学校での子どもたちの様子をお伝えします。

正月の伝統文化

正月の伝統文化

 そろそろ正月気分も抜けた頃かと思います。
 いまだに、おせちの残りをいただいてますが、先日、我が家でも七草がゆを炊きました。本来は7日の朝に食するのだそうですが、夕食にいただきました。セリ(芹)、ナズナ(薺)、ゴギョウ(御形)、ハコベラ(繁縷)、ホトケノザ(仏の座)、スズナ(菘)、スズシロ(蘿蔔)、すぐに我が家でまかなえるのはセリ、スズナ、スズシロだけです。セットになっているものを近所の八百屋さんで調達しました。「七草」をまな板の上に載せ、母は歌を歌いながら包丁の背で叩いて細かくしてました。
 ♪七草なずな 唐土の鳥が 日本の国に 渡らぬ先に ストトントン♪
皆さん、聞いたことがありますか?

 七草がゆの由来は、1月7日は、五節句の一つ「人日(じんじつ)の節句」で、「人日の節句」の「人日」は「人の日」で、元日からそれぞれの日に獣畜などを当てはめて占う風習が中国にあり、七日目が「人」で、その日を人を大切にする節句にしたとも言われ、それにまつわる中国の風習が日本に伝わったとも言われているようです。
 また、6世紀の半ばに、中国、梁の宗懍(そうりん)が著した年中行事記の「荊楚歳時記(けいそさいじき)」には、
 「正月七日を人日と為す。七種の菜を以て、羹(あつもの)を為(つく)る」
とあり、これが日本の七草がゆの起源ともされます。
 疲れた胃腸をいたわるには、丁度良いのでしょう。

 江戸時代後期に塙保己一が編纂した「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」に、鎌倉時代初期頃に成立したとされる「年中行事秘抄(ねんじゅうぎょうじひしょう)」に、
 七種菜。薺。蘩蔞。芹。菁。御形。須々代。佛座。
  金谷云。正月七日。以七種菜作羮食之。令人無万病。
とあり、鎌倉時代には七草の風習があったことがうかがえます。

 今度の日曜日、11日は鏡開きです。正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事です。神仏に感謝し、またその供えられたものを頂いて無病息災などを祈って、汁粉・雑煮などにして食べてきました。

 かつて1月15日は成人の日でした。この日、左義長と呼ばれる賽の神を祭る行事も行われます。僕の住む街では「どんど焼き」を町内ごとに行っていました。道祖神祭りとも呼ばれ山車を牽き、松飾りや竹を集めて火をつけ、習字を燃やし高く舞い上がると字がうまくなると云われてました。この火で団子を焼いて食べると風邪をひかないとも云われ、最後にはアカメの木に紅白の団子をさし、残り火で焼いて食べたものです。アカメの木も最近は見たことがありません。今では山車は出ますが、町内ごとに行われていた「どんど焼き」は海岸一カ所で行われています。

 左義長もこの週末に行われるのでしょうか。良き伝統・文化は継承していきたいものです。

1月8日 朝会での校長の話

1月8日 朝会での校長の話

冬休み明けで、子どもたちが足柄小へ戻ってきました。
懸念されていたインフルエンザで休む子も少なく、一安心しました。
久しぶりに見る子どもたちの顔には、新たな年を迎えた喜びと希望とが満ちあふれていました。

表彰を行った後、私からは次のような話をしました。

新しい年が始まりました。2015年、平成27年です。
皆さんは年末年始、家族と楽しく過ごしたことと思います。
しかし、今の日本や世界にはたくさんの課題があります。

30年後の自分を想像することは難しいですが、
2045年にはリニア新幹線が東京−大阪間を1時間で結びます。
その計画が動き出しています。
特に、これからの日本を担い、リーダーとなるのはあなたたちです。
一人ひとりの思いの強さが、日本や世界を変えていくのです。

そこで、年の初めに、足柄小の皆さんには二つのことを求めたいと思います。

一つ目は、様々なことに興味を持ち、視野を広げ、深く考えてほしい。
つまり、思い切り勉強しよう。ということです。

二つ目は、思い切り勉強できるように、強くなれ、身体も心も鍛えよう。
つまり、自分で決めたことをやり遂げられる人になろう。ということです。

そのためには、小さなことから始めて、
一つずつ決めたことをやり遂げていくことです。
絶対にやり抜くぞ、と強く決心することが大切です。

早く起きる、家族におはようと挨拶する、など、
小さなことからでいいので、強く決心して、やり通してください。
決めたことを一つずつやり遂げていくと、
いろんなことに挑戦できる強さが身につきます。

高学年は、大いに学び、日本や世界の未来を作る礎になってほしい。
中学年、低学年は、
自分を磨くぞと決心して、もう少し自分を鍛えてほしいと思います。

4月からは、6年生は中学生になる。5年生は小学校での最上級生にというように、各学年が1つずつ上の学年に進級します。
1月から3月までの3ヶ月間は、4月からの新しい学校生活へむけての助走期間です。良い助走をしないと力強いジャンプをすることは難しいです。

力強いジャンプをするためにも、思い切り勉強すること、やり遂げることができる人になること、
この二つのことを忘れずに、自分の成長に挑戦してください。

今日から明日へ 〜変化への対応〜

今日から明日へ 〜変化への対応〜

 毎年のことですが、今年の正月も朝からテレビをつけっ放しで箱根駅伝を見てました。かつては箱根で観戦していたのですが、最近はもっぱらテレビばかりです。

 新春の東京−箱根間、全長217.1キロを10区間にわけ、21チーム、それぞれ10人の選手が駆け抜ける。その魅力は、仲間とひとつの目標に向かって練習に励む姿や、駅伝ならではの駆け引き、起伏に富んだコース、そして何よりも襷を繋ぐことにあります。力走を見せた選手が襷を渡した瞬間、崩れ倒れる姿に、颯爽と走っていたが、本当は苦しかったんだ。と、気楽なテレビ観戦者ははじめて気づくのです。

 よく人生はマラソンにたとえられますが、ある人は、人生は一人で走る駅伝ではないかといってます。好むと好まざるにかかわらず、今日を走って明日の自分に襷を渡している。今日の自分がやってきたことを明日の自分が引き継いで、その日その時を走る。明日は明日でその襷を受け取って走る。昨日までの実績を引きずって今日を走る、その積み重ねが人生ではないかというのです。その「明日」を「あって当然の明日」にするのか、「とっても大切な明日」にするのか・・・、辛い山坂が立ちはだかり、一人の力ではゴールにたどり着けないことと人生とが二重写しになってテレビ画面にちらつきます。自分にゴールの意識がなければ終着点にはたどり着くことはできません。

 さて、今年はどんな年にしよう?
 ひとつは「力」でしょう! 「力」をつけよう。「力」を持とう。
 それはねじ伏せる力ではなく、前進させ、変化させる力です。「勢い」だけでは物事は進みません。その「勢い」に加えなければならないのが「力」です。持つべきは「力」です。皆がもっている「力」をまとめ、より大きな「力」にし、それを原動力にする。「力」が必要なんです。実行力、検証力、反省力、計画力、継続力、工夫力等々、挙げてみればきりがないほど「力」は大切です。進むための「力」は成長すること、自分の進むべき道を見つけることに繋がると思います。

 ダーウィンは、進化論の中で「強いものが生き残るのではない。賢いものが生き残るのではない。変化に対応できたものが生き残るのだ」と述べています。向かい風など、いかなる困難に直面しても目標を見失わずに「とっても大切な明日」を迎えるために、「力」をつけ、「一歩前へ」そして「変化への対応」を意識し、今年という年を駆け出したいものです。「目標設定と努力、習慣化」ができる足柄小をめざして進んでいきます。

冬休みを前に〜朝会での校長の話

明日から、子どもたちにとって待ちに待った冬休みです。
今年も日一日ごとに少なくなります。もうすぐお正月です。

その前に「明日」が来ます。その「明日」を「あって当然の明日」にするのか、「とっても大切な明日」にするのか、そこが大事なところです。
今日から続く明日を「とっても大事な明日」にしたいと思っています。そんな気持ちを持って今年を振り返り、新年を迎えたいです。

本日の朝会では、子どもたちに次のような話をしました。

12月は一年を終わる月。
しめくくりをつけて片付ける月。閉じる月。
ほっとする気もあり、苦い反省もある。
だが、くよくよはしまい、今年の終わりは新年へ続く。

これは、作家の幸田文さんの言葉です。
皆さんにとって、この一年はどうだったでしょうか。

この一年、様々な出来事がありました。
御嶽山の噴火や豪雨・地震など、今年も自然災害も多く発生しました。
東日本大震災以来、「絆」という言葉を聞く機会が増えました。
大規模な災害で、家族や仲間との絆の大切さを
あらためて感じた国民が多かったのだと思います。

「絆」という一字に込められた思いのなかに、
人間は一人では生きられない、
そして、人の暮らしにおいて信じるということがいかに大事かを
教えてもらった気がします。

学校の中での学級という集団は、
非常に運命的に皆さんと先生が出会い、
皆さん同士も運命的に出会ってできあがった学校の最小単位です。
その中では、人が人としてどうあったらいいか。
人間としての生き方を学ぶ場所になっています。
「絆」なくして学級は成り立ちません。
2014年の終わりに、各学級の「絆」がどうであったか、
振り返ってほしいと思います。

特に6年生は、あと3ヶ月で別れが待っています。
「深まってきた学年や学級の絆」を大事にしながら、
自分の成長に挑戦し、人間としてお互いに成長し合う、
小学校生活の最後の日々を過ごしてほしいと願っています。

また、年末年始は家族と過ごす時間が多くなると思います。
家族の一員として自分のできること、
しなければならないことを積極的に行ってください。

それでは皆さん、家族みんなでよい年をお迎えください。

年末年始の過ごし方

年末年始の過ごし方

 先日、久しぶりに家族と買い物に出かけました。美しいイルミネーションが、師走の人々を夢見心地にさせ、街はクリスマスセールから新年の「福袋」まで、一気に盛り上がります。1年が過ぎる早さに驚くと共に、自分が子どもだった頃と年末年始の雰囲気が全く違ってきていることを実感してます。

 僕が子どもだった頃、大掃除は一家総出で行いました。12月に入ると天気のよい日に、祖父母が障子紙の張り替えを行いました。この時とばかりに障子に穴を開け、濡れタオルで桟についた残った古い障子紙を剥がすのが子どもの役割でした。子どもの役割はここまでで、刷毛で糊を塗りたくてしかがなかったことを覚えてます。畳を干したりもしてました。水道水が冷たいのでバケツに汲んだ水に指先でつまんだ雑巾を浸しただけで、雑巾洗いを済ませました。それが母親に見つかり叱られたものでした。

 暮れも押し迫ってくると、餅をつき、つきたての餅に取り粉をまぶし、のし餅や鏡餅を丸めました。もちろん、子どもの楽しみはその後に出されるきなこ餅やあんこ餅でした。また、近くには稲作農家はなかったのですが、どこから仕入れたのか稲わらで松飾りをつくりました。玄関や神棚、台所、トイレに飾りました。「一夜飾りはお正月の神様に失礼」、二十九日の飾りは「二重苦で縁起が悪い」ので、飾るのは三十日と決まっていると、祖母は毎年同じ話をしていました。
 年末の思い出には、身近な大人との関わりがいつもより多く、大人たちの華やいだ気ぜわしさを肌で感じ、お正月を迎える喜びを覚えていったのだと思います。

 「年末年始の過ごし方」は子どもの原体験ともなるものです。暮れには大掃除をし、年賀状を書く。年が明けたら新しい服や下着をおろす。お雑煮を食べる。書初めをする。お年玉を自分の通帳に自分で貯金しにいく・・・。
 風習や行事は、この国に生まれ育つ者としてのアイデンティティーの形成に大きな役割を果たします。子どもたちは年末年始の風景から我が国の文化への親しみを感じるようになり、人間形成の基礎を自然のうちに獲得し、日本人としての基盤を養っていくのです。

 しかし、時代の移ろいと共に年末年始の過ごし方もかわってきています。凧や独楽を回す子どもたちの声は遙か遠い昔のものとなりました。大人になった僕は街に流れるジングルベルやイルミネーションで季節を感じ、大掃除はしますが、我が家からは障子が消え、畳を上げることなどありません。近所のお店も元日から営業するので、餅や松飾りも含め、お正月用品はスーパーで少しだけ買い、食材はネットでも購入したりして済ませます。初荷の幟をつけたトラックも目にすることもありません。伝統文化、風習の継承を自分自身も手放してしまっている平成26年の暮れ、自責の念に駆られています。

 身勝手な言い方ですが、時代は変わっても、変わって欲しくないもの、なくしてはいけないものはいっぱいあります。特に子ども時代の原体験は大切にしたいものです。

 皆さんは、どのように年末年始を過ごすのでしょうか。

ノスタルジーのすすめ〜 チッチとサリー

ノスタルジーのすすめ〜 チッチとサリー

2014年も残すところ2週間余りとなりました。
今年も様々な出来事がありました。
今年の世相を表す漢字は「税」でした。
消費税の値上げは延期されましたが、10%になっても財政赤字が解消されるわけではありません。
1995年から始まった今年の漢字も、ここ数年は「絆・金・輪」と世相を如実に反映しているように思います。

年末が近づくにつれ、今年の10大ニュースも話題になります。
事故や災害が多く起こった一年でもありました。
楽しい出来事もあったのだと思いますが、振り返ってみるとマイナス面の出来事ばかりが思い起こされます。

今年は、52年間続いてきたみつはしちかこさんの漫画「小さな恋の物語」が最終巻を迎えました。
学生時代以来、約40年間手にすることはなかったのですが、書店で平積みになっていた “チッチとサリー” に、懐かしくなって手を伸ばしたのでした。
その43巻が、何と最終巻だったのです。

半世紀以上の間、いろいろな世代の方に読み継がれてきたのだと思います。
僕が読んだのは昭和40年代の後半ですから、それから40年余りの時の流れの中でもその画風はかわらず、キラキラした輝きや切なさ、懐かしい背景は、忘れかけていた世界に僕を引き込むには十分でした。

古い書物や写真などを見て、年の瀬にノスタルジックな気分に浸ってみるのも良いですね。

赤穂浪士討ち入り〜その2

歴史のアイデンティティー

赤穂浪士討ち入りは旧暦の元禄15年12月14日ですが、西暦になおすと1703年1月30日だそうです。内蔵助は熊本藩細川家江戸下屋敷(現、都営アパート)で、息子主税(ちから)は伊予松山藩松平家三田中屋敷(現、イタリア大使館)で切腹し、高輪の泉岳寺に埋葬されています。

学生時代、泉岳寺が近かったので時々行ってました。近くにある高輪消防署もなかなか趣のある建物です。東京・品川方面に行った折りに是非、寄ってみてください。

忠臣蔵といえば赤穂が舞台ということで、赤穂市内にはいたる所に忠臣蔵関係の史跡があります。赤穂城は既にないのですが門は残っているので、ドラマのロケなどはそこで行われるそうです。更に、大石内蔵助の屋敷跡が今は大石神社になっており、庭は往時のままだそうです。

しかし考え頂きたいんです。
赤穂浅野家は18世紀の初めに改易されてしまった訳ですから、浅野時代の遺物が現代までさほど残っていようはずがないわけですね。加賀の前田家や熊本の細川家、薩摩の島津家のように近代まで続いた大名家ではないのですから。

浅野家の後に赤穂に入ったのは永井家ですが、そのすぐ後に森家が移ってます。織田信長の重臣であった森可成(よしなり)長可(ながよし)、そして森蘭丸の一族といえばわかりますね。その後の歴史を考えると、赤穂藩を治めていた期間は森家の方が遥かに長いわけです。しかし現在の赤穂市には、可哀想なぐらい森家の存在感はありません。

その土地の人が郷土の誇りと感じている事跡というのは、歴史の長さとは関係がないということのようです。短くとも一瞬の光芒を放つことが重要なのであり、人はそれをアイデンティティとしないと生きていけないのかもしれません。

鹿児島に行くと分かるのですが、島津家の史跡よりも西郷や大久保、その他、明治の元勲ゆかりのものがいかに多いことか。
きっと鹿児島県民にとっては、鎌倉時代以来その地を治めてきた島津家より、維新の時に活躍したヒーロー達により愛着があるのでしょうね。
磯庭園と呼ばれる島津家ゆかりの仙巌園も人々には愛されていますが・・・

そのことを否定するつもりは毛頭ないのですが、そればかりに依拠していては重大な「事実」を見過ごしてしまいかねません。注意! 注意!


おまけ

播州の地は歴史的に見て、なかなか興味をそそられる場所の一つです。赤穂浪士のほかにも、様々な歴史事象があります。

今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」もいよいよ最終回ですが、官兵衛は播州姫路で生まれ、やがて小寺氏の近習となり才覚を発揮していきます。

歴史を少しさかのぼると、播磨の地は室町幕府六代将軍足利義教を殺害した守護大名赤松満祐の所領でした。将軍殺害後、赤松満祐は幕府軍に討伐(1441年、嘉吉の乱)されますが、将軍の権威は低下し、やがて応仁の乱へと歴史は動いていきます。

戦国時代になると織田氏と赤松氏の流れをくむ別所氏との合戦(三木合戦、みきかっせん:天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日))がおこります。織田軍の羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城します。秀吉の軍師であった官兵衛は、三木の干殺し(みきのひごろし、ほしごろし)と呼ばれる兵糧攻めを実行します。

関ヶ原の戦いがもう少し長引き、徳川家康と島津義久が和睦しなければ、官兵衛は九州を平定し次の一手を打っていたかもしれません。
「れば・たら」は酒のつまみ・・・十分承知してはおりますが・・・
最終回ではその辺りを扱うのでしょう。楽しみです。

歴史って、本当に面白いですね。

赤穂浪士討ち入り〜その1

赤穂浪士討ち入り

暮れが近づくと、赤穂浪士を題材にしたドラマや歴史番組が放映されます。そこで今日のお話しは赤穂浪士についてです。

時は元禄15年12月14日(旧暦)ですが、西暦になおすと1703年1月30日だそうです。討ち入り事件の発端は、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)に播磨赤穂藩主の浅野長矩(ながのり・内匠頭たくみのかみ)が、高家旗本・吉良義央(よしひさ・上野介こうずけのすけ)に対して江戸城殿中松の廊下において刃傷におよび、殿中抜刀の罪で即日切腹・赤穂藩改易を五代将軍綱吉に命ぜられたことに由来します。

内匠頭が上野介に刃傷に至った原因については、吉良が浅野に勅使御馳走役の作法について嫌がらせをしたとする説と、塩を巡るトラブルがあったとする説が有力ですが、いずれも決定的ではありません。
作法についてのトラブルだとすると、責任を取らされるのは上野介自身ですし、内匠頭は事件の18年前に勅使饗応役を務めていますから、今更作法を知らずに恥をかいたということはありえません。また、赤穂の塩の製法・販路をめぐるトラブル説もありますが、赤穂の塩が全国区だったのに対し、吉良の塩は地元で流通するだけのものですから、市場は競合していません。最有力な説は内匠頭の発作的な犯行という見方です。事件後の事情聴取でも、理由について「私的な遺恨でだが、詳細は今は言えない」と繰り返すばかりで、即日切腹させられてますから真相はわからずじまいです。

なぜ綱吉が、たいした吟味もせず即日切腹させたのか? 綱吉の生母桂昌院や側用人柳沢吉保も絡んだ逸話もあるのですが、詳細は略します。

林羅山の門下で朱子学を学んだ山鹿素行は、その後、幕府の正学であった朱子学を批判したことから赤穂藩お預けの身となり、赤穂藩士に儒学や兵法の教授します。大石良雄(内蔵助)も門人の一人です。吉良邸討ち入りで、内蔵助は山鹿流兵法を実践して見せたわけです。

上野介の領地三河国幡豆郡では、治水事業や新田開拓や人柄から名君とされています。しかし、旗本の多くは江戸に常住して領地は幕府が任命した代官に任せるのが一般的で、実際には上野介が領民と接する機会はなかったようです。 

討入りから4年後の1706年(宝永3年)、この事件に題材をとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座で上演されます。そしてその集大成が1748年(寛延元年)に上演された二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』です。当時の人々に大変人気で、すぐに歌舞伎の演目にもなります。


僕らの世代には、三波春夫さんの大忠臣蔵が印象深いですし、また、長谷川一夫さんの「おのうのう方、討ち入りでござる」のセリフも、印象に残ってます。

J R御殿場線開業80周年

J R御殿場線開業80周年

 御殿場線は今日12月1日で開業80周年を迎えました。
 かつて、東海道本線は国府津から御殿場、沼津へ抜けていました。国府津から先は熱海線と称し、丹那トンネルが開通してからは現在の姿となりました。

 その丹那トンネルが開通したのは1934年(昭和9年)、今から80年前のことです。丹那トンネル開通を題材にした吉村昭氏の小説「闇を裂く道」は、大正7年(1918)の着工から16年の歳月を費やし、水と土と熱の難工事の詳細を克明に綴っています。予定の倍以上の工期と当初予算の4倍近くの金、67名の犠牲者のうえに昭和9年9月30日に貫通します。又、トンネル上の村におこる渇水や伊豆大地震の様子も描かれています。

 余談ですが、大正7年(1918年)頃の日本は第一次大戦の好景気で農村人口は都市に吸収され、農産物価格も上昇して農家の収入は増大します。しかし、生活必需品の物価も上昇したので、収入増加の割には家計は楽にならなかったようです。また、都市でも大戦景気による「成金」が生まれます。工業労働者の増加と人口の都市集中は米の消費量を増大させ、インフレ傾向が続き、物価も相当高騰します。大正7年に入ると米価は急上昇し庶民の生活は脅かされることとなります。7月には富山県の漁村の主婦たちが米価の高騰を阻止しようと運動を始め、全国に広がり各地で米騒動が起こります。政府は外米の輸入や米の安売りを行うと同時に、軍まで出してその鎮圧に当たります。寺内内閣は世論の激しい非難の中、9月に総辞職します。

 昭和9年12月1日には丹那トンネルが開業し、東海道線は国府津−熱海−沼津を通るようになります。従来の国府津−沼津間は御殿場線と命名され現在に至ります。その御殿場線も昭和43年4月に国府津−御殿場間が、7月に御殿場−沼津間が電化されると、蒸気機関車やディーゼルカーに代わって電車が主役となります。最終列車を牽引したD5270は山北機関区跡の公園に記念展示されています。D5272は御殿場湯沢平公園に保存されていましたが、現在は御殿場駅前に移されています。

 国府津駅構内には機関車庫があり、もちろんターンテーブルもありました。前出の蒸気機関車D5272がしばらくの間、格納されていました。この機関車庫は明治43年製(1910)で、鉄筋コンクリート造りの大型構造物としては日本で1・2を争う古いもので、土木学会の論文でも紹介されていたようです。また建設を担当した大成建設(旧大倉組)のHPにも、会社の実績として紹介されています。小学生の頃、祖父に連れられ御殿場線蒸気機関車の旅も何度か経験しました。その後中学生になった僕は、部活の合間に何回かD52を見に行ったものでした。やがて興味が他のものに移り、正確な年は失念しましたが70年代の終わり頃(78年?)まで車庫はあったような気がします。
 現在、機関車庫やターンテーブルは京都梅小路機関区で、動態・静態保存されている機関車と一緒に見ることができます。

芭蕉没後320年〜芭蕉忍者説

芭蕉没後320年〜芭蕉忍者説

以前、「石田三成414回忌」と書いたところ、415回忌の誤りではないかとのご指摘をいただきました。先日法要があったので方丈さんに年忌法要について尋ねてみたところ、亡くなって一年目は一周忌、満二年たつと三回忌、満六年たつと七回忌というように仏事では満年齢で数えるとのことでした。したがって415回忌ということになります。しかし、2014石田三成祭実行委員会のホームページには414回忌とあります。仏事では百回忌というのもあるようですが、一般的には三十三回忌、または五十回忌(それぞれ没後32年、没後49年)を最後の年忌とするようです。三成没後414年めということでしょうか?

芭蕉は1644年に生まれ、1694年11月28日(旧暦10月12日)に没しています。今年は生誕370年、没後320年です。

前置きが長くなりました。前回、芭蕉について書いたところ、伊賀といえば忍者なのに、忍者に関する話はないの? とのリクエストにお応えして、忍者関連のお話をします。「芭蕉忍者説」です。
その根拠について調べてみました。次のようになります。

1 出生地が伊賀で名字を持ている点
  「芭蕉=忍者」説の最初の論拠となるのが、この出生地と名字の存在です。
  この当時、伊賀を治めていたのが「変節漢」と呼ばれた戦国武将の藤堂高虎です。高虎は、織田信長の行った伊賀攻めの影響で散らばっていた伊賀忍者を多数配下にしたといわれています。この時、高虎は伊賀忍者たちを武士として取り立てたので名字を名乗れるようになった忍者が多く出たと言うのが「芭蕉=忍者」説の論拠を補強しているようです。
  芭蕉は寛永21年(1644年)に現在の三重県伊賀市で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれる。父は無足人(準武士待遇の農民)松尾氏(松尾家は、農業を業としていたが、正式に松尾の姓を有する家柄)の出。母は、伊予宇和島から伊賀名張に移住した桃地(百地)氏の出と伝えられています。芭蕉は伊賀の下級武士の出身ということになります。伊賀の上級武士は、藩主の藤堂高虎が江戸城改築の功により伊賀並びに伊勢を与えられ伊予今治藩主から津藩主になった際(1608年)に連れてきた武士の子孫ですが、下級武士は元々の伊賀者であった。このことが「芭蕉=忍者」説の根拠の一つとなっているようです。また、母の出身地は、伊賀忍者の祖とされる百地丹波(ももちたんば)や三太夫の出身地でもあります。

2 「奥の細道」に不可解な点がいくつもある点
(1)奥の細道の旅では途中の移動速度が異常に早く、忍の歩行術を使ったのではといわれる点。
  移動距離と日程から割り出される芭蕉の移動速度が人並み外れています。「奥の細道」の総移動距離は約2400キロで、総日程が約150日となっています。これらの数値から一日あたりの移動距離は15キロで、当時の単位に換算すると約4里という所です。しかし、この総日程にはまったく移動しなかった日も含まれています。つまり、150日ずっと移動していたわけではないのです。この移動しなかった分を取り戻すかのように、一日で50キロ以上も移動している日もあります。年齢的には壮年に差し掛かっていた芭蕉が、これほどの移動距離を一日で歩くのは無理があると考えられています。
(2)仙台藩の偵察が目的だったとする説
  芭蕉がこだわった仙台は、独眼竜・伊達政宗の領地です。正宗は「あと20年早く生まれていれば天下を手中におさめていた」といわれる、野望を抱いていた武将です。忍者を放てば正宗に仕えていた忍者・黒脛巾(くろはばき)に察せられる恐れがあります。その点、俳人として名が知られていた芭蕉ならば、創作活動を名目にして仙台藩に入り込み要所を見物していても不審がられません。つまり、芭蕉は幕府から「仙台藩への綿密な偵察」を条件に東北旅行を許されたとする説です。
  また、この旅に連れていった河合曾良という弟子は、後年幕府隠密として活躍しています。

3 資金の出所がよくわからないこと
  旅に何度も出られるほどの資金源と通行手形の出所などを考えると「幕府が公認した密偵として手形と資金を提供されていた」と考えるほうが自然とする説。

大きくはこのようになります。
「なるほどな」と頷ける部分もありますが・・・状況証拠がほとんどです。
興味のある方は、是非、調べてみてください。

芭蕉翁記念館や伊賀流忍者博物館は上野公園内にあり、伊賀上野の象徴ともいえる上野城は、築城の名手といわれる藤堂高虎が手がけた城です。その美しさから白鳳城とも呼ばれ、日本100名城(もちろん小田原城も入ってます)にも数えられています。石垣の高さは約30メートルあり、大阪城に次いで高いそうです。公園の看板には日本で1・2に高いとありました。(大阪城は空堀で高さが確定できるが、上野城は堀に水があり、その高さが確定できないとの理由です。)

芭蕉や忍者、お城だけでなく、近くには赤目48滝(忍者修行の里とも呼ばれてます!)などもあり、自然や食材も豊富です。
機会があれば伊賀市周辺、是非、訪ねてみてください。

又、年末年始のお休みの読み物として、
忍者小説では、
 池波正太郎:真田太平記
 司馬遼太郎:梟の城、風神の門
 柴田錬三郎:真田十勇士
漫画では
 白土 三平:忍者武芸帳、カムイ伝、サスケ
 横山 光輝:伊賀の影丸
  (横山さんは鉄人28号、コメットさん、魔法使いサリーも書いてます)
がお薦めです。

1694年11月28日(旧暦10月12日)、芭蕉は「古人も多く旅に死せるあり」の通り江戸から伊賀へ寄り、さらに大阪へ向かった。その大坂で体調を崩し亡くなります。
最後の句は、
 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
と伝えられています。

芭蕉生誕370年

芭蕉生誕370年

先週末、所用があって豊田市に行ってきました。
豊田市もかつては挙母市(ころもし)と呼ばれ、江戸時代には挙母藩が置かれて
いました。現在はトヨタ関連の企業城下町として栄え、平成の大合併で面積は
愛知県全体の20%を占め、人口も42万人と名古屋に次ぐ愛知県2位の都市
となっています。

所用を済ませた後、伊賀市に行ってきました。かつては上野市と云っていたの
ですが、ここも町村合併で伊賀市となりました。

伊賀というと僕はすぐに忍者を連想するのですが、皆さんはいかがでしょう?
僕らの世代は忍者になじみが大変深いのです。
幼少期から少年期にかけテレビでは風のフジ丸、隠密剣士、忍者部隊月光、
サスケ、仮面の忍者赤影、忍者ハットリ君・・・、伊賀の影丸、忍者武芸帳、
カムイ伝など白土三平さんの漫画もよく読みました。
忍者ものは大人になった今でも好きです。金沢や戸隠の忍者屋敷にも、近くへ
行った折にはよく寄って来ます。

伊賀や甲賀、根来はあまりにも有名ですが、小田原風祭には北条に使えた忍
者、風魔一党がいました。風魔小太郎という名を聞いたことはありますね。
風魔の頭領は代々、小太郎を名乗ったようです。
一昨年には小田原で“忍者サミット”も開催されております。
この時も伊賀と甲賀が参加しております。

風魔一党には二曲輪猪助(にのくるわいすけ)という足の速い忍者がおり、
上杉と北条が河越城で戦った際に太田犬之助という忍者に追いかけられた話も
伝わっています。また、「忍たま乱太郎」にも二郭伊助という名で出てきます。

今回は忍者ではなく「芭蕉」を中心に見学をしてきました。芭蕉は蕉風俳諧の
祖として有名ですが、「奥の細道」は中学の国語教材としても取りあげられ、
日本人にとってはなじみの深い作品となっています。先週、真鶴町で行われた
「かながわ学びづくり実践研究 確かな育ちを支える幼小中連携教育」の授業
公開でも真鶴中では「奥の細道」を題材に授業公開をしていました。
また、この夏NHKでは「日めくり奥の細道」を放送してました。
その芭蕉の生誕の地が伊賀市なのです。

今年は芭蕉生誕370年ということで、芭蕉翁記念館で芭蕉直筆の色紙や俳諧
に関する資料を見学し、芭蕉翁生家、蓑虫庵を見てきました。
 古池や かわずとびこむ 水の音
蓑虫庵には池があり、その傍らには石碑があり石の蛙もおりましたが、
この句は深川の芭蕉庵で読まれたのではないかといわれてます。
記念館では、「俳諧中興時代−芭蕉に帰れ」という企画展が行われており、
 「古池や その後とびこむ かわずなし」
という、川柳も掲げられていました。 

でも芭蕉といえば、何といっても「奥の細道」ですね。
僕らの世代は、中学の国語の時間で暗唱させられました。方丈記も平家物語も
枕草子もみな暗唱させられました。国語だけでなく英語も、みな暗唱でした。
斎藤孝さんの「声に出して読みたい日本語」が話題になったのは25年位前だと
思いますが、「じゅげむ」をはじめ、そのほとんどは小学校や中学校で暗唱させ
られ覚えてました。小・中学校の記憶はなかなか消えません。

芭蕉と同時代に活躍した人物としては、井原西鶴、近松門左衛門がおります。
西鶴は町人物を得意とし、「日本永代蔵」では、
 “ただ金銀こそが町人の氏系図”
と、商人の道はただひたすらに銭もうけにあり、勤倹貯蓄、信用、才覚や
忍耐力を美徳として繰り返し説きます。
近松は武士の出身ですが、歌舞伎や人形浄瑠璃などの脚本を書きます。
役者としては江戸で市川團十郎、上方では坂田藤十郎や芳沢あやめなどが
活躍します。
さらに人形浄瑠璃では、辰松八郎兵衛らの人形遣いと竹本義太夫らの語りとで
歌舞伎以上の共感を人々に呼び起こしたともいわれております。

彼らが活躍するのは、17世紀末から18世紀初めにかけての上方(京・大坂)
が中心です。京では葵祭が復活したり、江戸城松の廊下での刃傷事件や
その後の赤穂浪士の討ち入りがおこったのもこの頃です。
国内外の平和と安定を背景に、徳川5代将軍綱吉の時代を中心とした町人が
文化の主役、担い手であった、いわゆる元禄文化時代です。

話を芭蕉に戻します。
「奥の細道」の冒頭部から、旅に対する想いが、ひしひしと伝わってきます。
特に、
  “日々旅にして旅をすみかとす”
 “片雲の風に誘われて、漂白の想い胸にやまず・・・”
 “前途三千里のおもい胸にふさがりて・・・”
などからは、
  旅の中を旅するのが人生。旅、そのものが人生だ。
  みんな旅の途中、夢の途中なんだ。
と、いっているような気がしてなりません。

僕らの心にも「そぞろ神」を招き入れ、「旅」に出たいものです。

 “本当の旅の発見は、
  新しい風景を見ることではなく、新しい視点を持つことにある。”

電車の中刷り広告で見たマルセル・プルーストの言葉を紹介し、終わりとします。 

「ねばならない」から「やれること」と「やりたいこと」へのコラボ

「ねばならない」から「やれること」と「やりたいこと」へのコラボ

このところ書類作成等の事務仕事に追われております。
段取りを取り、細心の注意を払い、適切に処理していかないと
大変なことになりそうですというか、なってしまいます。

人には「やらなければならないこと」のほかに、
「やれること」と「やりたいこと」がありますね。
日常の生活場面において、仕事でも勉強でも「やらねばならない」という使命
感、圧迫感というものがつきまとうわけです。
日常業務以外の新たなプロジェクトや従来と違うものに取り組むといったとき
は、慣れていないうえに、そのときの実力に比べレベルが高い場合がほとんど
ですから、「やらなければならないこと」をやるのは本人にとって非常に辛いの
です。

「やりたいこと」というのは自分の嗜好で、好きか嫌いかで判断できるわけです。
「やれること」これも自分の実力内で消化できます。
しかし、「やらなければならないこと」というのは窮屈で気が進まないことが多く、
ついつい後回しになるのではないでしょうか。
中には、何事にも挑戦だ、ワクワクする。という方もいらっしゃいます。
また、いやなことは先にやってしまうという方もおられるようですが・・・
なかなかね。

そんなときは、
“やりたくないけど、しょうがない、やってみるか”
という気持ちづくりが大事ですね。

最初に「やらなければならないこと」をやるのは、まぁ仕方ないとして、
「やらなければならないこと」と「やれること」、「やりたいこと」
この三つをうまく繋ぐことができれば、窮屈さを解消とはいわないまでも、
軽減できると思ってます。

子どもの勉強なんて、その最たるものじゃないですか。
子どものうちは誰だって遊びたい。
学校の勉強が好きで好きでたまらないなどという子どもはまずいません。

でも、家でテレビやゲームばかりしていると家の人に叱られるとか、宿題を
やっていないと学校でたたされるなどの理由で(本校にはそんな先生はおりま
せん。私の過去の経験です!)、仕方なく机の前に座るというか座らされる。
そうすると、中にはそうしているうちに、勉強そのものに興味がわいてくる子も
いるし、成績が上がって家の人の喜ぶ顔を見たら、またこの顔みたいとがんば
る子も出てくる。
こうなったとき、この子たちにとっての勉強は、
単なる「やらなければならないこと」から「やれること」「やりたいこと」に変化した
といえます。さらにそれが習慣化すれば、もう云うことはありません。

でも、そのきっかけ作りは結構難しいです。

僕はテレビばかり観ている子どもでした。
勉強をするよりテレビを観ていた方が断然、面白いですからね。
頭ごなしによく言われました。
“テレビばかり観てるんじゃない!”

“お前がテレビをみたい気持ちはよくわかる。テレビ、楽しいもんなっ!
 そんな気持ちは誰にもあるし、あってもいいんだ。
 でも少し勉強して、わからないことがわかると授業がもっと楽しくなるぞ!
 いやな勉強でも、復習だけはしておこうというそんな気持ちが大事なんだ。
 そういう気持ちをつくってみないか。ちょいとがんばってみようよ”

なんていわれていたら・・・・

気持ちをつくる言葉がけを意識できるとよいかもしれませんね。

子どもたちも含め、自分自身が気持ちをつくれるようになると実際の行動にで
き、「やらなければならないこと」から「やれること」「やりたいこと」に変化して
いく可能性がでてくるのではないでしょうか。

「軍師官兵衛」〜石田三成414回忌

「軍師官兵衛」〜石田三成414回忌

大河ドラマ「軍師官兵衛」を毎週楽しみにみています。
ここ数年、大河ドラマは「天地人 直江 兼続」「お江〜姫たちの戦国〜」や「龍馬伝」など、戦国や幕末期を扱ったものが多いような気がします。
戦国や幕末の動乱は、人々を魅了する人物や事象が多いのでしょうね。

「軍師官兵衛」も佳境に入ってきました。先日は、秀次が謀反の疑いをかけられ切腹し、再度、朝鮮出兵(慶長の役、1597)が始まるあたりを扱っていました。
翌年、秀吉は死去するのですが、今後は秀吉後の家康の台頭と石田三成との対立を中心に官兵衛の動向について扱われるのだと思われます。

やがて家康と三成は関ヶ原で、いわゆる天下分け目の合戦を戦うことになります。
石田治部少輔(じぶしようゆう)三成率いる西軍約8万4千と徳川家康率いる東軍7万5千の兵が激突します。現在、その関ヶ原周辺には戦国時代の武将の陣地を示す石碑が多く残されています。

「軍師官兵衛」で三成は、どちらかというと奸物のように描かれていますが、なかなかの知将であり、ゆかりの史跡を訪れる人も多く、現代人にとっての人気は高いようです。
司馬遼太郎さんの「関ヶ原」では、京都大学解剖学教室の足立博士の調査をも
とに三成は「非常な優男(やさおとこ)」であったと書いています。
当時も今位の人気があれば勝敗の行方は変わっていたかもしれません。

なにせ8万4千の軍勢のうち、毛利や長宗我部は傍観者を決め込み最後まで戦いに参戦しませんでしたし、小早川秀秋らは土壇場で東軍に寝返ります。いわゆる反乱軍です。
そもそも秀吉子飼いの黒田長政や福島正則は始めから東軍につきます。
三成との確執もあったのかもしれません。

秀吉と三成の出会いには、「三献茶」、「三碗の才」などと呼ばれるエピソードが
あります。
夏に鷹狩りをしていた秀吉は喉が渇き、ある寺に入ったところ、寺で修行してい
た三成が三杯の茶を入れた。
最初はぬるめの茶を、二杯目は量を半分にし茶を熱くした。
三杯目は湯の量はわずかでとても熱かったそうです。
三成の配慮に秀吉は感動したのでしょう。
JR長浜駅のロータリーには茶を持った三成と秀吉の銅像があります。

小説やドラマの構成で、歴史上の人物像は大きく異なって描かれます。
「功名が辻」の山内一豊だって、三成から見れば裏切り者です。
わかっているのは史実としての関ヶ原の戦いだけです。
西軍は小早川らの裏切りで総崩れとなり、三成は捕らえられ大坂を引き回され
た後、京都六条河原で斬首され、三条河原で晒されます。 

三成の生誕地・滋賀県長浜市だけでなく琵琶湖周辺地域では、
三成は郷土の誇りとして顕彰されています。

11月6日(旧暦10月1日)は石田三成414回忌です。

宇宙監視

宇宙監視

 10月27日(月)、理化学研究所創発物性科学研究センターの上級研究員の山本先生をお招きして6年生の理科の特別授業が実施されました。熱電変換器を用いて温度差を利用したゼーベック効果による発電やペルティエ効果を利用した電流から熱への変換実験などを行い、子どもたちにもわかりやすいエネルギー変換、理科の不思議を実体験させていただきました。ありがとうございました。

 先週の新聞に、「宇宙監視 米軍と連携」という記事が掲載されました。宇宙空間での安全保障上の脅威が高まっており、日本はJAXAの衛星の安全を監視してきたが、今後はその対象を他国の軍事衛星や情報衛星に拡大するという内容です。将来的には、自衛隊に宇宙監視の専門部隊を新設することを検討しているそうです。
 宇宙空間では衛星攻撃兵器を使った実験を行っている国もあり、この破壊実験や宇宙ゴミと呼ばれる機能停止した人工衛星などによって、現在運用中の衛星やGPSが使えなくなる可能性があり影響が大きいとのことです。

 この夏、「立花隆の宇宙教室」という本を読みました。立花さんの本はどれも面白く、「さる学の現在」や「20歳のころ」、「脳を鍛える」などが記憶に残ってます。最近では「臨死体験」に関連しNHKで「立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」を放送してましたし、11月号の文藝春秋でもこのことについてコメントしています。
 「宇宙教室」は小学校で行った「宇宙授業」の記録です。その過程で子どもたちはどのように「思考する技術」を身につけるのかをテーマに構成されています。なかなか面白く読みました。その中で新たな知識の獲得もできました。いろいろな方との対談もあり、最近の立花本ではおすすめの一冊です。

 本の中で立花氏は、我々が目にすることのできる宇宙はわずか4%に過ぎない・・・と、ガガーリンから53年、まだまだ宇宙は未知なる空間なんですね。
 夜空に輝く星はみな恒星です。太陽に代表される恒星は核融合現象を起こし、超高温、超高圧状態になっていていかなる生物も住めません。地球から一番近い太陽以外の恒星は4.4光年(光の速さは秒速約30万キロ、光で4.4年かかる)離れたケンタウルス座α星です。秒速20キロメートルで進む太陽が1000年たっても隣の恒星にたどり着かない程、宇宙は広いのです。(ケンタウルス座α星に行くのにも現在の技術では数十万年かかります。)
 恒星の周りには惑星があり、そこには知的生命体が存在する可能性が大きいことが宇宙望遠鏡探査衛星ケプラーのデータからも裏付けられています。私達が存在するのと同じように宇宙人が存在しても何の不思議はありません。「はやぶさ」の探査など、科学技術の発展とともに太陽系以外の系外惑星のことも少しずつわかってきています。宇宙の扉は少し開いたといったところでしょうか。

 夜空を輝かせる星に、人類は太古の昔から憧れと畏れを持って接してきました。星の動きや星座の移り変わりで季節を知り、日常生活に役立ててきました。その私達の最も身近な宇宙空間で人類の知恵が衝突してます。人間の傍若無人な振る舞いのつけが回ってこないよう、科学技術は平和利用を前提に発展して欲しいものです。

 来月4年生は、「かわさき宙(そら)と緑の科学館」のプラネタリウムを見学し宇宙の不思議を体験してきます。

「はやぶさ2」その後

「はやぶさ2」その後

 週初めの20日(月)に、11月30日に予定されている小惑星探査機「はやぶさ2」の打ち上げで使用するH2Aロケット26号機の機体主要部分を飛島工場(愛知県飛島村)で公開したとの報道がありました。

 僕は前回の「はやぶさ」に非常に興味がありまして、「どっかいっちゃった」とか
「エンジン停止」とかこれまで新聞に載っていた小さい記事も読んでいたんです。
「イトカワ」で砂を取ったこともすごいことだけど、「帰還」したことがとてもうれしかったのです。「はやぶさ」にはもちろん魂はないんだけれど、人間がそれを使って「人智」というものの凄さを見せ付けてくれたと思うんです。

 「はやぶさ」は2003年に打ち上げられ、7年ぶりに還ってきました。その間、故障等多くの困難にみまわれ、一時は行方不明になったのですが、人間の知恵と工夫で奇跡の復活、携わる人々の考えられる全ての機転と技術を工夫と知恵に変え、粘り強い運用と管理で乗り切ったことは、ただただ、すごいの一言です。

 「はやぶさ2」は来月30日に種子島から打ち上げられるのですが、予定通りにいけばC型小惑星に到着するのは2018年半ばで、1年半ほど小惑星に滞在して2019年末頃に小惑星から出発、そして2020年末頃に地球に帰還する予定だそうです。

 様々なアクシデントも起こりうるのでしょうが、絶対何とかするという一念は「あきらめない大切さ」、そして一人ではできないことをチームワークで解決する力は「執念」をも生み出すんじゃないのかな。是非、今回もそうであって欲しいです。

 これらを僕たちに置き換えれば、子どもの変化に気づかなければ始まりません。予見しなければダメですね。

 「心配していたことが起こってしまうのは三流、心配していたことは起きないのだけれど、予想もしていなかったことが起こるのは二流、一流の人は何も起こらない」とは、小惑星探査プロジェクト「はやぶさ」を完遂したマネージャーの川口淳一郎さんの言葉。
 一流にはなり得ないとしても、そこに近づく努力はしないとね。心配もしてないというのは論外です!

 「はやぶさプロジェクト」に比べて足柄小がやっていることはまだまだちっぽけなことですが、「最後まであきらめない」「死に物狂いの執念」は共通していてほしい。足柄小の児童・職員はこの「はやぶさ」から多くを学んでほしいんです。そして、今回のプロジェクトについてもその動向をしっかり見守っていて欲しいと思います。

 ところで、三菱重工飛島工場って名前がいいですね。いかにも飛んでいくぞとという感じで・・・飛島村、素敵な名前です。

10月10日 前期終業式での校長の話

10月10日 前期終業式での校長の話

今日は前期の終業式を行いました。

先日の小田原・足柄下地区児童生徒科学展入賞者の表彰を行った後、
2年生と3年生の代表生徒から、前期を振り返っての感想の発表がありました。

 「ミニトマトの栽培を一生懸命がんばりました。」
 「私は算数をがんばり、計算が楽しくできるようになりました。」
 「これからも、あきらめないでがんばり続けたいと思います。」
と、二人とも背筋を伸ばし、しっかりとした声で自分の意見を発表していました。

聞いていて、子どもたちのがんばっている姿が目に浮かんできました。

その後、私からは次のような内容を話しました。

おはようございます。
今日で平成26年度の前期が終了します。
4月からの半年間があっという間に過ぎました。
学校でのいろいろな活動を通して、みなさんは少しずつ成長してきました。

始業式に、目標は二つ持つとよいと話しました。
一つ目は、野球やサッカーの選手になりたい、ケーキ屋さんになりたいといった
大人になったらの大きな目標のことです。
もう一つは、算数の成績を伸ばしたい、逆上がりができるようになりたいという
がんばればできる具体的な目標です。

みんなの目標はどうでしょう? 目標に近づいていますか?

前期の終わりの日にもう一度、年度初めに自分が思っていた目標や計画がどこ
までできているのか確かめてください。
そして、どうしたら目標が達成できるか工夫してください。

よくみなさんも、「わからない、できない」といいますね。
でも、「わからないこと、できないこと」をなぜわからないのか、なぜできないのかを
証明するのは大変難しいです。

それよりも、どうしたらわかるのか、できるのかを考え工夫することの方が
よっぽど簡単です。

どうしたら目標に近づくのか、どうしたらよりよくすることができるのかについて、
是非、考え工夫してください。
考え、工夫する習慣が身についてくると、物事を前向きに考えられるようになります。

今日は通知表も渡されます。
担任の先生方が、みなさんの学校での様子をコメントしています。
通知表をしっかり読んでください。
そして、学校生活や学習についてもしっかり振り返りをしてくださいね。

のこりの半年間で、自分の目標をしっかり達成してください。
後期のがんばりを期待しています。

夏目漱石と「はやぶさ2」

夏目漱石と「はやぶさ2」

三菱重工業と宇宙航空研究開発機構(JAXA)は10月7日午後2時16分、鹿児島県の種子島宇宙センターから、静止気象衛星「ひまわり8号」を搭載した国産ロケット「H2A」25号機を打ち上げました。

昨日の台風18号も日本各地に甚大な被害をもたらしましたが、「ひまわり8号」では台風の中心付近の風向きや風速をこれまでより詳しく捉えられるため、進路の予報の精度も向上すると期待されています。

日本のロケットは歴史は、戦後初の実用ロケット研究として昭和20年代末の糸川英夫博士のペンシル型ロケットに始まります。
その後、日本初の人工衛星「おおすみ」が打ち上げに成功したのは、僕が小学校を卒業する一月ほど前の1970年の建国記念の日でした。「おおすみ」は人工衛星打上げ技術の習得と衛星についての工学的試験を目的として打ち上げられ、電離層や宇宙線などについての科学実験を目的に打ち上げられたのは翌71年9月の「しんせい」でした。
77年7月には気象観測を目的に「ひまわり」が打ち上げられます。その「ひまわり」も今回で8代目と云うことになります。

今年の11月30日13時24分48秒に種子島宇宙センターから、「ひまわり8号」と同じH2Aロケット26号機で「はやぶさ2」が打ち上げられます。

JAXAのホームページでは、
 「はやぶさ2」では「はやぶさ」で培った経験を活かしながら、太陽系の起源・進化と生命の原材料物質を解明するため、C型小惑星「1999 JU3」を目指します。
 太陽系の起源や進化を知るためには、代表的なタイプであるS型、C型、D型の小惑星を調査する必要があります。
 「はやぶさ2」が目指すC型小惑星はS型小惑星のイトカワと比べるとより始原的な天体で、同じ岩石質の小惑星でありながら有機物や含水鉱物をより多く含んでいると考えられています。
 地球をつくる鉱物、海の水、生命の原材料物質は、太陽系初期には原始太陽系星雲の中で密接な関係を持っていたと考えられており、始原的な天体であるC型小惑星から採取したサンプルを分析し、太陽系空間にあった有機物や水がどのようなものであったのか、またどのように相互作用し共存してきたかを探ることで、生命の起源にも迫ることができると期待されています。

と説明しています。

科学の進歩はとどまるところを知りません。
夏目漱石は内田百間との会話の中で、「科学は進歩しているけれど心配だ」、「科学の進歩こそが私たちの不安の原因だね」といってます。それに対して百間がこたえた後、さらに漱石は「止まることを知らない科学の進歩に私たちは翻弄されるだろう」というんです。百年近くも前の文豪が、時代の先見性を持っているんです。

コンピューターやロボットが意思を持つ時代も、近い将来やってくるかもしれません。4月に小田原城銅門で行われたコンピューターとトップ棋士との将棋対決「電王戦」でも、コンピューターが勝利しましたね。2003年の未来からやってきた「アトム」の世界に、現代の科学は限りなく近づいているのです。

今週はノーベル賞の発表もありますが、科学技術は平和利用を前提に進歩していただきたいものです。

十三夜の月

十三夜の月 
 
 10月6日(月)は十三夜の月です。そこで本日は月にまつわるお話しです。
 中秋の名月を鑑賞することは中国から伝わってきました。奈良時代にはすでに宮中などで月見の宴を開いていたと歌集や物語に書かれているそうです。また、庶民の間では、月を神聖なる神としてあがめ、農民は秋の収穫物を供えて五穀豊穣を祝い感謝する祭りをしていました。

 中秋とは旧暦の秋(7・8・9月)の“真ん中の日”を指す言葉で旧暦8月15日のことです。月の満ち欠けによって暦を作っていた太陰暦(旧暦)では、7・8・9月を秋としていていました。その真ん中の8月15日を中秋といいます。秋は空が澄み渡り、月の高度もほどよく眺められる良い季節なので、月を楽しむ習慣が継続しているのでしょう。是非、月を愛でる余裕を持ちたいですね。
 今年の十五夜は9月8日でした。スーパームーンが話題になりましたね。

 中秋の名月は「十五夜」と呼ばれるのは有名ですが、旧暦9月13日の夜を「十三夜」と呼んで、十五夜の次に月を鑑賞する日になっています。十五夜はまたの名を「芋名月」、十三夜のことを「豆名月」「栗名月」と呼び、どちらか一方の月見だけをするのは「片見月」として嫌われていたんだそうです。

 お月見といえば、お月様に兎が餅をついている姿が見えるか目を凝らしてみたことがありますが、月に兎が住んでいるというのは実はこれまた中国人の発想なんです。何故か月に住む兎はみんなオスばかりだそうです???

 また、十三夜の月見は日本独特の風習だそうで、一説には宇多法皇が九月十三夜の月を愛で「無双」と賞したことが始まりとも、醍醐天皇の時代(延喜十九年:西暦919年)に開かれた観月の宴が風習化したものとも言われています。中秋の名月の後なので、「後の月」と言われたり、「小麦の名月」と呼ぶ地方もあります。これは旧暦九月十三日の晩のお天気で、翌年の小麦の豊作、凶作を占う習慣から来ています。十五夜はあまりすっきりしない夜空であることが多いのに対し、十三夜の夜は晴れることが多いようで、「十三夜に曇り無し」という言葉もあります。今年は10月6日(月)です。

 十三夜に関連しては、井上陽水の曲に、「神無月にかこまれて」ってのがあります。学生時代の好きな曲の一つで、よく歌ったものでした。

  人恋しと泣けば十三夜 月はおぼろ 淡い色具合
  雲は月を隠さぬ様に やさしく流れ
  丸い月には流れる雲が ちぎれた雲がよくにあう

  風がさわぐ今や冬隣り 逃げる様に渡り鳥がゆく
  列についてゆけない者に また来る春が
  あるかどうかは誰もしらない ただひたすらの風まかせ

  神無月に僕はかこまれて 口笛吹く それはこだまする
  青い夜の空気の中に 生きてるものは
  涙も見せず笑いも忘れ 息をひそめて冬を待つ

 「神無月」までには少し時間がありますね。秋の夜長をうまく活用してください。月見で一句というのも風流ですが・・・僕はもっぱら月見で・・です

<おまけ>10月8日は『皆既月食』がみられます。部分食の始まりは18時14分頃、食の最大は19時54分頃、部分食の終わりは21時34分頃です。
 地球と月は太陽の光を反射して輝く天体です。地球(月)にも太陽の光による影があり、太陽とは反対の方向に伸びています。この地球の影の中を月が通過することによって、月が暗くなったり、欠けたように見えたりする現象が「月食」です。月食は太陽-地球-月が一直線に並ぶとき、満月のときだけに起こります。でも黄道と白道の関係とかがあり、常に起こるわけではありません。
自然界には不思議がいっぱいです。



リニア開通の夢〜新幹線開業50周年の年に

リニア開通の夢〜新幹線開業50周年の年に

先日、リニア中央新幹線の開業を目指すJR東海が山梨のリニア実験線で報道向けの試乗会を行ったとのニュースを見ました。
L0系車両は最初はタイヤで走り、時速160キロを過ぎると車体が磁力で浮上し
時速500キロで走るのだそうです。
11月には一般向けの試乗会も行うとのことですから、興味のある方はJR東海のホームページをご覧ください。

リニアは2027年に名古屋までの開通を目指すそうです。大阪までは2045年の開通だそうです。
僕も運がよければ大阪まで1時間で行けるリニアに乗ることができるかもしれません。
コストや環境問題等様々な課題があるのでしょうが、実現すれば技術大国日本の面目役如といったところでしょうか。

僕が小学校に入学した年の昭和39年10月1日に新幹線は開業しました。
「夢の超特急」と云われたひかり号、こだま号とも当時の小学生のあこがれの的でした。
東京−大阪間を3時間15分で結ぶ新幹線は、まさに日本列島を距離・時間的に短縮しました。余談ですが、「こだま」は東海道線の特急の名前がそのまま使われたのでした。

小田原は新幹線とは縁の深い場所です。
東海道新幹線の建設時に旧国鉄が東京大阪間全線に先駆けて綾瀬−鴨宮間に試験用区間を設け、鴨宮基地がおかれたのでした。ここで走行試験や乗務員養成が行われました。
関係者以外立ち入り禁止と云うことで一般には公開されていませんが「新幹線発祥の地」の記念碑が開業10周年目に当たる74年に鴨宮の新幹線の線路脇につくられました。僕は写真でしか見たことはありません。

今年は50周年と云うことで、記念イベントもマロニエ等で行われます。
小田原高校でもOBが走行試験時から新幹線を運転していた関係で、乗務日誌などの寄贈を受け5月に展示を行いました。
また、NHKでも特集を組みますので是非ご覧ください。

「新幹線を作った男〜島秀夫物語」という本があるのですが、その新幹線の父と云われる島さんのもとで一緒に新幹線の仕事をしていた人物が血縁におります。小学校入学前の僕は、祖母に連れられて東京の永福の自宅へ何回か行ったのでした。ご当人も100歳近くになっていおりますが、機会をつくって往時の話を聞かせていただければと思ってます。また、リニアについての感想も是非聞いてみたいです。

技術の粋を集めたリニアに、今の小学生もあこがれや夢を持って欲しいものです。


シャトル後継機決定

シャトル後継機決定

昨日、スペースシャトルに代わる宇宙船が「CST100」と「ドラゴン」に決定したとの報道を知り、小学生最後の夏が鮮やかによみがえってきました。

僕には忘れられない夏がいっぱいあるんです。
きっと皆さんにもそんな夏があると思うんですが・・・

松任谷由実の曲に「未来は霧の中に」というのがあって、その中で
 ♪ある日目覚めるとテレビジョンには 月を歩いてる飛行士がいた
  私は13 初恋なくして もう 恋はみんな同じ
  そのうち誰かが火星に降りても もう愕かないでしょう♪
とうたいます。

45年前のあの日、1969年7月21日、11歳の僕は近所の食堂でお昼にカレーライスを食べていた。食堂のテレビには本当に月を歩いている飛行士がいたんです。

皆さんもご存じだと思いますが、
「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」の名言。「静かの海」に着陸し、人類で初めて月面に左足で一歩を踏んだアポロ11号アームストロング船長の言葉です。17号までのアポロ計画で途中帰還した13号を除き6回、月面着陸に成功してます。
翌年の大阪万博では「月の石」見たさに、アメリカ館の長蛇の列に僕は並んだのでした。(そこでカメラをなくした・・・トホホ)

11歳の僕は“初恋なくした”かどうかは忘れました(直近のことさえわからないことが多くなってきてます)し、天文小僧でもなかったんですが、宇宙の神秘性や不思議に触れ、多くの夢を抱いたのでした。

  
 “そのうち誰かが火星に降りても もう愕かないでしょう”

そんなことはありません。
火星では「キュリオシティ」が探査を行い、初めて大地を掘削し、採取した岩石の成分を分析。火星がかつて生命が存在しうる環境だったことを突き止めるなど大きな成果をあげています。
近い将来、人類が火星に立つ日が来るかもしれません。
好奇心をそそられますね。

月に立ったアームストロング船長は一昨年夏に亡くなりました。82歳だったそうです。
シャトル後継機決定の報道に、11歳のころに抱いた夢はないにしろ、
“感受性と好奇心と挑戦する意欲を失った大人にはならないぞ!”
と再確認した、夏ばて気味の僕でした。


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学校便り

保健便り

給食便り

HP掲載資料