再度、ピラカンサ
再度、ピラカンサ
給食を食べながら、今日はだいぶ冷え込むななどと思いつつ、 ふと、今日、11月25日は三島事件があった日だったことを思いだしてました。 事件の詳細は省略しますが、45年前の1970年に作家の三島由紀夫が憲法改正を掲げ、自衛隊のクーデターを呼びかけた後に割腹自殺をした事件です。 僕は中学1年生でした。あれから45年が経ったんだと、漠然と思いながら新聞を見たのですが、三島事件に触れる記事はありませんでした。 この事件があった1970年という年はいろいろな変化のあった年で、プロ野球の産経アトムズがヤクルトに買収されヤクルトアトムズに、よど号ハイジャック事件、大阪千里でExpo70日本万国博覧会の開催、夏の甲子園で東海大相模が優勝、等々いろいろありました。野球関連でいえば巨人はこの年、セリーグV6を達成します。(V9まで続きます) 中学時代の記憶は割と鮮明に覚えているもんですね。 高度経済成長真っ盛り! なんてノスタルジックな気分になっていたところ・・・ 一本の電話が鳴り・・・ 昨日の「校長室から」の「ピラサンカの実」の花の名前は、「ピラカンサ」ではないか。とご指摘を受けました。 そんな・・・と思いながら、ネットで検索してみると「ピラサンカ」「ピラカンサ」いずれでもヒットします。 写真や記述内容を見ても同一の植物を説明しているように思えます。 「ピラカンサ」についてウィキペディアによると、 トキワサンザシ属(トキワサンザシぞく)とはバラ科の属の一つ。学名Pyracantha。ラテン名のままピラカンサ属ともいう。 トキワサンザシ(P. coccinea) ヨーロッパ南部〜西アジア原産。花期は4〜5月頃、11月頃に果実が赤く熟し、翌年1月頃まで果実がついている。単に「ピラカンサ」というと本種のことが多い。 とあります。 なるほど。そうなんだ! ピラサンカだとばかり思ってました。 ありがとうございました。 記憶なんて結構、曖昧ですね。 僕の場合、さらに思い込みというのもありますし・・・注意、注意! 早速、訂正させていただきました。 また、お気づきの点がありましたらお知らせください。 ピラカンサの実
ピラカンサの実
この3連休はあまり体調が良くないなか、法事や外出しなければならないことがあっただけでなく、年末の大掃除の序章ともいうべき床のワックス塗布を行ったりと、なかなかせわしなく過ごしました。 昨日は、金魚の水槽の清掃をしたあと薄日が差してきたので町中を少し歩いてみました。 散歩しているとピラカンサの実が目につきます。 花は6月ごろに筒状の白い細かい花が咲くのですが、冬の寒さに向かうこの時期、枝にぎっしりついたピラカンサの赤い実は、パワーのかたまりのようで自信がつきます。 花言葉は「燃える思い」「輝きのある日」「慈悲」だそうです。 花よりも、秋に色付く実にふさわしい言葉だと思います。 桜が咲いていました。 本来、春に咲くはずの花が咲く「帰り花」です。 今年は「小春日和」という感じの日がないような気もしますが、例年に比べてもそれほど寒くない日和です。 でも、花にとっては偽りの季節です。 春咲きの花は、冬の厳しい寒さに耐え、それを越えてこそ美しい花を咲かせることができるのですから。 人には「やらなければならないこと」のほかに、「やれること」と「やりたいこと」があるのですが、やりたいことはなかなかできません。 ワックス塗布も水槽掃除も、残念ながら「やりたいこと」ではありません。 一時の悦楽に惑わされずに、春一番の風が吹くまでじっくり耐えることが大切であることは十分承知しておりますが・・・ 「明日できることは今日する必要は無い」と悪魔が囁きます。 ピラカンサの実を見て、「今日やれることを明日に延ばすな!」と再確認というか、自分に言い聞かせたのでした。 「金盞香」
「金盞香」
二十四節気の立冬も七十二候(しちじゅうにこう)の末候、第57候(今年は11月18日から22日)を迎えました。 七十二候とは立春を第一候とし、二十四節気をさらに約5日ずつの3つ(初候・次候・末候)に分けた期間のことで、気象の動きや動植物の変化を知らせるものです。二十四節気が古代中国で作られたものをそのまま使っているのに対し、七十二候は日本の風土に合うように改められています。現在は、明治7(1874)年の「略本暦」に掲載されたものが主に使われているそうです。 第57候の名称は、「金盞香(きんせんかさく)」です。 漢字やよみからは、金盞花(きんせんか)を連想してしまいそうですが、水仙が咲き芳香を放つ頃ということです。「金盞」は金の盃のことで、水仙の黄色い冠を見立てているのだそうです。 我が家の水仙はまだ咲いてはおりません。 例年、12月下旬ごろにならないと咲きません。蕾もまだまだです。 水仙の香りはもう暫くお預けです。 余談ですが、水仙の原産地は地中海周辺で、日本には室町期以前に中国から伝わったそうです。学名はNarcissus(ナルシサス)で、ギリシャ神話に登場するナルキッソスという美少年が由来とされています。 もうお気づきのことと思いますが、ナルシストの語源となっています。 ナルキッソスはそのあまりの美しさから周囲の女性を虜にし、多くのアプローチを受けます。しかし高慢な性格と自分の美しさを鼻にかけていたナルキッソスは、決して誰かを愛そうとはしませんでした。 その態度に怒りを覚えた復讐の女神ネメシスによって、自分しか愛せない呪いをかけられ、水面に映った自分に恋をすることになります。 やがて、恋する気持ちで食事もできなくなったナルキッソスは憔悴して息絶えてします。その姿が水辺でうつむきながら咲く水仙の花に変わったのだそうです。 自信を持つことは大切なことです。しかし、自己肯定感も度が過ぎると高慢になり、「うぬぼれ」ということになりかねません。さらに他を受け入れなければ、「エゴイスト」にも通じることになります。 やはり、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、かつ通常の感覚で理解できること。自分を認めることとともに、他をも認めることが大切なのでしょう。 可憐な花を咲かせる水仙にも、謂われがあるのですね。 西行は、 花見ればその謂われとはなけれども心のうちぞ苦しかりける と詠み、花鳥風月、雪月花(せつげっか)、様々なものの中に「哀惜」があるといいます。 西行の境地には遠く及びませんが、 何事も、ほどほどにしておかないと・・・ 初冬の雨 時雨
時雨
今年の11月は、例年に比べ雨が多いような気がします。 初冬は雨の多い季節です。気象庁によると、この時期の雨の周期は約5日で、一雨ごとに気温が1度下がっていくのだそうです。この時期の雨を時雨といいます。 時雨とは、晩秋から初冬にかけて降っては止み、止んでは降るという通り雨のことです。 時雨は、初冬の季語にも使われます。 初時雨猿も小蓑を欲しげなり 松尾芭蕉 蓑虫のぶらと世にふる時雨かな 与謝蕪村 うしろすがたのしぐれてゆくか 種田山頭火 木枯らし吹く季節では、小雨といえども体感温度は下がり、コートが欲しくなります。 猿だけでなく、芭蕉も蓑が欲しかったのでしょう。 民謡にも時雨は登場します。 ♪さんさ時雨か、萱野の雨か、音もせで来て濡れかかる しょうがいな ハァ めでたい めでたい♪ 宮城県の民謡「さんさ時雨」です。一説には伊達政宗との所縁もあると伝えられます。 余談ですが、「さんさ」とはササの擬音語で俗謡のはやしの声、と広辞苑にはあります。さらに、さんさ節については、江戸中期ごろ諸国に流行。歌詞の中に「さんさ」という囃子詞(はやしことば)がつく。さんさ時雨も同一系統にある。と記されてます。 盛岡さんさ踊りでは、悪魔払いに笹の葉をもって踊ったことから、笹がさんさになったなどの説もあります。 こきりこ節にも「マドのサンサはデデレコデン ハレのサンサもデデレコデン」と、さんさが登場します。何か意味がありそうな気がしませんか? さんさは単なる囃子詞なのでしょうか? 話を時雨に戻しますね。 時雨については、1000年も前の平安期にも詠まれてます。 神無月ふりみ降らずみ定めなき 時雨ぞ冬のはじめなりける (和漢朗詠集) 和漢朗詠集は藤原公任(ふじわらのきんとう)撰の歌集で、寛仁2(1018)年頃編纂されたといわれています。 夕日かげ群れたる鶴はさしながら 時雨の雲ぞ山めぐりする (藤原定家) 定家は後鳥羽上皇の命で藤原家隆らと「新古今和歌集」の撰をおこなった鎌倉時代の人物です。この時期、定家と前後して西行や鴨長明が活躍します。同じ鎌倉期でも吉田兼好は100年ほど後に登場します。 京都嵐山の天竜寺から嵯峨野方面を散策すると、常寂光寺を過ぎ落柿舎と滝口寺の間に厭離庵(えんりあん)という寺があります。ここに藤原定家の小倉山荘(時雨亭)があったとされ、そこで小倉百人一首が選ばれたのだそうです。(時雨亭は、二尊院や常寂光寺にもあったとされ、本来の場所は定かではありません。小倉山の何処かにあったのでしょう。) 光琳カルタというのがありまして、江戸時代の画家尾形光琳の作で、現在残っている小倉百人一首の中でもっとも豪華で華麗な「歌かるた」といわれています。読み札には歌の作者を描き、取り札には歌意を表す花鳥風月が描かれてます。 複製品でも結構なお値段です。カルタ取りに使うには勇気がいります。観賞用でしょうか。 今年は、本阿弥光悦が京都鷹峯に「光悦村」を拓いて400年目の年にあたります。光悦や俵屋宗達の技法を取り入れ、絵画や蒔絵に新風を吹き込んだのが京都の呉服屋(雁金屋:かりがねや)出身の尾形光琳です。大和絵の伝統的な装飾と王朝文学趣味を持ったこの流派は琳派と呼ばれました。 箱根の岡田美術館では「箱根で琳派 大公開」と銘打って、二期に分けて本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、鈴木其一(きいつ)らの作品が展示されています。 嵐山には「時雨殿」という、百人一首の博物館もあります。 嵯峨野の竹林や大河内山荘からの保津川、嵐山の紅葉も見事です。 冬間際の紅葉の季節、京都や箱根を機会があれば訪ねてみてください。 なお、これからの季節に京都等の寺社に行かれる際は、「靴下」を一枚余分に持って行かれることをお薦めいたします。 廊下や畳は大変冷たいです(笑)。 家康没後400年の年に際して その7 督姫 2
督姫 その2 「毒饅頭事件」の真相
立冬を過ぎ、山茶花(さざんか)の咲く頃となりました。 家康関係のお話も、だいぶ長くなりました。 少々、飽きてきました・・・というか、ねたがきれてきました!? 戦国期の政略結婚について、家康に絡めて真田家のお話もと思っていたのですが、「真田丸」が始まったら追々お話しします。 今回は、「督姫毒饅頭事件」の真相です。これで、家康関連はおしまいとします。 督姫を妻にした池田輝政(てるまさ)は、慶長6(1601)年に姫路城(兵庫県姫路市)を大改築し、9年後に完成し今の姿になりました。白鷺城とも呼ばれるこの城は、平成5年に世界文化遺産に登録されました。 当時の姫路城は、豊臣秀頼(ひでより)のいる大坂城(大阪市)を攻略する拠点の1つであり、秀吉の小姓として仕えた秀頼を慕う、安芸国(広島県西部)の福島正則(まさのり)や肥後国(熊本県)の加藤清正らが攻め上ってきた場合の山陽道の防御を担う徳川幕府の要の城でもありました。 督姫は輝政との間に、忠継(ただつぐ)、忠雄(ただお)、輝澄(てるずみ)、政綱(まさつな)、輝興(てるおき)と5人の男子に恵まれています。 前回お話ししましたが、輝政には4人の男子がいます。督姫の一子、忠継が誕生したとき、輝政の長男利隆は16歳、次男政虎は10歳。そこで、忠継を次男とし政虎を三男とします。その後督姫は4人の子を生んだので、政虎は七男になった。本来四男の利政は九男として扱われます。 なぜ、このような不可解な兄弟関係が作られたのでしょうか・・・? 当時の大名家では、正室の子を側室の子よりも優先するのがならいであったようです。 ですから、年齢的には上でも側室の子である政虎は七男とされたのでした。 池田家は次男・忠継の備前国岡山藩28万石、三男・忠雄の淡路国洲本藩6万石、弟・長吉の因幡国鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)の所領となり、輝政は「西国将軍」「播磨宰相」「姫路宰相」ともいわれています。 慶長18(1613)年1月、輝政が痛風で50歳で亡くなると、督姫は良正(りょうせい)院と号します。 督姫の望みは、自分が産んだ息子が亡き夫の跡を継ぐことでしたが、督姫の息子たちは、まだ幼く、姫路52万石の家督は、先妻の絲(いと)の息子、利隆(としたか)が継ぐことになります。 そこで登場するのが「督姫毒まんじゅう事件」です。 簡単に言うと、「督姫が実子忠継を世継ぎにしようと、毒入り饅頭で嫡子利隆の毒殺を企てる。ところが、その饅頭を忠継が食べて死んでしまう。悲観した督姫も毒をあおって後追い自殺をした。」という内容です。 督姫は何としてでも自分の息子に跡を継がせるため、饅頭(まんじゅう)に毒を仕込んで、利隆を毒殺しようとした。が、それに対し、忠継は母の陰謀を恥じて、利隆に代わって、毒入り饅頭を食べて死んだという噂が流れます。 実際に二人は慶長20(1615)年に相次いで亡くなっています。督姫は天然痘が原因で2月4日に、忠継は19日後の2月23日に亡くなります。 昭和39(1964)年に忠継の墓所移転にともない骨を鑑定しています。が、毒物反応は検知されていません。翌年6月には利隆が亡くなっています。 利隆を督姫が毒饅頭で殺したという説もあるようですが、利隆の死は元和2年(1616)で、督姫はその1年前に亡くなってますから、この説は成立しません。 池田氏の主要人物3人が立て続けに亡くなったことで生まれた噂が、「督姫毒まんじゅう事件」の真相のようです。 その後、池田氏は相次ぐ不幸で家中が不安定になり、幕府から国替えを命じられ、因幡国(鳥取県東部)に転封となります。 代わって親藩の本多忠政(ただまさ)が、元和3(1617)年に姫路城に入城します。父は本多忠勝。真田信之の妻・小松殿と、亀姫の長男奥平家昌の妻・もり姫は忠政の実の姉です。 幕府は、忠政の息子、忠刻(ただとき)に、第2代将軍秀忠・お江(ごう)の娘、千姫を嫁がせています。(千姫は秀吉の次男・豊臣秀頼の正室でしたが、慶長20(1615)年の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により大坂城から救出され、翌年、忠刻に嫁ぎます。秀頼の母は、お江の姉ちゃちゃです。) お江は浅井長政(あざいながまさ)の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。浅井三姉妹の長姉は豊臣秀吉の側室・淀殿(茶々)、次姉は京極高次の正室・常高院(初)。秀吉の意向で、お江は信長の次男の織田信雄(のぶかつ)の家臣で従兄の佐治一成に嫁ぎます。次に秀吉の甥の豊臣秀勝に嫁ぎますが、朝鮮への出兵(文禄の役)で秀勝が亡くなります。3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠です。 岡山藩主、池田光政(利隆の嫡男、督姫の孫)には池田家永代墓地として「和意谷墓所」がありますが督姫の墓碑はありません。また、光政は岡山城内に祖廟を設けていますが、ここでは、父利隆の実母絲姫(離縁)を祀り、督姫は祀っていません。 督姫の墓所は京都知恩院にあるようです。 以上が督姫にまつわるお話しです。 20数年前、改修前の姫路城(白鷺城)は行ったことがあるのですが・・・改修された城も見てみたいですね。 城内にはお菊の井戸というのがあります。この井戸は播州皿屋敷の井戸として有名です。 余談ですが、各地に皿屋敷に関する話しが残っているようです。江戸を舞台とした番町皿屋敷も有名ですね。内容的には播州皿屋敷も番町皿屋敷も似ています。 番町皿屋敷の概略は次の通りです。 火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため:何処かで聴いたことがありますね。そうです、鬼平犯科帳の長谷川平蔵と同じ役職です。)・青山播磨守主膳の屋敷があり、菊という下女が奉公していた。承応二年(1653年)正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまう。怒った主膳は皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁します。菊は縄付きのまま部屋を抜け出し、裏の古井戸に身を投げます。まもなく夜ごとに井戸の底から「一まい、二まい・・・」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさを青山一家は味わうことになります。 菊は平塚宿宿役人眞壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳の屋敷で行儀見習いをしていたようです。そのお墓は平塚の晴雲寺近くの眞壁家墓所にあります。元々は平塚駅の近くにあり、現在、紅谷町公園には菊塚と刻まれた石碑が建っています。 幕府は凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることにし、「盗賊改」を寛文5(1665)年に設置し、その後「火付改」を天和3(1683)年に設けています。 しかし、「番町皿屋敷」の時代にはまだ火付盗賊改は役職として存在していません。 青山主膳も架空の人物です。 では、「貞室菊香信女」の戒名をもつお菊は・・・・ 夏でもないのに、余談が怪談になってしまいました。 家康没後400年の年に際して その6 督姫
家康と北条氏 〜 督姫
前回まで亀姫についてお話ししてきましたが、戦国時代の姫君というのは、自らの意思とは関係なく、同盟や駆け引きのための道具として政略結婚に使われることが日常的に行われていました。 家康は亀姫の外にも督姫(とくひめ)を北条氏直に嫁がせておりますし、家康の譜代家臣である本多忠勝の娘(小松殿)を家康の養女にして、真田信幸(関ケ原以降は信之と改名)に嫁がせています。 今回は徳川家康の娘で、北条氏直に嫁いだ督姫(とくひめ)についてお話しです。 北条五代祭りでも、督姫が登場しますね。 天正10年(1582年)に織田信長が本能寺で明智光秀によって倒されると、甲斐国や信濃国を巡って徳川家康と北条氏直との間に領土争い(天正壬午の乱)が始まります。一進一退の攻防が続く中、旧織田領の甲斐と信濃を徳川氏が、上野国を北条氏が治めることを互いに認めて和睦します。家康は自分の娘、督姫(とくひめ)を天正11(1583)年、19歳で北条氏直(22歳)へ嫁がせ、北条氏と同盟を結んだのでした。 この同盟の背景には、真田氏が絡んできます。 家康としては、自分が羽柴秀吉とならんで中央進出を果たすためには、どうしても背後の北条父子と争うわけにはいきません。しかし、北条父子に関東から上信二州へ、大きく進出されることは、家康にとって「おもしろくない」ことです。 そこで家康は、「真田安房守昌幸(真田源二郎信繁(幸村)の父)を傘下におさめ、北条の進出を押さえよう」と考えます。 安房守昌幸が、上田と沼田を確保しているからには、この上、北条軍の侵入を決して許さないであろうと、上州沼田を中心にした真田−北条両家の、過去の争乱や確執を、家康は充分にわきまえていたのでした。 後日、家康は冒頭にも述べたとおり、真田安房守昌幸の長男、源三郎信幸をひどく気に入り、家康の譜代家臣である本多忠勝の娘(小松殿)を家康の養女にして、信幸に嫁がせています。このことについてはいずれお話しします。 話を督姫に戻しますね。 永禄8(1565)年、徳川家康と側室の西郡局(にしごおりのつぼね)との間に生まれたのが督(とく)姫です。 余談ですが、西郡局の祖母は、今川義元(よしもと)の妹といわれてます。 承知の通り、家康(幼名:竹千代)は今川義元の人質として駿府で幼年期を過ごします。 家康の父である岡崎城主の松平忠広は、今川との同盟の際、6歳の家康を人質として差し出します。ところが、家臣の裏切りにより今川と対立していた織田に引き渡され、2年後、織田から今川に引き渡されます。 今川家では厚遇だったようですが、家康自身は人質として苦労したと語り、苦労人というイメージが植え付けられています。 北条氏直との結婚生活は長くは続きません。関東の覇者である北条氏は、伊達も上杉も秀吉の傘下にあるなか、家康の説得を聞き入れず、天正18(1590)年、小田原城に籠城し、豊臣秀吉と戦うことを選択します。 籠城戦もむなしく北条氏は降伏。氏直の父、氏政(うじまさ)と弟、氏照(うじてる)は切腹。氏直は、家康の娘婿だったため、家康の助命嘆願で秀吉から助命されて高野山に送られました。 氏直はしばらくすると、秀吉から許され、河内国(大阪府)に1万石を与えられます。しかし、督姫の威光で北条氏を再興することに悩み続け、翌、天正19(1591)年、30歳で病没します。 文禄3年(1594年)、北条氏を滅ぼした秀吉の計らい(仲人)で池田輝政(てるまさ)に嫁ぎます。輝政には既に4人の男児がいましたが、督姫は忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興、振姫など5男2女をもうけました。 話が前後しますが、家康と秀吉は天正12(1584)年、小牧(こまき)・長久手(ながくて)の合戦で激突します。この時、秀吉に従軍し、合戦を主導した池田輝政の父、恒興(つねおき)は、家康軍に敗れ戦死してます。池田氏にとって家康は、憎い敵でした。秀吉はこの両者の間を取り持とうとしたのでした。 池田氏には複雑な思いがあったのでしょうが、お家安泰を考えれば、家康は豊臣政権で最大の実力者であり、悪い話ではありません。家康が慶長5(1600)年の関ケ原の合戦で勝利すると、輝政は、播磨国(兵庫県)姫路52万石を与えられ、大大名へと成長します。 今回はここまでです。 次回は、督姫「毒饅頭事件」をお話ししようと思います。 |
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