学校での子どもたちの様子をお伝えします。

冬休みを前に

冬休みを前に 全校朝会での校長の話

お早うございます。今年も残りわずかになりました。
この一年は皆さんにとってどうだったでしょうか。学校の一年は3月31日までですが、自分自身の平成28年、2016年をしっかり振り返ってみてください。今年のうちに、今年一年を振り返り、来年の目標を決めてください。

明日からいよいよ冬休みです。いつもの年より長いので、少し得した気分になっている人もいるのではないでしょうか。

今日は、最近、読んだ本の一節を紹介します。
「私たちが、直接、見たり感じたりできるものは、この宇宙全体をつくっている物質のわずか15%にしか過ぎない。残りの85%は、身の回りにあっても、私たちが意識できないもので、ダークマター(暗黒物質)と呼ばれている。」と書かれていました。
この宇宙は、ほとんどが私たちには見えないものによって、成り立っているということです。

その中に、私たちの生きる世界もあります。何か不思議な感じがしました。科学の世界では、私たちが目で見てわかることができるものは、ほんのわずかなことで、まだまだ、わからないこと不思議なことが地球を含め宇宙には一杯あるのだということですね。

目に見える、形あるものだけが大切なものではありません。
目には見えないものにも、大切なものがあるのです。

フランスの作家でありパイロットでもあった、サン・テグジュペリの小説『星の王子さま』の中に、「本当に大切なものは、目に見えない」という一節があります。人間の世界でも本当に大切なものは、目に見えないことが多いのかもしれません。

「星の王子様」を読んだことのある人はいますか?

私たちが今、元気でいられるのも、実は、たくさんの「目に見えないもの」との結びつきや関わり合いがあるからです。私たちは一人では生きられません。「目に見えない」たくさんのものやたくさんの人に、支えられて生きているのです。

星の王子様は、地球の砂漠で出会ったキツネに、
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。肝心なことは目に見えないんだよ。」と教えられます。
作者のサン・テグジュペリは、「目には見えないもの」、それは、「心でしか、見ることができないもの」だとも言っています。

皆さんの来年の目標として、「目には見えない大事なことに気づき、それを大切にする生き方、自分にとって目には見えない本当に大切なもの」を、見つけてくれることを期待しています。

それでは全員が、元気に笑顔で、新しい年を迎えてくれることを楽しみにしています。



読書の秋に

読書の秋に

今年の読書週間は、この12月に20数年ぶりに第八部が刊行されることになった五木寛之氏の「青春の門」を読み返した。
第一部が刊行されたのは1970年だから、丁度僕は中学生になった年だ。第六部が刊行されたのは大学卒業の年。学生時代を通して読み継いできた感が強い。

映画も観に行った。吉永小百合、大竹しのぶさんが演じた二作と松坂慶子、杉田かおるさんが演じた二作、計四作を観たのを覚えている。
当時と自分の状況はだいぶ変わり、還暦に近づきつつある今、本から得る感動も変わっているのだろうが、第八部を早く読みたいという思いは募るばかりだ。

40数年という時間の流れの中で、分別のある大人になったかどうかは判らないが、まだまだ仕事もしたいし、好きなことも沢山やって楽しみたいと思う。
振り返れば、仕事ばかり続けていたような人生で、本当に楽しんでいたかは疑問だ。今は2〜3年後の目標を立てて、もう少し楽しみのできる時間や環境を作ろうと思っているのだけれど、まぁ、その時になってみなければ判らないだろうな。

ジョージ・バーナード・ショーというイギリスの作家が面白いことを言っている。

  We don't stop playing because we grow old. we grow old because we stop playing.
  年をとったから遊ばなくなるのではない。遊ばなくなるから年をとるのだ

深い言葉です!
好きなことに夢中になったり、それを継続することが人生を潤すのでしょうね!
老いてもなお、豊かな心を持ちたいものです。

「青春の門」を読み返しながら、向上心をなくした年寄りにはならないぞと自分に言い聞かせたのでした。
しっかりと仕事をするのはもちろんですが、楽しみも突きつめれば、人間修行なのでしょう、きっと!




TRAIN SUITE四季島

「TRAIN SUITE四季島」

 本日、横浜への出張のため真鶴駅で電車を待っていると、多くのカメラを持った方に遭遇しました。“何か特別な列車でも通るのかな”と思いながら電車に乗り込むと、小田原までの車窓からもカメラを手にした方々を目撃したのでした。
 そういえば、「TRAIN SUITE四季島」として運転されるJR東日本の新型車輛が兵庫の川崎重工で製作されたという話を思い出し、みんな四季島を撮っているのかななどと漠然と思っていたのです。
 小田原で座れたので本を読みながらふと車窓みると、二宮−大磯間でEF66−115に牽かれたE001系「TRAIN SUITE四季島」と併走したのでした。ゴールドの車体の窓には保護用のシートが貼られてました。5両編成の車体は窓の形に大きな特徴があります。残念ながら写真を撮ることはできませんでした。
 実車に乗るには相当の出費を強いられますが、いつか乗ってみたいと思います。

 ※JR東日本のホームページで「四季島」の画像を見ることができます。
   https://www.jreast.co.jp/shiki-shima/train.html


夜空を仰いで

夜空を仰いで

9月1日の全校朝会は、子どもたちの大変落ち着いた態度に驚きながら、みな元気な姿でスタートがきれました。
残暑の中、今週からは運動会練習も始まり、校庭や体育館には子どもたちの歓声がとどろいています。

朝夕には多少涼しさも感じられるようになってきましたが、「秋色次第に濃く」というにはまだまだ時間がかかりそうです。
 
今回も、星のお話からスタートです。完全にネタ切れになってきています。(笑)
この夏の楽しみの一つはペルセウス座流星群でした。昨年もそうでしたが雲が多く、今年も期待したほど見ることはできませんでした。それでも数個の流星を見ることができました。8月の後半は雲が多くなり、なかなか星空が見られない日々が続きました。
今月は気温も落ち着いてきて、秋の高い青空が広がるようになるはずなのですが・・・このところの異常気象ですので、どうなることやら・・・

秋の夜空といえばまず思い浮かぶのが仲秋の名月。
「お月見」と呼ばれる風習は、旧暦(太陰暦)の8月の十五夜に出る「仲秋の月」と、9月の十三夜に出る「後の月」に、その年に収穫された農作物をお供えして、天の恵みに感謝をするものと考えられています。
今年の旧暦の8月の十五夜は、9月17日になります。旧暦は太陰暦は月の満ちかけを基準に作られたもので、同じ日付でも太陽暦とは約1カ月のずれがあります。

9月の宵空では、太陽が沈んだ後の夕焼け空の中に宵の明星の金星が見え始めています。水星と金星は地球より内側をまわっているので内惑星と呼ばれています。内惑星は、地球と太陽との位置関係により、見かけの大きさと明るさが変化します。
金星は、このあと来年3月までは宵の明星として見ることができます。太陽が沈んだあとの低い空に見えています。

皆さんはご存じないかも知れませんが、

  見ろ、飛雄馬。
  あの星座がプロ野球の名門、巨人軍だ。
  俺もかつては、あの輝かしい星座の一員だった。
  しかし、もう俺の手は届かない。
  飛雄馬、おまえはあの星座に駆け上れ!
  巨人軍という星座のど真ん中で、ひときわ輝くでっかい明星となれ!
  飛雄馬よ・・・栄光の星を目指すのだ!

1960年代、小学生だった僕はこの言葉に触発され、よく夜空を見上げていたものでした。
星一徹が飛雄馬と夜空を見上げ、指さした星を特定することはできませんが、金星だった可能性もありますね。これからの時期、ひときわ輝く金星を見上げてみてください。

さて、地球の10倍の重さがあると予想されている第9惑星の存在が取りざたされています。今月からハワイ島にある日本のすばる望遠鏡で観測が始まります。
僕らは水・金・地・火・木・土・天・海・冥と覚えたものですが、2006年からは冥王星が準惑星に格下げされ、8惑星ということになっています。
その冥王星にニューホライズンズが到着してから1年余り。様々なデータを送ってきています。今年の10月までには全てのデータの送信が終わる予定だそうです。太陽系内での最大の氷河の存在など新たな発見が多数あるようです。興味のある方はネットで検索してみてください。すぐにヒットします。

第9惑星、見つかるといいですね。

夏の思い出

2016夏の思い出

 台風が接近する中、本日リオのオリンピックが閉幕した。
 今年の夏は時差が12時間もある、日本から見ると地球の裏側にあたるブラジルから連夜五輪の熱戦が届けられ、寝不足の日々が続いた。4年に一度のスポーツの祭典。気楽なテレビ観戦者は日本選手の活躍に一喜一憂した。
 前回1964年の東京オリンピックの時、僕は小学1年生だった。円谷幸吉、遠藤幸雄、三宅兄弟(義信、義行−三宅宏実の父)、東洋の魔女、アベベ、アントンヘーシンク、チャフラフスカ・・・50数年経っても忘れられない名前だ。
 今回の日本選手団からは、最後まで諦めない事の大切さを様々な競技で示された。皆さんも多くのアスリートたちの名を、心に刻んだことだろう。
 勝利した選手はメダルを手にしスポットライトを浴びる。しかし、負けた選手は敗北を受け入れ、挫折と自己嫌悪に陥る。敗北者には慰めと同情、それに「お疲れさま」の言葉しかない。敗北した悔しさ、辛さ、情けなさはだれよりも自分自身がかみしめる。
 「勝たなきゃ意味がないと思っています」
勝利を目指し、自分を極限にまで追い込み辛い練習にも耐えてきたアスリートたち。五輪アスリートたちの真の凄さは成功し続けてきたからではない。僕らと同じように失敗や挫折をいくつも重ねながら、そこから這い上がり、しっかり現実を直視して歩き出すところにある。
 このオリンピックが4年後には東京で開催される。敗者の復活する姿を見たいと思う。




夏休み前 全校朝会での校長の話

子どもたちにとって、今日は夏休み前の最後の授業日です。
夏休みを前に、皆、ワクワクしています。

“夏休み”

何と魅惑的な言葉でしょうか。
東京でオリンピックがあった年に小学校へ入学して以来、この歳になっても “夏休み” が待ち遠しくて仕方がありません。
スイカを食べ、虫を捕り、海で遊び、水まきをし、花火をし、アサガオ・ひまわり・ヘチマを栽培し、絵日記をつけてた夏休み。
宿題を早く済ませるようになったのは中学生の頃から。
小学生の時代は、8月の後半は毎年、大変な思いをしてました。
大人になってからは、ビールを飲みながら高校野球を見るのが夏の定番となってます。

昨日、1年生は絵日記の書き方を勉強していました。
子どもたちはどんな夏休みを迎えるのでしょうか?


本日の全校朝会では、夏休みを前に次のような話をしました。

いよいよ、明日から、皆さんが楽しみにしている夏休みが始まります。
42日間という長いお休みに入ります。
今年の夏休みに、どんなことを頑張るか決めていますか?
一つでも決めている人は手を上げてください。
自分でやりたいことが決まっていることはとても素晴らしいことです。
まだ決まっていないという人も、しっかりとした計画を立てて、自分で決めたこと、普段、なかなかできないことにチャレンジしてみてください。

校長先生から、皆さんにこの夏休みにお願いしたいことを二つ話します。

一つは、「命の夏休み」にしてほしいということです。
自分の好きなこと、楽しいことなど、いろいろやりたいことがありますね。
でも、そんなやりたいことができるのは、お父さん・お母さんからいただいた大切な大切な「命」があるからです。
自分の不注意で、あるいは約束を守らなかったために、かけがえのない「命」をなくすことがないようにしなければなりません。
どうか自分の「命」、そして友達の「命」を大切にしてください。

二つ目は、「自分の成長に挑戦する夏休み」にしてほしいということです。
42日間という長い夏休み、普段学校に通っているときには、なかなかできないこともじっくりと時間をかけて取り組むことができます。
自分のやりたいことを決めて、粘り強く取り組んでください。

最後に、夏休みに向けて心がけて欲しいことを5つ。
 1つ目は、健康であること。(規則正しい生活)
 2つ目は、悪いことをしないこと。(正しい判断力)
 3つ目は、継続してできる何かを頑張ること。(意欲と忍耐力)
 4つ目は、家の手伝いをすること。(家族の一員である自覚)
 5つ目は、宿題をきちんとすること。(当然のこと) 
  
どうかこの42日間を「自分の成長に挑戦する夏休み」と捉えて、甘やかすことなく、積極的に自分自身を伸ばして欲しいと願っています。
9月、みなさんに会える日を楽しみにしております。



鍵屋の辻 最終回

今回は、決闘の“その後”についてお話し、「鍵屋の辻」を終了しようと思います。

決闘が終わると地元、津藩の役人の事情聴取を受けた後、藤堂家に預けられ、傷の手当や介護を受けるなど丁重に扱われました。

鳥取藩(元岡山藩)の池田家は、三人揃っての帰参を望みます。が、大和郡山藩が又右衛門の帰参を強く求め、数馬と又右衛門はしばらくの間、藤堂家へ身柄御預けとなります。また3人の討伐をほのめかすような、旗本の不穏な動きもあったようです。

藤堂藩に御預けとなって4年後の寛永15年(1638年)8月13日、やっと3人は鳥取に移封された池田家に帰ります。
しかし、鳥取藩は、鳥取到着17日後に荒木又右衛門の死を発表します。毒殺説等もありますが、その死因も明確ではなく死亡日までまちまちで、真相は定かではありません。又右衛門の死には謎が多くあります。享年は41歳です。

岩本六助は鳥取藩に、中小姓の身分で50俵5人扶持で仕官すると、父親の名である岩本孫右衛門を継ぎ、子孫にも代々岩本孫右衛門を名乗らせます。

余談ですが、武士の俸禄について簡単に触れます。
俸禄とは簡単に言うと給料のことですが、「知行米(ちぎょうまい)」と「切米(きりまい)」があります。
江戸幕府においては、直属の家臣(旗本、御家人)のうちに、知行地を与えられた知行取と、知行地をもたない蔵米取がいましたが、後者に与えられたものが切米です。
切米は、御目見以下の下級武士、御家人の俸給で、現物支給です。
六助のような扶持米取りは、正確には「現米取り」といい、「蔵米(切米)取り」の一種です。蔵米取りは玄米が直接支給され、春(二月)4分の1、夏(五月)4分の1、秋(十月)2分の1というように支給されました。蔵米取り以下の者には扶持米が付随しました。
「給金取り」というのもあります。字の通り現金を支給される者です。最下級武士の給金は3両1人半扶持でした。このことから、身分の低い武士を卑しんで「さんぴん侍」や「さんぴん奴」という言葉が生まれます。
(石高制については、2015.9.30日付「家康没後400年に際して その4 亀姫2」で扱ってますのでそちらもご覧ください。)

岩本六助の収入を誤差があるのを承知で、現代の金額に換算してみます。
 1石=2.5俵ですので、六助の場合は50俵ですから20石。
 一人扶持は、一日当男は5合、女は3合換算で毎月支給されますから、
 5合×360日×5人=9000合
 (9000合=900升=90斗=9石)
 合計29石です。(全員男性として計算)
 29石=72.5俵 1俵=60キロですから
 72.5×60=4350キロ
 仮に米価が10キロ3000円とすると
 435×3000=1,305,000円
 年間130万円で5人を養っていくのですから・・・
 結構、生活は苦しかったと思われます。

話を元に戻します。
「鍵屋の辻の仇討ち」の話は全国に広まり、三人の名声は高まっていきます。さらに、講釈などでは荒唐無稽なまでに脚色され、荒木又右衛門が倒した敵の数は、三十六人にまで膨れ上がります。しかし、実際には2人しか斬っていません。

渡辺数馬は忠義の家臣として厚遇されたようです。しかし、鳥取に戻ってから4年後、34歳の若さで亡くなります。

以上が日本三大仇討ち、「鍵屋の辻」の顛末です。
しかし、日本三大仇討ちと言われていますが、実際には、仇討ちではなく、上意討ちの形をとった決闘です。忠臣蔵や曾我兄弟の仇討ちとは少し違いますね。

歴史も少し掘り下げてみると、なかなか面白いですね。
「鍵屋の辻」の決闘が行われた前後には、様々な事件が起こっています。

 1615年 大阪夏の陣、豊臣家滅亡
 1616年 坂崎出羽守が謀反を企てる
     大御所・家康他界する
     家康六男、松平忠輝、改易される
 1619年 福島正則、改易される。
 1622年 本多正純「宇都宮釣り天井事件」で改易される
 1623年 家光、三代将軍となる
 1629年 沢庵、「紫衣事件」で出羽上山に流される
 1630年 池田忠雄の家臣・渡部源大夫、河合又五郎に殺害される
 1631年 大納言忠長(二代将軍秀忠の三男)、
     領地没収され、甲斐に蟄居される
 1632年 二代将軍秀忠、他界する
 1634年 大納言忠長、上野国高崎に幽閉され、自害する
     「鍵屋ノ辻」の決闘で荒木又右衛門・渡部数馬が
      河合又五郎と河合甚左衛門、桜井半兵衛を討つ
 1637年 島原の乱起こる(島原・天草一揆)

坂崎出羽守の謀反や駿河大納言忠長(国千代)の件も興味深いものがあります。
いずれまた、ここでお話ししようと思います。



鍵屋の辻 その3

本日、足柄小学校では朝会で、今シーズンのプール使用上のルールと安全を子どもたちと確認し、プール開きを宣言しました。
残念ながら気温が低く、実際にプールに入ることはできませんでした。


さて今回は、江戸所払いとなった又五郎や数馬と又右衛門らの動向、そして決闘の様子についてお話ししようと思います。

幕府の裁定の結果、江戸所払いとなり安藤邸にいられなくなった又五郎は、江戸を出て大和郡山付近に住む叔父の河合甚左衛門の屋敷等に潜伏します。

これも不思議なことですが、大和郡山には殺害した渡辺源太夫の姉が嫁いでおり、その夫は剣術指南役の荒木又右衛門です。
荒木又右衛門と河合甚左衛門は、ともに大和郡山藩の剣術師範を務めていて(荒木又右衛門の方が後輩で格下)付き合いも当然あったことと思われます。
なぜその様なところへ潜伏したのでしょう?
“灯台下暗し”でも狙ったのでしょうか。

数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜します。講談等では全国を行脚したように話が展開しますが、実際は河合一族の動向を監視するなかで、潜伏先を突き止めたようです。
甚左衛門の方も危険を察知し、又五郎を再び江戸に移すことにします。しかしこの又五郎脱出計画は、数馬や又右衛門の知るところとなります。

大和から江戸に行くには大和街道で鈴鹿郡関宿に出て、西の追分から東海道に出ることになりますが、交通手段としては陸路と、途中まで木津川の舟を利用する方法がありました。
鍵屋の辻は、東海道に向う大和街道と南下して津や伊勢方面に向う伊賀街道との分岐点となっていました。付近を流れる木津川には舟着き場もあり、徒歩と舟の両方を補足できます。ここで、数馬と又右衛門は又五郎を待ちます。

また鍵屋の辻は、上野城の西大手門のすぐ近くです。白鳳城とも呼ばれる上野城は、藤堂高虎が改修した高石垣で有名な城です。津藩の本城でしたが、大坂夏の陣以降は交通の便のよい津城を本城とし、上野城は支城として高虎の弟の藤堂高清が城代となります。仇討ち決行の際、藤堂家の家中の者が大和街道を封鎖し、邪魔が入らないようにしたという言い伝えもありますが、真偽の程は定かでありません。

寛永11年(1634年)11月7日の早朝。ついに河合又五郎は、護衛や使用人ら11名(20人という説もあります)とともに鍵屋の辻に現れます。

数馬方は又右衛門の他に、門弟の岩本六助(岩本孫右衛門)と河合武右衛門の4人。相手方は11人もいましたが、多くは槍持ちや使用人でした。武芸に秀でた者は、又五郎の妹婿の霞の半兵衛こと尼崎藩槍術師範桜井半兵衛と、叔父の元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門です。

又右衛門は、渡辺数馬に又五郎を、岩本六助と河合武右衛門に桜井半兵衛と小姓を相手にさせ、又右衛門自身は河合甚左衛門と対峙するという作戦を立てます。
馬に乗った河合甚左衛門が又右衛門の前にさしかかったとき、全員が一斉に飛び出して斬りかかり、決闘が始まります。

又右衛門は甚左衛門が落馬した際に斬り殺します。大和郡山藩剣術師範としては、あっけない最後でした。
強敵の桜井半兵衛に向った六助と武右衛門ですが、武右衛門は半兵衛に斬られてしまいます。その後、又右衛門が駆けつけて半兵衛を倒します。甚左衛門と半兵衛が倒れたところで、他の従者はみな逃げてしまったようです。

数馬と又五郎はともに剣術が未熟であったため、互いに手傷を負いながらも、致命傷には至らないなか、駆けつけた又右衛門と六助が助成し、やっと又五郎の首をとることができました。

講談では又右衛門は36人を切り倒したなどと語られますが、これは講談師による脚色で、実際は甚左衛門と桜井半兵衛の2人だけです。

次回は、数馬と又右衛門、六助のその後についてお話します。




鍵屋の辻 その2

本日5月31日は、以前お話した「火星大接近」の日であります。
ここ数日、雨や曇りの日が多く星空を見ることができません。
本日も、雲量が多く・・・20時から23時頃、夜空を見上げてみてください。大きな火星を見ることができるかも知れません。
ただし、今日だけしか見られないということではありません。6・7月頃まで、いつもより大きな火星を見ることができます。
次に火星が地球に近づくタイミングは2018年です。
この時は、今回よりもさらに接近します!

さて、本題の事件の起こりについて触れてみましょう。

1630年の夏、岡山藩士河合半左衛門の息子又五郎が、渡辺源太夫という少年の家に遊びに行ったところから事件は始まります。二人の間にどんな経緯があり、会話があったのかは知る由もありませんが、結果として又五郎は源太夫を殺してしまいます。

河合又五郎が、渡辺源太夫殺害に及んだ理由については諸説有ります。

1 源太夫は岡山城下でも知られた美少年であり、藩主池田忠雄の寵を得ていた。又五郎はそれに嫉妬しての兇行であったとする説。
2 又五郎は源太夫に恋慕したが、撥ね付けられたので遺恨に思っての兇行説。
3 源太夫が又五郎の差料(さしりょう:腰にさす刀)を欲しがったので、又五郎が源太夫の家まで届けてやると、「その様な、なまくらな差料はいらない」と、突っ返してよこしたので、又五郎がその刀を以って、「斬れ味を見よ!」と源太夫を斬り殺したとする説。

等があります。

この事件は、藩士の子弟の喧嘩として藩の目付役が処理する問題です。
三大仇討ち事件になるような話ではありません。が、殺された源太夫は藩主池田忠雄(ただかつ)に寵愛された小姓で、藩主が直々にこの件に介入してきます。一方、河合半左衛門も息子を守るべく、又五郎を城下から脱出させてしまいます。そのため事件が複雑化し、旗本と外様大名を巻き込んだ特異な仇討ち事件となっていきます。

河合半左衛門は息子を知人にあずけ、江戸の旗本、安藤正珍(まさよし)にかくまってもらいます。安藤家は三河武士団の一員として、家康及び徳川政権に貢献しています。

当時の旗本は「我こそ、三河以来徳川家を支えてきた直属の武士」という自負があり、外様大名を見下し対抗意識を持っていたようです。池田氏に個人的な恨みを持つ旗本もいたそうです。安藤正珍は又五郎の受け入れを承諾し、岡山藩主、池田忠雄からの犯人引き渡し要求を拒否します。

この対応に池田忠雄は激怒します。
徳川家康の次女督姫(とくひめ)は、北条氏直の死後池田輝政(てるまさ:居城は姫路城)に嫁いでいます。輝政には既に4人の男児がいましたが、督姫は忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興、振姫など5男2女をもうけました。忠雄は督姫の実子、家康の孫にあたり、あらゆる手段を使って幕府に働きかけ、反撃にでます。

旗本と外様大名との軋轢は、このような形で露見してきます。
幕府は困惑し、調停を模索しますが解決には至りません。
その様な中で池田忠雄が急死します。死因は天然痘ですが、毒殺されたという説もあります。
幕府は忠雄が亡くなったことに配慮し、喧嘩両成敗と言うことで又五郎には江戸所払い、かくまった安藤正珍など旗本には寺預け(監禁謹慎罰の一種)という裁定を下します。

幕府は忠雄の後継ぎである長男光仲(みつなか)が3歳とまだ幼かったため、岡山藩の統治は難しいとし、因幡鳥取にいた忠雄の甥、池田光政と移封(いほう:領地替え)を命じます。池田忠雄は戦国武将の宇喜田秀家、小早川秀秋から受け継がれた岡山城を整備拡張した人物でもありました。

池田忠雄は死に際し、家臣に又五郎を討つことを厳命します。源太夫の兄渡辺数馬は、主君の「遺言」として又五郎の討伐を命じられたため、本懐を遂げるまでは鳥取に引っ越す事もでず、脱藩して渡辺家だけで対処する事態となっていきます。

河合又五郎を主君の遺言により討たねばならなくなった渡辺数馬は、又五郎を討ち、目的を為し遂げないことには、自分の未来は拓けてきません。また河合一族にとっても、大切な跡取り息子をおいそれと討たれるわけにはいかないわけです。

本来武士の仇討ちは、親や兄といった尊属の仇を討ち、尊属の地位や財産を相続するために行うものです。「兄が弟」の、「親が子」の仇を討つというようなことは通常許されていません。子弟や家臣など卑属の仇討ちはしないのが習わしなのだそうです。
数馬は剣術が未熟であったようです。藩主の「遺言」とはいえ、そんな中で弟の仇を討つこととなった数馬の気持ちはいかがなものであったでしょう。

そこで数馬は、寛永10年(1633年)ごろに大和郡山藩剣術指南として召し抱えられていた義兄の荒木又右衛門に助太刀を要請し、又右衛門もこれを了承して大和郡山藩を退身します。

長くなりましたので、今回はここまでといたします。
次回は、講談等で有名な36人斬りの荒木又右衛門と、河合又五郎の動向についてお話します。




鍵屋の辻

鍵屋の辻

先日、職員室で曽我の傘焼き祭りの話題から「三大仇討ち」の話になったとき、若い職員は下を向いてしまいました。

最近では時代劇を扱ったテレビ番組も少なく、地上波ではNHKの大河ドラマと木曜時代劇、BSでは再放送ものは結構ありますが、新作はやはりNHKのBS金曜時代劇ぐらいです。民放で扱わないのは、視聴率が低いからなのでしょう。
以前にもお話ししましたが、僕が子どもだった頃は時代劇や忍者ものはテレビでも、漫画でも、小説でも大人気でした。これも時代の流れなのでしょうか。

三大仇討ちに戻ります。
三大仇討ちとは、曾我兄弟の仇討ち、鍵屋の辻(伊賀越えの仇討ち)、忠臣蔵(赤穂浪士)をさします。

本校であまり知られていないのが、荒木又右衛門の鍵屋の辻(伊賀越えの仇討ち)でした。
そこで今回から数回、鍵屋の辻についてお話ししようと思います。

このお話には、昨年ここで取りあげた「督姫」(とくひめ:北条氏直に嫁ぎ、その後池田輝政に嫁いだ徳川家康の娘)との関連も出てきます。一昨年、芭蕉に関連して伊賀を訪れた際、鍵屋の辻にも行ってきましたので紹介します。(督姫については「家康没後400年の年に際して」2015/11/4.10を、芭蕉については「芭蕉没後320年」2014/11/18のこの欄をご覧ください)

鍵屋の辻とは寛永11年(1632年)、剣豪の荒木又右衛門が、義弟の仇である河合又五郎と、又五郎の護衛をしていた河合甚左衛門(又五郎の叔父で郡山藩剣術指南役)、同じく尼崎藩槍術指南役「霞の半兵衛」こと桜井半兵衛らと対決し、討ち倒した場所のことです。
鍵屋の辻があった三重県伊賀市小田町には鍵屋の辻史跡公園が整備され、伊賀越復讐記念碑の石碑が建ち、資料館もあります。資料館には渡辺数馬に助太刀した荒木又右衛門の自筆の起請文や伊賀越仇討の錦絵などが展示されていました。その裏には、討たれた河合又五郎の首を洗った池というものが復元されていました。数馬茶屋というのもありました。

この事件は人々に語り継がれ、後に講談の人気演目となります。
さらにそれが歌舞伎や人形浄瑠璃にも取り入れられて「伊賀越乗掛合羽(作:奈河亀輔1776年)」や「伊賀越道中双六(作:近松半二・近松加助1783年)」といった作品が生まれています。

次回は、事件の起こりについてお話ししようと思います。







火星接近

火星接近

久しぶりに宇宙に関するお話です。

NASAは5月3日、太古の火星で氷河の下にある火山が噴火した痕跡を発見したと発表しました。無人探査機マーズ・リコネサンス・オービターに搭載した分光器を使って上空から観測し、地球の卓上火山に特徴的なゼオライトや硫酸化物、粘土鉱物があることを突き止めたそうです。太陽系の起源の解明に、また一歩近づいたようです。

その火星が5月31日に地球に最接近します。
国立天文台によると、最接近時の火星と地球の間の距離は7,528万キロメートルだそうです。

国立天文台のホームページには、
火星は地球のひとつ外側にある惑星で、約780日(約2年2カ月)の周期で地球への接近(会合)を繰り返しています。地球の軌道はかなり円に近い形をしていますが、火星の軌道は少しつぶれた楕円形をしています。また、会合周期がちょうど2年ではなく2年2カ月であるため、火星と地球が接近する位置は毎回ずれ、距離も大きく変わります(最も近い位置での接近と最も遠い位置での接近では、距離が2倍ほど違います)。 今回の最接近距離まで近づくのは、2005年11月20日以来です。2018年には5,759万キロメートルまで大接近します。

火星の接近というと最接近の日ばかりが話題になりますが、最接近前後の数週間は、地球と火星の距離はあまり変わりません。火星の直径は地球の半分程度と小さく、遠い時は表面のようすがよく観察できませんが、地球との最接近を迎えるころは火星が大きく見えるため、観察の好機となります。この機会に、ぜひ火星を望遠鏡で観察してみてください。

とあります。

火星が見えるのは、21時のころは南東の低い空、真夜中なると南東の高い空へ移動します。火星はたいへん明るいので、すぐ見つかるでしょう。

見つけ方のポイントは、火星はかなり明るい星で、オレンジ色に輝いていることです。また、他の星座の星は、チカチカと瞬きますが、火星は瞬きません。このようなポイントを押さえると、見つけることができます。
なお、すぐ東側に、土星があるのですが、明るさがかなり違うのですぐに区別がつきます。また、南側に同じオレンジ色に輝く、さそり座の1等星アンタレスがあります。アンタレスは1等星で、火星や土星より少し暗いのですが、3つの星の並びは、目立つ存在になっています。

火星は、肉眼では、ただの明るい星にしか見えません。しかし、天体望遠鏡を使うと、模様が見えてきます。
望遠鏡がなくても、双眼鏡でもいつもより大きく見ることができますよ。

相模原市立博物館では7月10日まで、火星が地球に接近する動きを再現した映像とNASA(アメリカ航空宇宙局)やESA(欧州宇宙機関)の撮影した最新の火星の映像を用いて解説をしています。
宇宙に興味のある方は、少し遠いのですが博物館の隣にはJAXAもありますので、時間を作ってお出かけになってみてはいかがでしょう。




端午の節句

端午の節句

5月5日は五節句のうちの「端午の節句」です。
 ♪甍(いらか)の波と雲の波 重なる波の 中空(なかぞら)を
  橘(たちばな)かおる 朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり♪
最近は、あまり鯉のぼりも見かけなくなったような気がするのですが、これも少子化の影響でしょうか。

端午の節句は古くから継承されてきた文化の一つですが、1948(昭和23)年に国民の祝日に制定されてからは、「こどもの日」の方が多く使われているように思われます。

子どもは“国の宝”、“社会の宝”ともいわれますが、1951(昭和26)年のこの日には、国際連合による1959(昭和34)年の児童権利宣言に先立ち「児童憲章」が制定されました。1989年の第44回国連総会において採択され、1990年に発効した「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」は、子どもの生存、発達、保護、参加という包括的な権利を実現・確保するために必要となる具体的な事項を規定しています。

65年前に制定された児童憲章は、
われらは、日本国憲法の精神にしたがい、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める。
 児童は、人として尊ばれる。
 児童は、社会の一員として重んぜられる。
 児童は、よい環境の中で育てられる。
の前文から始まります。

さて、前置きが長くなりましたが、今回はこどもの日にちなんで「端午の節句」について調べてみました。
節句とは、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦における、伝統的な年中行事を行う季節の節目となる日のことです。

端午の節句の由来は諸説あるのですが、今から2300年ほど前の中国の戦国時代、楚(そ)の国の国王の側近に、屈原(くつげん)(前340頃〜前278頃)という政治家がおり、詩人でもあった彼は正義感が強く、人々の信望を集めていました。しかし、屈原は陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。故国の行く末に失望した屈原は、5月5日に川に身を投げてしまったのでした。楚の国民達は、小舟で川に行き、太鼓を打ってその音で魚をおどし、さらに粽(ちまき)を投げて、「屈原」の遺体を魚が食べないようにしたそうです。

また、中国では昔から5月(旧暦)の時期は病気が流行し亡くなる人が多かったことから、5月は悪月、5日は5が重なることから悪日として、厄除けに菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を門に挿し、菖蒲を浸した酒を飲んで厄除けや健康祈願をしていたそうです。

このような風習が奈良時代に日本に伝わり、やがて日本独自の端午の節句の風習が生まれていきました。すなわち、端午の節句とは元は中国から伝わったものだったのです。

端午にちまきを食べる習慣と「屈原」の故事とは、直接関係が無いとする説もあります。
海野厚の作詞に中山晋平が作曲し、大正時代に発表された童謡「せいくらべ」も、最近では聴く機会がめっきり少なくなりました。知らない方もいるかも知れません。
 ♪柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ
  粽(ちまき)たべたべ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ
  きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
  やっと羽織の 紐(ひも)のたけ♪
この曲の中にも粽が登場しています。

粽については、中国の故事に習って食したのでしょう。一方、節句につきものの「柏餅」は江戸時代中期頃より端午の節句の食べ物として定着したようです。柏の木の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちません。このことが「子供が生まれるまで親は死なない」という思いにつながり、「家系が絶えない」「子孫繁栄」という縁起を担いだのだそうです。

日本の端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。
端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。

平安朝のころから、子供らは菖蒲で飾った紙のかぶとをつけ、石合戦などの遊びをしていたそうです。

古来よりおこなわれていた宮廷での端午の行事も、鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。しかし、武士のあいだでは尚武(しょうぶ:武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになっていきます。

室町時代から武家では5月5日の端午の節句に、竹竿に布を張り「吹き流し」 を立ててました。

江戸時代になると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参内し、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝いました。

元禄時代(1688〜1704)になると紙や木でつくった 菖蒲人形を庭先に立てるようになり、それがいつしか室内に飾るようになり、人形美術も発達して種類も増えました。
また、江戸時代には庶民も紙で作った「鯉のぼり」を竿につけて高く掲げて楽しんでいたようです。歌川広重作の浮世絵、「水道橋駿河台」にも鯉と吹き流しが描かれています。

コイはもともと威勢のいい魚で、鯉が滝を上って竜になる中国の伝説「登竜門」から、「鯉の滝上り」などと伝えられ、子供が元気に育つように、立身出世という親の願いが「鯉のぼり」にこめられているのでしょう。

このような時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへ、そして子どもの健やかな成長へと結びついていったと考えられているようです。

今、この瞬間も、子どもたちを取り巻く様相は変化しているのでしょうね。
私たちが未来を託す子どもたちをどう育てるかは、大人全体が考えなければならない問題です。私の少年時代は豊かではありませんでしたが、人と人との関わり合いの中で気持ちはとても豊かでした。

近頃は子ども受難の時代なのか、家では親による虐待があり、外では不審者に襲われたりする一方で、簡単に金銭を与え甘やかす風潮や、幼い子の髪を染め、化粧を施し、大人の真似を誉めそやす、言葉遣いや服装、挨拶の乱れを見過ごしているなど、子どもたちを取り巻く環境があまりよくないと感じています。もう一度、児童憲章の理念を再確認する必要があるのではないでしょうか。
大人は、子どもに善悪の判断、社会規範を教える必要があります。その大人が率先して範を示さなければ、健全育成は題目に終わってしまいます。

もちろん褒めて育てることは重要ですが、是は是、非は非。叱ることをためらわず、注意することを避けないことです。叱られなければ、子どもは褒められたときの喜びを味わえません。

こどもの日は、子どもたちが「大きな未来」を信じて生きて行けるように、大人の責任として、今何をなすべきかを考え、実行するかを考える日なのかもしれません。

余談ですが、本日の足柄小の給食は「こどもの日」にちなんで、
「中華おこわ」 と 「かしわ餅」
がでます。




ゴールデンウィークを前に

ゴールデンウィークを前に

週末から、待ちに待ったゴールデンウィークがやってくる。
今年の連休にはあれをしよう、これをしようと、思いは果てしなく駆け巡る。

しかし、現実はそう甘くない。
色々なしがらみから、思い通りに事が運ぶことは稀だ。

「無欲一切足」とは、江戸時代に生きた良寛の言葉。
さらに「有求萬事窮」と続く。
 “欲がなければ全てが足りる。求めようとするから、万事が行き詰まるのだ”
そんな意味だと思うのだが・・・

欲から逃れられない、反省無き僕は連休への思いをさらに募らせる。
皆さんは、この連休をどのように過ごされるのでしょうか。




桜に関するお話

桜に関するお話

今年も桜に関するお話からスタートです。

今年のさくらは例年に比べ花持ちがよいなと思っていたら、これも暖冬の影響なのだそうです。
暖冬の原因としてはエルニーニョや太陽活動をはじめ、様々な要因があるのだそうですが、直接的には冬型の気圧配置が長続きせず、北極圏やシベリアの寒気団が日本列島上空に流れ込む現象が弱かったり、全く発生しないことでおこります。
 
桜の開花について調べてみました。

桜は夏ごろに来年咲くための花芽を作り、秋から冬にかけて、活動や成長を停止する「休眠」に入ります。

その後冬に「休眠打破」という眠りから覚める過程を経て、2〜3月に花芽が成長して開花に至ります。

この「休眠」が桜の開花には非常に重要です。休眠の期間にしっかりと寒くなると、
 「寒さでしっかり休んだし、そろそろ起きるか」
と桜が感じて、しっかりと休眠打破をし、花芽が成長して開花できる仕組みとなっています。
桜が咲くのには温かさだけでなく、寒さも大切なのですね。

暖冬の影響で、秋から冬にかけての本来寒くなる時期に気温が下がらないと、桜は「休眠」せず、寝ぼけ眼のままうたた寝をし、冬になっても「休眠打破」がしっかりできず、
 「起きようかな・・・いや、まだそこまで寒くないしな」
と、同じ桜の木であっても花芽ごとに休眠打破がまちまちになり、春になってもなかなか一斉に目覚めないで開花もまちまちとなり、結果的に長い間花を楽しむことができるのだそうです。

花持ちがよく、長い期間楽しむことができるということの裏には、気象の異変が影響していたのですね。

昨日の雨と風で、校庭は花びらの絨毯が敷き詰められた様になっています。これから数日は、花びらが桜吹雪となって舞い散るのでしょうね。
やがて花びらが散って、若葉が出始め「葉桜」となっていきます。
もうしばらくは、桜を楽しめそうです。




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