学校での子どもたちの様子をお伝えします。

J R御殿場線開業80周年

J R御殿場線開業80周年

 御殿場線は今日12月1日で開業80周年を迎えました。
 かつて、東海道本線は国府津から御殿場、沼津へ抜けていました。国府津から先は熱海線と称し、丹那トンネルが開通してからは現在の姿となりました。

 その丹那トンネルが開通したのは1934年(昭和9年)、今から80年前のことです。丹那トンネル開通を題材にした吉村昭氏の小説「闇を裂く道」は、大正7年(1918)の着工から16年の歳月を費やし、水と土と熱の難工事の詳細を克明に綴っています。予定の倍以上の工期と当初予算の4倍近くの金、67名の犠牲者のうえに昭和9年9月30日に貫通します。又、トンネル上の村におこる渇水や伊豆大地震の様子も描かれています。

 余談ですが、大正7年(1918年)頃の日本は第一次大戦の好景気で農村人口は都市に吸収され、農産物価格も上昇して農家の収入は増大します。しかし、生活必需品の物価も上昇したので、収入増加の割には家計は楽にならなかったようです。また、都市でも大戦景気による「成金」が生まれます。工業労働者の増加と人口の都市集中は米の消費量を増大させ、インフレ傾向が続き、物価も相当高騰します。大正7年に入ると米価は急上昇し庶民の生活は脅かされることとなります。7月には富山県の漁村の主婦たちが米価の高騰を阻止しようと運動を始め、全国に広がり各地で米騒動が起こります。政府は外米の輸入や米の安売りを行うと同時に、軍まで出してその鎮圧に当たります。寺内内閣は世論の激しい非難の中、9月に総辞職します。

 昭和9年12月1日には丹那トンネルが開業し、東海道線は国府津−熱海−沼津を通るようになります。従来の国府津−沼津間は御殿場線と命名され現在に至ります。その御殿場線も昭和43年4月に国府津−御殿場間が、7月に御殿場−沼津間が電化されると、蒸気機関車やディーゼルカーに代わって電車が主役となります。最終列車を牽引したD5270は山北機関区跡の公園に記念展示されています。D5272は御殿場湯沢平公園に保存されていましたが、現在は御殿場駅前に移されています。

 国府津駅構内には機関車庫があり、もちろんターンテーブルもありました。前出の蒸気機関車D5272がしばらくの間、格納されていました。この機関車庫は明治43年製(1910)で、鉄筋コンクリート造りの大型構造物としては日本で1・2を争う古いもので、土木学会の論文でも紹介されていたようです。また建設を担当した大成建設(旧大倉組)のHPにも、会社の実績として紹介されています。小学生の頃、祖父に連れられ御殿場線蒸気機関車の旅も何度か経験しました。その後中学生になった僕は、部活の合間に何回かD52を見に行ったものでした。やがて興味が他のものに移り、正確な年は失念しましたが70年代の終わり頃(78年?)まで車庫はあったような気がします。
 現在、機関車庫やターンテーブルは京都梅小路機関区で、動態・静態保存されている機関車と一緒に見ることができます。

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