学校での子どもたちの様子をお伝えします。

大人の修学旅行 〜 京都慕情5 智積院から京都国立博物館

大人の修学旅行 〜 京都慕情5   智積院から京都国立博物館

昨日は横浜に出張でした。桜木町から紅葉坂を上り、県立青少年センターへ行ってきました。汗をふきふき、雨など降る気配は全くないのですが、「雨が降りそうだなあ」という昔に流行った歌を口ずさんでいました。
  僕 歩いて行くよ 紫陽花の花の中
  僕 歩いて来るよ 赤い煉瓦の家の前
  五月の横浜は 港の匂いがして
  僕のふるさとと 同じ匂いがして ・・・
好きな曲でした。横浜に似合いの曲ですよね。

さて、今回で「大人の修学旅行」を終了しようと思います。
早速、本題に入ります。

東山界隈は豊臣秀吉にゆかりの深い寺院が多数あります。
智積院もその一つで、豊臣秀吉が3歳で死去した鶴松のために建てた祥雲寺と、紀州根来山にあった大伝法院に由来します。その歴史は複雑なので省きますが、成田山新勝寺(千葉県成田市)や川崎大師の本山でもあります。

東山周辺はよく訪れ、智積院の前も何度も通っているのに、訪れるのは初めてです。
広大な敷地に見学場所は多数あるのですが、まず最初に宝物館を見学しました。
ここには、長谷川等伯一門の障壁画があります。等伯の大胆な色遣いに惹かれた秀吉は、祥雲禅寺の障壁画一式の制作を依頼したのだそうです。なかでも息子久蔵の描いた「桜図」と久蔵の死を悼んで等伯が描いた「楓図」は、豪華絢爛で観るものを圧倒します。

大書院は桃山城の遺構だそうです。その書院に面し、秀吉の時代につくられた「利休好みの庭」と伝えられる名勝庭園も見応えがあります。
もっとゆっくり観たかったのですが、拝観終了時間(16:30)が迫り大急ぎで回りました。

智積院の山門を出て右に曲がると東山七条の交差点です。ここを左折すると京都国立博物館や蓮華王院(三十三間堂)があります。蓮華王院も魅力なのですが、入館は16:30までなので次回とします。京都国立博物館は土曜日は開館時間が20時までなので余裕です。
特別展の「海北友松(かいほうゆうしょう)」をまず観ます。ここもそれほど人が多くありません。

狩野派や長谷川等伯、海北友松、雲谷等願(うんこくとうがん)は桃山文化を代表する画師ですが、中学校社会科では既出の狩野派や長谷川等伯を中心に扱い、海北友松は「山水図屏風」「牡丹図梅花図屏風」が、出版社によって資料集に載っていたりいなかったりです。同行の家人も、「この人、なんて読むの?」といってました。確かに、なかなか読めないですよね。雲谷等願に至っては中学では扱いません。等願は毛利輝元の庇護を受け、雪舟画の再興を担った人物です。等願の「山水画」は東京国立博物館に所蔵されています。「東福寺普門院障壁画」は狩野山楽、雲谷等願、海北友松らの作とされています。

海北友松の特別展の出品目録を見ると、海外からの里帰り作品が大変多いことに気づきます。開国・維新後、日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本古来の屏風や襖絵、浮世絵等の日本美術には芸術的価値を見いださず、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響もあり奈良の興福寺五重塔などは250円で売り出されたり、寺院や仏像の破壊が行われ、薪として使われたりしたそうです。海北をはじめ、このころに多くの日本美術が海外に流出したのでしょう。

友松の絵の特徴は、余白にあります。この余白をうまく使って、絵全体の構成をつくりあげています。

友松は浅井(あざい)家の家臣の家に生まれ、3歳で東福寺に預けられそこで絵の才能を見出されて狩野元信に学んだとされています。が、浅井家の滅亡と共に兄達も討ち死にしたため、「誤落藝家(誤りて藝家に落つ)」と、武家の家に生まれながら絵師となり、武士の本分を全うできない身を嘆いていたようです。武家としての再興が叶わないのならば、絵師として海北家の名をあげようとしたのかも知れません。

本格的に絵師として活動し始めたのは60代以降だそうです。狩野永徳が亡くなった後、狩野派を離れ82歳で没するまで、精力的に描いたのでしょう。水墨画が中心ですが、濃絵(だみえ)もあります。

60代以前の作としては、「柏に猿図」「山水図屏風」が目を引きます。どの作品も凄いの一言ですが、「松竹梅図襖」、「飲中八仙図屏風」、「放馬図屏風」、「月花渓流図屏風」、「雲龍図」、「花卉図屏風」が特に印象に残りました。

「武家に生まれ 桃山を生きた 海北友松」
「この絵師、ただ者ではない!」
のキャッチコピー、まさにその通りです。

友松の作品群はもちろんですが、展示をする上での光などの演出も見事で、年代別、テーマ別に展示がなされており、謎の多い友松の人物像が浮き彫りになってきます。
機会があれば、是非ご覧いただきたいと思います。

気がつけば、18時をまわっております。
時間さえ許せば、明治古都館(旧 帝国京都博物館 本館)や茶室「堪庵(たんあん)」もゆっくり観たいのですが、特別展を行っている平成知新館の前の、ロダンの「考える人」にご挨拶して博物館を辞しました。

三十三間堂前から京都駅までバスに乗るのですが、バスが混んでいて2台見送りました。駅に着き、定番の土産を買おうとしたところ売り切れでした。デパ地下に行けば大丈夫だろうと行ってみると、何とその店舗の前は長蛇の列。そんなに人気があるんだぁと、驚くやら呆れるやら。横浜のデパートの地下でも売ってるからいいかと、言い訳をしながら土産よりも食事ということで、エレベーターで11階へ。お目当ての和食のお店に着くと、“予約以外の人は8時半からでないと”といわれる始末。土曜日であることを侮っていました。一つ下の階へ降り、ライトアップされた京都タワーを眺めながら食事をし、
   ♫遠い日は 二度と帰らない 夕やみの東山
などと口ずさみ、グラスを傾けたのでした。
なごりを惜しみながら駅構内で土産物を少し買い、京都発20:53分のひかり538号に乗車。予定通り22:51分に小田原に着きました。

急な思いつきで出かけた京都。約13時間の京都滞在。「慈照寺東求堂」と「海北友松」をゆっくり見学するつもりが、結構いけいけ旅行になってしまいました。
それでも、白い京都の片隅に想い出をつくることができました(笑)。

時期さえうまくずらせば、京都もすいてます。
でも、桜や紅葉の盛りの季節にも訪れてみたいです。

次回は、計画的に、時間にゆとりを持って、旅してみたいと思います。



大人の修学旅行 〜 京都慕情4   「御寺」の謎

大人の修学旅行 〜 京都慕情4   「御寺」の謎

GWもあっという間に終わってしまいました。
皆さん、リフレッシュはできたでしょうか?
それにしても、今年のGWは暑かったですね。
まるで夏を思わせるような陽気でした。
前置きはこのくらいにして、お話しを進めますね。

東福寺まではタクシーですぐでした。
東福寺で拝観料を払おうとすると、期間限定で“初夏の東山「東福寺・泉涌寺・智積院」三ヵ寺巡り”というキャンペーンを行っているので時間があれば是非との誘いを受け、三ヵ寺巡りのチケットを購入したのでした。

ここも人はあまりおらず、じっくり庭園を拝見することができました。
寺の名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」としたのだそうです。通天橋も紅葉の時期には大変な人混みと聞きますが、秋に訪れたことのない僕が言うのも何ですが、秋は最高でしょうね。訪ねる価値はあると思います。
またここは、京博で特別展を行っている「海北友松」が、幼少期に預けられた寺でもあります。方丈庭園も素敵です。
時間があれば塔頭(たっちゅう)も訪ねてみたいのですが、今回は東福寺や泉涌寺が初めての家人がおり、急遽、智積院も訪ねることとなったので、庭園中心の見学となりました。
広い境内を歩きながら、東福寺は、幕末の鳥羽・伏見の戦いの際には野戦病院さながらの役割を果たし、この戦で亡くなった方々の御位牌も多く残されていると家人に話したのですが、説明の仕方が悪かったのか余り興味を示しませんでした。

この後、泉涌寺に向かいます。タクシーを捕まえられず、山道を歩けばさほどの距離でもないからと、日吉ヶ丘高校の脇の山道を抜け、東山泉小中学校の横を通って泉涌寺道に出ます。東福寺から泉涌寺まで、ずっと登り坂が続きました。以前同じコースをたどった時は平気だったのに・・・日頃の運動不足の身には、結構きつかったです。

泉涌寺道をすすんでくると、「拝跪聖陵(はいきせいりょう)」と書かれた石碑があります。右に行くと泉涌寺、左に行くと塔頭の今熊野観音寺、砂利が敷きつめられた道ををまっすぐに進むと皇室の陵墓です。時間に余裕がないので、泉涌寺のみの見学とします。

東福寺や泉涌寺は、修学旅行のコースとしてはマイナーな部類だと思いますが、それにしても人がいません。何と閑静なことか。泉涌寺では出会った方が6人です。完全に貸し切り状態です。ゆっくり庭園を堪能できました。

泉涌寺は、貞応3年(1224年)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められました(この年は、承久の乱を経て、北条泰時が執権となった年でもあります)。後堀河天皇と次代の四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれ、この頃から皇室との結び付きが強まったのだそうです。後水尾天皇(在位期間1611〜1629年、2代将軍徳川秀忠、3代将軍家光の治世。譲位した後、4代にわたって上皇として院政を執った)から幕末の孝明天皇までの39の陵墓がある皇室の菩提寺です。泉涌寺の霊明殿には、天智天皇から昭和天皇に至る歴代天皇皇后の御位牌が安置されています。内部は非公開です。
本坊から御座所へ行き、御座所庭園を見学します。海会堂(かいえどう)に面して、緩やかな勾配の築山があり、鶴島と亀島の間の白砂が海を表現しています。ここにある八角形の雪見灯籠は仙洞(せんとう)御所より移されたもので、「泉涌寺型(雪見)灯籠」といわれ、桂離宮の雪見灯篭(桂離宮型)と双璧をなすものだそうです。泉涌寺型は雪見灯籠の原型といわれています。また、仙洞御所とは退位した天皇(上皇・法皇)の御所のことで、寛永4年(1627年)、後水尾上皇のために京都御所の南東部に造営されました。

余談ですが、「院政」は中学校社会科歴史で扱います。1086年、白河天皇は譲位して上皇となり院で政務を執ります。これが院政の始まりです。白河上皇は天皇在位期間を含め57年にわたり政治の実権を握っています。
白河上皇の言葉に「天下三不如意」(てんかさんふにょい)があります。「賀茂川(鴨河かもがわ)の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師」の三つのみが、わが心にかなわぬものという逸話です。その権力は絶大なものでした。山法師とは延暦寺の僧兵のことです。

話を泉涌寺に戻します。祖先の墳墓を築き、累代の位牌を安置してその冥福を祈るために建立した寺のことを「香華院(こうげいん)」というのだそうです。泉涌寺は皇室の「香華院」として、御寺(みてら)と尊称されるようになったとのことでした。

しかし、不思議なことに天智天皇の次からの天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、称徳(孝謙天皇が重祚(ちょうそ)して称徳(しょうとく)天皇となります。同一人物です)の御位牌は祀られていません。
その辺の詳しい事情はわかっていないようです。が、天武系最後の天皇、称徳(孝謙)天皇が道鏡事件を引き起こしたからという説や、天武系の血を継ぐ皇族がいなくなったからとする説があります。

天智天皇と天武天皇の関係性につきましては、2015.6.10のこの欄、「時にまつわるお話その1」を参照されてください。

孝明天皇の崩御については、毒殺説や意図的に痘瘡に感染させたとする説など多くの疑惑が残されています。また、岩倉具視や伊藤博文が関与していたとする説もあります。幕末の謎の一つです。

東福寺の鳥羽・伏見の戦いでの御位牌や泉涌寺の御位牌にまつわる謎を紹介しましたが、もう一つ、孝明天皇に関連して皇女和宮の御位牌にまつわるお話を紹介します。

2015.02.25のこの欄、大河ドラマ「花燃ゆ」〜松蔭と象山1でも触れましたが、箱根塔ノ沢温泉元湯中田家(明治23年、伊藤博文が還翠楼と命名)で終焉を迎えた皇女和宮(静寛院宮)は、孝明天皇の異母妹です。
箱根塔ノ沢の阿弥陀寺には、和宮の御位牌が置かれています。
御位牌には「静寛院殿二品親王好誉和順貞恭大姉 尊儀」と書かれています。
しかし、明治10年に宮内省が発表した法号は「静寛院宮二品内親王好誉和順貞恭大姉」となっております。
現在、芝増上寺増上寺大殿右横の安国殿には、14代将軍家茂の戒名「昭徳院殿大相國公光蓮社澤譽道雅大居士」とならんで、「静寛院宮贈一品内親王好誉和順貞恭大姉」と記された御位牌がならんでおります。比較してみると、
 阿弥陀寺 : 静寛院殿二品親王好誉和順貞恭大姉
 宮内省発表: 静寛院宮二品内親王好誉和順貞恭大姉
 増上寺  : 静寛院宮贈一品内親王好誉和順貞恭大姉
少しずつ違いがありますね。
これにはきちんとした謂われがあるのですが、いずれまたの機会にしますね。

いつもながら脈絡滅裂で、何の話をしていたのかわからなくなっております。

今回はここまでです。




大人の修学旅行 〜 京都慕情3     哲学の道からねねの道

大人の修学旅行 〜 京都慕情3     哲学の道からねねの道

慈照寺を後にして、橋本関雪の白沙村荘へ駆け足で寄りました。
関雪の絵画はもちろんですが、ここは庭園が素敵です。さりげなく置かれた石像に魅せられます。
皆、慈照寺へは行くのに白沙村荘に寄らないのはもったいないです。
機会があれば是非! お薦めです。

白沙村荘を一通り見学したあと、哲学の道を歩きました。
ところどころで名残を惜しむように桜も咲いており、人通りも少なく、のんびりと歩くことができました。

途中の熊野若王子(にゃくうおじ)神社の近くには、今は営業していませんが喫茶「若王子」があります。
僕が中学生の頃、最初に読んだ司馬作品が「燃えよ剣」でした。
当時も新撰組は人気で、テレビ(10チャンネル)でも放映されました。
土方歳三を栗塚旭、沖田総司を島田順司、町医者とナレーションを左右田一平の各氏が演じていました。
小説では、司馬さんの新撰組血風録や子母沢寛さんの新撰組始末記、新撰組物語などが人気でした。

その、栗塚さんのご家族がこの喫茶店を営まれており、栗塚さんもよくお店に出ていたそうです。営業中に2度ほど尋ねたことがありますが、残念ながらお会いすることはありませんでした。そんな昔語りをしながら南禅寺まで歩いたのでした。

余談ですが、僕が読んだ「燃えよ剣(完結編)」は、ポケット文春という新書版の大きさで、280円の定価がついてます。講談社発行の「俄」や「軍師二人」も同様の大きさで、250円でした。文庫版よりも当時は一般的だったのでしょうか?

さて、南禅寺といえば「楼門五三桐」(さんもんごさんのきり)。
かの石川五右衛門が煙管を吹かして、「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両・・・」というせりふは聞いたことがありますね。満開の桜の景色を愛でて言ったせりふです。歌舞伎の人気演目です。

同行の家人は三門に上がったことがないというので、500円払って上がると、思わず“絶景かな”と叫んでいました。土曜だというのに、自分たち以外には異国の方が二人いらっしゃっただけで、その方たちもすぐに降りられたので絶景を独り(二人)占めしたのでした。南禅寺の三門は、別名「天下竜門」とも呼ばれ、日本三大門の一つに数えられています。三大門の残り2つの門は、知恩院と久遠寺(山梨県)です。
ここから知恩院は近いのですが、先ずは食事です。

南禅寺界隈の有名な湯豆腐のお店は、さすがに混んでいます。
時間待ちするものもったいないので、タクシーの運転手さんに茶屋風で手頃な食事処を紹介してもらい、連れて行ってもらいました。
東山安井の交差点近くの路地を入ったお店は、コスパに優れ、十分満足できるものでした。部屋の壁には種田山頭火の句が飾ってありました。

食事後、石塀小路を抜け高台寺へと向かいます。途中、どこからともなく三味線の音が聞こえてきます。何と茶屋の店先で長唄のライブを行っていました。しばし聞き惚れていました。お座敷で食事をしながら長唄などを聴くには、一体どのくらいの福沢さんが必要なのかな? などと考えました。まぁ、庶民の僕には考える必要もありませんが・・・

高台寺は、北の政所(ねね)が夫、豊臣秀吉の菩提を弔うため伏見城の化粧御殿とその前庭を移築し、77歳で亡くなるまでの19年間を過ごしたのだそうです。家康の庇護もあって広大な敷地があります。

余談ですが、伏見城は文禄5年(1596年)に指月(しづき、しげつ)山に完成しますが、直後に起きた慶長伏見地震によって倒壊してしまいます。その際、いち早く秀吉の元へ駆けつけたのが加藤清正だったそうです。その後、場所を近くの木幡(こはた)山に移して再建されます。伏見城は秀吉終焉の場所でもあります。秀吉の死後、豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、徳川家康が伏見城で政務を執ります。また、関ヶ原の戦いの折には家康の家臣鳥居元忠が伏見城を守っていましたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失しています。焼失したこの城は家康によって再建されますが、京の城郭は二条城に集約され、元和5年(1619年)に廃城となります。木幡山伏見城跡は明治天皇・皇后の墓所「伏見桃山陵」となっております。

話を高台寺に戻します。霊屋(おたまや)では、「左側の白い布をかぶっているのがねねさんで、その下2メートルを掘るとご遺体が出てきます。右側の秀吉の下を掘っても何も出てきません」とガイドの方が説明します。以前訪れた時も同じ説明をされたことを思い出し、思わず笑ってしまいました。さらに、「高台寺蒔絵は世界的にも有名ですからよく見ておいてください」と、これも同じせりふです。一人でニヤニヤしていると、家人にそんなに面白い? と聞かれました。お笑い番組を観ても笑わないばかりか、時につまらないと怒り出す僕が笑ったのが、よほど不思議だったのでしょう。
ガイドの方の説明はありませんでしたが、須弥壇や厨子の蒔絵だけでなく背後の壁画も素敵でした。

高台寺の高台には、傘亭と時雨亭という二つの茶屋があります。
茶の湯をたしなむのが好きだった秀吉が伏見城で使用していた茶室を、ねねは高台寺の庭園に移築させました。「傘亭」は、利休の意匠で、傘を開いた時のような放射状に組まれた天井に特徴があります。「時雨亭」は2階建ての茶室(1階が水屋)で、「傘亭」とは土間廊下でつながっています。
大坂城落城の折、ねねはこの「時雨亭」から眺め、涙していたそうです。時雨亭の命名も、ねねの涙からという説もあるそうです。

高台寺とねねの道を挟んで円徳院があります。円徳院は木下家ゆかりの寺院です。方丈には豊臣家の家紋である五七の桐がちりばめられた長谷川等伯(とうはく)の襖絵があり、見応えがあります。当時は後に江戸幕府御用絵師として活躍する狩野永徳・光信・内膳・長信を中心とする狩野派が一世を風靡しているのですが、狩野派以外にも海北友松(かいほうゆうしょう)・雲谷等願(うんこくとうがん)・長谷川等伯は、金箔地に青・緑を彩色する濃絵(だみえ、金碧画(きんぺきが)ともいう)の豪華な障壁画を描きます。高台寺蒔絵も含め桃山文化の代表的作品でもあります。

この等伯の襖絵は、元々は大徳寺三玄院にあったものだそうです。
三玄院が建てられた時、等伯が襖絵を描かさせて欲しいと頼んだのだそうですが断られたため、住職の許可を得ないまま、その留守中に上がり込んで描き上げたのだそうです。なぶり書きで描けるようなものではありません。どのくらいの時間を費やしたのでしょうか・・・?

ねねの道周辺では、和装の人を多く見かけました。
レンタルの着物を着て、石畳を歩く・・・それはそれで、風情があるのですが・・・
僕らの世代は、京都といえば、
 ♪結城(ゆうき)に塩瀬(しおぜ)の素描(すがき)の帯
  大島つむぎにつづれの帯
  塩沢がすりに名古屋帯♪
というイメージなのですが、時代錯誤ですかね(笑)・・・
紬や絣の着物を着た方は見かけることはありませんでした。
いずみたくさん、永六輔さんも遠い存在となりました。

時間もだいぶ押してきましたが、少し欲張って東福寺と泉涌寺に向かうことにします。

今回はここまでです。




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