土用の丑の日
土用の丑の日
前回、「梅雨寒」を話題にした直後の週末から急に、夏本番を思わせるような日差しと気温の上昇に伴い身体が順応せず、梅雨明け前に夏バテを経験しております。皆様の体調はいかがですか? 夏バテには滋養のあるものをということで・・・「鰻」。 時節柄、土用の丑の日にちなんだお話をしようと思います。 土用の丑の日というと「鰻」といわれるくらい、鰻は日本人の食生活になじみが深いですね。その鰻ですが、生態は詳しくわかっていないようです。フィリピン周辺で産卵し、稚魚(シラスウナギ)が日本の河川に戻ってくるのだそうです。鹿児島や浜松では養鰻業も盛んですが、乱獲のせいかここ数年「シラスウナギ」の捕獲量がめっきり減り、価格の高騰につながっているようです。1キロ(5000匹位)で20〜30万円だったものが10倍の200〜300万円もするそうです。日本鰻は絶滅危惧種にも指定される可能性もあり、ワシントン条約で規制をかけることも検討されてるとか。 シラスウナギ、平塚の馬入川河口でも捕れているようですが・・・稚魚で1匹600円ですから・・・ 鰻重が3千円から4千円もするわけですから、清水の舞台から飛び降りたつもりでないと、おいそれとは口にすることはできません。それでも今年は食べられるからよしとしましょうか。いつの日か、お金を出しても食べられなくなるかもしれません。 ここ連日暑い日が続いておりますが、夏の土用の時期は酷暑のための体調を崩しやすく、先人の知恵として食養生(しょくようじょう)の習慣があったことからきているようです(他に、土用餅、土用しじみなど)。 現在の様に「鰻」が有名になったのは、丑の日にちなんで「う」のつくものを食べると良いということで、鰻屋に商売の宣伝を依頼されたエレキテルで有名な平賀源内(享保13年:1728年−安永8年12月18日:1780年1月24日、江戸時代中頃に活躍した本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。いわば和製レオナルド・ダ・ビンチ)が、看板に書いたことがきっかけとなり定着したとする説があります。(平賀源内についてはいずれまたの機会にお話ししたいと思います。) その土用の丑の日が、今年の夏は何と2回(7月24日と8月5日)あります。 今回は「鰻」ではなく「土用の丑の日」について、その由来について調べてみましたのでお話ししてみます。「暦」との関連があります。 土用というのは、立春、立夏、立秋、立冬の前18日間をさし、正しくは「土旺(王)用事」といわれたのだそうです。土用の期間は土をいじる様な作業を忌む習慣があり、農家にとっては重要な厄日であったようです。 土用の由来は、天地万物全てを5つの素の組み合わせて説明しようとした五行説にあり、春夏秋冬の四季では、五行説にとっては都合が悪いため、5番目の素を四季それぞれの区切りの部分に割り振ったのだそうです。 五行では、春に木気、夏に火気、秋に金気、冬に水気を割り当て、残った土気は季節の変わり目に割り当てられ、これを「土旺用事」、「土用」と呼びます。 土用の間は、土の気が盛んになるとして、土をうごかしたり穴掘り等の土をいじる作業や殺生がうとまれました。僕の祖母もよく土用だから土いじりをするなといってました。 丑の日の「丑」というのは、「僕は戌年生まれです」というように現在でも使われている干支(えと)の十二支です。 由来は古代中国で考え出されたもので、惑星のうちで、もっとも尊い星と考えられていた木星が、約12年で天球を一周することから、その位置を示すために天球を12の区画に分けてそれぞれに名前を付けたものが十二支の名の由来といわれています。 元々は、木星の運行からでた十二支でしたが、12という数が1年の月の数にあたることから、月を表すことにも用いられるようにもなり、日付や比較的長い期間の年数等を表すために使われるようになったのだそうです。 子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)・・・亥(い)は、順に11月、12月、1月、2月、3月・・・10月を示します。 また、夜の0時を「正子(しょうし)」、昼の12時を「正午(しょうご)」等というように、1日の時刻にも十二支は用いられ、子の刻の初刻(しょこく)は23時で正刻(しょうこく、せいこく)は0時(正子)というように呼んでいました。 さらに十干(じっかん)というのがありまして、「丙午(ひのえうま)の年」というような言い方をします。「午」は十二支ですが、その前の「丙」は十干です。 十干の生まれは古く、古代中国の「殷(いん)」の時代(紀元前17世紀頃−紀元前1046年、ざっと三千数百年前)までさかのぼるといわれています。この時代は、10日を1旬と呼び、この10日ごとに繰り返される日にそれぞれ名前を付けたのが始まりだといわれています。 ちなみに、現代でも「7月上旬」のように上中下旬と月を10日(およそ)に分けてよぶのは、この名残だそうです。 十干は、やがて全てを「木火土金水」の5つの根元的成分から生み出されるとした五行説と結びつき5つを更に「兄(え)・弟(と)」に分けたものと対応させるようになりました。そのため「丙」1文字で「火の兄(ひのえ)」と読むようになったそうです。 十二支と十干とを組み合わせることによって、60の組み合わせが出来ます。これを六十干支(ろくっじっかんし)と呼び、古くからこれを年や日に割り振ることによって、その年や日付を示してきました。60年毎に同じ組み合わせが出現します。そうです、60歳を「還暦」と言うのはここに由来しています。 これらは干支暦をもとに、年と月と日の干支を出して、人の運命を占う算命学・四柱推命といった占星術にも関連していきます。 長々と書きましたが、この夏、土用の丑の日が2回(7月24日と8月5日)あるのは、先人の知恵が脈々と受け継がれ今日に至ったということ。 その結果、今年は立秋前の18日間に、十二支との組み合わせ上「丑の日」が2回巡ってくるということです。 大蔵省、いや財務省さえ許せば2度、鰻を口実をつけていただけるというお話でした。 梅雨寒
梅雨寒
ここ数日、梅雨寒(つゆざむ)といわれるような気温の低い日々が続いております。 お天道様が恋しいですね。あまり暑すぎるのも困りものですが・・・ エルニーニョの影響が出始めていて、太平洋高気圧の張り出しが弱いため梅雨前線の北上が遅れ気味なのだそうです。 エルニーニョとは南米エクアドルからペルー沿岸にかけて、海水温が4年から5年おきに上昇する現象のことで、水温の高い状態は半年から1年半程度続きます。例年クリスマスのころになると局所的な水温の上昇が起こることが多いのですが、折からバナナなどの収穫期に当たるため、神の恵みに感謝を込めてスペイン語のエルニーニョ(神の子)と名づけられました。これとは反対に、東太平洋赤道域の海面水温が平年より低くなる現象をラニーニャといいます。スペイン語で“女の子”のことで、エルニーニョの“男の子”に呼応して名づけられました。 エルニーニョ現象は、数1,000km以上にわたって水温の異常上昇を引き起こし、大気の流れを変え、世界各地に高温や低温、多雨や小雨など異常気象を引き起こします。1982〜83年にかけて発生したときはオーストラリア、インド、アフリカなどに干ばつ、アメリカに熱波、日本に梅雨寒や暖冬をもたらすなど世界的規模で異常気象が発生しました。 6月発表の気象庁エルニーニョ監視速報によると、5月はエルニーニョ現象が続いており、強まりつつあるとのことでした。6月の実況は7月10日に発表されます。 地球温暖化の問題についても話題になりますが、 “現代は何百万年か続いている氷河期の最中です” といったらみなさんどう思われますか? 氷河期の定義は南半球と北半球に氷床がある時期を意味する事が多く、その意味においてはグリーンランドや南極に氷床があり、現在は氷河期ということになります。 氷河期の中でも、より寒冷な氷期とより温暖な間氷期が何万年か周期で繰り返されています。現代は約1万年前から間氷期に入っており、最大近くに温暖化している状態です。 氷期では概ね西ヨーロッパ全体が氷河で覆われ、北米のアメリカあたりでも氷河が進出します。日本も氷河で覆われます。今の間氷期では縄文の温暖期があって、本州全体が亜熱帯気候だったようで、現在はそれより寒い時期です。 周期性の原因はいろいろ考えられていますが、現在は主に、地球の軌道要素による日射量の周期的な変化が原因とされています。それをミランコビッチサイクルと呼びます。 それによれば、もう5万年程度は今の温暖期が多少の起伏はあっても継続するとされています。 この氷期に関しても太陽活動が影響しているとする説があります。 毎日当たり前のように光、熱を与えてくれる太陽、しかしその太陽も時には活動が活発化(フレア、磁気嵐等)します。太陽放射線や強い磁場が地球に届き、人工衛星の故障、電波障害、送電線への誘導電流による停電発生等の可能性があります。 また逆に黒点活動がほとんどなくなり、地球の小氷期(しょうひょうき)との因果関係も指摘され研究されています。 マウンダー極小期(きょくしょうき)の1645 − 1715年の間は、非常に太陽黒点の数が少なく観測されました。この時期には北半球平均気温は極小期の前後と比べて0.1− 0.2度低下し、小氷期が起きたのではないかとされています。 エルニーニョや氷期は、太陽活動との関係性について指摘され研究がおこなわれてています。 科学的にも地球、太陽、宇宙の誕生など、まだよく解明されていないことがたくさんあります。極端にいうと、わからないことだらけです。身の周りには不思議がいっぱいです。 私たちの暮らすこの地球をはじめ、太陽や宇宙に興味を持っていただけたら嬉しいです。 エルニーニョや太陽、宇宙について詳しくは、 気象庁ホームページ http://www.data.jma.go.jp/gmd/cpd/data/elnino/l... 宇宙情報センターホームページ http://spaceinfo.jaxa.jp/index.html をご覧ください。 七夕の日に
七夕の日に
今日は七夕です。 子どもたちは笹竹に、思い思いの願いを込めた短冊をつるしました。 七夕伝説は、中国から日本へ奈良時代に伝わったようです。 こと座の0等星ベガは、織姫星(織女星)として知られてます。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。 夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルです。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めます。 めでたく夫婦となったのですが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなります。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離してしまいます。 しかし、年に一度、7月7日だけ天帝は逢うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができました。 7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができません。 星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名もあります。 また、この日に降る雨は催(洒)涙雨(さいるいう)とも呼ばれ、催(洒)涙雨は織姫と夏彦が流す涙(逢えずに流す涙、逢ったあとの惜別の涙)といわれています。 余談ですが、「カササギ」とはスズメ目カラス科に属する鳥で、国の天然記念物に指定されています。 カササギの仲間は北半球の広い範囲に分布しているのですが、なぜか日本では、そのほとんどが佐賀平野を中心とした狭い範囲に生息しています。黒いカラスに比べてひと回り小ぶりで、胸とお腹の白い鳥を観察することができます。 一般にはカササギといいますが、「カチカチ」という鳴声から、佐賀ではカチガラスとも呼ばれ、佐賀県民の方々に親しまれているようです。 この鳥は、サギとついていますが、実はサギの仲間ではなくカラス科の鳥で、学名を「Pica Pica Japonica 」(英語では Magpie) といいます。 “ピカピカ”といえば、こと座の織姫星ベガ(0等星)と、はくちょう座α星のデネブ、わし座α星のアルタイルの2つの1等星で「夏の大三角」と呼ばれる大きな二等辺三角形を形成し、一際輝いて見えます。ベガは0等星で、夏の星空の中で最も明るく見える星です。 夏の大三角は直角三角形に近く、冬や春の大三角は正三角形に近い形をしています。 本来の七夕は旧暦に祝われたもので、旧暦の7月7日は新暦だと今年は8月20日です。旧暦7月は季節的には秋で天候も安定し、七夕は秋の行事として位置づけられていました。 月遅れ(旧暦7月)の七夕では、北東から南西の宵の空高く天の川が流れ、その両側の岸辺にはべガ(織姫)とアルタイル(彦星)、天の川の川下には、なかなか逢えない二人の間を無情に通り過ぎる、連れない舟人にたとえられる上弦の月がかかり、中国に古くから伝えられてきた七夕伝説の夜をみることができます。 中国や日本で使われていた旧暦(太陰太陽暦)では、7日の月は必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもあったようです。そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてきます。 新暦(グレゴリオ暦)7月では、月の満ち欠けは毎年異なるため、晴れていても月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多いです。 二人にとっては、旧暦の方が都合がよいのではないでしょうか。 深黒の天蓋 きらきらと煌く天の川の岸辺 織女の織る美しい布にも似た短冊に願いを込めて 今宵 二人が逢えますように 7月7日の夜 天に流れる天の川の岸辺を見つめて・・・ 織姫と彦星に何を願いますか? <ロマンチックじゃないからよせばいいのに、おまけ> “逢えない時間が、愛育てるのさ”と郷ひろみさんはうたってましたが・・・ 織姫星は、こと座のベガという名前で0等星です。地球からの距離は25光年。一方の夏彦星は、わし座のアルタイルで1等星で、地球からの距離は17光年。この二つの星の間の距離は約16光年あり、光(秒速30万km)でも16年かかります。残念ながら、1年に1度のデートは無理かも・・・ 宇宙に関する話題
宇宙に関するあれこれ
先週末に、徳川家康ゆかりの鳳来山東照宮と長篠城址を訪ねてきました。 鳳来山東照宮は三東照宮の一つです。長篠城は長篠の戦い(天正3年5月21日:1575年6月29日)で有名です。長篠の戦いとは、三河国長篠城をめぐって、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦いです。織田軍が新戦法・鉄砲三段撃ちを行った話で有名です。 このお話の詳細は後日させていただくとして、本日は宇宙に関するお話です。 最近はサイエンスネタが多いとのご指摘もいただいておりますが、おつきあいください。 明日、7月7日は七夕です。 ここ数年の七夕の日は雨降りや曇り空が多く、天の川を目にすることは少ないですね。 七夕の日に天の川を見ることができる機会は少ないですが、近年は宇宙に関する話題が多くあり、国民の関心も高まっているように感じます。 国際宇宙ステーション(ISS)での日本人宇宙飛行士の活躍、小惑星探査機「はやぶさ」「はやぶさ2」の打上げ等が影響しているのでしょうね。 今回は宇宙に関する話題を3つ紹介します。 その1 「金星と木星が接近」 キラキラ光る宵の明星「金星」と、黄色い光を放つ木星が西の夕空で接近しています。6月頃より近づいて見えるようになり7月1日に最も近づきました。 しかし1日は天気が悪く星を見ることはできませんでした。 1日以降は金星と木星の距離は離れて見えるようになっていきますが、しばらくの間は近づいた姿を見ることができます。午後8時頃に西の夜空を見上げてみてください。 肉眼でもちろん見えますが、双眼鏡があれば一段とよく見えます。 次回接近するのは2022年5月です。 余談ですが、僕らの世代は「明星」と聞くと「即席ラーメン」と「明星・平凡」といった雑誌、そして「巨人の星座の中でも一際輝く明星になれ」という「星一徹」の言葉を思い出してしまいます(笑)。 わかるかなぁ? わっかんねぇだろぉなぁ! 松鶴家千とせ・・・これも、わかりませんよね。 その2 「ニューホライズンズ、冥王星(めいおうせい)到着」 2006年1月に打ち上げられたNASAの無人探査機ニューホライズンズが9年半をかけて48億キロを旅し7月14日、冥王星に到着します。 到着といっても着陸するのではありません。時速約5万キロのスピードで冥王星から1万2500キロの距離をかすめるように通り過ぎるのです。 わずかな時間で地表や大気系などを観測し、カイパーベルトと呼ばれる無数の天体が密集する太陽系の外縁部へむけて飛び去りながら、数ヶ月かけて地球にデータを送信してきます。 この探査機は「はやぶさ」のような太陽電池パネルではなく、プルトニウムの崩壊熱をエネルギー源として利用する原子力電池を搭載しています。 冥王星は1930年に発見された太陽系9番目の惑星でした。 僕が中学・高校生の頃は「水金地火木土天海冥」と覚えたものです。が、2006年に小惑星に近い「準惑星」に降格されました。 地球を含めた水星から海王星までの8個の惑星にはすでに探査機が到達しています。冥王星はハッブル望遠鏡でも鮮明に見ることはできていません。誰も目にしたことのない冥王星の姿がニューホライズンズの到着で明らかになるよう期待します。 その3 「油井飛行士 23日にソユーズで国際宇宙ステーション(ISS)へ」 無人の宇宙輸送船の事故を受けて、5月の打ち上げ予定が延期されていた日本人宇宙飛行士の油井亀美也(きみや)さんが乗り組むロシアの宇宙船「ソユーズ」の打ち上げが、日本時間で7月23日の午前6時2分に行われることになりました。 しかし、またもや無人宇宙船が6月28日に爆発し打ち上げに失敗したのでその影響が懸念されましたが、予定通りに打ち上げられるようです。 元航空自衛隊のパイロットで日本人10人目の宇宙飛行士、油井亀美也さんが国際宇宙ステーションに長期滞在するために乗り組むロシアの宇宙船「ソユーズ」は、当初5月27日に打ち上げられる予定でしたが、ことし4月に起きた同じタイプのロケットを使った無人の宇宙船の事故を受けて打ち上げが延期されていました。 油井さんの国際宇宙ステーションでの滞在は当初の計画より1か月ほど短いおよそ5か月間となり、無重力状態での科学実験などを行う予定です。 また8月16日には、日本の無人補給機「こうのとり」が宇宙ステーション(ISS)へ水を届ける予定です。 宇宙に関する話題は尽きませんね。 梅雨の晴れ間に、夜空を是非見上げてください。 城達也さんのナレーションのごとく、星座の瞬きが聞こえてきます。 遠い地平線が消えて 深々とした夜の闇に心を休める時 遥か雲海の上を、音もなく流れ去る気流は たゆみない宇宙の営みを告げています。 満天の星をいただく、果てしない光の海を ゆたかに流れ行く風に心を開けば きらめく星座の物語も聞こえてくる 夜の静寂の何と饒舌なことでしょうか。 光と影の境に消えて行った 遥かな地平線も、瞼に浮かんでまいります。 「時」にまつわるお話 その5
「時」にまつわるお話 その5 「朝のリレー」から「時差」
本日の「うるう秒」挿入はいかがでしたでしょうか? コンピュター関連では、このうるう秒挿入が様々な問題を引き起こし、プログラム修正も大変なようです。 前回、協定世界時(UTC)と日本標準時(JST)について少し触れましたので、「時」にまつわるお話の最終回として、今回はUTCとJSTに関連したお話をしてみます。 谷川俊太郎さんの「朝のリレー」という詩を紹介いたします。 カムチャツカの若者が きりんの夢を見ているとき メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている ニューヨークの少女が ほほえみながら寝がえりをうつとき ローマの少年は 柱頭を染める朝陽にウインクする この地球では いつもどこかで朝がはじまっている ぼくらは朝をリレーするのだ 経度から経度へと そうしていわば交替で地球を守る 眠る前のひととき耳をすますと どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる それはあなたの送った朝を 誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ この詩は、かつては中学校国語の教科書にも載ってました。 当時、この詩を使って僕は「時差」の学習をしてました。 10年ほど前になりますが、この詩はコーヒーのコマーシャルにも使われ、 テレビでよく流れていましたので、ご存じの方も多いと思います。 日本標準時(JST)は協定世界時(UTC)に対し9時間進んでいます。 これは日本が東経135°に位置するためです。 中学校の地理で時差の問題を扱います。 地球は24時間かけて1自転(角度に直すと360°回転)しますから、1時間では15°進みます。 本初子午線より東側に位置してるので9時間早いわけです。 日本が7月1日の13時のときロンドンは9時間前の午前4時、ニューヨーク(西経75°)はさらに5時間前の6月30日の23時ということになります。 太平洋上のキリバス共和国という島国は国土の中を日付変更線が通っており、極端な話し、同じ国内で東キリバスと西キリバスとでは時差が24時間ありました。 東から西へ数キロ移動するだけでクリスマスが2回できたり、今日と昨日、今日と明日を行ったり来たりできたわけです。 これではあまりに不都合だということで1995年に時差を無くしました??? 日付変更線の通過区分をかえたのでした。 ロシアとアメリカ(アラスカ)の間のベーリング海峡には大ダイオミード島(ロシア領)と小ダイオミード島(アメリカ領)があります。 この二つの島の間は3.7kmで、両島の中間点を国境と日付変更線が通っていて、アメリカ領とロシア領の最も接近している場所でもあります。 そこから南では変更線は斜めに通っています。かつての東西冷戦期の象徴でもあります。 世界地図を見ていただくと判るのですが、日付変更線は東経180°の南北につらなる経線ではありません。国境や、国の事情によって便宜上定められており、複雑に入り組んでおります。 時差の問題の作問としては、 成田を7月1日18時に出発した飛行機が、9時間かけてロンドンに到着しました。到着時間は現地時間の何月何日何時でしょうか? というような問題を作ってました。 この問題が解けた方は、 世界地図や地球儀をながめ、「朝のリレー」を確認してみてください。 「時」にまつわるお話 その4
「うるう秒」その2
前回に引き続き「うるう秒」についてお話しします。 うるう秒とは、簡単に言うと地球の自転にムラがあり、そのムラを修正するためにうるう秒を設けています。 私たちの日常生活は太陽の動きと深くかかわっています。そのため、日常的に使われている時系は、地球の運行に基づく天文時系である世界時(UT)に準拠するように調整された原子時系です。これを協定世界時(UTC)と呼びます。 地球の自転速度は、潮汐摩擦(ちょうせきまさつ:潮流によっておこる海水と海底との摩擦。これによって地球の自転速度は遅れ、1日の長さが 100年につき 1000分の1秒ほど長くなり、その運動量の移動によって、月の公転は加速され、1年に3cmの割合で月は地球から遠ざかる)などの影響によって変化するため、世界時(UT)と協定世界時(UTC)との間には差が生じます。そこで、協定世界時(UTC)に1秒を挿入・削除して世界時(UT)との差が0.9秒以上にならないように調整しています。この1秒は「うるう秒」と呼ばれています。 ここからが少し複雑なのですが、 うるう秒調整は1972年の特別調整以降導入されました。 2012年までに行われたうるう秒調整は25回ありますが、すべて協定世界時(UTC)にうるう秒を挿入する調整であったため、協定世界時(UTC)は国際原子時(TAI)に対して35秒遅れています。今回は26回目のうるう秒の挿入となります。 国際原子時(TAI)とは、セシウム133原子の遷移(せんい)周期(91億9263万1770周期)を使い、数十万年に1秒ずれるだけの高精度な時計です。 ちなみに1秒の長さの定義は、かつては地球の自転や公転に基づいた天文学からの定義が採用されていたのですが、1967年に原子放射の周波数に基づく量子力学からの定義に改定されました。 その結果、原子時計に基づく時刻と天文時に基づく時刻との間でずれが生じるようになりました。その調整に、うるう秒が挿入されます。(うるう秒が挿入されるのは協定世界時(UTC)です。) 世界時(UT)、協定世界時(UTC)、日本標準時(JST)、国際原子時(TAI)の関係について確認しないと混乱が生じます。 詳しくは情報通信研究機構のホームページをご覧ください。 情報通信研究機構のホームページには、閏秒に関するQ&Aものってます。 情報通信研究機構(NICT)本部:東京都小金井市貫井北町4−2−1 余談ですが、原発事故で話題になったセシウムはセシウム137です。 この放射性セシウムは、核実験や原発事故によって大気中に放出される人間が作り出した放射性物質です。半減期は30.07年で長い間放射能の影響が残ります。 私たちが通常使っている時計の多くは、水晶振動子を利用したクォーツ時計です。電波時計も多くなってきておりますが、情報通信研究機構では原子時計を元に作られた正確な時刻情報を標準電波(JJY)として、福島県田村市と福島県双葉郡川内村境界の大鷹鳥谷山(おおたかどややま)、佐賀県佐賀市と福岡県糸島市境界の羽金山(はがねやま)の2カ所から送信してます。その電波を受信してクォーツ時計の誤差を修正しているのが電波時計です。 たかが1秒、されど1秒・・・ 小泉吉宏(よしひろ)さんの「一秒の言葉」という詩にもありますが、うるう秒の挿入に際し、1秒が社会に与える影響について考えてみるというのはいかがでしょうか。 時に関するお話 その3
「うるう秒」その1
今年の7月1日に、3年ぶりに「うるう秒」の挿入が実施されます。 日本標準時の維持・通報をおこなっている情報通信研究機構(NICT)では、前回はうるう秒の挿入にあたって、「午前8時59分60秒を見てみませんか?」とさかんにPRしていました。 一般に市販されている電波時計は常時信号を受信しているわけではありませんし、うるう秒の表示には対応しません。それでは、どうやって午前8時59分60秒を見ようと言うのでしょうか。 東京都小金井市にあるNICT本部のビルには、大型のデジタル時計が設置され、うるう秒表示に対応しています。2012年7月1日と2009年1月1日のうるう秒実施当日には、大勢の見学者が集まったそうです。前回は日曜日でしたから見ることも可能でしたが、今回は平日なので難しいですが、可能であれば「午前8時59分60秒」を見てみたいものです。 なぜ、うるう秒の挿入が必要なのか? 簡単に説明することは難しいです。 うるう年とうるう秒についての説明は大変長くなります。 まず、どうしてうるう年があるのかについて、説明してみますね。 1年は365日といいますが、4年毎に366日となる(2月29日のある年)年があります。この年を「うるう年」といいます。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。 この原因は、1年の長さ(地球が太陽の周囲を一周する時間)が1日の長さ(地球が太陽を基準にして、1回転自転する時間)で割り切れないことにあります。では、1年の本当の長さは何日なのでしょうか。 1年(太陽年)=365.2422日(太陽日) 1年の長さは、365日より少し(約5時間49分)長いようです。ですから、もし全ての年を365日とすると、約4.1年で1日、100年で24.22日分、暦が実際の季節より先行することになります。 この様に、暦と実際の季節がかけ離れてしまうことを防ぐために、うるう年を設けて調整しています。現在、用いられている太陽暦(グレゴリオ暦)では、うるう年を次のように決めています。 ア 西暦年が、4で割り切れる年は、うるう年とする 例 1966年 イ アであっても、100で割り切れる年は平年とする 例 1900年、2100年、2200年、2300年 ウ イであっても、400で割り切れる年はうるう年とする 例 1600年、2000年 身近な年としては、西暦2000年は、上記のウに当てはまりますので、うるう年となります。 グレゴリオ暦に従ってうるう年を設けると、400年間に97回のうるう年が入ります。グレゴリオ暦での400年間の日数と400太陽年の長さを比較すると、 400年の長さ グレゴリオ暦 146097日 太陽年 146096.88日 400年で0.12日(約3時間)の差が生ずるだけです。 グレゴリオ暦より、差の小さな置閏法(うるう年の入れ方)も考案されていますが、うるう年の置き方が簡単で覚えやすいことから、今でもグレゴリオ暦が広く使われております。 日本がグレゴリオ暦へ移行したのは明治6年(1873年)になってからです。それまでは太陰暦に基づいて、暦をつくっていました。いわゆる旧暦です。 この旧暦には様々なものがありまして、一般的には太陰太陽暦(天保壬寅暦)を指します。太陰太陽暦は月の満ち欠けをもとにしますので、うるう月をはじめ様々な誤差が生じてきます。 (太陰暦につきましては、自分自身がよく理解できてない上に、その説明は非常に長くなりますので、いずれまたの機会とさせていただきます。(笑)) 長くなったので、本日はここまでとします。 次回は、「うるう秒」についてお話しします。 「時」にまつわるお話 その2
「夏至」
22日は24節季の夏至ですね。 梅雨まっただ中ですが、一年中で一番昼が長く夜が短い日ということです。 なお、一年で日の出の時刻が最も早い日および日の入りの時刻が最も遅い日のそれぞれと、夏至の日は一致しません。日本では、日の出が最も早い日は夏至の1週間前ごろであり、日の入りが最も遅い日は夏至の1週間後ごろです。本日(6月16日)の小田原(市役所)の日の出は4:27、日の入りは19:00で、昼の長さは14時間33分。夏至当日の22日は、日の出4:28、日の入りは19:02で1分長くなります。ちなみに日の出の早いのは6月13日で4:26、日の入りの遅いのは6月30日で19:03です。 春分から秋分までの間、北半球では太陽は真東からやや北寄りの方角から上り、真西からやや北寄りの方角に沈む。夏至の日にはこの日の出(日出)・日の入り(日没)の方角が最も北寄りになります。また、北回帰線上の観測者から見ると、夏至の日の太陽は正午に天頂を通過します。 夏至の日には北緯66.6度以北の北極圏全域で白夜となり、南緯66.6度以南の南極圏全域で極夜となるんだそうです。白夜とか極夜というのも体験してみたいですね。 天体(天文学)に関してはいろいろな不思議がいっぱいです。 古代より星と人の生活とは大きな関わりがあります。星の動きや星座の移り変わりで季節を知り、日常生活に役立つものとなっていきます。 僕が小学生の頃には今のようなゲームなどは当然無く、当時の多くの小学生の興味は、昆虫、星座、ラジオ、無線でした。 僕も昆虫採集に夢中になったり、高学年になると「ラジオの製作」や「初歩のラジオ」を夢中で読んでたりしてました。回路図をもとに部品を入手し、高一中二スーパー(高周波増幅1段、中間周波増幅2段のラジオ)の製作や電離層反射を利用した無線通信に興味を持ってました。また、天文小僧ではありませんでしたが夜空に輝く星をよく見つめてました。 星座のはじまりは5000年ほど前のメソポタミアのカルディアの人々が名付けたといわれてます。2世紀頃ギリシアのプトレマイオスが48の星座にまとめ、1930年になって88星座にまとめられました。これ以降星座絵というよりも天体の区画図といった意味合いが強くなります。 昨日のニュースで、群馬では突風が吹き車が横転したり屋根が飛ばされたり、太陽光パネルをはじめ多くの被害が出たと報じてました。梅雨前線の活動や湿舌との関係もあるのでしょうか。 梅雨もまだまだ序盤ですが、太陽の光が恋しいです。 僕が中学生の頃、エンゲルベルト・フンパーディンクの「太陽は燃えている」という曲がはやってました。(知ってる人は同世代!) ♪Love me with all of your heart That's all I want, love Love me with all of your heart Or not at all・・・・ その太陽活動はほぼ11年の周期で変動しており、周期的な変動をサイクルとして1755年から数えていて、2008年1月からは第24太陽活動サイクルが開始したと考えられています。 黒点活動も一時に比べ衰退傾向にあるようですが、太陽フレアによる電波の異常伝搬(デリンジャー現象やスポラディックE層など)やオーロラ爆発との関係も大きいようです。 太陽の黒点活動につきましては、宇宙天気情報センターのホームページや宇宙天気ニュースが詳細に扱ってますので参考にされてください。 「時」にまつわるお話 その1
「時の記念日」
2015年も早いもので、その半分が過ぎようとしています。 もうすぐ1年の半分が、年度の四半期が終わります。 年度当初の目標や計画は、予定通りに進んでますか? 前向きにできているところもあれば、ただこなしてるだけのところもあるのではないでしょうか。 年間計画や目標というのは4月当初に提示されることが多いのですが、その場限りのものではありません。意識を継続させながら、半期、もしくは月ごとの設定目標を日々の活動に落とし込んで、その計画と結果を比較検討することで進捗状況が検証できるのです。 何よりも大事なのは実践することですね。 “時間”を意識しながら、これをしっかりとやっていただきたいのです。 時間といえば、6月10日は「時の記念日」です。 『日本書紀』天智天皇十年四月辛卯条(天智天皇10年4月25日(671年6月10日))に日本初の時計が鐘を打った日とあり、6月10日が時の記念日となったそうです。 時計といっても、当時の時計は水時計です。容器に水が流入(流出)するようにして、その水面の高さの変化で時をはかる時計です。 それをつくったのが天智天皇であり、飛鳥寺の西にある水落遺跡がその遺構と言われています。 余談ですが、「大化の改新」で藤原鎌足(ふじわらのかまたり)と共に活躍した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が667年に都を飛鳥から大津宮(近江朝廷)に遷し、翌年即位して天智(てんじ)天皇となります。 天智天皇は670年に最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)をつくり、徴税と徴兵を行いやすくしました。しかし、公地公民(こうちこうみん)制が徹底していない中で戸籍をつくったことは、地方豪族の反感をまねくこととなり、天智天皇の亡くなった翌年(672年)の壬申の乱(じんしんのらん)で近江朝廷が敗北する一要因となります。 壬申の乱とは、天智天皇の異母弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と、息子の大友皇子(おおとものおうじ)との間におこった王位継承争いを発端としています。吉野に逃れた大海人皇子は東国で数万の兵を集め、飛鳥を平定し大津宮に進軍します。 大友皇子は西国で兵を集めますが、白村江(はくすきのえ)の戦いで疲弊し大津宮に反感を持っていた西国豪族の協力を得られず大津宮は陥落し、大友皇子は自害します。大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよはらのみや)で即位し、天武(てんむ)天皇となります。 なお、「天皇」という君主の称号が使われはじめたのはこの天武天皇のときからとする説もあります。それまでは大王(おおきみ)と称していたとする説です。 ※白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦い 朝鮮半島では665年、高句麗(こうくり)と百済(くだら)が連合して、新羅(しらぎ)に侵攻します。新羅は唐(とう:中国)に救援を求め、唐は百済を攻め、その結果、百済は滅亡します。 朝鮮半島での倭国(わこく:日本)の優位性を高めようと倭国は百済遺民と連合し、唐・新羅連合軍と戦いますが、倭国・百済連合軍は663年白村江の戦いに於いて大敗します。 話を戻します。「時の記念日」は1920年に東京天文台と生活改善同盟会によって制定されました。当時の日本国民に「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」と呼びかけ、時間の大切さを尊重する意識を広めるために設けられたのでした。 「時は金なり」など、時間にまつわるお話はたくさんありますね。 僕たちも段取りをつけ、目標を達成するためにすべきことは迅速にやっておく、それが必要になったときにすぐ出せる様な姿勢・体制をとっておくべきですね。 まだ大丈夫だと油断している間に大変なことになるというか、大変なことになってるんです! いつの時代でも時間には限りがありますから、時間を有効に活用したいものです。 桐の花
桐の花
先日、6月の時候のあいさつを何にしようかと探してしていたら「桐の花の咲く候」というのがありました。そうか、桐の花は6月(初夏)に咲くんだったと再確認したのでした。 「桐」といえば、家具や琴の材料として用いられ、湿気を通さず、割れや狂いが少ないことから、高級木材として重宝されてきました。桐は成長が早いため、かつて日本では女の子が生まれると桐を植え、結婚する際にはその桐で箪笥を作り嫁入り道具にするという風習もあったようです。 桐は鳳凰(ほうおう)の止まる木として神聖視され、その紋章は嵯峨天皇の頃から天皇の衣類の刺繍や染め抜きに用いられるなど、「菊の御紋」に次ぐ高貴な紋章とされてきました。日本には白桐をもとに意匠化された家紋がいくつかあります。それらを総称して桐紋(きりもん)もしくは桐花紋(とうかもん)というのですが、中でも五七桐と呼ばれるスタイルが有名です。 また、中世以降は天下人たる武家が望んだ家紋としても有名で、足利尊氏や豊臣秀吉などもこれを天皇から賜っています。このため五七桐(ごしちぎり、ごしちのきり)は「政権担当者の紋章」という認識が定着することになったようです。私たちが、教科書などで見る織田信長像もこの五七桐の花紋のついた裃を着ています。しかし、徳川家康は天皇からの桐紋の下賜を断り、三つ葉葵を家紋としています。 現在でもこの五七桐の花紋は「日本国政府の紋章」として、ビザやパスポート、500円硬貨にも使用されています。 修学旅行でお世話になった旅館の食器には五三桐(ごさんのきり)がプリントされてました。法務省や皇宮警察はこの五三桐を使用しております。 (家紋は植物だけではありません。鳥やその羽、雪輪などいろいろです。) 植物と人々との関わりも様々ですね。 時候のあいさつから家紋へと話が飛躍してしまいましたが、季節の花である「桐の花」を探してみてください。身近なところにあると思います。 46年ぶりの日光修学旅行
46年ぶりの日光修学旅行
来週は早いもので6月です。1日〜2日にかけて6年生は日光修学旅行に出かけます。 私は46年前の1969年に、6年生と同じように修学旅行専用電車で日光へ行きました。ひので型155系の修学旅行専用電車は6人掛けと4人掛けのボックスシートがあり、ボックスにはテーブルも設置できました。そのテーブルを使って学習や食事、そしてトランプなどをして過ごしたことを思い出します。(現在の子どもたちは、踊り子型185系電車を利用します。) 華厳の滝、竜頭の滝、戦場ヶ原、中禅寺湖、そして東照宮。見るものすべてが新鮮で、陽明門の荘厳さと鮮やかな彩りに歴史の重みを感じたのでした。 6年生の皆さんは何を感じるのでしょうか? この年、巷では由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」や森進一さんの「港町ブルース」が流れ、小学生にはピンキーとキラーズの「恋の季節」や皆川おさむさんの「黒猫のタンゴ」、水前寺清子さんの「三百六十五歩のマーチ」が人気でした。そして、7月にはアポロ11号が月の「静かの海」に着陸したのでした。3年前の8月に亡くなったニール・アームストロング船長は、次の言葉を月から送信してきました。 “一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ” 夏の高校野球では三沢高校と松山商業の名勝負が繰り広げられ、延長18回を投げ抜いた三沢高校の太田幸司はさんは正にヒーローでした。翌日の再試合で、松山商業が優勝することになりますが、高校野球史上に残る名勝負の一つだと思います。 日本国有鉄道(国鉄)はこの年、一等車、二等車といった等級制をやめグリーン車、普通車制を導入しました。 翌年3月には大阪で、「人類の進歩と調和」をテーマに大阪万国博覧会が開催されます。高度経済成長真っ盛りの昭和40年代中頃に小学校高学年、中学生時代を過ごしていました。46年ぶりの修学旅行に、ちょっとノスタルジックな気分になりました。 梅雨入り宣言
梅雨入り宣言
昨日のニュースで、鹿児島県奄美地方が梅雨入りしたと伝えてました。 沖縄よりも早い梅雨入りだそうです。奄美地方が沖縄より早く梅雨入りするのは9年ぶりで、平年に比べて8日、昨年より14日遅い梅雨入りだそうです。 春雨と梅雨の間頃に降り続く長雨を、卯の花が咲きたけて腐る時季に重なることから“卯の花腐し(うのはなくたし)”とか“卯の花降し(うのはなくだし)”というようです。 また、5月の雨を“青時雨(あおしぐれ)”ともいったようです。 時雨は冬の季語ですが、青葉の青を付けて初夏の表情を出したのでしょう。 その瑞々しい葉からしたたり落ちる滴を時雨に見立てたのでしょうか。 僕は余りテレビを見ないのですが、テニスをやっていたせいもあり、昔から天気予報とニュースだけはよく見てました。電車で通勤するようになり、曇り空を眺め、今日は傘を持っていこうかどうしようと思案することが増えました。 “雨”というと、何となく鬱陶しさや重さといったマイナスのイメージを持つのですが、子どもの頃は雨の日が楽しみでした。 長靴で水たまりに入ったり傘を逆さにさしたりして遊んでました。 なぜそんなことが楽しかったのか、今となっては・・・ 大人も雨の日を楽しむ心のゆとりが必要ですね。 あと2・3週間もすれば関東も梅雨入りです。 災害をもたらすような豪雨というのは困りますが、水取雨(みずとりあめ)といって田植えや農作物にはこの時期の雨は欠かせません。 梅雨までの数週間、お天道様を有効活用したいものです。 皐月にまつわるあれこれ
皐月にまつわるあれこれ
先月4月20日、JAXAが三年後に無人探索機で日本初の月面着陸を計画しているとの報道がありました。実施されればアポロ11号から50年余り、日本もついに月面に着陸する4番目の国となります。 また、国際宇宙ステーションに長期滞在することになっている日本人宇宙飛行士の油井亀美也さんがロシアの訓練施設で行われた最終試験に合格し、今月27日、ロシアの宇宙船「ソユーズ」に乗り組んで宇宙に向かうことになったとの報道もつかのま、その後、ロケットの不具合からソユーズの打ち上げが1カ月半から2カ月ほど延期される見通しだと報じました。 「はやぶさ2」も含め、宇宙には限りない魅力を感じています。 月に人間が降り立つことなど考えもしなかった時代の人々の想像力は、強く鮮やかなものです。中国古代の伝説では、仙女の嫦蛾(じょうが)、桂男(かつらおとこ)、ヒキガエル、兎などが月に住んでいます。兎は臼で不老不死の薬をつきますが、日本では餅をついています。仙女の嫦蛾(じょうが)は、不死の薬を盗んで月に逃げ、罰として月の精である蝦蟇(がま)になったとする話です。その「蝦蟇」の古称が「顧菟(こと)」で「菟」を「兎」と誤読したことから月の兎が始まったとする説があります。 「古事記」や「日本書紀」には「月読命(つきよみのみこと)」の物語がありますし、万葉集には「月読壮士(つきよみおとこ)」をうたったうたがあります。 一昨年「かぐや姫の物語」というアニメが公開され、あらためて竹取物語の奥深さを味わいました。日本人にはなじみの深いお話です。 月の探査というと「かぐや」が記憶に新しいですね。 この衛星を利用した月探査計画はSELENE Project(セレーネ計画)と呼ばれ、アメリカ航空宇宙局 (NASA) のアポロ計画以降、最大の月探査計画とされています。 月周回衛星「かぐや」は、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が2007年9月14日10時31分01秒(日本時間)に打ち上げた月探査機です。この計画の主な目的は、月の起源と進化の解明のための科学データを取得することと、月周回軌道への投入や軌道姿勢制御技術の実証を行うことでした。 「かぐや」は高度約100kmの極・円軌道を周回する主衛星と、より高い楕円軌道を周回する2機の子衛星(「おきな(リレー衛星)」・「おうな(VRAD(ブイラド)衛星))」から構成されます。「かぐや」には14種類のミッション機器が搭載され、アポロ計画以来最大規模の本格的な月の探査を行ってきました。 「おきな」は遠月点高度2400kmの楕円軌道に乗り、月の裏側の重力場計測のため地上局と主衛星との間の通信を中継しました。「おうな」は遠月点高度800kmの楕円軌道に投入され、電波を送信することで月の周りの重力場を測る役割を担いました。なお、「おきな」は2009年2月12日に月の裏側に落下し、裏側の重力場観測ミッションは完了しました。 「かぐや(主衛星)」も、2009年2月11日から低高度によりこれまで以上に詳細な月の観測運用を行い、2009年6月11日に月の表側(東経80.4度、南緯65.5度)に制御落下しました。 「月」にまつわるお話はたくさんあります。 そもそも、暦のうえでつかわれる1月、2月といった「月」は太陰暦に由来します。 月の運行をもとに制定された太陰暦では、月が地球を一周するのに要する時間、朔(さく:新月)から望(ぼう:満月)に至り、また朔に返る約29.53日を基準とする単位に「月」の名が与えられたわけですが、明治6年に新暦の太陽暦が施行された後も「月」が踏襲され今日に至っています。 しかし、睦月(むつき)、如月(きさらぎ)といった和風月名では、弥生(やよい)と師走(しわす)には月という文字が使われていません。 旧暦と新暦では月によって1〜2ヶ月ほどの時差が生じます。 新暦の5月は、旧暦では卯月(うづき)です。十二支の4番目の「卯」にあたるからという説や、「卯花月(うのはなづき)」を略したもの、「苗植月(なえうえづき)」に由来するなどの説があります。二十四節気では「立夏」「小満(しょうまん)」の頃にあたります。 また、麦が実り刈りいれの時期を迎えるので「麦秋」「麦の秋」とも呼ばれます。 「秋」という字が使われますが、「麦秋」は初夏のことです。 旧暦で5月のことを皐月(さつき)といいます。また、早月(さつき)ともいうそうです。早苗(さなえ)を植える月のことをさします。新暦に直すと6月頃のことで、二十四節気の「芒種(ぼうしゅ)」、「夏至(げし)」にあたります。 「五月晴れ」とは本来は梅雨の晴れ間をさしたのだそうですが、今では新暦5月の晴天の日をさすようになっています。 古代の日本では夜を統(す)べる月の神は「月読命(つきよみのみこと)」であり、月の異称には「月読壮士(つきよみおとこ)」があります。 月を読むというのは、月の満ち欠けによって月日を知る、つまりは暦をつかさどるということだそうです。 月を足がかりに、やがて火星への有人探査も始まるのでしょうね。 科学技術の進歩は、仙女の嫦蛾や月読命をさぞ驚かせていることでしょう。 鳥獣人物戯画
鳥獣人物戯画 〜 明恵「阿留辺畿夜宇和」
6年生の国語の教材に「鳥獣戯画」があります。 正式には「鳥獣人物戯画」というのですが、擬人化されたウサギやサル、カエルを誰もが一度は見たことがあるのではないでしょうか。日本で最も有名な絵巻の一つです。 この平安時代に描かれた国宝・鳥獣戯画は、墨のみで動物や人物たちを躍動的に描き、漫画のルーツともいわれています。 僕が高校生だった頃は鳥羽僧正覚猷(とばそうじょう かくゆう)の作と伝えられてましたが、それを裏付ける資料はなく、各巻の成立は年代・作者が異なるとみられることなどから、誰が何のために描いたのか、謎多き絵巻です。 手塚治虫さんはかつて「鳥獣戯画と私」という番組の中で「非常に影響を受けた」とコメントを残し、この絵巻に登場する動物を描いていました。 このたび全4巻の修復が行われ、東京国立博物館で2期に分け公開されることとなりました。 僕には、「明恵上人」に興味を持った時期がありまして、本日は「鳥獣戯画」ではなく「明恵上人」についてお話しします。 明恵は承安三年(1173年)、紀州有田に生まれ、八歳のとき両親と死別し、その後、京都の神護寺に入門して修学に励みます。のちに後鳥羽上皇から賜わった京都西北の栂尾(とがのお)の地に高山寺を創建し、また東大寺の学頭にもなった僧です。 頼朝が鎌倉に幕府を立て、武家政権が始まった時期と明恵が活躍する時期とが重なります。貴族社会から武家社会への変革期に登場した人物です。 明恵は月をこよなく愛し、月を歌った歌が多いため「月の歌人」とも言われています。自撰の歌集『遺心和歌集』があり、これを中心に弟子高信が編んだ「明恵上人集」もあります。 「あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月」 この歌は一風変わった歌ですが、月の明るさ、清らかさ、さらには、求道一途の彼が理想とする、人のあるべき姿を詠んだものという説が一般的です。 歌人としての明恵については、「月の歌人」のとおり月の季語である秋にお話しすることとして、哲学者としての明恵についてお話ししたいと思います。 明恵は、「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」を座右の銘にしていたといわれています。「栂尾明恵上人遺訓」には、 『人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり。』 とあり、武士の道理として制定される御成敗式目(貞永式目:1232年)の精神的な裏付けとして、意義深いものであったようです。 河合隼雄さんは、「明恵夢を生きる」で『「あるべきようわ」は、日本人好みの「あるがままに」というのでもなく、また「あるべきように」でもない。時により事により、その時その場において「あるべきようは何か」と問いかけ、その答えを生きようとする』ものであると述べています。 白州正子さんは「明恵上人」で、高山寺内での生活(勤行)の次第について明恵の自筆で細かに定められており、学問所や持仏堂で守るべき行儀作法について記していた。例えば厠(かわや)が汚れていることにより、高山寺を訪れた人々が、この寺は居心地が悪いなどと思われては、勿体ないかぎりである。その程度のことは皆で見つけ次第、きちんとすべきである。寺にいる以上、「寺を護持する心」を保つのが、僧たるものの「あるべきよう」であり、明恵は形式主義者ではなかったが、形式が大切なことは知っていた。栄西との交流についてもふれ、そこには茶道の萌芽というべきものが見られ、事実お茶は高山寺からはじまったといっていいと述べ、道元や親鸞との相違についても語ります。 明恵は、人間同士の争いや諍い(いさかい)を嫌い、山で座禅を組み、ただただ釈尊の教えを修学しようとしていた理想家だったようです。明恵はほかの鎌倉時代の僧侶と違い、一宗を興したわけではありません。 明恵は亡き父母へを慕う気持ちが強く、子犬を見ても、父母の生まれ変わりではないかと懐かしく思っていたようです。鎌倉期の彫刻家、運慶が彫った木彫の子犬(高山寺蔵)をいつも机のそばに置き、こよなく愛したといわれています。 鎌倉仏教の多くが阿弥陀仏の力で極楽往生するといった「他力本願」であったのに対し、「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」を常に問いながら自然体で臨機に対応し、その時その場において「あるべきようは何か」と問いかけ、その答えを生きようとしたのでしょう。 京都栂尾高山寺には何度となく行ったのですが、高山寺に展示されている鳥獣戯画は全てレプリカです。本物は東京国立博物館と京都国立博物館に委託保管されています。 今回の展覧会では、鳥獣人物戯画の他、先ほどの子犬の展示もあるようです。連休中に時間を見つけ、本物と対面したいと思います。 東京国立博物館 特別展「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」 平成館 特別展示室 2015年4月28日(火) 〜 2015年6月7日(日) 「明恵上人集」 岩波文庫 久保田 淳、山口 明穂 (編纂) 「明恵上人」 講談社文芸文庫 白州正子 「明恵夢を生きる」 講談社α文庫 河合隼雄 春風駘蕩
「春風駘蕩」
週の初めから体調が思わしくありません。今年になってからすでに4回も風邪をひき、体力の衰えを自覚するようになりました。 体力の衰えというよりも、自己管理せずにいることが多いのだと思います。油断というか、咳やだるさを感じてから、ああそういえば薄着してたなと。油断していた、予見する力が衰えているというよりも、はじめから気にしていないことが多くなってきています。気をつけなければいけません。 さて今週末は、授業参観、PTA総会、学級懇談会です。 4月ですから、学校でも会議や配布文書が多くあります。忙しさを理由に、仕事や配布物等が「雑」なつくりにならないようにしないといけません。「雑」っていうと「雑用」とか「雑多」とか、まぁ扱いが、「これやっといて」「あれやっといて」とかいうように簡単な気持ちでするものということですね。 ただ僕は仕事や、仕事だけでなくあらゆることにいえると思うんですが最初から「雑用」なんてないと思うんですよね。 先週末のNHK特集「戦後70年ニッポンの肖像〜日本人と象徴天皇〜」を見ながら、昭和天皇の「雑草という名の草はありません。全ての草には名前があります」という言葉を思い出していたのでした。 主体となる人が心のこもらない仕事をしたときに、そのときに「雑用」になってしまうのだと思います。関わる人の心がこもってないのが「雑用」です。だから、例えば行事をやろうというときには、皆で分担して準備していくのですが、自分の担当ではないからといって「俺には関係ないことだから」という気持ちで他の分担を手伝ったりすると、それはもう「雑用」になってしまうんですね。 関係ないなんてことは、本来ないはずです。組織として行っているんだから。「雑」でいいということはありえないんですね。これは、子どもも僕たち大人も同じです。 最初から「雑用」はありません。関わる人が「雑」にしてしまったときから、その仕事は「雑用」になってしまうんです。気をつけましょう。 来週は月末です。もうすぐゴールデンウィークです。5月以降の動きのために、しっかりと自分たちの一月を検証しましょう。お題目で終わってしまったことはなかったか? 計画が遅れていることは? 目標に達しなかったことを隠そうというのは一番ダメですね。 僕たちはだいたいいつも「どうにかなる」って楽観しています。その楽観するのは僕はいいことだと思っています。ただ「どうにかなる」と思っているのなら「どうにかする努力」をいかにするかということ。それをしないでいるってのは話にならないですね。責任を回避してはいけません。 学校でも家庭でも4月は本当に慌ただしいです。 慌ただしいときだからこそ、気持ちだけはゆったりしていたいものです。 “春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)” 素敵な言葉ですね。 春風に吹かれながらのんびりしたり、春風のように人に優しく接したいものです。 桜に関するお話
桜に関するお話
入学式以来、気温の低い日が続いています。 低学年の子どもたちの中には、熱を出して休んでいる子もおります。 みなさん、体調管理に十分留意されてください。 さて、春といえば「桜」ですね。 盛りは過ぎた感もありますが、このところの寒さで日持ちしているようです。 雨に打たれながら、花びらが舞ってます。 今日は桜についてのお話を二つ紹介します。 能の演目に「西行桜」というのがあります。室町時代の世阿弥の作だそうです。 京都の西行庵。春になると、美しい桜が咲き、多くの人々が花見に訪れます。しかし、この年は西行は思うところがあって、花見を禁止します。 一人で桜を愛でていると、例年通り多くの人々がやってきました。桜を愛でていた西行は、はるばるやってきた人を追い返す訳にもいかず、招き入れます。西行は、「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎(とが)にはありける」という歌を詠みます。「美しさゆえに人をひきつけるのが桜の罪なところだ」という意味でしょうか。 西行が、夜すがら桜を眺めようと木陰で休んでいると、その夢に老桜の精が現れ、「桜の咎(とが)とはなんだ」と聞きます。「桜はただ咲くだけのもので、咎(とが)などあるわけがない。」と言い、「煩わしいと思うのも人の心だ」と西行を諭します。老桜の精は、桜の名所を西行に教え、舞をまう。そうこうしているうちに、西行の夢が覚め、老桜の精も消え、ただ老木の桜がひっそりと息づいているという内容です。 桜の花に罪があるのではなく、それを見る人の心や振る舞い次第で騒がしくもなるものであり、また、それを煩わしく思うのも人の心だということなんですね。いつの世も、人の関わりについては同じです。 米国ワシントンD.C.のポトマック川の川沿いには、毎年すばらしい花を咲かせ、アメリカ人をその美しさで喜ばせている桜並木があります。戦時中、アメリカ人の中には日本から贈られたこの桜の木々を敵国日本の象徴だとし、すべて切り倒せと叫んだ人も多くいたそうですが、守ってくれる人々も多くいたことは嬉しいですね。 この桜をアメリカに贈ったのは、時の東京市長の尾崎行雄氏です。1912年にアメリカに贈ったのでした。尾崎行雄と言えば、「憲政の神様」と呼ばれる人物であることはよく知られてます。 昨年10月、相模原市では、旧津久井県又野村(現相模原市緑区)出身で日本の立憲民主政治の発展に多大な貢献をした尾崎行雄(咢堂)の没後60年を記念し、「尾崎咢堂展」を市立博物館で開催してました。 尾崎氏は常に内政に対しては国民を中心に、外交に関しては日本の立場と国際理解の立場をとり、1912年より憲政擁護活動を活発化させたことで有名です。1942年には時の首相、東条英機に対し翼賛選挙の中止を訴え、強く体制批判しながらも当選したことも、その時代背景を考えればすごいことです。 尾崎氏は、「人生の本舞台は未来にあり」という言葉を残しています。 自分が持っている知恵、知識や経験を世の中の必要としている人々に与え、死ぬその時まで懸命に伝えなさい。そして働く本舞台を未来に求めなさい・・・といったところだと思います。 尾崎行雄氏は1890年の第1回総選挙で当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくり、95歳まで衆議院議員を務めて憲政の最長老として国会のシンボルとなり、1954年に逝去されます。 余談ですが、国会議事堂の近くに憲政記念館が有ります。ここは加藤清正の江戸屋敷でした。その後改易され、井伊家(彦根藩)の上屋敷となります。桜田門外の変(安政7年3月3日−1860年3月24日)で暗殺される井伊直弼もこの屋敷から登城する際に襲撃されます。ホテルニューオータニも屋敷跡の一部であり、ニューオータニの庭園は元々は加藤家によってつくられ、井伊家に引き継がれ、現在に至っているようです。 憲政記念館の玄関には先ほどの尾崎行雄氏の、 「人生の本舞台は未来にあり」 の石碑が建ってます。 憲政記念館には、幕末から昭和期にかけての資料(薩長同盟裏書、新政府綱領八策、田中正造足尾銅山鉱毒についての質問書、伊藤博文遭難事件関連資料、原敬首相演説草稿、斎藤隆夫関連資料)も展示されています。 桜の盛りは過ぎましたが、ホテルの庭園で季節の花を愛でながらお茶を飲み、人の心情や歴史上の人物などに思いを巡らすのも素敵ですね。 機会があれば是非、立ち寄ってみてください。 |
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