学校での子どもたちの様子をお伝えします。

大人の修学旅行 〜 京都慕情4   「御寺」の謎

大人の修学旅行 〜 京都慕情4   「御寺」の謎

GWもあっという間に終わってしまいました。
皆さん、リフレッシュはできたでしょうか?
それにしても、今年のGWは暑かったですね。
まるで夏を思わせるような陽気でした。
前置きはこのくらいにして、お話しを進めますね。

東福寺まではタクシーですぐでした。
東福寺で拝観料を払おうとすると、期間限定で“初夏の東山「東福寺・泉涌寺・智積院」三ヵ寺巡り”というキャンペーンを行っているので時間があれば是非との誘いを受け、三ヵ寺巡りのチケットを購入したのでした。

ここも人はあまりおらず、じっくり庭園を拝見することができました。
寺の名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」としたのだそうです。通天橋も紅葉の時期には大変な人混みと聞きますが、秋に訪れたことのない僕が言うのも何ですが、秋は最高でしょうね。訪ねる価値はあると思います。
またここは、京博で特別展を行っている「海北友松」が、幼少期に預けられた寺でもあります。方丈庭園も素敵です。
時間があれば塔頭(たっちゅう)も訪ねてみたいのですが、今回は東福寺や泉涌寺が初めての家人がおり、急遽、智積院も訪ねることとなったので、庭園中心の見学となりました。
広い境内を歩きながら、東福寺は、幕末の鳥羽・伏見の戦いの際には野戦病院さながらの役割を果たし、この戦で亡くなった方々の御位牌も多く残されていると家人に話したのですが、説明の仕方が悪かったのか余り興味を示しませんでした。

この後、泉涌寺に向かいます。タクシーを捕まえられず、山道を歩けばさほどの距離でもないからと、日吉ヶ丘高校の脇の山道を抜け、東山泉小中学校の横を通って泉涌寺道に出ます。東福寺から泉涌寺まで、ずっと登り坂が続きました。以前同じコースをたどった時は平気だったのに・・・日頃の運動不足の身には、結構きつかったです。

泉涌寺道をすすんでくると、「拝跪聖陵(はいきせいりょう)」と書かれた石碑があります。右に行くと泉涌寺、左に行くと塔頭の今熊野観音寺、砂利が敷きつめられた道ををまっすぐに進むと皇室の陵墓です。時間に余裕がないので、泉涌寺のみの見学とします。

東福寺や泉涌寺は、修学旅行のコースとしてはマイナーな部類だと思いますが、それにしても人がいません。何と閑静なことか。泉涌寺では出会った方が6人です。完全に貸し切り状態です。ゆっくり庭園を堪能できました。

泉涌寺は、貞応3年(1224年)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められました(この年は、承久の乱を経て、北条泰時が執権となった年でもあります)。後堀河天皇と次代の四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれ、この頃から皇室との結び付きが強まったのだそうです。後水尾天皇(在位期間1611〜1629年、2代将軍徳川秀忠、3代将軍家光の治世。譲位した後、4代にわたって上皇として院政を執った)から幕末の孝明天皇までの39の陵墓がある皇室の菩提寺です。泉涌寺の霊明殿には、天智天皇から昭和天皇に至る歴代天皇皇后の御位牌が安置されています。内部は非公開です。
本坊から御座所へ行き、御座所庭園を見学します。海会堂(かいえどう)に面して、緩やかな勾配の築山があり、鶴島と亀島の間の白砂が海を表現しています。ここにある八角形の雪見灯籠は仙洞(せんとう)御所より移されたもので、「泉涌寺型(雪見)灯籠」といわれ、桂離宮の雪見灯篭(桂離宮型)と双璧をなすものだそうです。泉涌寺型は雪見灯籠の原型といわれています。また、仙洞御所とは退位した天皇(上皇・法皇)の御所のことで、寛永4年(1627年)、後水尾上皇のために京都御所の南東部に造営されました。

余談ですが、「院政」は中学校社会科歴史で扱います。1086年、白河天皇は譲位して上皇となり院で政務を執ります。これが院政の始まりです。白河上皇は天皇在位期間を含め57年にわたり政治の実権を握っています。
白河上皇の言葉に「天下三不如意」(てんかさんふにょい)があります。「賀茂川(鴨河かもがわ)の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師」の三つのみが、わが心にかなわぬものという逸話です。その権力は絶大なものでした。山法師とは延暦寺の僧兵のことです。

話を泉涌寺に戻します。祖先の墳墓を築き、累代の位牌を安置してその冥福を祈るために建立した寺のことを「香華院(こうげいん)」というのだそうです。泉涌寺は皇室の「香華院」として、御寺(みてら)と尊称されるようになったとのことでした。

しかし、不思議なことに天智天皇の次からの天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、称徳(孝謙天皇が重祚(ちょうそ)して称徳(しょうとく)天皇となります。同一人物です)の御位牌は祀られていません。
その辺の詳しい事情はわかっていないようです。が、天武系最後の天皇、称徳(孝謙)天皇が道鏡事件を引き起こしたからという説や、天武系の血を継ぐ皇族がいなくなったからとする説があります。

天智天皇と天武天皇の関係性につきましては、2015.6.10のこの欄、「時にまつわるお話その1」を参照されてください。

孝明天皇の崩御については、毒殺説や意図的に痘瘡に感染させたとする説など多くの疑惑が残されています。また、岩倉具視や伊藤博文が関与していたとする説もあります。幕末の謎の一つです。

東福寺の鳥羽・伏見の戦いでの御位牌や泉涌寺の御位牌にまつわる謎を紹介しましたが、もう一つ、孝明天皇に関連して皇女和宮の御位牌にまつわるお話を紹介します。

2015.02.25のこの欄、大河ドラマ「花燃ゆ」〜松蔭と象山1でも触れましたが、箱根塔ノ沢温泉元湯中田家(明治23年、伊藤博文が還翠楼と命名)で終焉を迎えた皇女和宮(静寛院宮)は、孝明天皇の異母妹です。
箱根塔ノ沢の阿弥陀寺には、和宮の御位牌が置かれています。
御位牌には「静寛院殿二品親王好誉和順貞恭大姉 尊儀」と書かれています。
しかし、明治10年に宮内省が発表した法号は「静寛院宮二品内親王好誉和順貞恭大姉」となっております。
現在、芝増上寺増上寺大殿右横の安国殿には、14代将軍家茂の戒名「昭徳院殿大相國公光蓮社澤譽道雅大居士」とならんで、「静寛院宮贈一品内親王好誉和順貞恭大姉」と記された御位牌がならんでおります。比較してみると、
 阿弥陀寺 : 静寛院殿二品親王好誉和順貞恭大姉
 宮内省発表: 静寛院宮二品内親王好誉和順貞恭大姉
 増上寺  : 静寛院宮贈一品内親王好誉和順貞恭大姉
少しずつ違いがありますね。
これにはきちんとした謂われがあるのですが、いずれまたの機会にしますね。

いつもながら脈絡滅裂で、何の話をしていたのかわからなくなっております。

今回はここまでです。




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