学校での子どもたちの様子をお伝えします。

赤穂浪士討ち入り〜その1

赤穂浪士討ち入り

暮れが近づくと、赤穂浪士を題材にしたドラマや歴史番組が放映されます。そこで今日のお話しは赤穂浪士についてです。

時は元禄15年12月14日(旧暦)ですが、西暦になおすと1703年1月30日だそうです。討ち入り事件の発端は、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)に播磨赤穂藩主の浅野長矩(ながのり・内匠頭たくみのかみ)が、高家旗本・吉良義央(よしひさ・上野介こうずけのすけ)に対して江戸城殿中松の廊下において刃傷におよび、殿中抜刀の罪で即日切腹・赤穂藩改易を五代将軍綱吉に命ぜられたことに由来します。

内匠頭が上野介に刃傷に至った原因については、吉良が浅野に勅使御馳走役の作法について嫌がらせをしたとする説と、塩を巡るトラブルがあったとする説が有力ですが、いずれも決定的ではありません。
作法についてのトラブルだとすると、責任を取らされるのは上野介自身ですし、内匠頭は事件の18年前に勅使饗応役を務めていますから、今更作法を知らずに恥をかいたということはありえません。また、赤穂の塩の製法・販路をめぐるトラブル説もありますが、赤穂の塩が全国区だったのに対し、吉良の塩は地元で流通するだけのものですから、市場は競合していません。最有力な説は内匠頭の発作的な犯行という見方です。事件後の事情聴取でも、理由について「私的な遺恨でだが、詳細は今は言えない」と繰り返すばかりで、即日切腹させられてますから真相はわからずじまいです。

なぜ綱吉が、たいした吟味もせず即日切腹させたのか? 綱吉の生母桂昌院や側用人柳沢吉保も絡んだ逸話もあるのですが、詳細は略します。

林羅山の門下で朱子学を学んだ山鹿素行は、その後、幕府の正学であった朱子学を批判したことから赤穂藩お預けの身となり、赤穂藩士に儒学や兵法の教授します。大石良雄(内蔵助)も門人の一人です。吉良邸討ち入りで、内蔵助は山鹿流兵法を実践して見せたわけです。

上野介の領地三河国幡豆郡では、治水事業や新田開拓や人柄から名君とされています。しかし、旗本の多くは江戸に常住して領地は幕府が任命した代官に任せるのが一般的で、実際には上野介が領民と接する機会はなかったようです。 

討入りから4年後の1706年(宝永3年)、この事件に題材をとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座で上演されます。そしてその集大成が1748年(寛延元年)に上演された二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』です。当時の人々に大変人気で、すぐに歌舞伎の演目にもなります。


僕らの世代には、三波春夫さんの大忠臣蔵が印象深いですし、また、長谷川一夫さんの「おのうのう方、討ち入りでござる」のセリフも、印象に残ってます。
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