学校での子どもたちの様子をお伝えします。

大人の修学旅行 〜 京都慕情3     哲学の道からねねの道

大人の修学旅行 〜 京都慕情3     哲学の道からねねの道

慈照寺を後にして、橋本関雪の白沙村荘へ駆け足で寄りました。
関雪の絵画はもちろんですが、ここは庭園が素敵です。さりげなく置かれた石像に魅せられます。
皆、慈照寺へは行くのに白沙村荘に寄らないのはもったいないです。
機会があれば是非! お薦めです。

白沙村荘を一通り見学したあと、哲学の道を歩きました。
ところどころで名残を惜しむように桜も咲いており、人通りも少なく、のんびりと歩くことができました。

途中の熊野若王子(にゃくうおじ)神社の近くには、今は営業していませんが喫茶「若王子」があります。
僕が中学生の頃、最初に読んだ司馬作品が「燃えよ剣」でした。
当時も新撰組は人気で、テレビ(10チャンネル)でも放映されました。
土方歳三を栗塚旭、沖田総司を島田順司、町医者とナレーションを左右田一平の各氏が演じていました。
小説では、司馬さんの新撰組血風録や子母沢寛さんの新撰組始末記、新撰組物語などが人気でした。

その、栗塚さんのご家族がこの喫茶店を営まれており、栗塚さんもよくお店に出ていたそうです。営業中に2度ほど尋ねたことがありますが、残念ながらお会いすることはありませんでした。そんな昔語りをしながら南禅寺まで歩いたのでした。

余談ですが、僕が読んだ「燃えよ剣(完結編)」は、ポケット文春という新書版の大きさで、280円の定価がついてます。講談社発行の「俄」や「軍師二人」も同様の大きさで、250円でした。文庫版よりも当時は一般的だったのでしょうか?

さて、南禅寺といえば「楼門五三桐」(さんもんごさんのきり)。
かの石川五右衛門が煙管を吹かして、「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両・・・」というせりふは聞いたことがありますね。満開の桜の景色を愛でて言ったせりふです。歌舞伎の人気演目です。

同行の家人は三門に上がったことがないというので、500円払って上がると、思わず“絶景かな”と叫んでいました。土曜だというのに、自分たち以外には異国の方が二人いらっしゃっただけで、その方たちもすぐに降りられたので絶景を独り(二人)占めしたのでした。南禅寺の三門は、別名「天下竜門」とも呼ばれ、日本三大門の一つに数えられています。三大門の残り2つの門は、知恩院と久遠寺(山梨県)です。
ここから知恩院は近いのですが、先ずは食事です。

南禅寺界隈の有名な湯豆腐のお店は、さすがに混んでいます。
時間待ちするものもったいないので、タクシーの運転手さんに茶屋風で手頃な食事処を紹介してもらい、連れて行ってもらいました。
東山安井の交差点近くの路地を入ったお店は、コスパに優れ、十分満足できるものでした。部屋の壁には種田山頭火の句が飾ってありました。

食事後、石塀小路を抜け高台寺へと向かいます。途中、どこからともなく三味線の音が聞こえてきます。何と茶屋の店先で長唄のライブを行っていました。しばし聞き惚れていました。お座敷で食事をしながら長唄などを聴くには、一体どのくらいの福沢さんが必要なのかな? などと考えました。まぁ、庶民の僕には考える必要もありませんが・・・

高台寺は、北の政所(ねね)が夫、豊臣秀吉の菩提を弔うため伏見城の化粧御殿とその前庭を移築し、77歳で亡くなるまでの19年間を過ごしたのだそうです。家康の庇護もあって広大な敷地があります。

余談ですが、伏見城は文禄5年(1596年)に指月(しづき、しげつ)山に完成しますが、直後に起きた慶長伏見地震によって倒壊してしまいます。その際、いち早く秀吉の元へ駆けつけたのが加藤清正だったそうです。その後、場所を近くの木幡(こはた)山に移して再建されます。伏見城は秀吉終焉の場所でもあります。秀吉の死後、豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、徳川家康が伏見城で政務を執ります。また、関ヶ原の戦いの折には家康の家臣鳥居元忠が伏見城を守っていましたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失しています。焼失したこの城は家康によって再建されますが、京の城郭は二条城に集約され、元和5年(1619年)に廃城となります。木幡山伏見城跡は明治天皇・皇后の墓所「伏見桃山陵」となっております。

話を高台寺に戻します。霊屋(おたまや)では、「左側の白い布をかぶっているのがねねさんで、その下2メートルを掘るとご遺体が出てきます。右側の秀吉の下を掘っても何も出てきません」とガイドの方が説明します。以前訪れた時も同じ説明をされたことを思い出し、思わず笑ってしまいました。さらに、「高台寺蒔絵は世界的にも有名ですからよく見ておいてください」と、これも同じせりふです。一人でニヤニヤしていると、家人にそんなに面白い? と聞かれました。お笑い番組を観ても笑わないばかりか、時につまらないと怒り出す僕が笑ったのが、よほど不思議だったのでしょう。
ガイドの方の説明はありませんでしたが、須弥壇や厨子の蒔絵だけでなく背後の壁画も素敵でした。

高台寺の高台には、傘亭と時雨亭という二つの茶屋があります。
茶の湯をたしなむのが好きだった秀吉が伏見城で使用していた茶室を、ねねは高台寺の庭園に移築させました。「傘亭」は、利休の意匠で、傘を開いた時のような放射状に組まれた天井に特徴があります。「時雨亭」は2階建ての茶室(1階が水屋)で、「傘亭」とは土間廊下でつながっています。
大坂城落城の折、ねねはこの「時雨亭」から眺め、涙していたそうです。時雨亭の命名も、ねねの涙からという説もあるそうです。

高台寺とねねの道を挟んで円徳院があります。円徳院は木下家ゆかりの寺院です。方丈には豊臣家の家紋である五七の桐がちりばめられた長谷川等伯(とうはく)の襖絵があり、見応えがあります。当時は後に江戸幕府御用絵師として活躍する狩野永徳・光信・内膳・長信を中心とする狩野派が一世を風靡しているのですが、狩野派以外にも海北友松(かいほうゆうしょう)・雲谷等願(うんこくとうがん)・長谷川等伯は、金箔地に青・緑を彩色する濃絵(だみえ、金碧画(きんぺきが)ともいう)の豪華な障壁画を描きます。高台寺蒔絵も含め桃山文化の代表的作品でもあります。

この等伯の襖絵は、元々は大徳寺三玄院にあったものだそうです。
三玄院が建てられた時、等伯が襖絵を描かさせて欲しいと頼んだのだそうですが断られたため、住職の許可を得ないまま、その留守中に上がり込んで描き上げたのだそうです。なぶり書きで描けるようなものではありません。どのくらいの時間を費やしたのでしょうか・・・?

ねねの道周辺では、和装の人を多く見かけました。
レンタルの着物を着て、石畳を歩く・・・それはそれで、風情があるのですが・・・
僕らの世代は、京都といえば、
 ♪結城(ゆうき)に塩瀬(しおぜ)の素描(すがき)の帯
  大島つむぎにつづれの帯
  塩沢がすりに名古屋帯♪
というイメージなのですが、時代錯誤ですかね(笑)・・・
紬や絣の着物を着た方は見かけることはありませんでした。
いずみたくさん、永六輔さんも遠い存在となりました。

時間もだいぶ押してきましたが、少し欲張って東福寺と泉涌寺に向かうことにします。

今回はここまでです。




大人の修学旅行 〜 京都慕情2  慈照寺 銀沙灘と向月台

大人の修学旅行 〜 京都慕情2  慈照寺 銀沙灘と向月台

東求堂の見学は、10人ずつ2グループに分かれ説明されます。僕らのグループは先に同仁斎の見学をし、その後、方丈(本堂)を見学しました。
前回言い忘れましたが、同仁斎の違い棚の横にある机、出文机(だしふづくえ)と読みます。付け書院ともいわれるようです。

方丈には、与謝蕪村と池大雅、富岡鉄斎、奥田玄宗の襖絵がありました。
方丈は江戸時代に建てられたようです。蕪村も大雅も享保年間の生まれです。享保といえば、徳川八代将軍吉宗の治世です。彼らが襖絵を描いたのは1760年前後だそうです。襖には仙人が描かれていました。杜甫の飲中八仙歌をモチーフに多くの画人が画題としており、後で訪れる海北友松(かいほうゆうしょう)にも飲中八仙図があります。

余談ですが、以前「渡辺崋山」をこの欄で紹介した際に(2015.1.26)、「18世紀半ば以降に、明・清の南画の影響を受けた文人画(南画)と呼ばれる画風がおこり、池大雅と与謝蕪村の合作「十便十宜図」がその代表作です。」と紹介しました。南画は見るとすぐに、中国の影響を受けてるな、とわかります。

大雅の作は、仙人が釣りをしたり酒を飲んだりしています。
蕪村といえば蕉風復興を提唱した江戸中期の俳諧のリーダー的存在です。その蕪村の飲中八仙図の仙人は大変ユニークで、酒に酔った仙人が弟子たちに介抱されています。ただの飲んべえ親爺(失礼)といった感じで、親近観を覚えました。
鉄斎は明治期を中心に、玄宗は昭和期に活躍した人物だそうです。

かの有名な銀閣は観音殿で、東山殿内で最後に建てられ、また創建当初からの遺構を現在に伝える建物だそうです。宝形造(ほうぎょうづくり)、柿葺(こけらぶき)の二重の楼閣で、1階は心空殿(しんくうでん)と呼ばれる書院造、2階は潮音閣(ちょうおんかく)と呼ばれる禅宗様(唐様)で観音像が安置されており、屋根には鳳凰が飾られています。
銀閣には銀が貼られていたのか調査したところ金属反応はなく、銀ではなく漆が塗られていたとの説明がありました。

銀閣(本堂)の内部は公開しないのでしょうか? 
是非、観てみたいですね。
観てみたいというのは、内部はもちろんですが、本堂から見ると月明かりを反射した銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台(こうげつだい)は、どのような感じになるのでしょうか。興味を引かれます。

銀沙灘は砂で急流の流れを表し、中国の西湖の波打つ風景を描写したものといわれます。また円錐状に盛られた「向月台」は西湖の山をかたどったといい、月に照らされる光の反射を意識して造られたといわれてます。
いつ見ても、美しさと不思議が混在し、印象に残ります。
ただ、向月台と銀沙灘は、足利義政の時代からあったものではなく、江戸時代の18世紀半ば以降に生まれたとされています。どのような理由や背景のもと、だれが最初につくったのかなど、はっきりしたことはわかってはいないようです。

「太陽の塔」や「芸術は爆発だ」、「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」で知られるモダンアートの巨匠岡本太郎さんも、「日本の伝統」という著書のなかで、「銀閣寺の銀沙灘はまったく、だれにも意外なものであるに違いありません。正直にいって、はじめて見たとき、私じしんがギクッとしました。」といってます。

余談ですが、私の住む真鶴町には中川一政美術館があります。
1990年代の初めの頃だったと思いますが、中川美術館を訪れた時、中川一政や武者小路実篤、岸田劉生らの所属する春陽会に岡本太郎が入会したいと申し出たのに対し、“岡本は変わり者だから入会を断ろう”と、相談する内容の書簡がありました。これを見て、僕は大変興味を持ち、岡本氏の著書を読んだのでした。
「日本の伝統」も、今から60年ほど前に書かれたものですが、文庫本として復刻されてます。
「法隆寺は焼けてけっこう。自分が法隆寺になればよい・・・」
興味を引かれませんか?
川崎の岡本太郎美術館も素敵ですよ。

まだまだ袈裟型の手水鉢など、慈照寺の魅力は紹介しきれていませんが、日帰りの旅なので、先を急ごうと思います(笑)。

本日はここまでといたします。



大人の修学旅行 〜 京都慕情1

大人の修学旅行 〜 京都慕情1 「東求堂同仁斎」

先週末、急に思い立って京都を訪ねてきました。
5年ぶり、20回めの京都です。
そのほとんどは、自身の学生時代を含めての修学旅行で、プライベートでは5回めです。桜の花の季節は過ぎ、楓や桜の若葉が目に眩しかったです。

旅のはじまりは、病院の待合室で見かけた雑誌。
慈照寺銀閣で、東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい)の特別公開を開催しているとの記事を見たことに始まります。京都国立博物館でも、海北友松(かいほうゆうしょう)の特別展を開催中とのこと・・・

どこかのキャンペーンではないですが、
 「そうだ、京都行こう」
との想いにかきたてられ、

病院から帰り、家人に話したところ、
 “なのにあなたは京都へ行くの 京都の町はそれほどいいの・・・”
 “わたしの心に 鐘が鳴る”
とばかりに、話は展開し・・・古いですね(笑)

春の特別展は、これからの時期、各寺院で行われます。多くは今週末からGWにかけてのところが多く、GWは只でさえ人出が多いのに、京都では葵祭が始まるので、それなりの覚悟をしていかないと身動きがとれなくなります・・・
 「いつ行く?」
 「今でしょ!」
ということで、小田原6時15分発のひかりで、慌ただしく出かけたのでした。

京都着は、7時59分。
イノダコーヒでモーニングをとり、地下鉄で今出川へ行き、市バスで銀閣寺道へ。
10時からの特別公開には十分、間にあいました。

中学校では室町文化について、
政治的・経済的に公家を圧倒した武士が、文化の担い手としても登場し、幕府の保護もあった禅宗の影響が強い武家文化が成立する。
足利3代将軍義満の時代に、大陸文化の影響を受けながら様々な文化の融合が進んだ華やかな北山文化(鹿苑寺金閣、西芳寺庭園、天竜寺庭園など)が、8代将軍義政の時代に、文化の洗練が進むなかで応仁の乱を時代背景とした枯淡美に究極の芸術性を見いだした東山文化(慈照寺銀閣、大徳寺大仙院庭園など)が形成された。
と学習します。

慈照寺銀閣へは何度も訪れているのですが、東求堂の見学は初めてです。
東求堂は慈照寺にある室町時代の建造物です。
1486年に足利義政が持仏堂として建てた東山殿時代の遺構でもあります。東求堂は阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂としても機能をしていました。一層の入母屋造り檜皮葺きで、三間半四方しかない小さなお堂です。
名前の由来は、仏教の言葉に「東方の人、仏を念じて西方に生まれんことを求む」からその名前が付けられたといわれています。
同仁斎は、現存する最古の書院造りの建造物です。

東山文化を教える際に必ず登場する書院造り。違い棚と出文机があり、机の上部には明かり取りの窓(明障子:あかりしょうじ)がありました。さらに天井が張られており(寝殿造りでは屋根裏まで吹き抜け)、畳も人が座るところだけでなく部屋全面に敷き詰められ、間仕切りも几帳(きちょう)と呼ばれる垂れ布から襖障子で間仕切りするなど、私たちに馴染みの深い和室の原点とされています。出文机は高さがあまりにも低いので尋ねたところ、当時、書を書いたり読んだりする際は、あぐらをかいていたとのことでした。

余談ですが、武家風書院造りの完成形は、1601年に築城が始まり、歴史的には大政奉還(慶応3年10月14日、グレゴリオ暦1867年11月9日)の間として知られる、二条城二の丸御殿に見ることができます。


長くなりそうなので、本日はここまでとしますね。



桜にまつわるあれこれ

桜にまつわるあれこれ

今年の桜は東京では開花が早かったものの、小田原周辺では今が盛りと咲き誇っています。今年も桜の話題からスタートします。

桜の名所は数々ありますが、行ったことがあるのは近場では上野公園、隅田公園、井の頭公園。地元では小田原城址公園、多古しらさぎ会館周辺道路の桜並木、長興山のしだれ桜も趣がありますね。少し離れたところでは高遠城址の桜もよかったです。行ってみたいのは弘前公園です。

隅田公園の桜は8代将軍吉宗が植えたのが始まりと伝えられています。関東近郊ではソメイヨシノが中心のようです。高遠の桜は、タカトオコヒガンザクラで、ソメイヨシノより少し小ぶりで赤みのある花を咲かせます。満開時には、山全体がピンク色に染まります。

桜には数百種類の品種があるのだそうですが、自生種は山桜、大山桜、大島桜、彼岸桜、江戸彼岸桜、高嶺桜、丁字桜、豆桜、霞桜の9種に寒緋桜を加えた10種なのだそうです。それ以外は、人工的に品種改良されたりした園芸種だそうです。筑波の教員研修センターには、大島桜をはじめ、多くの桜が植栽されていました。

桜の木の寿命は約60年だそうです。今を盛りと花を咲かせている桜も、人が手を加えていかないと数年後、数十年後にはやがて衰えてしまいます。
数年前になりますが、NHKの仕事の流儀という番組で「樹木医」を扱っていました。「桜折(切)る馬鹿、梅折(切)らぬ馬鹿」ともいわれますが、桜の剪定を行って木の寿命を延ばす事を紹介していました。

私たちはつい、花ばかりに目を向けがちですが、花を愛でるためには、維持・管理にも心配りをしたいものです。

桜を詠んだ歌人として有名なのが西行です。以前にもこの欄で「西行桜」を取りあげましたが、西行の桜を詠んだ歌は200首以上あるそうです。有名なのが、
  “願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ”
ですが、僕は
  “今よりは 花見ん人に 伝へおかん 
        世を遁(のが)れつつ 山へ住まへと”
に惹かれます。

学校便りにも取りあげましたが、
  “おしなべて 花の盛に なりにけり 山のはごとに かかる白雲”
も、素敵ですね。



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