学校での子どもたちの様子をお伝えします。

赤穂浪士討ち入り〜その2

歴史のアイデンティティー

赤穂浪士討ち入りは旧暦の元禄15年12月14日ですが、西暦になおすと1703年1月30日だそうです。内蔵助は熊本藩細川家江戸下屋敷(現、都営アパート)で、息子主税(ちから)は伊予松山藩松平家三田中屋敷(現、イタリア大使館)で切腹し、高輪の泉岳寺に埋葬されています。

学生時代、泉岳寺が近かったので時々行ってました。近くにある高輪消防署もなかなか趣のある建物です。東京・品川方面に行った折りに是非、寄ってみてください。

忠臣蔵といえば赤穂が舞台ということで、赤穂市内にはいたる所に忠臣蔵関係の史跡があります。赤穂城は既にないのですが門は残っているので、ドラマのロケなどはそこで行われるそうです。更に、大石内蔵助の屋敷跡が今は大石神社になっており、庭は往時のままだそうです。

しかし考え頂きたいんです。
赤穂浅野家は18世紀の初めに改易されてしまった訳ですから、浅野時代の遺物が現代までさほど残っていようはずがないわけですね。加賀の前田家や熊本の細川家、薩摩の島津家のように近代まで続いた大名家ではないのですから。

浅野家の後に赤穂に入ったのは永井家ですが、そのすぐ後に森家が移ってます。織田信長の重臣であった森可成(よしなり)長可(ながよし)、そして森蘭丸の一族といえばわかりますね。その後の歴史を考えると、赤穂藩を治めていた期間は森家の方が遥かに長いわけです。しかし現在の赤穂市には、可哀想なぐらい森家の存在感はありません。

その土地の人が郷土の誇りと感じている事跡というのは、歴史の長さとは関係がないということのようです。短くとも一瞬の光芒を放つことが重要なのであり、人はそれをアイデンティティとしないと生きていけないのかもしれません。

鹿児島に行くと分かるのですが、島津家の史跡よりも西郷や大久保、その他、明治の元勲ゆかりのものがいかに多いことか。
きっと鹿児島県民にとっては、鎌倉時代以来その地を治めてきた島津家より、維新の時に活躍したヒーロー達により愛着があるのでしょうね。
磯庭園と呼ばれる島津家ゆかりの仙巌園も人々には愛されていますが・・・

そのことを否定するつもりは毛頭ないのですが、そればかりに依拠していては重大な「事実」を見過ごしてしまいかねません。注意! 注意!


おまけ

播州の地は歴史的に見て、なかなか興味をそそられる場所の一つです。赤穂浪士のほかにも、様々な歴史事象があります。

今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」もいよいよ最終回ですが、官兵衛は播州姫路で生まれ、やがて小寺氏の近習となり才覚を発揮していきます。

歴史を少しさかのぼると、播磨の地は室町幕府六代将軍足利義教を殺害した守護大名赤松満祐の所領でした。将軍殺害後、赤松満祐は幕府軍に討伐(1441年、嘉吉の乱)されますが、将軍の権威は低下し、やがて応仁の乱へと歴史は動いていきます。

戦国時代になると織田氏と赤松氏の流れをくむ別所氏との合戦(三木合戦、みきかっせん:天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日))がおこります。織田軍の羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城します。秀吉の軍師であった官兵衛は、三木の干殺し(みきのひごろし、ほしごろし)と呼ばれる兵糧攻めを実行します。

関ヶ原の戦いがもう少し長引き、徳川家康と島津義久が和睦しなければ、官兵衛は九州を平定し次の一手を打っていたかもしれません。
「れば・たら」は酒のつまみ・・・十分承知してはおりますが・・・
最終回ではその辺りを扱うのでしょう。楽しみです。

歴史って、本当に面白いですね。

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