった子に、「すごいね!」と声を掛けたとします。実は「すごいね!」の言葉の裏には、「1位なんて」というメッセージが含まれています。その子を認めるというより、1位という価値を認めているという感じがしませんか。
 つまり、条件付きの承認です。成果を収めたり成功したりしたときにだけ自分には価値があるように感じてしまうのです。やがて子どもは、「1位をとれなければほめてもらえないんだ。」と考えるようになります。
 一方、「勇気づけ」の言葉がけはどうでしょう。このケースでは、1位をとった子どもの様子を受け止め、例えば「うれしそうだね!」と声をかけます。その子の行為と人格のありのままを認めるのです。そして、大切なことは、言葉と共に感情が伝わるように、心からの言葉がけとしなければなりません。
 また、「ほめる」という行為は、漢字で書くと「褒める」。つまり、「褒美」の意味があります。「褒美」は上下関係の上の者が下の者に対して一定の条件を満たしたときに贈るもの。つまり、上が下を支配する構造が見え隠れしているのです。そうなると子どもは、社会よりも褒美をくれる上の者に関心をよせるようになり、褒美のためにしか動かない人間になってしまいがちです。
 一方、「勇気づけ」は、「よりよくなろう」「よりよくしよう」というところに無条件になされることによって、相手が自らの価値に気づくようにすることです。そこには上下関係はありません。相手のありのままを受け入れ、心から尊敬することによって紡ぎ出される言葉や行為です。
「ほめる」ことよりも「勇気づける」ことを大切にする考え方は、アルフレッド・アドラーというオーストリアの精神科医・心理学者が編み出したものです。「アドラー心理学」の本は、多数出版されています。ぜひ、手に取ってみてください。           12/2

授業評価に思う

児童による授業評価について考えてみました。小学校より中学校で、高校や大学ならなおさら、予備校などでは死活問題。授業を受けている側からの声は、教師にとってとても重いものでしょう。
   比べる必要はないのに比べていませんか。回答する児童はクラスそれぞれ、個々の発達の違いや感じ方の違いがあり、違った集団が違った担任を対象として答える訳ですから、単純に比較しても正確ではない。大きな集団としての傾向をとらえることにこそ、有効性を見いすものでしょう。
 教頭先生の分析にもあるように、概ね好結果だとしても、そうではないと否定的な回答をしている少数がいるなら、そこにアプローチをするのが教師のはずです。また、自分の感じている手応えと食い違いがあるなら、サイレント・マジョリティーをもう少し意識してみたらどうでしょうか。
 たとえば授業をする前に、この発問にはこういう風に反応するだろう。あの子がこんなことを言うのではないか。この子にはわかりにくいのではないか、と展開を想像しているでしょう。 研究授業では特に変容を見取ってほしい子どもを挙げますが、見取りによる評価を考えれば、普段の授業ではどうしても特に良くできる、特に理解が遅い、といった両端、AとCを意識せざるを得ないでしょう。どの子もまんべんなく見取ることは難しいし、思い通り普通の反応をする、いわゆるB評価の子に、丁寧に声を掛けることが無意識のうちにおろそかになってはいないでしょうか。
 サイレント・マジョリティーと言ったのは、そうした普通の子、あまり手のかからない子、でもクラスの多数を担っている子たち、と言う意味で使っています。
 自分なりにこの教科、この単元なりで子どもたちの反応も良かったし、自分のねらいにどおりにうまくいった。そんな手応えを多く感じているのに、こんな程度かなと感じるなら、特別に目立つことがなく、所見欄で記述に苦労する子に、褒める声掛けをしてみてください。提出したものへのコメントでも良いですが、一声が良いと思います。
 もちろん平等に、公平にするという原則を忘れてはいけません。しかし、褒める回数を同じにするなんてことで、平等性を保とうなんて言うのは違います。手のかかる子はかかる。どんな子もちゃんとみているよ、というメッセージが同じように伝わるために、時には意識的な声かけが大切だろうということです。
 最近同窓会で30年ぶりに会った教え子が、私との思い出として語ってくれたのが、昼の弁当の時間に「箸の使い方が上手だねえ。」とたった一度褒められたということでした。
 そうか、他には褒めたこともなかったのかと愕然とし、また、そのことを覚えてなかったことに、自分自身二度がっかりしました。救いはわざわざ神戸から来て、それをうれしそうに話してくれた彼女と会えたことでした。
 授業評価を自分自身で上手に活かして、これからの授業づくり、児童指導に活かすことで、今以上に良い学級を目指してください。   10/19

ムヒカとキーン

世界で一番貧しい大統領、というふれこみで、ウルグアイのムヒカ大統領が取り上げられることがあります。実際には今年3月の任期満了で、大統領の職は退いてはいるのですが・・・
 大統領としての給料のほとんどを寄付し、資産と言えば中古のフォルクスワーゲン1台。大統領専用機は持たず、海外での公務にはエコノミークラスで行くか、他国の政府要人機に乗せてもらうといいます。
 日本では今まで、あまり大きく報道されたことがなかったと思います。私も最近になって知りましたが、2012年に環境問題について国際会議が、リオデジャネイロで開かれた時の演説が凄いものです。要旨は次のようなものです。
 私たちが、この無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。
消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けが現れるからです。
石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをコントロールしなければならないと言っているのです。
 昔の賢人は言っています。
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
 根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。
 発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。
幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

 ムヒカ大統領が小さな頃、家は非常に貧しく、日系人に教わった花の栽培で、なんとか生活していたこともあり、日本人の勤勉さや生活ぶりを高く評価しています。しかし、その彼も現代の日本社会のあり方は、間違っていると警鐘を鳴らしています。

 日本社会や日本文学をこよなく愛し、東日本大震災後にあえて日本国籍を取得したほど日本びいきのドナルド=キーン氏が、日本人が失ってきたもののひとつに、『足るを知るという心』を挙げていましたが、ムヒカ大統領と同じ感覚なんだと、あらためて考えさせられました。
 高度経済成長とバブル期を過ごしてきて、新たな製品により生活が便利になる、働けば収入が増えていく、それが当たり前と思って年齢を重ねてきました。しかし、これからの世代は必ずしもそうではないでしょう。
 今、『生きる力』をつけると言って、グローバリゼーションの世界に通用する日本人を育てることを是として、教育は進んでいます。資源のないわが国は、技術で経済発展をすることしか道がないと考えています。
 確かに石油などのエネルギーも、鉄などの金属もありません。しかし、視点を変えれば、水や木々など豊かにあるのも事実です。そこまで便利にならなくて良いと、どこかで線を引けば暮らしていける気がします。
 たとえば、ネットで買い物をして注文すると、送料無料ですぐに宅配される。しかし、そのために安い賃金で長時間だったり、夜間だったり、働いている人がいる。そんな仕事しか手に入らない人がいる。そうならないようにもっと知恵を身につけ『生きる力』にあふれた人になるように、学んでいるとしたら、幸せなんだろうかと思ってしまいます。
 江戸時代は260年あまり続きました。戦後はたかだか70年です。しかし、社会の変化、技術の進歩は比較にならないくらい早い。単純には比べられませんが、長続きする社会システムをつくる、持続可能社会とも言えるものを、私たちは考えなければならないときなのでしょう。それは、ムヒカ大統領が言うようにきわめて政治的な課題であるかもしれません。
子どもたちが生きていくこれからの社会を、大人が真剣に考えるべき時なのだと思います。   10/14

面倒くさいもの

5年1組の学級だよりから概要を紹介します。

 クラス目標を教室の黒板の上にするか否かの討論、「一番目につく」、「気になって集中できない」と賛否ある中で、「気になる人が一人でもいたらやめた方が良い。」という児童の意見を素晴らしいと取り上げていました。一人でも、という中にみんなのことを考えていて、自分も、子どもたち皆も、自分の発言について、それが誰のためにもなっているか考えよう。
そう呼びかけるものでした。
 私たちは民主主義の名の下に、多数の声を尊重し最後は多数決で、となりがちです。しかし、人権感覚を研ぎ澄ませば、マイノリティーにとっても良いことなのか、物言わぬ多くの人々がいるのではないか、そう考えることが大切でしょう。
 おそらく「集中ができない。」と考えるのは、視覚刺激が多すぎることで落ち着かないという傾向の持ち主がいるわけで、教室環境をどんな人にも合わせようとするユニバーサルデザインの点からも、傾聴に値するものです。子どもたちの中からそういった声が上がることは、好ましいことでしょう。
 どこかに目標は掲示したい。そうなれば決めなければなりません。そのときに、単に多く人が賛成だからでなく、より良い方法を考えて、新たな合意をつくっていく。その道筋をつくるためにも、とても貴重な意見であるということを、先生が見抜いたわけです。素晴らしいセンスだと思います。

 かつて中学生の担任をしていたときのこと、学級委員のおとなしい女の子に叱られたことがあります。仕事分担だったか、班分けだったか、記憶はおぼろげになっていますが、こんなことでした。
 女の子の中に当時のいわゆるツッパリで強面の子がいました。その子一人の意見で話し合いがまとまらず、長引いて放課後時間がどんどん過ぎていました。担任としてはそうなっている原因もわかっているし、時間が遅くなって男子もしびれを切らしているのも気がかりでした。そこで、まとめに入って決めるように促しました。強面の子もしぶしぶ同意をしました。
 その日の放課後に、学級委員の女の子に「もう少しで彼女が折れてくれる所だったのに・・・・」と叱られたのでした。その子はおとなしくまじめな子で、私の目には学級委員として困っているように映っていました。しかし、彼女には確信があったのでしょう。ツッパっているけれど、幼なじみでもあるその子は、最後には承知する。先生私たちに任せてくれたらいいのに・・
 民主主義は時間がかかります。面倒くさいです。合意形成といっても、そんなことお構いなしの人だっています。でも人が大勢で生きていく社会で、このやり方にかわるものは、まだないようです。   9/17

目標と目的

11日付けの6年2組通信から、

 私たちが行っている活動には全て目標があります。毎時間の授業にも朝の会にもそうじ当番にも、そしてこれから出場する体育大会にも目標があります。子どもたちもそれぞれの目標を持って体育大会へ向かっていきます。「100m走で1位を取る。」という目標の子もいるでしょうし、「小田原小唄を成功させよう。」という子もいるかもしれません。その目標を達成しようと一生懸命努力します。しかし、この努力が必ず報われるとは限りません。むしろ報われないことの方が多いのが人生かもしれません。では、この目標が達成されなかったならその努力や営みは価値がなかったということでしょうか・・・
 例えば山登りを考えてみますと、山登りの目標は頂上に立つことです。頂上を目指してがんばるわけです。しかし、頂上を目前に天候が急変したり、仲間の体調が悪くなったりなどで、登頂を目前にして引き返さなければならない場合もあります。そうなった場合、この山登りの価値は「無」であったということでしょうか。
 そんなことはありません。逆に目標を達成しようと、天気の良い日にヘリコプターで山頂に向かい縄梯子で降り立ったとします。目標は達成されましたが山登りの価値はどうでしょう・・・
 目標が達成されなくても、素晴らしい価値のあることはたくさんあると思います。それは目標を達成しようと必死に努力する過程で感覚、協力、達成感等々人間として生きる力をたくさん身につけていくからです。この人間として生きる力を身につけることこそ、最終的な目的ではないでしょうか。
 例え目標は達成されないことがあっても目的だけは達成したいと思うのです。
 体育大会の練習が始まりました。

 担任の体育大会へ向かう子どもたちへの素敵なメッセージ、多くの先生に知っていただきたく、勝手に載せました。ごめんなさい。体育が好きだ、得意だという子ばかりではありません。気持ちを向かわせる意味で大切な手立てだと思います。練習を手伝うすべての先生方が共有したいですね。
「報われない努力」のことば、かつて中学校の卒業式のことばを作成したとき、使ったことがあります。「福本清三」を取り上げたときでした。そのことは、またそのうちに・・・  9/11

トイレのサンダル

9日の中休みにトイレから出てきた4年生の女子二人組に、「そろっていた?」と尋ねると、「う〜ん、だめだったかな・・」と見に戻って揃えてくれました。うれしかったですね。
 1日の朝会でサンダルの話をしました。以来時々児童のトイレをみています。そろっていたり、ばらばらだったり、目を見張る変化は感じられません。日直で回ったときにはどんな様子でしょうね?「施錠していない」などそういう報告は大切です。そのために見回っていただいているわけです。でも、時には「今日はトイレのサンダルがそろっていました。」などと有り難い報告があると、うれしいですね。
 それでも女子トイレのサンダルは、そろっていることが多いです。もしかしたら、先生のどなたか乱れたサンダルを直してくれているのかもしれません。私も気がつけば直しています。
 はじめはそれで良いのだと思います。サンダルを揃える行為にすごくこだわっているわけではなく、おもてなしの心、という形のとらえにくいものを分かりやすくしているのです。
 そして、実際にやって見せないと教育にはなりませんよね。やれと言ってやらせるばかりでは子どももついてきません。昔少しばかり荒れた中学校で、一緒に仕事をした先輩に体育の女性の先生がいました。体育の時間運動をするときは、半袖の体操着と決まっていました。たいていの先生は男性でも寒いので当然温かいジャージやウィンドブレイカーを着ていました。言うことを聞かない生徒が多くても、体育の先生というのは中学校では力尽く(今では体罰教師になるかもしれません)が効くので、「先生は良いよなー」と言いつつも不満たらたらです。
 ところが、彼女はいつも授業には一番に運動場など活動場所に出て、半袖の運動着で生徒を待っていました。どんなに寒い日でも妥協をせず、自分にも厳しかったので、男子生徒でもだれ一人として不満を言いませんでした。
 運動会の組体操で子どもと同じように、練習から裸足で参加してくださった先生方も、同じような心でそうしたのだと思います。教師の後ろ姿が手本となっているわけです。 サンダルだけでなく、そうじもなかよし班になって、一生懸命6年生が下級生に指示しているのを見かけます。一声かけて、「おもてなしの心」見守っているよというスタンスを示していただけたらうれしいです。  9/10

主権者教育

選挙年齢が18歳に引き下げられたことを契機に、政治学習について必要性が言われ始めています。政治についての学習は中学・高校が主で、小学生には縁遠いものと感じられると思います。6年生の社会科で出てくる以外では、総合的な学習の時間で取りあげなければ、まず関係がないというのが本音でしょうか。
 直接政治の仕組みや方法を知識として学ぶのでなくとも、実はさまざまな場面で、政治について考える機会はあります。むしろ現代社会が抱える諸問題を考えるとき、政治的な話題を避けることの方が、実は不誠実なのではないでしょうか。
 環境問題を考えるとき、原子力発電のことに目が向いたり、戦争のことを扱った物語に接するとき、世界の紛争や、日本の安保について口にしたりする子がいても不思議はありません。
 政治教育は戦後タブー視されてきました。政治的中立性が教員に求められ、あえて火中の栗を拾おうとしない風潮もあったと感じます。
 しかし、少なくとも政府や教育委員会が嫌うような極端な例を除けば、たとえば自衛隊が違憲か合憲かなどという問題でも、片方の主張だけを取り上げるのでなく、両方の考え方を紹介しながら、考えさせる授業などが、なんら圧力を感じずに普通に行われていたと思います。
 ひるがえって、今はどうでしょうか。確かに思考力や判断力を求められているので、双方の課題について調べ、考え、討論する授業は必須です。主権者としての資質を育む、『主権者教育』という言われ方をしたり、ずばり『政治教育』として取組んだりすることがむしろ先駆けのようになっています。しかし、あえて政治的な課題に正面から向かうことに、ためらいや躊躇を感じたり、政治的中立性から「先生はどう考えるの?」と言われたりすると困るし、誰かに何か言われたりするかもしれないと、無形の圧力を以前より感じる気がするのは、私だけでしょうか。
 政治について教育されなければ、選挙権や被選挙権があっても、どう考えて選ぶのか、どうやって信頼できる情報を集めるのか、選挙して全てを代表に委任してしまうのでは、主権者としてより良い社会を作り出すことはできません。意見の対立に多数決という方法ばかりでなく、話し合って合意形成をしていくプロセスを、小学生のうちから経験すること、難しいと思われる課題でも、現代社会が抱えているものには向き合う経験をしておくこと、そういう教育を進めていくことが、私たちの使命だと思います。
『主権者教育』などとあえていわなくとも、堂々と気兼ねなく政治について語れる社会が健全だと思いますが、どうも嫌な感じがしてしまう昨今です。

 夏休みに、ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんの自伝ともいうべき本を読みました。タリバンに銃で撃たれたことや、女の人にも教育の機会を与えることを主張していることくらいしか知りませんでしたが、彼女の生き方は父親からの教育と、父親のしてきたことが、大きく影響していることを知りました。
 イスラム社会でもタリバンやISなど極端なイスラム原理主義が力を持っている社会では、女子教育は否定されています。その中でその考えを真っ向から否定することは、ものすごく危険なことであり、勇気と覚悟が要ります。そして、彼女は撃たれました。
 本の中に、教師である父親がいつもポケットに持っていた詩集の一節が、紹介されていました。
 
 まず共産党員が狙われた。 私は黙っていた。私は共産党員ではないから。
 次に社会主義者が狙われた。 私は黙っていた。私は社会主義者ではないから。
 次に労働組合員が狙われた。 私は黙っていた。私は労働組合員ではないから。
 次にユダヤ人が狙われた。 私は黙っていた。私はユダヤ人ではないから。
 次にカトリック教徒が狙われた。 私は黙っていた。私はカトリック教徒ではないから。
 次に私が狙われた。 私のために声を上げてくれる人は、ひとりも残っていなかった。

 ナチス政権下のドイツに暮らしていたプロテスタント教会の神父、マルティン・ニーメラーの詩の一節だそうです。
 マララ基金というのがあって、世界中からの寄付で最近レバノンに学校をつくって、シリアからの難民の女の子が学校に通えるようになったと新聞に書いてありました。しかし、シリアの女の子は、マララさんのことについて、はじめて知ったと書いてありました。生きることに必死で、そういう情報は入っていないのでしょうね。日本はそれに比べると、本当に恵まれていますね。子どもたちにもぜひ知ってほしいことです。社会に目を向ける、そんな子どもたちになってほしいものです。   9/4

環境を整える

終礼でもお話ししましたが、「環境は人がつくる。環境が人をつくる。」ということが記事になったのは、先週だったと思います。相模原高校野球部監督の、佐相真澄さんの話として紹介されていました。
 佐相監督は神奈川県の中学校野球の顧問としても有名で、赴任した中学全てが全国大会に出場し、全国制覇もしている人です。技術指導のビデオも出されています。私も野球部の顧問だったので、かねてから名前は知っていました。
 佐相監督が県立川崎北高校の教師となり、高校野球で甲子園をめざすことになったと、数年前に記事で目にしてから、気にはなっていました。神奈川から甲子園に出るのは並大抵のことではありません。まして、県立が出たのははるか昔の話で、横浜や東海大相模、桐蔭学園など、強豪私立がひしめく中では、ほとんど夢物語です。
 異動して2校目が県立相模原高校という、地域では有名な進学校ですが、着実に力をつけ、県内でもベスト8やベスト4に残る実績を残すようになりました。夏は難しくても、春の選抜で21世紀枠に選ばれるかもしれないと、期待をされ始めています。
 その佐相監督が相模原でもまずしていることは、野球の練習ができる環境をつくることです。県立高校のグランドはたいていサッカーや陸上など他の部と共用です。グランドが広々と使えないときには、どうやって練習するか、知恵を絞ってネットを張ったり、器具をそろえたりします。
 中学校でも当たり前にしていることです。私立強豪校なら専属グランドがあり、トレーニング施設があっても珍しくありません。環境が整ったところで練習できれば幸せです。 野球とは違いますが、授業をするための環境を整える、みなさんも当たり前にやっていると思います。いろいろ工夫をしながら、教材を準備したり、教具をそろえたりしているでしょう。特別な道具以上に大切なことがあります。
 それは、環境を「整える」と言うことです。道具を使いやすいようにそろえる。あるべき所にいつもきちんとしまう。いつでも使えるように手入れをしておく。だれもが心配りをしながら使う。自分以外の人が使うことも考えに入れて整えておく。部員が皆そういう意識を持てないといけません。
 教室でもランドセルや道具箱からはじまって、掃除用具、文房具、掲示物に視聴覚機材と、沢山のものがあります。整っていますか。不要になったものを片付けることから始めましょう。  7/17

そうじ指導考

中学校で担任をしていた頃、そうじをさせるためにいろいろな手を使っていました。「させる」という表現自体「生徒はそうじはしない」という否定から出発していて、今でこそ、それはどうかな、と思います。
 しかし、実感としてそうじは授業を教えたり、生徒の活動を支援したり、部活動の指導をしたり、といった教師の仕事の中で、負担感の大きなものでした。どうしても許せなかったのが、そうじする生徒としない生徒の不公平さです。
 当時の中学生は(今もそうかもしれませんが)校内での力関係もあって、そうじをしないで平気なグループがあることが珍しくありませんでした。それを黙認していると便乗する輩も出るので、サボる生徒を追いかけ回し、分担を決め責任もって仕事をさせていました。しかし監督場所が多く、苦労の連続でした。
 何とか生徒がまじめにやる方法はないものかと考え、清掃コンクールをやりました。生徒同士清掃の観点を決めて採点し、得点を競うものです。生徒会が中心となってのイベントのようで、きっかけ作りとしてそれなりの効果があったのですが、「そもそも清掃は奉仕の精神を養うものだ。」とする先生の一言もあり、終わってしまいました。
 次に考え出したのが資本主義方式です。当時はそうじ場所を班別にして1週間交代でローテーションしていました。そのローテーションを止め、また、あえて1班だけそうじをしない班を作りました。そうじしない班は他の班を観察採点します。1週間後に得点の最も多かった班が採点に回り、2位以下が次週のそうじ場所を選び、採点していた班が最後に残った場所をそうじすることにしました。
 採点の観点や基準も生徒と決めて、そうじをやればやっただけ高得点になるように工夫しました。やれば報われるので、ほとんどの生徒はしっかりそうじをして、そうじに対する全体の取り組みは進歩しました。
 1年間やり続けるといつも高得点で採点班になることが多い生徒から、得点にこだわらずにそうじしても良いという雰囲気になってきます。相変わらずあまり積極的にそうじしない生徒がいても、まぁいいかとなってきます。そうなるとこの方式は卒業となるわけです。
 今思い出してみると不公平を許せないと思い、正義感を振りかざして「したくないそうじをさせる」教師でした。しかし、そうやってもおそらく「公共」とか「奉仕」という『心』は育ってはいなかったと思います。
 人のためにすることを厭わない。そうじに対する心の持ち方も人それぞれ、そうじをあまりしてくれない人も、他で貢献してくれることもあるかもしれない。いや、そもそも自分だけ掃除をまじめにやることを損だと思うことが違っているのだろう。今はそういう心境でいます。
 小学生ではそういう心を少しずつ育むことが大切だと思います。それには、そうじをした結果がみえて、達成感があることが一番です。先生に褒められることもそうでしょうが、きれいになったと実感できることが重要です。
 道具が用意され自分のやるべき仕事がはっきりわかること。どうやったらきれいにできるか、道具の使い方やコツを体得させること。まずここからスタートです。
 しかし、なかなかきれいになったことが実感できない場所だったり、いくらやっても老朽化でどうしようもなかったり、現実は厳しい。さて、どう工夫しようか、心を育てることと、実際にきれいにすることと、どうやって折り合いをつけるのか、そうじ指導における教師の永遠のテーマだと感じます。  6/26

最近涙もろくて

西湘特研で毎日新聞論説委員の野澤和弘さんの話を聞きました。ご自身も自閉症児(28歳とのことです)の父親として、様々な苦労をされてきたので、「学齢期の障がいを持つ子の親、家庭の葛藤は並大抵ではない。うさんくさいと知りながら超能力で障がいが直ると言われて、寝る前にカセットテープに入れた音楽と、超能力だといううなり声を聞かせ続けた。」などと、今だから笑って話せる逸話の数々を披露されました。
 暗い井戸の底にいるような日々に「自閉症は治りません。でも、明るく暮らすことはできます。」とある施設の所長が言われて、その施設に行くようになって、同じ悩みを抱える父親同士、初めて境遇を語り合えて、吹っ切れるようになったと話されました。
 日本は障がい者、老人などは家族が支えるというスタンスが強い国です。しかし、今、家族は単位が小さくなり単身世帯ばかり増えています。家族が支えていくことは無理があります。社会の仕組みをそうしないといけないと、記者としての仕事をしているそうです。
 その中で、障害のある人が犯罪に巻き込まれ、被害者になるときも、加害者と疑われることもあります。しかし、警察官は障がいについての理解が乏しく、彼らの人権が守られない事件が多いと知った野澤さんは、パンフレットを作って、障がい理解の研修をするように、警察庁幹部に何度も申し入れを行ったそうです。
 ところが、何度行っても承知してくれません。これが最後と何度目かの申し入れをしたところ、ついに一人の年配の警察幹部がやることを認めてくれたそうです。
 後日、その苦労をねぎらおうと、新橋の小さな飲み屋に、幹部の方をお呼びして、ささやかな宴を設けたそうです。そこで、幹部の方からこんな話を聞くことになります。
 「私は三重県の出身で、実は兄と姉が脳性マヒだった。そのことで子どもの頃にからかわれ、辛い思いをした。両親が懸命に世話をする姿から、目をそらし続けていた。 兄姉は40代で亡くなったが、そのとき火葬場から何人分かの上がる煙を見ていたら、どれも同じ形なんだ。天に行くときは同じなんだと思った。障がいを持った兄姉を避けてきたことが自分の中にあって、今度の研修の話を聞いたときに、これをやることが自分の使命だと感じた。だから、諦めずに何度も足を運んでくれて、私に決断させてくれてありがとう。」と言われ、私と彼と大の男二人が号泣したと話され、ついもらい泣きしました。
 それ以降、全国の警察に2万部以上のパンフレットが配られ、警察学校で毎年研修がされているそうです。
 家族が子どもや年寄りや病人などを支えていくのは、これまでの我が国の文化や風土から行って当然です。しかし、大家族から核家族、今では単身の世帯である孤族が増えています。
 子育てや介護などは家族だけではとても完結しません。公的な保険や年金の仕組みでは十分とは言えず、経済的な格差が、支えている家族全体にのしかかっているのが現状ではないでしょうか。教育格差も世代を超えて引き継がれてしまう傾向が強くなっていると思います。
 一人のできることは小さいけれど、自分の置かれた立場や職業などに関わることで、志を持ってやれることに挑んでいくことは、不可能なことではありません。
 教師という自分のできること、そのフィールドで精一杯子どもに向き合って、その成長を支える努力をしていくことが、今の私たちの立ち位置だと思います。  5/28

児童理解会議雑感

二日間にわたっての児童理解会議お疲れ様でした。顔写真を見ながらとはいえ、なかなか覚えきれません。それでいて対応に配慮をする必要もある。どうするか?
 経験則のある先生方は、良く知らない児童にはきっとこんな応じ方が、無難ではないかと思われているのではないでしょうか。
 1 声のかけ方は柔らかく「どうしたの?」と問いかける。
 2 問い詰めたり叱ったりしない。
 3 事情を聞いたり、学年や組、名前などもそれとなく聞き出せればする。
 4 担任など関係の先生に知らせる。
 もちろん自分や他の児童に対して身体的に危険を伴うことや、いじめにつながると感じる場合には、止めさせなければなりません。その上で可能ならいけない理由を説明する必要があります。
 顔と名前が一致して、配慮事項もわかってくれば、もっと良い関わりが期待されます。それが児童理解会議の児童一人ひとりの情報を交換する意義です。今更わかりきったことと思われるのを承知で、書いてみました。  5/19

あいさつ・おもてなし

教師生活のうち小学校で過ごすのは9年目になります。中学校が23年、教育委員会が4年です。しかも、9年で3校です。中学校は4校ですから1校が短い。
 4月1日にも話したように校長の在任期間は短く、校長が替わるたび学校の根幹が変更されることは、好ましいことではありません。大事なことは受け継ぎ、育てることで、伝統になれば良いと思っています。しかし、実際は先生方皆さんの力が、子どもたちをどう変えるかにかかっています。
 「あったかあいさつ」
 「おもてなし」
 これが三の丸のイメージとなって欲しいと思います。
 今日は登校指導とあいさつ運動、早朝からありがとうございました。あいさつはどうだったでしょうか。地域の方が出てあいさつを続けられていますから、多くの子があいさつをしていました。声が小さいですが、しっかりできる子にエールを送りながら、姿を小さな子に見せていきましょう。
 あいさつをしても良い大人を知ってもらうことが、地域でもあいさつできる子となる一歩だと思います。  5/1