学校での子どもたちの様子をお伝えします。

79年目の二・二六事件

79年目の二・二六事件                     

 今年は戦後70周年の節目の年です。先日6年生はもと中学校教員の飯田先生を講師にお招きして、「戦時下の小田原」についての学習を行いました。小田原にも空襲があったことや戦争の悲惨さに、子どもたちは真剣なまなざしで聞き入ってました。
 戦争への道、軍部の政治的発言力が大きくなるきっかけの一つに二・二六事件があります。この事件を中心に第二次世界大戦のはじまりについてふれてみます。

 二・二六事件は昭和11年(1936)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした日本近代史上未曾有の軍事クーデター未遂事件です。歴史の教科書等にも載ってますが、戒厳司令部が「下士官兵に告ぐ 今からでも遅くないから原隊に帰れ 抵抗するものは全部逆賊であるから射殺する おまえ達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ」、「兵に告ぐ、敕命が發せられたのである・・・」は一度はきいたことがありますね。

 実は小田原の近くの湯河原も、事件の舞台となっています。
 この事件が起きたのは昭和11年2月26日の未明、関東地方としてはめったにない大雪の朝でした。「皇道派」の青年将校約20人が率いる1400人余りの将兵が「天皇親政」を掲げて決起し、完全武装で国の主要機関や要人邸など東京市内十数カ所を襲います。
 反乱部隊は各部隊ごとに決められた襲撃目標に向かい、国会議事堂、首相官邸、警視庁などを占拠し、首都の中枢を掌握します。これによって斎藤実(まこと)内大臣、高橋是清(これきよ)大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監の三人が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負います。岡田啓介首相は義弟の松尾伝蔵大佐が誤認により射殺され、本人は危うく難を逃れました。

 この日、東京以外で唯一襲撃されたのが湯河原の伊藤屋旅館別館「光風荘」です。ここには前内大臣牧野伸顕伯爵(明治の元老、大久保利通の次男)が家族や使用人と滞在していました。襲撃したのは河野寿大尉が指揮する八人でした。
 東京と同じように雪の降り積もる早朝、「電報」と叫ぶ声に護衛の警官が出てみると、東京から自動車に分乗してきた武装兵士でした。静かな温泉街に銃声が響き、建物は放火されます。牧野伯爵は女中や消防団の気転で婦人物の衣類をかぶり家族らと裏から逃れて無事でした。銃撃戦によって護衛の皆川巡査は死亡、伯爵づきの看護婦や地元消防団員(岩本亀三:岩本屋旅館主人、八亀広蔵:伊豆屋旅館主人)が銃弾や消火作業で負傷します。首謀の河野大尉は重傷を負って熱海の病院に収容され一命は取りとめますが、のちに実弟に促されて差し入れのナイフで自決します。また、牧野伸顕(のぶあき)、峰子夫妻の孫の吉田和子は事件当時20歳。祖父母に付き添って湯河原に滞在中事件に巻き込まれ、牧野伯爵を外に逃がすなどしました。父は吉田茂元首相。のちに麻生太賀吉に嫁ぐ、麻生太郎元首相(現、副総理、財務大臣、金融担当大臣)の母です。
 この事件に関する軍法会議で、将校17人と民間人2人が死刑、無期禁固5人、有期禁固54人となります。このうち湯河原関係では民間人2人(1人は陸軍に在籍歴有り)が死刑、兵士5人と民間人1人が禁固15年となっています。いずれも血気盛んな20歳代を中心とする青年でした。

 これより4年前の昭和7年(1932)5月15日に起きた五・一五事件では犬養毅(つよし)首相が射殺され、20人以上の政府要人や財界人が襲撃の対象だったことが明るみに出ます。しかし荒木陸相は談話で将校の行為に理解を示し、決起した将兵の厳罰は行われませんでした。このことがのちの2・26事件につながったとの見方もあります。元老の西園寺公望(きんもち)は次の首相に海軍大将の斎藤実を推薦し、斎藤は軍部・貴族院・官僚・政党から閣僚を選び、8年間続いた政党内閣は崩壊します。この後、軍部が政治を主導していくことになり、政党政治は太平洋戦争終了まで復活することはありませんでした。

 2・26事件の翌1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突を起こします。近衛文麿内閣は不拡大方針をとりますが、強硬派の意見に押され軍事行動を拡大し、日本と中国は日中戦争に突入していきます。1939年9月1日、ドイツは突如ポーランドに侵入し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告、第二次世界大戦が始まります。日本は40年9月に日独伊三国同盟を結び、南方面への積極的進出を図ります。日本の「北守南進」に警戒感を強めたアメリカとの関係を調整するため、41年4月から日米交渉を始めますが・・・日本は12月8日、ハワイの真珠湾を攻撃しアメリカ・イギリスに宣戦布告し太平洋戦争が始まります。
 また、3日後にはドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告したので、第二次世界大戦は、アジア・太平洋地域とヨーロッパ地域を戦場とする大戦争となっていきます。

 現在、焼失した湯河原の「光風荘」は当時の間取りで再建され資料館となってます。土日にのみ開館してますが、予約をすれば平日の見学も可能です。2月26日は予約なしで公開しております。興味のある方は尋ねてみてください。

家康没後400年目の年に

家康没後400年目の年に

 今年は、徳川家康が亡くなってから400年目を迎えます。1616年6月1日、駿府城で亡くなり久能山東照宮に埋葬されますが、翌年日光東照宮へ改葬されます。家康ゆかりの地では、400年を顕彰するイベントも開かれるようです。

先日開催された嚶鳴フォーラムで作家の童門冬二氏は、「家康が江戸に入城した際、北条氏の政治を民は求めた。それは北条氏が徳による政治を展開していたからだ。」と話されました。北条氏は代々、税も安かったようです。氏の話とは直接関係はないのですが、家康の関東入りについての思いを述べてみます。

 天正18(1590)年8月に、家康は三河等5ヶ国から旧北条領の関八州に転封となり、豊臣秀吉の薦めもあって本拠地を江戸に定めます。大久保彦左衛門が著した『三河物語』などには、父祖伝来の所領である三河を奪われた家康主従は、泣く泣く未開の関東に下っていったように描かれています。大河ドラマ「江」でも、そうした表現をしていました。

 しかし、僕はそんなことがあろうはずがないと思います。家康は「ラッキー」とばかり小躍りしたくなったんじゃないのでしょうか。所領は150万石から250万石になるのですから、経済力、軍事動員力は飛躍的に増します。加えて、しがらみのない土地であれば、徴税や徴兵の仕組みも一から作ることができ、かえって統治がしやすいわけです。三河国内は一向一揆なども起こり、家康は統治に結構苦労していました。家康の家臣にとっては慣れ親しんだ土地を離れる辛さがあったのでしょうが、大名としての家康の損得勘定はそんなところじゃないかなと思います。

 老獪な秀吉が何故このような提案をしたのか理解に苦しむんです。政敵をより強力にするように仕向けただけですから。その当時の秀吉は、家康と日本を二分してもよいくらいのことを考えていたのかもしれません。小牧・長久手の合戦以来、秀吉が家康に対して一貫して好意的であることを考えると、あながち考えられないことではないと思うんです。

 秀吉の真意や家康の思いについても、想像の範囲を超えることはありません。上記以外にも様々な興味を引かれる点があります。
 400年目のイベント等で家康だけでなく、江戸時代の知恵や思い、文化に少しでも触れてみたいと思います。
 歴史って面白いですね。


イベントの一例
東京大江戸博物館 「大関ケ原展」 3月28日から5月17日
静岡市商工会議所、静岡市、浜松市、岡崎市でも史跡巡りをはじめイベントがあります。
日光東照宮も将軍家が参拝した道を東京から歩いてたどるイベントを実施するようです。

最後のブルートレイン

最後のブルートレイン

 この3月のダイヤ改正で、北陸新幹線の開業とともにブルートレイン(ブルトレ)の定期運行が廃止されます。現在運行されている上野〜札幌間を結ぶ「北斗星」が、3月13日発をもって廃止され、青森〜札幌間の寝台急行「はまなす」も不定期運行のようです。車両の老朽化や2016年に開業予定の北海道新幹線(新青森〜新函館北斗間)の試運転などが始まり、列車の運行が難しくなるためとの理由です。
 寝台列車は東京〜出雲市間を結ぶ「サンライズ出雲」と東京〜高松間を結ぶ「サンライズ瀬戸」のみとなります。しかし、現在の「出雲」も「瀬戸」もブルトレではありません。

 上野〜札幌間を約16時間かけて結ぶ「北斗星」は、青函トンネルが開業した 1988年に本州と北海道を結ぶ寝台特急としてデビューしました。個室中心の設備やフルコースディナーを提供する食堂車など豪華寝台特急として話題になりました。
 さらに走る豪華ホテルともいわれ、大阪〜札幌間を日本海側経由で結ぶ寝台特急「トワイライトエクスプレス」も3月12日発をもって廃止です。1999年デビューのカシオペアは不定期運行で残るようです。

 僕がまだ小学校高学年から中学生の頃、ブルトレは憧れの的で、電気機関車は時代と共に変化しますがEF58、EF65が20系、14系客車を牽引している姿を真鶴駅や根府川駅近くの鉄橋(白糸川鉄橋)によく見に行きました。EF66もブルトレを牽引しているのですが、貨物を牽引していた印象が強いです。

 最初に東京発着のブルトレに乗ったのは中学卒業後の春休み。19時30分、熱海駅発の「富士」で弟と二人、周遊券を手に日豊線経由で西鹿児島まで行ったのでした。三段寝台で約25時間の旅でした。西鹿児島駅は今はないのですが、駅で駅弁を買い、すぐに急行「かいもん」で博多に向かいました。一週間ほど宿に泊まることなく、九州電車の旅を満喫したのでした。当時は博多〜長崎間に普通寝台(急行や特急ではなく、寝台券さえあれば乗れました)も走ってました。帰りは「みづほ」で早朝の熱海駅まで帰ってきました。

 はやぶさ、あさかぜ、ふじ、さくら、みずほ・・・皆姿を消しました。特急ではないのですが、「銀河」「出雲」「瀬戸」(出雲・瀬戸は後に特急になります)などの寝台急行も走ってました(大阪万博は急行瀬戸で帰ってきました)し、東京〜西鹿児島間を急行「桜島・高千穂」も走ってました。全車両自由席で寝台車はついていません。小倉から「桜島」は鹿児島本線の博多・熊本を経由し西鹿児島まで約25時間40分、「高千穂」は日豊本線の大分・宮崎を経由し28時間20分ほどかかっていました。小田原には午前11時23分頃に停車してました。東京から門司までの直流区間はEF58が、九州の交流区間はED73、75、76が牽引してました。

 最近の旅の交通手段はもっぱら自動車で、鉄道を使うことはめっきり少なくなりました。青い車体で走るブルトレが姿を消す、これも時の流れなのでしょうが、ノスタルジーだけでなく、寂しい感がしてなりません。「夜行列車」や「夜汽車」という言葉もやがて使われなくなるのでしょうね。また、昭和が遠くなったような気がします。

 EF58、EF66、ED75とナハネフ22形式客車(あさかぜ最後尾展望車両)は大宮の鉄道博物館に展示されています。

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