学校での子どもたちの様子をお伝えします。

大河ドラマ「花燃ゆ」 〜松蔭と象山 2

大河ドラマ「花燃ゆ」 〜松蔭と象山 2

 今日は上巳(じょうし)、桃の節句です。

 先週末、我が家でも久しぶりにひな人形を出しました。
 子どもが小さかった頃は毎年、しっかり飾っていたのですが、ここ数年は飾ることもしまうことも億劫で、飾らずじまいとなっていました。年に一度のことだから出そうと思ってはみたものの、そうはいっても、七段飾りの人形を飾るのは一苦労で、結局、お内裏様とおひな様だけを飾ったのでした。

 小田原駅構内でもひな人形が飾られており、行きかう人を和ませてくれています。

 さて前回は、桜田門外の変から会津の悲劇に触れ終わりました。松平容保(かたもり)はなぜ京都守護職就任を断らなかったのか・・・それは会津藩祖の保科正之に由来するといわれております。保科正之は三代将軍家光の異母弟で実直な人物であったようです。高遠藩主から会津藩主になり、「会津家訓十五箇条」を定めます。この家訓を引き合いにだされ容保は守護職に就任することになります。会津の藩校「日新館」に入学する前の子どもたちの心得として什の掟(じゅうのおきて)があります。八重の桜でおなじみとなった「ならぬものはなりませぬ」です。保科正之は日新館の前身となる庶民教育のための「稽古堂(けいこどう)」を奨励しました。保科正之につきましては、いずれまたの機会にお話ししたいと思います。

 話を象山に戻します。たいしたことではないのですが、佐久間象山の読み方は“しょうざん” or “ぞうざん”どちらでしょう?

 名前は象山の故郷である信州の山の名からとったようで、普通は「しょうざん」といい、本人もそういっていたそうです。その山は今でもそのままの名で残ってますが、土地の人は「ぞうざん」と言い習わしているそうです。土地の人は“ぞうざん”、世間一般では“しょうざん”。どちらも正解のようです。嚶鳴フォーラムでは長野市長さんは“ぞうざん”と話されてました。

 象山は松代藩士ですが、松代といえば六文銭・真田幸村ですね。来年の大河ドラマは「真田丸」です。その松代には“ぞうざん神社”もあります。また、戦時中の松代大本営跡(地下壕)もヘルメットをかぶって見学できます。
 また、近くの小布施は栗が有名ですが、「葛飾北斎」ゆかりの地でもあり、美術館もあります。岩松院には北斎の天井絵の他、「官兵衛」にも出てきた賤ヶ岳の七本槍といわれた福島正則の墓や小林一茶の「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」の句碑もあります。是非、松代や小布施を訪ねてみてください。

 象山の門弟には吉田松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、坂本龍馬など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことも事実です。特に勝海舟とは、勝の妹婿という義理の兄弟関係でした。小田原の近くでは伊豆韮山の代官江川太郎左衛門(英龍)とも交流があり、砲学の教授も受けてます。

 10年ほど前の大河ドラマ「新撰組!」で、象山が後の新撰組局長となる近藤勇に次のように語ります。
 『人は生まれてから最初の10年は己のことだけを考える
  そして、次の10年は家族のことを考える
  20歳になってからの10年は生まれた故郷のことを考える
  30歳になったら日本のことを考える
  40歳になったら世界のことを考える』

 年をとるたびに視野が意識が広がり、それにつれて自分の使命感や責任も重くなるという意味でしょうか。

 原作・脚本は三谷幸喜さんで、史実とは異なると思いますが、象山と近藤が一緒に黒船を見ているシーンでのセリフです。この後のセリフは「今は多摩のことだけを考えておれば良い。10年後、日本のことを考えなくてはいけなくなったときに正しい判断ができるよう今から勉強しておけ」と続きます。この時の近藤は多摩で天然理心流剣術を学んでおり、新撰組の前身「浪士組」に入る10年ほど前の話です。「人は生まれてからの〜」も象山自身の言葉ではないと思うのですが、象山の性格を表しているようにも思えます。

 来年の「真田丸」も原作・脚本は三谷幸喜さんです。三谷流の幸村が登場するのでしょう。もう50年ほど前のことですが、TBSでナショナル劇場「戦国太平記 真田幸村」というのをやっておりまして、眠い目をこすりながら見ていた記憶があります。中村錦之助(萬屋錦之介)さんが主演でした。猿飛佐助、霧隠才蔵ら真田十勇士の名を覚えたのもこの番組の影響でした。幸村の実名は信繁ですが、幸村の方が認知されてますね。

 象山は一橋慶喜に公武合体論と開国論を説きますが1864年、明治維新を待たずして、攘夷派により京都で非業の死を遂げることになります。

 先人には学ぶことが多々あります。僕らは今できることに最大限の努力を惜しまないことです。覚悟を決め「今何ができるか考えること」、そして「笑顔」を忘れず「やってみること」です。僕らも「笑顔」でベストを尽くしましょう。できなかったら、また次やればいいんです。いつも笑顔で最大限の努力をしているなら、きっとそう思えるはずです。

“折にあわ(へ)ば散るもめでたし山ざくら めづるは花のさかりのみかは”
                                   佐久間象山
 象山先生もいってます。覚悟を決めろと!

支離滅裂な内容となってしまいましたが、象山のお話を終わります。 


大河ドラマ「花燃ゆ」 〜松蔭と象山 1

大河ドラマ「花燃ゆ」 〜松蔭と象山 1

 「軍師官兵衛」も毎回楽しみにしていたのですが、「花燃ゆ」も興味深く見ています。吉田松陰の妹で後に久坂玄瑞の妻となる杉家の四女文(ふみ)が主人公です。
 松蔭は杉家の次男ですが、叔父の吉田家に養子に入ります。また、同じく叔父で玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けます。11歳の時、藩主毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事で、その才能が認められます。第4回の放送で、松蔭はアメリカ船(1854年ペリーが日米和親条約を締結するために浦賀に来航)に同郷で足軽の金子重之輔と乗船し渡航を懇願しますが拒否され、幕府から国もとでの蟄居を命ぜられます。藩では国禁を犯した松蔭の処遇を巡って、毛利慶親が「松蔭は国の宝だ」というシーンがあります。このセリフからも松蔭のその英才ぶりを庇護していたことがうかがえます。

 最初にペリーが来航した際(1853年)、松蔭は佐久間象山と黒船を見て外国留学を決意します。このシーンは「八重の桜」でも扱っていました。その後、長崎でプーチャーチンのロシア艦に前出の金子共々乗船しようとしますが、出港が早まったため未遂に終わります。そして、アメリカ船への乗船となるわけです。この密航計画に連座したとして佐久間象山も投獄されます。 

 前置きが長くなりましたが、今日は佐久間象山についてのお話です。

 あまり知られていませんが、象山は物理学者でもあります。ガラス製造を試みたり、電線をつくってみたり、電信での交信も行っています。また、地震予知器なるものも安政5年(1858年)に作っています。安政5年といえば、安政の大獄が始まった年です。

 安政の大獄とは、江戸幕府が行なった弾圧です。江戸幕府の大老井伊直弼らは勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また次の将軍を徳川家茂に決定します。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件で、弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上になります。吉田松陰や橋本左内、頼三樹三郎らが斬罪。一橋慶喜(徳川最後の将軍)も隠居謹慎を受けてます。その後、井伊直弼は桜田門外の変で水戸の浪士に暗殺され、攘夷運動は激化の一途を辿るなか公武合体策として、孝明天皇の妹である和宮と14代将軍家茂(いえもち)の婚姻が成立します。

 和宮に関する悲話は様々あります。箱根塔之沢は和宮終焉の地であり、徳川将軍家の菩提寺芝・増上寺の修行寺であった塔之沢の阿弥陀寺住職が和宮の増上寺における本葬に先立って通夜・密葬を執り行ったこともあり、阿弥陀寺は和宮香華院とも呼ばれ、「皇女和宮葵の御堂」には三つ葉葵の御紋が刻まれた額が掲げられています。篤姫との確執も有名ですが、これはまたの機会にします。

 四半世紀以上も前のことですが白山中学校には学校林が有り、その見学を兼ねて阿弥陀寺の脇を通り明神・明星へ遠足に行き、帰りは久野林道で学校まで帰りました。結構距離がありました。下見と遠足、PTA運営委員会で学校林の枝打ちと、一週間の間に3回も登ったことを思い出しました。
 まだ寒いですが、少し暖かくなったら阿弥陀寺周辺を散策してみるのも良いですね。箱根旧街道八里には13の甘酒茶屋と13の坂が有り、坂には「猿滑り坂(さるすべりさか)」「追込坂(おいこみさか)」「於玉坂(おたまさか)」等の名前がついてます。箱根の坂を歩いてみるのも楽しそうです。

 桜田門外の変ののち水戸藩の処遇をめぐり、会津藩松平容保が意見したことから会津の悲劇はスタートします。京都所司代守護職、戊辰戦争、白虎隊、日新館・・・・四半世紀以上前、白虎隊を扱った正月ドラマがありまして、アリスの堀内孝雄が主題歌「愛しき日々」を唄ってました(古い話で恐縮です。知ってる方は同世代! だんだん昔語りになってきてます(笑))

どこが佐久間象山の話だかわからなくなってますが、本日はここまでとします。

※ 前回の二・二六事件に関連して、小田原に別邸のあった閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)に関する資料の展示が、27日(金)から3月18日(水)まで小田原文学館で開催されます。事件当時、親王は陸軍参謀総長でした。当日は小田原に滞在されていたようです。興味のある方は是非、訪れてみてください。

79年目の二・二六事件

79年目の二・二六事件                     

 今年は戦後70周年の節目の年です。先日6年生はもと中学校教員の飯田先生を講師にお招きして、「戦時下の小田原」についての学習を行いました。小田原にも空襲があったことや戦争の悲惨さに、子どもたちは真剣なまなざしで聞き入ってました。
 戦争への道、軍部の政治的発言力が大きくなるきっかけの一つに二・二六事件があります。この事件を中心に第二次世界大戦のはじまりについてふれてみます。

 二・二六事件は昭和11年(1936)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした日本近代史上未曾有の軍事クーデター未遂事件です。歴史の教科書等にも載ってますが、戒厳司令部が「下士官兵に告ぐ 今からでも遅くないから原隊に帰れ 抵抗するものは全部逆賊であるから射殺する おまえ達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ」、「兵に告ぐ、敕命が發せられたのである・・・」は一度はきいたことがありますね。

 実は小田原の近くの湯河原も、事件の舞台となっています。
 この事件が起きたのは昭和11年2月26日の未明、関東地方としてはめったにない大雪の朝でした。「皇道派」の青年将校約20人が率いる1400人余りの将兵が「天皇親政」を掲げて決起し、完全武装で国の主要機関や要人邸など東京市内十数カ所を襲います。
 反乱部隊は各部隊ごとに決められた襲撃目標に向かい、国会議事堂、首相官邸、警視庁などを占拠し、首都の中枢を掌握します。これによって斎藤実(まこと)内大臣、高橋是清(これきよ)大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監の三人が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負います。岡田啓介首相は義弟の松尾伝蔵大佐が誤認により射殺され、本人は危うく難を逃れました。

 この日、東京以外で唯一襲撃されたのが湯河原の伊藤屋旅館別館「光風荘」です。ここには前内大臣牧野伸顕伯爵(明治の元老、大久保利通の次男)が家族や使用人と滞在していました。襲撃したのは河野寿大尉が指揮する八人でした。
 東京と同じように雪の降り積もる早朝、「電報」と叫ぶ声に護衛の警官が出てみると、東京から自動車に分乗してきた武装兵士でした。静かな温泉街に銃声が響き、建物は放火されます。牧野伯爵は女中や消防団の気転で婦人物の衣類をかぶり家族らと裏から逃れて無事でした。銃撃戦によって護衛の皆川巡査は死亡、伯爵づきの看護婦や地元消防団員(岩本亀三:岩本屋旅館主人、八亀広蔵:伊豆屋旅館主人)が銃弾や消火作業で負傷します。首謀の河野大尉は重傷を負って熱海の病院に収容され一命は取りとめますが、のちに実弟に促されて差し入れのナイフで自決します。また、牧野伸顕(のぶあき)、峰子夫妻の孫の吉田和子は事件当時20歳。祖父母に付き添って湯河原に滞在中事件に巻き込まれ、牧野伯爵を外に逃がすなどしました。父は吉田茂元首相。のちに麻生太賀吉に嫁ぐ、麻生太郎元首相(現、副総理、財務大臣、金融担当大臣)の母です。
 この事件に関する軍法会議で、将校17人と民間人2人が死刑、無期禁固5人、有期禁固54人となります。このうち湯河原関係では民間人2人(1人は陸軍に在籍歴有り)が死刑、兵士5人と民間人1人が禁固15年となっています。いずれも血気盛んな20歳代を中心とする青年でした。

 これより4年前の昭和7年(1932)5月15日に起きた五・一五事件では犬養毅(つよし)首相が射殺され、20人以上の政府要人や財界人が襲撃の対象だったことが明るみに出ます。しかし荒木陸相は談話で将校の行為に理解を示し、決起した将兵の厳罰は行われませんでした。このことがのちの2・26事件につながったとの見方もあります。元老の西園寺公望(きんもち)は次の首相に海軍大将の斎藤実を推薦し、斎藤は軍部・貴族院・官僚・政党から閣僚を選び、8年間続いた政党内閣は崩壊します。この後、軍部が政治を主導していくことになり、政党政治は太平洋戦争終了まで復活することはありませんでした。

 2・26事件の翌1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突を起こします。近衛文麿内閣は不拡大方針をとりますが、強硬派の意見に押され軍事行動を拡大し、日本と中国は日中戦争に突入していきます。1939年9月1日、ドイツは突如ポーランドに侵入し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告、第二次世界大戦が始まります。日本は40年9月に日独伊三国同盟を結び、南方面への積極的進出を図ります。日本の「北守南進」に警戒感を強めたアメリカとの関係を調整するため、41年4月から日米交渉を始めますが・・・日本は12月8日、ハワイの真珠湾を攻撃しアメリカ・イギリスに宣戦布告し太平洋戦争が始まります。
 また、3日後にはドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告したので、第二次世界大戦は、アジア・太平洋地域とヨーロッパ地域を戦場とする大戦争となっていきます。

 現在、焼失した湯河原の「光風荘」は当時の間取りで再建され資料館となってます。土日にのみ開館してますが、予約をすれば平日の見学も可能です。2月26日は予約なしで公開しております。興味のある方は尋ねてみてください。

家康没後400年目の年に

家康没後400年目の年に

 今年は、徳川家康が亡くなってから400年目を迎えます。1616年6月1日、駿府城で亡くなり久能山東照宮に埋葬されますが、翌年日光東照宮へ改葬されます。家康ゆかりの地では、400年を顕彰するイベントも開かれるようです。

先日開催された嚶鳴フォーラムで作家の童門冬二氏は、「家康が江戸に入城した際、北条氏の政治を民は求めた。それは北条氏が徳による政治を展開していたからだ。」と話されました。北条氏は代々、税も安かったようです。氏の話とは直接関係はないのですが、家康の関東入りについての思いを述べてみます。

 天正18(1590)年8月に、家康は三河等5ヶ国から旧北条領の関八州に転封となり、豊臣秀吉の薦めもあって本拠地を江戸に定めます。大久保彦左衛門が著した『三河物語』などには、父祖伝来の所領である三河を奪われた家康主従は、泣く泣く未開の関東に下っていったように描かれています。大河ドラマ「江」でも、そうした表現をしていました。

 しかし、僕はそんなことがあろうはずがないと思います。家康は「ラッキー」とばかり小躍りしたくなったんじゃないのでしょうか。所領は150万石から250万石になるのですから、経済力、軍事動員力は飛躍的に増します。加えて、しがらみのない土地であれば、徴税や徴兵の仕組みも一から作ることができ、かえって統治がしやすいわけです。三河国内は一向一揆なども起こり、家康は統治に結構苦労していました。家康の家臣にとっては慣れ親しんだ土地を離れる辛さがあったのでしょうが、大名としての家康の損得勘定はそんなところじゃないかなと思います。

 老獪な秀吉が何故このような提案をしたのか理解に苦しむんです。政敵をより強力にするように仕向けただけですから。その当時の秀吉は、家康と日本を二分してもよいくらいのことを考えていたのかもしれません。小牧・長久手の合戦以来、秀吉が家康に対して一貫して好意的であることを考えると、あながち考えられないことではないと思うんです。

 秀吉の真意や家康の思いについても、想像の範囲を超えることはありません。上記以外にも様々な興味を引かれる点があります。
 400年目のイベント等で家康だけでなく、江戸時代の知恵や思い、文化に少しでも触れてみたいと思います。
 歴史って面白いですね。


イベントの一例
東京大江戸博物館 「大関ケ原展」 3月28日から5月17日
静岡市商工会議所、静岡市、浜松市、岡崎市でも史跡巡りをはじめイベントがあります。
日光東照宮も将軍家が参拝した道を東京から歩いてたどるイベントを実施するようです。

最後のブルートレイン

最後のブルートレイン

 この3月のダイヤ改正で、北陸新幹線の開業とともにブルートレイン(ブルトレ)の定期運行が廃止されます。現在運行されている上野〜札幌間を結ぶ「北斗星」が、3月13日発をもって廃止され、青森〜札幌間の寝台急行「はまなす」も不定期運行のようです。車両の老朽化や2016年に開業予定の北海道新幹線(新青森〜新函館北斗間)の試運転などが始まり、列車の運行が難しくなるためとの理由です。
 寝台列車は東京〜出雲市間を結ぶ「サンライズ出雲」と東京〜高松間を結ぶ「サンライズ瀬戸」のみとなります。しかし、現在の「出雲」も「瀬戸」もブルトレではありません。

 上野〜札幌間を約16時間かけて結ぶ「北斗星」は、青函トンネルが開業した 1988年に本州と北海道を結ぶ寝台特急としてデビューしました。個室中心の設備やフルコースディナーを提供する食堂車など豪華寝台特急として話題になりました。
 さらに走る豪華ホテルともいわれ、大阪〜札幌間を日本海側経由で結ぶ寝台特急「トワイライトエクスプレス」も3月12日発をもって廃止です。1999年デビューのカシオペアは不定期運行で残るようです。

 僕がまだ小学校高学年から中学生の頃、ブルトレは憧れの的で、電気機関車は時代と共に変化しますがEF58、EF65が20系、14系客車を牽引している姿を真鶴駅や根府川駅近くの鉄橋(白糸川鉄橋)によく見に行きました。EF66もブルトレを牽引しているのですが、貨物を牽引していた印象が強いです。

 最初に東京発着のブルトレに乗ったのは中学卒業後の春休み。19時30分、熱海駅発の「富士」で弟と二人、周遊券を手に日豊線経由で西鹿児島まで行ったのでした。三段寝台で約25時間の旅でした。西鹿児島駅は今はないのですが、駅で駅弁を買い、すぐに急行「かいもん」で博多に向かいました。一週間ほど宿に泊まることなく、九州電車の旅を満喫したのでした。当時は博多〜長崎間に普通寝台(急行や特急ではなく、寝台券さえあれば乗れました)も走ってました。帰りは「みづほ」で早朝の熱海駅まで帰ってきました。

 はやぶさ、あさかぜ、ふじ、さくら、みずほ・・・皆姿を消しました。特急ではないのですが、「銀河」「出雲」「瀬戸」(出雲・瀬戸は後に特急になります)などの寝台急行も走ってました(大阪万博は急行瀬戸で帰ってきました)し、東京〜西鹿児島間を急行「桜島・高千穂」も走ってました。全車両自由席で寝台車はついていません。小倉から「桜島」は鹿児島本線の博多・熊本を経由し西鹿児島まで約25時間40分、「高千穂」は日豊本線の大分・宮崎を経由し28時間20分ほどかかっていました。小田原には午前11時23分頃に停車してました。東京から門司までの直流区間はEF58が、九州の交流区間はED73、75、76が牽引してました。

 最近の旅の交通手段はもっぱら自動車で、鉄道を使うことはめっきり少なくなりました。青い車体で走るブルトレが姿を消す、これも時の流れなのでしょうが、ノスタルジーだけでなく、寂しい感がしてなりません。「夜行列車」や「夜汽車」という言葉もやがて使われなくなるのでしょうね。また、昭和が遠くなったような気がします。

 EF58、EF66、ED75とナハネフ22形式客車(あさかぜ最後尾展望車両)は大宮の鉄道博物館に展示されています。

嚶鳴フォーラム 〜渡辺崋山〜

 月末に「嚶鳴フォーラム」が市民会館で開催されます。嚶鳴フォーラムは郷土の先人を顕彰し、14の市町が参加しています。僕が知っていたのは上杉鷹山、佐久間象山、佐藤一斎、渡辺崋山、細井平洲、所郁太郎、滝廉太郎、そして二宮尊徳でした。
 佐藤一斎は『言志四録』の「三学戒」が有名ですが、象山、崋山の師でもあり、勝海舟、吉田松陰、坂本竜馬、西郷隆盛ら幕末の志士も多大な影響を受けたとされています。西郷隆盛は『言志四録』を座右の書とし、「南洲翁遺訓」には佐藤一斎の影響がうかがえます。
 今日は渡辺崋山という方のお話をしたいと思います。
 この名前にピンときた方はなかなか歴史通です。「蛮社の獄」(1839)・・・中学の社会科で習いましたね?

 渡辺崋山と高野長英、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門(英龍)らは海防の必要性を説き、老中水野忠邦の天保の改革のもと目付や南町奉行として取り締まりを行った鳥居耀蔵(とりいようぞう)と対立し、「蛮社の獄」で崋山は罪には問われなかったものの、幕府の対外政策を批判して書いた「慎機論」が発見され蟄居し、生活に困窮し絵を売ります。そのことが幕府で問題となり、藩に迷惑をかけられぬと自刃します。長英は投獄されますが後に脱獄し、詳細は定かでないのですが一時、足柄上郡(大井町山田付近?)に潜伏していたとする書物もあります。江川太郎左衛門(英龍)は高島秋帆に近代砲術を学びその普及に努め、佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(木戸孝允)らが彼の門下で学びます。韮山(伊豆の国市)には反射炉が残っています。

 崋山は三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士で画家です。のちに田原藩の家老となるのですが、少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売り、のちに谷文晁(たにぶんちょう)に入門し絵の才能が大きく花開きます。20代半ばには画家として著名となったことから、ようやく生活にも苦労せずにすむようになったようです。

 余談ですが、この時期は様々な画風が生まれます。特に庶民に愛されたのは浮世絵で、18世紀半ばに鈴木春信は「錦絵」と呼ばれる多色刷りの浮世絵の版画を創作し、寛政期には「美人画」の喜多川歌麿や役者絵の東洲斎写楽、天保期には風景版画が流行し、「富嶽三十六景」の葛飾北斎、「東海道五十三次」の歌川(安藤)広重らが人気でした。18世紀半ば以降に、明・清の南画の影響を受けた文人画(南画)と呼ばれる画風がおこり、池大雅と与謝蕪村の合作「十便十宜図」がその代表作です。この画風は化政期以降、江戸の谷文晁、その門人の田能村竹田、渡辺崋山が出て全盛期を迎えます。崋山の作には「鷹見泉石像」「一掃百態」があります。また、円山応挙は客観的な写生を重んじ、洋画の遠近法を取り入れて日本的な写生画の様式を作り上げます。文人画と応挙の長所を取り入れた呉春(松村月渓)の風景画は、幕末の上方豪商に歓迎されます。

 話を渡辺崋山に戻します。崋山は学問にも励み、儒学(朱子学)を学び、18歳のときには昌平坂学問所(幕府の正式な学問所)に通います。また、佐藤信淵から農学を学び、天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや「凶荒心得書」という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けています。

 田原藩は小さくてお金もない。でも、家老として大きな交渉をしなければいけない。そんな時に、周りの人は何をしてたかというと・・・意識をしない、危機感がない、自分には関係ない、と一人で、どうしようもない状況だったようです。そこで、交渉前に皆を集めて話をします。
 「みんな仕事をしていない。何かを感じてるか?」
 「大功は緩にあり、機は急にありという事を忘れるな!」

 『大功は緩にあり、機は急にあり』の意味としては、大きな仕事は時間をかけてやった方が良い。だが、その機会は突然やってくるから常々油断をしてはいけないという事でしょうか。何事も『意識』を持っていなければいけない。そんな意味だと思います。
 また、『面前の功を期して後面の備えを忘れることなかれ』ともいってます。みんな、目先の利益にとらわれ自分にとって都合の良い事しかしない。そして、その利益を手に入れるために焦る。本来はその後の損失や負担も考えなくてはいけないはずですね。

 足柄小は実のあるもの、伝えられるものを創っていきたいと思います。何事も困難なことはたくさんあります。プロジェクトでも研修でも会議でも、具体的に関わろうとしないと困難を乗り越えることはできません。
 『面前の功を期して後面の備えを忘れることなかれ』という風に、目の前で様々な困難にぶつかったとしても、後にもっと良い事があるかもしれませんよね!そこのところをしっかりと見据えておく必要があります。

 嚶鳴フォーラムでは「北条五代と二宮尊徳を語る」と題し、報徳小と桜井小の学習発表と作家の童門冬二氏、伊東潤氏の講演もあります。童門冬二、伊東潤の両氏は歴史小説家で、童門氏はとりわけ幕末の人物についての著作が多く、伊東氏は北条氏や戦国期を扱ったものが多いです。どのようなお話がうかがえるのか講演が楽しみです。

興味のある方は是非、参加してみてください。

 日時 平成27年1月31日(土)  12時45分から16時40分
 場所 小田原市民会館大ホール

113年目の八甲田山

 年末から年始にかけ「高倉健」さんを追悼する映画が放映されていました。その何本かを見たのですが、今日はその中から「八甲田山」についてお話をします。

 原作は新田次郎氏の「八甲田山死の彷徨」です。新田次郎氏の山岳小説は、学生時代によく読んだものです。この本も学生時代に読み、映画も小田原の東宝で観ました。「天は我々を見放した」のセリフが有名になりました。

 物語は、日露戦争直前の1902年(明治35年)1月に寒冷地における戦闘の予行演習、青森−八戸間の物資輸送の可否調査として、日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季に雪中行軍の訓練中に遭難した事件を扱います。
 訓練への参加者210名中199名が死亡する山岳遭難事故としては最大のものであること、気象条件的にもこの日は全国各地で最低気温を記録していて、旭川では日本の最低気温である-41度を記録していること、同時期に訓練を実施した弘前31連隊は全員が無事帰還していることなどが印象に残り、いつかは訪ねてみたいと思ったのでした。数年前にやっと舞台となった岩木山・白神・八甲田・奥入瀬・八幡平と駆け足で回り、東北の自然を見聞してきました。

 神成大尉(小説・映画では神田大尉:北大路欣也)に率いられた青森5連隊がほぼ全滅、福島大尉(徳島大尉:高倉健)に率いられた弘前31連隊が全員生還ということで、この事件については、リーダーシップのあり方について、比較されることが多いようです。
 青森隊の悲劇は、稚拙な装備、指揮系統の混乱、極端な情報不足、寒さに対する認識不足などの諸要因が重なります。一方、弘前隊が、全員無事帰還できた理由は次のようなものとされています。
 ・雪中行軍に関する服装、行軍方法等について、3年がかりで研究・実践し、準備周到であったこと。
 ・連隊を率いた指揮官・福島大尉が、寒冷に対するさまざまな工夫(例:川を渡る際は裸足で渡川し、ぬれた足を完全に拭き取ってから靴下を履く等)を考案しており、周知徹底していた。
 ・連隊が比較的少人数で、最後まで統率を失わなかった。
 ・天候不良とみるや深さ4メートルに至る穴を掘りビバークし、途中で寝込んでしまう隊員がいると皆で踏みつけて起こすなど、冬山の怖さを熟知していた。

 今起きている問題、青森5連隊隊で起きているようなことが、本校でも起きていないだろうか?

 当時は軍隊で、命令は絶対、命令違反は死を意味します。しかし、今は民主主義の世の中。自分の頭で考えて、自分で行動することが求められる時代です。指示がないから、周りがみんなそうするから・・・と、冬の寒さで凍死することを選ぶようなことになっていないだろうか? また、青森5連隊のリーダーのように、部下(子どもたち)を知らず知らずのうちに危険に追い込んでいないだろうか?

 映画を見ながら後藤伍長の銅像を思いだし、一度冷静に見直しをしてみるタイミングなのかもしれないと、そんなことを思ったのでした。

 1月23日、青森5連隊は青森〜田代温泉間(約20キロ)の雪中行軍演習を一泊二日の予定で始めます。悲劇から113年目の八甲田は豪雪で、積雪が3メータを超えているそうです。今なお厳しい、厳寒の地です。

正月の伝統文化

正月の伝統文化

 そろそろ正月気分も抜けた頃かと思います。
 いまだに、おせちの残りをいただいてますが、先日、我が家でも七草がゆを炊きました。本来は7日の朝に食するのだそうですが、夕食にいただきました。セリ(芹)、ナズナ(薺)、ゴギョウ(御形)、ハコベラ(繁縷)、ホトケノザ(仏の座)、スズナ(菘)、スズシロ(蘿蔔)、すぐに我が家でまかなえるのはセリ、スズナ、スズシロだけです。セットになっているものを近所の八百屋さんで調達しました。「七草」をまな板の上に載せ、母は歌を歌いながら包丁の背で叩いて細かくしてました。
 ♪七草なずな 唐土の鳥が 日本の国に 渡らぬ先に ストトントン♪
皆さん、聞いたことがありますか?

 七草がゆの由来は、1月7日は、五節句の一つ「人日(じんじつ)の節句」で、「人日の節句」の「人日」は「人の日」で、元日からそれぞれの日に獣畜などを当てはめて占う風習が中国にあり、七日目が「人」で、その日を人を大切にする節句にしたとも言われ、それにまつわる中国の風習が日本に伝わったとも言われているようです。
 また、6世紀の半ばに、中国、梁の宗懍(そうりん)が著した年中行事記の「荊楚歳時記(けいそさいじき)」には、
 「正月七日を人日と為す。七種の菜を以て、羹(あつもの)を為(つく)る」
とあり、これが日本の七草がゆの起源ともされます。
 疲れた胃腸をいたわるには、丁度良いのでしょう。

 江戸時代後期に塙保己一が編纂した「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」に、鎌倉時代初期頃に成立したとされる「年中行事秘抄(ねんじゅうぎょうじひしょう)」に、
 七種菜。薺。蘩蔞。芹。菁。御形。須々代。佛座。
  金谷云。正月七日。以七種菜作羮食之。令人無万病。
とあり、鎌倉時代には七草の風習があったことがうかがえます。

 今度の日曜日、11日は鏡開きです。正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事です。神仏に感謝し、またその供えられたものを頂いて無病息災などを祈って、汁粉・雑煮などにして食べてきました。

 かつて1月15日は成人の日でした。この日、左義長と呼ばれる賽の神を祭る行事も行われます。僕の住む街では「どんど焼き」を町内ごとに行っていました。道祖神祭りとも呼ばれ山車を牽き、松飾りや竹を集めて火をつけ、習字を燃やし高く舞い上がると字がうまくなると云われてました。この火で団子を焼いて食べると風邪をひかないとも云われ、最後にはアカメの木に紅白の団子をさし、残り火で焼いて食べたものです。アカメの木も最近は見たことがありません。今では山車は出ますが、町内ごとに行われていた「どんど焼き」は海岸一カ所で行われています。

 左義長もこの週末に行われるのでしょうか。良き伝統・文化は継承していきたいものです。

1月8日 朝会での校長の話

1月8日 朝会での校長の話

冬休み明けで、子どもたちが足柄小へ戻ってきました。
懸念されていたインフルエンザで休む子も少なく、一安心しました。
久しぶりに見る子どもたちの顔には、新たな年を迎えた喜びと希望とが満ちあふれていました。

表彰を行った後、私からは次のような話をしました。

新しい年が始まりました。2015年、平成27年です。
皆さんは年末年始、家族と楽しく過ごしたことと思います。
しかし、今の日本や世界にはたくさんの課題があります。

30年後の自分を想像することは難しいですが、
2045年にはリニア新幹線が東京−大阪間を1時間で結びます。
その計画が動き出しています。
特に、これからの日本を担い、リーダーとなるのはあなたたちです。
一人ひとりの思いの強さが、日本や世界を変えていくのです。

そこで、年の初めに、足柄小の皆さんには二つのことを求めたいと思います。

一つ目は、様々なことに興味を持ち、視野を広げ、深く考えてほしい。
つまり、思い切り勉強しよう。ということです。

二つ目は、思い切り勉強できるように、強くなれ、身体も心も鍛えよう。
つまり、自分で決めたことをやり遂げられる人になろう。ということです。

そのためには、小さなことから始めて、
一つずつ決めたことをやり遂げていくことです。
絶対にやり抜くぞ、と強く決心することが大切です。

早く起きる、家族におはようと挨拶する、など、
小さなことからでいいので、強く決心して、やり通してください。
決めたことを一つずつやり遂げていくと、
いろんなことに挑戦できる強さが身につきます。

高学年は、大いに学び、日本や世界の未来を作る礎になってほしい。
中学年、低学年は、
自分を磨くぞと決心して、もう少し自分を鍛えてほしいと思います。

4月からは、6年生は中学生になる。5年生は小学校での最上級生にというように、各学年が1つずつ上の学年に進級します。
1月から3月までの3ヶ月間は、4月からの新しい学校生活へむけての助走期間です。良い助走をしないと力強いジャンプをすることは難しいです。

力強いジャンプをするためにも、思い切り勉強すること、やり遂げることができる人になること、
この二つのことを忘れずに、自分の成長に挑戦してください。

今日から明日へ 〜変化への対応〜

今日から明日へ 〜変化への対応〜

 毎年のことですが、今年の正月も朝からテレビをつけっ放しで箱根駅伝を見てました。かつては箱根で観戦していたのですが、最近はもっぱらテレビばかりです。

 新春の東京−箱根間、全長217.1キロを10区間にわけ、21チーム、それぞれ10人の選手が駆け抜ける。その魅力は、仲間とひとつの目標に向かって練習に励む姿や、駅伝ならではの駆け引き、起伏に富んだコース、そして何よりも襷を繋ぐことにあります。力走を見せた選手が襷を渡した瞬間、崩れ倒れる姿に、颯爽と走っていたが、本当は苦しかったんだ。と、気楽なテレビ観戦者ははじめて気づくのです。

 よく人生はマラソンにたとえられますが、ある人は、人生は一人で走る駅伝ではないかといってます。好むと好まざるにかかわらず、今日を走って明日の自分に襷を渡している。今日の自分がやってきたことを明日の自分が引き継いで、その日その時を走る。明日は明日でその襷を受け取って走る。昨日までの実績を引きずって今日を走る、その積み重ねが人生ではないかというのです。その「明日」を「あって当然の明日」にするのか、「とっても大切な明日」にするのか・・・、辛い山坂が立ちはだかり、一人の力ではゴールにたどり着けないことと人生とが二重写しになってテレビ画面にちらつきます。自分にゴールの意識がなければ終着点にはたどり着くことはできません。

 さて、今年はどんな年にしよう?
 ひとつは「力」でしょう! 「力」をつけよう。「力」を持とう。
 それはねじ伏せる力ではなく、前進させ、変化させる力です。「勢い」だけでは物事は進みません。その「勢い」に加えなければならないのが「力」です。持つべきは「力」です。皆がもっている「力」をまとめ、より大きな「力」にし、それを原動力にする。「力」が必要なんです。実行力、検証力、反省力、計画力、継続力、工夫力等々、挙げてみればきりがないほど「力」は大切です。進むための「力」は成長すること、自分の進むべき道を見つけることに繋がると思います。

 ダーウィンは、進化論の中で「強いものが生き残るのではない。賢いものが生き残るのではない。変化に対応できたものが生き残るのだ」と述べています。向かい風など、いかなる困難に直面しても目標を見失わずに「とっても大切な明日」を迎えるために、「力」をつけ、「一歩前へ」そして「変化への対応」を意識し、今年という年を駆け出したいものです。「目標設定と努力、習慣化」ができる足柄小をめざして進んでいきます。

冬休みを前に〜朝会での校長の話

明日から、子どもたちにとって待ちに待った冬休みです。
今年も日一日ごとに少なくなります。もうすぐお正月です。

その前に「明日」が来ます。その「明日」を「あって当然の明日」にするのか、「とっても大切な明日」にするのか、そこが大事なところです。
今日から続く明日を「とっても大事な明日」にしたいと思っています。そんな気持ちを持って今年を振り返り、新年を迎えたいです。

本日の朝会では、子どもたちに次のような話をしました。

12月は一年を終わる月。
しめくくりをつけて片付ける月。閉じる月。
ほっとする気もあり、苦い反省もある。
だが、くよくよはしまい、今年の終わりは新年へ続く。

これは、作家の幸田文さんの言葉です。
皆さんにとって、この一年はどうだったでしょうか。

この一年、様々な出来事がありました。
御嶽山の噴火や豪雨・地震など、今年も自然災害も多く発生しました。
東日本大震災以来、「絆」という言葉を聞く機会が増えました。
大規模な災害で、家族や仲間との絆の大切さを
あらためて感じた国民が多かったのだと思います。

「絆」という一字に込められた思いのなかに、
人間は一人では生きられない、
そして、人の暮らしにおいて信じるということがいかに大事かを
教えてもらった気がします。

学校の中での学級という集団は、
非常に運命的に皆さんと先生が出会い、
皆さん同士も運命的に出会ってできあがった学校の最小単位です。
その中では、人が人としてどうあったらいいか。
人間としての生き方を学ぶ場所になっています。
「絆」なくして学級は成り立ちません。
2014年の終わりに、各学級の「絆」がどうであったか、
振り返ってほしいと思います。

特に6年生は、あと3ヶ月で別れが待っています。
「深まってきた学年や学級の絆」を大事にしながら、
自分の成長に挑戦し、人間としてお互いに成長し合う、
小学校生活の最後の日々を過ごしてほしいと願っています。

また、年末年始は家族と過ごす時間が多くなると思います。
家族の一員として自分のできること、
しなければならないことを積極的に行ってください。

それでは皆さん、家族みんなでよい年をお迎えください。

年末年始の過ごし方

年末年始の過ごし方

 先日、久しぶりに家族と買い物に出かけました。美しいイルミネーションが、師走の人々を夢見心地にさせ、街はクリスマスセールから新年の「福袋」まで、一気に盛り上がります。1年が過ぎる早さに驚くと共に、自分が子どもだった頃と年末年始の雰囲気が全く違ってきていることを実感してます。

 僕が子どもだった頃、大掃除は一家総出で行いました。12月に入ると天気のよい日に、祖父母が障子紙の張り替えを行いました。この時とばかりに障子に穴を開け、濡れタオルで桟についた残った古い障子紙を剥がすのが子どもの役割でした。子どもの役割はここまでで、刷毛で糊を塗りたくてしかがなかったことを覚えてます。畳を干したりもしてました。水道水が冷たいのでバケツに汲んだ水に指先でつまんだ雑巾を浸しただけで、雑巾洗いを済ませました。それが母親に見つかり叱られたものでした。

 暮れも押し迫ってくると、餅をつき、つきたての餅に取り粉をまぶし、のし餅や鏡餅を丸めました。もちろん、子どもの楽しみはその後に出されるきなこ餅やあんこ餅でした。また、近くには稲作農家はなかったのですが、どこから仕入れたのか稲わらで松飾りをつくりました。玄関や神棚、台所、トイレに飾りました。「一夜飾りはお正月の神様に失礼」、二十九日の飾りは「二重苦で縁起が悪い」ので、飾るのは三十日と決まっていると、祖母は毎年同じ話をしていました。
 年末の思い出には、身近な大人との関わりがいつもより多く、大人たちの華やいだ気ぜわしさを肌で感じ、お正月を迎える喜びを覚えていったのだと思います。

 「年末年始の過ごし方」は子どもの原体験ともなるものです。暮れには大掃除をし、年賀状を書く。年が明けたら新しい服や下着をおろす。お雑煮を食べる。書初めをする。お年玉を自分の通帳に自分で貯金しにいく・・・。
 風習や行事は、この国に生まれ育つ者としてのアイデンティティーの形成に大きな役割を果たします。子どもたちは年末年始の風景から我が国の文化への親しみを感じるようになり、人間形成の基礎を自然のうちに獲得し、日本人としての基盤を養っていくのです。

 しかし、時代の移ろいと共に年末年始の過ごし方もかわってきています。凧や独楽を回す子どもたちの声は遙か遠い昔のものとなりました。大人になった僕は街に流れるジングルベルやイルミネーションで季節を感じ、大掃除はしますが、我が家からは障子が消え、畳を上げることなどありません。近所のお店も元日から営業するので、餅や松飾りも含め、お正月用品はスーパーで少しだけ買い、食材はネットでも購入したりして済ませます。初荷の幟をつけたトラックも目にすることもありません。伝統文化、風習の継承を自分自身も手放してしまっている平成26年の暮れ、自責の念に駆られています。

 身勝手な言い方ですが、時代は変わっても、変わって欲しくないもの、なくしてはいけないものはいっぱいあります。特に子ども時代の原体験は大切にしたいものです。

 皆さんは、どのように年末年始を過ごすのでしょうか。

ノスタルジーのすすめ〜 チッチとサリー

ノスタルジーのすすめ〜 チッチとサリー

2014年も残すところ2週間余りとなりました。
今年も様々な出来事がありました。
今年の世相を表す漢字は「税」でした。
消費税の値上げは延期されましたが、10%になっても財政赤字が解消されるわけではありません。
1995年から始まった今年の漢字も、ここ数年は「絆・金・輪」と世相を如実に反映しているように思います。

年末が近づくにつれ、今年の10大ニュースも話題になります。
事故や災害が多く起こった一年でもありました。
楽しい出来事もあったのだと思いますが、振り返ってみるとマイナス面の出来事ばかりが思い起こされます。

今年は、52年間続いてきたみつはしちかこさんの漫画「小さな恋の物語」が最終巻を迎えました。
学生時代以来、約40年間手にすることはなかったのですが、書店で平積みになっていた “チッチとサリー” に、懐かしくなって手を伸ばしたのでした。
その43巻が、何と最終巻だったのです。

半世紀以上の間、いろいろな世代の方に読み継がれてきたのだと思います。
僕が読んだのは昭和40年代の後半ですから、それから40年余りの時の流れの中でもその画風はかわらず、キラキラした輝きや切なさ、懐かしい背景は、忘れかけていた世界に僕を引き込むには十分でした。

古い書物や写真などを見て、年の瀬にノスタルジックな気分に浸ってみるのも良いですね。

赤穂浪士討ち入り〜その2

歴史のアイデンティティー

赤穂浪士討ち入りは旧暦の元禄15年12月14日ですが、西暦になおすと1703年1月30日だそうです。内蔵助は熊本藩細川家江戸下屋敷(現、都営アパート)で、息子主税(ちから)は伊予松山藩松平家三田中屋敷(現、イタリア大使館)で切腹し、高輪の泉岳寺に埋葬されています。

学生時代、泉岳寺が近かったので時々行ってました。近くにある高輪消防署もなかなか趣のある建物です。東京・品川方面に行った折りに是非、寄ってみてください。

忠臣蔵といえば赤穂が舞台ということで、赤穂市内にはいたる所に忠臣蔵関係の史跡があります。赤穂城は既にないのですが門は残っているので、ドラマのロケなどはそこで行われるそうです。更に、大石内蔵助の屋敷跡が今は大石神社になっており、庭は往時のままだそうです。

しかし考え頂きたいんです。
赤穂浅野家は18世紀の初めに改易されてしまった訳ですから、浅野時代の遺物が現代までさほど残っていようはずがないわけですね。加賀の前田家や熊本の細川家、薩摩の島津家のように近代まで続いた大名家ではないのですから。

浅野家の後に赤穂に入ったのは永井家ですが、そのすぐ後に森家が移ってます。織田信長の重臣であった森可成(よしなり)長可(ながよし)、そして森蘭丸の一族といえばわかりますね。その後の歴史を考えると、赤穂藩を治めていた期間は森家の方が遥かに長いわけです。しかし現在の赤穂市には、可哀想なぐらい森家の存在感はありません。

その土地の人が郷土の誇りと感じている事跡というのは、歴史の長さとは関係がないということのようです。短くとも一瞬の光芒を放つことが重要なのであり、人はそれをアイデンティティとしないと生きていけないのかもしれません。

鹿児島に行くと分かるのですが、島津家の史跡よりも西郷や大久保、その他、明治の元勲ゆかりのものがいかに多いことか。
きっと鹿児島県民にとっては、鎌倉時代以来その地を治めてきた島津家より、維新の時に活躍したヒーロー達により愛着があるのでしょうね。
磯庭園と呼ばれる島津家ゆかりの仙巌園も人々には愛されていますが・・・

そのことを否定するつもりは毛頭ないのですが、そればかりに依拠していては重大な「事実」を見過ごしてしまいかねません。注意! 注意!


おまけ

播州の地は歴史的に見て、なかなか興味をそそられる場所の一つです。赤穂浪士のほかにも、様々な歴史事象があります。

今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」もいよいよ最終回ですが、官兵衛は播州姫路で生まれ、やがて小寺氏の近習となり才覚を発揮していきます。

歴史を少しさかのぼると、播磨の地は室町幕府六代将軍足利義教を殺害した守護大名赤松満祐の所領でした。将軍殺害後、赤松満祐は幕府軍に討伐(1441年、嘉吉の乱)されますが、将軍の権威は低下し、やがて応仁の乱へと歴史は動いていきます。

戦国時代になると織田氏と赤松氏の流れをくむ別所氏との合戦(三木合戦、みきかっせん:天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日))がおこります。織田軍の羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城します。秀吉の軍師であった官兵衛は、三木の干殺し(みきのひごろし、ほしごろし)と呼ばれる兵糧攻めを実行します。

関ヶ原の戦いがもう少し長引き、徳川家康と島津義久が和睦しなければ、官兵衛は九州を平定し次の一手を打っていたかもしれません。
「れば・たら」は酒のつまみ・・・十分承知してはおりますが・・・
最終回ではその辺りを扱うのでしょう。楽しみです。

歴史って、本当に面白いですね。

赤穂浪士討ち入り〜その1

赤穂浪士討ち入り

暮れが近づくと、赤穂浪士を題材にしたドラマや歴史番組が放映されます。そこで今日のお話しは赤穂浪士についてです。

時は元禄15年12月14日(旧暦)ですが、西暦になおすと1703年1月30日だそうです。討ち入り事件の発端は、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)に播磨赤穂藩主の浅野長矩(ながのり・内匠頭たくみのかみ)が、高家旗本・吉良義央(よしひさ・上野介こうずけのすけ)に対して江戸城殿中松の廊下において刃傷におよび、殿中抜刀の罪で即日切腹・赤穂藩改易を五代将軍綱吉に命ぜられたことに由来します。

内匠頭が上野介に刃傷に至った原因については、吉良が浅野に勅使御馳走役の作法について嫌がらせをしたとする説と、塩を巡るトラブルがあったとする説が有力ですが、いずれも決定的ではありません。
作法についてのトラブルだとすると、責任を取らされるのは上野介自身ですし、内匠頭は事件の18年前に勅使饗応役を務めていますから、今更作法を知らずに恥をかいたということはありえません。また、赤穂の塩の製法・販路をめぐるトラブル説もありますが、赤穂の塩が全国区だったのに対し、吉良の塩は地元で流通するだけのものですから、市場は競合していません。最有力な説は内匠頭の発作的な犯行という見方です。事件後の事情聴取でも、理由について「私的な遺恨でだが、詳細は今は言えない」と繰り返すばかりで、即日切腹させられてますから真相はわからずじまいです。

なぜ綱吉が、たいした吟味もせず即日切腹させたのか? 綱吉の生母桂昌院や側用人柳沢吉保も絡んだ逸話もあるのですが、詳細は略します。

林羅山の門下で朱子学を学んだ山鹿素行は、その後、幕府の正学であった朱子学を批判したことから赤穂藩お預けの身となり、赤穂藩士に儒学や兵法の教授します。大石良雄(内蔵助)も門人の一人です。吉良邸討ち入りで、内蔵助は山鹿流兵法を実践して見せたわけです。

上野介の領地三河国幡豆郡では、治水事業や新田開拓や人柄から名君とされています。しかし、旗本の多くは江戸に常住して領地は幕府が任命した代官に任せるのが一般的で、実際には上野介が領民と接する機会はなかったようです。 

討入りから4年後の1706年(宝永3年)、この事件に題材をとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座で上演されます。そしてその集大成が1748年(寛延元年)に上演された二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』です。当時の人々に大変人気で、すぐに歌舞伎の演目にもなります。


僕らの世代には、三波春夫さんの大忠臣蔵が印象深いですし、また、長谷川一夫さんの「おのうのう方、討ち入りでござる」のセリフも、印象に残ってます。

J R御殿場線開業80周年

J R御殿場線開業80周年

 御殿場線は今日12月1日で開業80周年を迎えました。
 かつて、東海道本線は国府津から御殿場、沼津へ抜けていました。国府津から先は熱海線と称し、丹那トンネルが開通してからは現在の姿となりました。

 その丹那トンネルが開通したのは1934年(昭和9年)、今から80年前のことです。丹那トンネル開通を題材にした吉村昭氏の小説「闇を裂く道」は、大正7年(1918)の着工から16年の歳月を費やし、水と土と熱の難工事の詳細を克明に綴っています。予定の倍以上の工期と当初予算の4倍近くの金、67名の犠牲者のうえに昭和9年9月30日に貫通します。又、トンネル上の村におこる渇水や伊豆大地震の様子も描かれています。

 余談ですが、大正7年(1918年)頃の日本は第一次大戦の好景気で農村人口は都市に吸収され、農産物価格も上昇して農家の収入は増大します。しかし、生活必需品の物価も上昇したので、収入増加の割には家計は楽にならなかったようです。また、都市でも大戦景気による「成金」が生まれます。工業労働者の増加と人口の都市集中は米の消費量を増大させ、インフレ傾向が続き、物価も相当高騰します。大正7年に入ると米価は急上昇し庶民の生活は脅かされることとなります。7月には富山県の漁村の主婦たちが米価の高騰を阻止しようと運動を始め、全国に広がり各地で米騒動が起こります。政府は外米の輸入や米の安売りを行うと同時に、軍まで出してその鎮圧に当たります。寺内内閣は世論の激しい非難の中、9月に総辞職します。

 昭和9年12月1日には丹那トンネルが開業し、東海道線は国府津−熱海−沼津を通るようになります。従来の国府津−沼津間は御殿場線と命名され現在に至ります。その御殿場線も昭和43年4月に国府津−御殿場間が、7月に御殿場−沼津間が電化されると、蒸気機関車やディーゼルカーに代わって電車が主役となります。最終列車を牽引したD5270は山北機関区跡の公園に記念展示されています。D5272は御殿場湯沢平公園に保存されていましたが、現在は御殿場駅前に移されています。

 国府津駅構内には機関車庫があり、もちろんターンテーブルもありました。前出の蒸気機関車D5272がしばらくの間、格納されていました。この機関車庫は明治43年製(1910)で、鉄筋コンクリート造りの大型構造物としては日本で1・2を争う古いもので、土木学会の論文でも紹介されていたようです。また建設を担当した大成建設(旧大倉組)のHPにも、会社の実績として紹介されています。小学生の頃、祖父に連れられ御殿場線蒸気機関車の旅も何度か経験しました。その後中学生になった僕は、部活の合間に何回かD52を見に行ったものでした。やがて興味が他のものに移り、正確な年は失念しましたが70年代の終わり頃(78年?)まで車庫はあったような気がします。
 現在、機関車庫やターンテーブルは京都梅小路機関区で、動態・静態保存されている機関車と一緒に見ることができます。

芭蕉没後320年〜芭蕉忍者説

芭蕉没後320年〜芭蕉忍者説

以前、「石田三成414回忌」と書いたところ、415回忌の誤りではないかとのご指摘をいただきました。先日法要があったので方丈さんに年忌法要について尋ねてみたところ、亡くなって一年目は一周忌、満二年たつと三回忌、満六年たつと七回忌というように仏事では満年齢で数えるとのことでした。したがって415回忌ということになります。しかし、2014石田三成祭実行委員会のホームページには414回忌とあります。仏事では百回忌というのもあるようですが、一般的には三十三回忌、または五十回忌(それぞれ没後32年、没後49年)を最後の年忌とするようです。三成没後414年めということでしょうか?

芭蕉は1644年に生まれ、1694年11月28日(旧暦10月12日)に没しています。今年は生誕370年、没後320年です。

前置きが長くなりました。前回、芭蕉について書いたところ、伊賀といえば忍者なのに、忍者に関する話はないの? とのリクエストにお応えして、忍者関連のお話をします。「芭蕉忍者説」です。
その根拠について調べてみました。次のようになります。

1 出生地が伊賀で名字を持ている点
  「芭蕉=忍者」説の最初の論拠となるのが、この出生地と名字の存在です。
  この当時、伊賀を治めていたのが「変節漢」と呼ばれた戦国武将の藤堂高虎です。高虎は、織田信長の行った伊賀攻めの影響で散らばっていた伊賀忍者を多数配下にしたといわれています。この時、高虎は伊賀忍者たちを武士として取り立てたので名字を名乗れるようになった忍者が多く出たと言うのが「芭蕉=忍者」説の論拠を補強しているようです。
  芭蕉は寛永21年(1644年)に現在の三重県伊賀市で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれる。父は無足人(準武士待遇の農民)松尾氏(松尾家は、農業を業としていたが、正式に松尾の姓を有する家柄)の出。母は、伊予宇和島から伊賀名張に移住した桃地(百地)氏の出と伝えられています。芭蕉は伊賀の下級武士の出身ということになります。伊賀の上級武士は、藩主の藤堂高虎が江戸城改築の功により伊賀並びに伊勢を与えられ伊予今治藩主から津藩主になった際(1608年)に連れてきた武士の子孫ですが、下級武士は元々の伊賀者であった。このことが「芭蕉=忍者」説の根拠の一つとなっているようです。また、母の出身地は、伊賀忍者の祖とされる百地丹波(ももちたんば)や三太夫の出身地でもあります。

2 「奥の細道」に不可解な点がいくつもある点
(1)奥の細道の旅では途中の移動速度が異常に早く、忍の歩行術を使ったのではといわれる点。
  移動距離と日程から割り出される芭蕉の移動速度が人並み外れています。「奥の細道」の総移動距離は約2400キロで、総日程が約150日となっています。これらの数値から一日あたりの移動距離は15キロで、当時の単位に換算すると約4里という所です。しかし、この総日程にはまったく移動しなかった日も含まれています。つまり、150日ずっと移動していたわけではないのです。この移動しなかった分を取り戻すかのように、一日で50キロ以上も移動している日もあります。年齢的には壮年に差し掛かっていた芭蕉が、これほどの移動距離を一日で歩くのは無理があると考えられています。
(2)仙台藩の偵察が目的だったとする説
  芭蕉がこだわった仙台は、独眼竜・伊達政宗の領地です。正宗は「あと20年早く生まれていれば天下を手中におさめていた」といわれる、野望を抱いていた武将です。忍者を放てば正宗に仕えていた忍者・黒脛巾(くろはばき)に察せられる恐れがあります。その点、俳人として名が知られていた芭蕉ならば、創作活動を名目にして仙台藩に入り込み要所を見物していても不審がられません。つまり、芭蕉は幕府から「仙台藩への綿密な偵察」を条件に東北旅行を許されたとする説です。
  また、この旅に連れていった河合曾良という弟子は、後年幕府隠密として活躍しています。

3 資金の出所がよくわからないこと
  旅に何度も出られるほどの資金源と通行手形の出所などを考えると「幕府が公認した密偵として手形と資金を提供されていた」と考えるほうが自然とする説。

大きくはこのようになります。
「なるほどな」と頷ける部分もありますが・・・状況証拠がほとんどです。
興味のある方は、是非、調べてみてください。

芭蕉翁記念館や伊賀流忍者博物館は上野公園内にあり、伊賀上野の象徴ともいえる上野城は、築城の名手といわれる藤堂高虎が手がけた城です。その美しさから白鳳城とも呼ばれ、日本100名城(もちろん小田原城も入ってます)にも数えられています。石垣の高さは約30メートルあり、大阪城に次いで高いそうです。公園の看板には日本で1・2に高いとありました。(大阪城は空堀で高さが確定できるが、上野城は堀に水があり、その高さが確定できないとの理由です。)

芭蕉や忍者、お城だけでなく、近くには赤目48滝(忍者修行の里とも呼ばれてます!)などもあり、自然や食材も豊富です。
機会があれば伊賀市周辺、是非、訪ねてみてください。

又、年末年始のお休みの読み物として、
忍者小説では、
 池波正太郎:真田太平記
 司馬遼太郎:梟の城、風神の門
 柴田錬三郎:真田十勇士
漫画では
 白土 三平:忍者武芸帳、カムイ伝、サスケ
 横山 光輝:伊賀の影丸
  (横山さんは鉄人28号、コメットさん、魔法使いサリーも書いてます)
がお薦めです。

1694年11月28日(旧暦10月12日)、芭蕉は「古人も多く旅に死せるあり」の通り江戸から伊賀へ寄り、さらに大阪へ向かった。その大坂で体調を崩し亡くなります。
最後の句は、
 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
と伝えられています。

芭蕉生誕370年

芭蕉生誕370年

先週末、所用があって豊田市に行ってきました。
豊田市もかつては挙母市(ころもし)と呼ばれ、江戸時代には挙母藩が置かれて
いました。現在はトヨタ関連の企業城下町として栄え、平成の大合併で面積は
愛知県全体の20%を占め、人口も42万人と名古屋に次ぐ愛知県2位の都市
となっています。

所用を済ませた後、伊賀市に行ってきました。かつては上野市と云っていたの
ですが、ここも町村合併で伊賀市となりました。

伊賀というと僕はすぐに忍者を連想するのですが、皆さんはいかがでしょう?
僕らの世代は忍者になじみが大変深いのです。
幼少期から少年期にかけテレビでは風のフジ丸、隠密剣士、忍者部隊月光、
サスケ、仮面の忍者赤影、忍者ハットリ君・・・、伊賀の影丸、忍者武芸帳、
カムイ伝など白土三平さんの漫画もよく読みました。
忍者ものは大人になった今でも好きです。金沢や戸隠の忍者屋敷にも、近くへ
行った折にはよく寄って来ます。

伊賀や甲賀、根来はあまりにも有名ですが、小田原風祭には北条に使えた忍
者、風魔一党がいました。風魔小太郎という名を聞いたことはありますね。
風魔の頭領は代々、小太郎を名乗ったようです。
一昨年には小田原で“忍者サミット”も開催されております。
この時も伊賀と甲賀が参加しております。

風魔一党には二曲輪猪助(にのくるわいすけ)という足の速い忍者がおり、
上杉と北条が河越城で戦った際に太田犬之助という忍者に追いかけられた話も
伝わっています。また、「忍たま乱太郎」にも二郭伊助という名で出てきます。

今回は忍者ではなく「芭蕉」を中心に見学をしてきました。芭蕉は蕉風俳諧の
祖として有名ですが、「奥の細道」は中学の国語教材としても取りあげられ、
日本人にとってはなじみの深い作品となっています。先週、真鶴町で行われた
「かながわ学びづくり実践研究 確かな育ちを支える幼小中連携教育」の授業
公開でも真鶴中では「奥の細道」を題材に授業公開をしていました。
また、この夏NHKでは「日めくり奥の細道」を放送してました。
その芭蕉の生誕の地が伊賀市なのです。

今年は芭蕉生誕370年ということで、芭蕉翁記念館で芭蕉直筆の色紙や俳諧
に関する資料を見学し、芭蕉翁生家、蓑虫庵を見てきました。
 古池や かわずとびこむ 水の音
蓑虫庵には池があり、その傍らには石碑があり石の蛙もおりましたが、
この句は深川の芭蕉庵で読まれたのではないかといわれてます。
記念館では、「俳諧中興時代−芭蕉に帰れ」という企画展が行われており、
 「古池や その後とびこむ かわずなし」
という、川柳も掲げられていました。 

でも芭蕉といえば、何といっても「奥の細道」ですね。
僕らの世代は、中学の国語の時間で暗唱させられました。方丈記も平家物語も
枕草子もみな暗唱させられました。国語だけでなく英語も、みな暗唱でした。
斎藤孝さんの「声に出して読みたい日本語」が話題になったのは25年位前だと
思いますが、「じゅげむ」をはじめ、そのほとんどは小学校や中学校で暗唱させ
られ覚えてました。小・中学校の記憶はなかなか消えません。

芭蕉と同時代に活躍した人物としては、井原西鶴、近松門左衛門がおります。
西鶴は町人物を得意とし、「日本永代蔵」では、
 “ただ金銀こそが町人の氏系図”
と、商人の道はただひたすらに銭もうけにあり、勤倹貯蓄、信用、才覚や
忍耐力を美徳として繰り返し説きます。
近松は武士の出身ですが、歌舞伎や人形浄瑠璃などの脚本を書きます。
役者としては江戸で市川團十郎、上方では坂田藤十郎や芳沢あやめなどが
活躍します。
さらに人形浄瑠璃では、辰松八郎兵衛らの人形遣いと竹本義太夫らの語りとで
歌舞伎以上の共感を人々に呼び起こしたともいわれております。

彼らが活躍するのは、17世紀末から18世紀初めにかけての上方(京・大坂)
が中心です。京では葵祭が復活したり、江戸城松の廊下での刃傷事件や
その後の赤穂浪士の討ち入りがおこったのもこの頃です。
国内外の平和と安定を背景に、徳川5代将軍綱吉の時代を中心とした町人が
文化の主役、担い手であった、いわゆる元禄文化時代です。

話を芭蕉に戻します。
「奥の細道」の冒頭部から、旅に対する想いが、ひしひしと伝わってきます。
特に、
  “日々旅にして旅をすみかとす”
 “片雲の風に誘われて、漂白の想い胸にやまず・・・”
 “前途三千里のおもい胸にふさがりて・・・”
などからは、
  旅の中を旅するのが人生。旅、そのものが人生だ。
  みんな旅の途中、夢の途中なんだ。
と、いっているような気がしてなりません。

僕らの心にも「そぞろ神」を招き入れ、「旅」に出たいものです。

 “本当の旅の発見は、
  新しい風景を見ることではなく、新しい視点を持つことにある。”

電車の中刷り広告で見たマルセル・プルーストの言葉を紹介し、終わりとします。 

「ねばならない」から「やれること」と「やりたいこと」へのコラボ

「ねばならない」から「やれること」と「やりたいこと」へのコラボ

このところ書類作成等の事務仕事に追われております。
段取りを取り、細心の注意を払い、適切に処理していかないと
大変なことになりそうですというか、なってしまいます。

人には「やらなければならないこと」のほかに、
「やれること」と「やりたいこと」がありますね。
日常の生活場面において、仕事でも勉強でも「やらねばならない」という使命
感、圧迫感というものがつきまとうわけです。
日常業務以外の新たなプロジェクトや従来と違うものに取り組むといったとき
は、慣れていないうえに、そのときの実力に比べレベルが高い場合がほとんど
ですから、「やらなければならないこと」をやるのは本人にとって非常に辛いの
です。

「やりたいこと」というのは自分の嗜好で、好きか嫌いかで判断できるわけです。
「やれること」これも自分の実力内で消化できます。
しかし、「やらなければならないこと」というのは窮屈で気が進まないことが多く、
ついつい後回しになるのではないでしょうか。
中には、何事にも挑戦だ、ワクワクする。という方もいらっしゃいます。
また、いやなことは先にやってしまうという方もおられるようですが・・・
なかなかね。

そんなときは、
“やりたくないけど、しょうがない、やってみるか”
という気持ちづくりが大事ですね。

最初に「やらなければならないこと」をやるのは、まぁ仕方ないとして、
「やらなければならないこと」と「やれること」、「やりたいこと」
この三つをうまく繋ぐことができれば、窮屈さを解消とはいわないまでも、
軽減できると思ってます。

子どもの勉強なんて、その最たるものじゃないですか。
子どものうちは誰だって遊びたい。
学校の勉強が好きで好きでたまらないなどという子どもはまずいません。

でも、家でテレビやゲームばかりしていると家の人に叱られるとか、宿題を
やっていないと学校でたたされるなどの理由で(本校にはそんな先生はおりま
せん。私の過去の経験です!)、仕方なく机の前に座るというか座らされる。
そうすると、中にはそうしているうちに、勉強そのものに興味がわいてくる子も
いるし、成績が上がって家の人の喜ぶ顔を見たら、またこの顔みたいとがんば
る子も出てくる。
こうなったとき、この子たちにとっての勉強は、
単なる「やらなければならないこと」から「やれること」「やりたいこと」に変化した
といえます。さらにそれが習慣化すれば、もう云うことはありません。

でも、そのきっかけ作りは結構難しいです。

僕はテレビばかり観ている子どもでした。
勉強をするよりテレビを観ていた方が断然、面白いですからね。
頭ごなしによく言われました。
“テレビばかり観てるんじゃない!”

“お前がテレビをみたい気持ちはよくわかる。テレビ、楽しいもんなっ!
 そんな気持ちは誰にもあるし、あってもいいんだ。
 でも少し勉強して、わからないことがわかると授業がもっと楽しくなるぞ!
 いやな勉強でも、復習だけはしておこうというそんな気持ちが大事なんだ。
 そういう気持ちをつくってみないか。ちょいとがんばってみようよ”

なんていわれていたら・・・・

気持ちをつくる言葉がけを意識できるとよいかもしれませんね。

子どもたちも含め、自分自身が気持ちをつくれるようになると実際の行動にで
き、「やらなければならないこと」から「やれること」「やりたいこと」に変化して
いく可能性がでてくるのではないでしょうか。

「軍師官兵衛」〜石田三成414回忌

「軍師官兵衛」〜石田三成414回忌

大河ドラマ「軍師官兵衛」を毎週楽しみにみています。
ここ数年、大河ドラマは「天地人 直江 兼続」「お江〜姫たちの戦国〜」や「龍馬伝」など、戦国や幕末期を扱ったものが多いような気がします。
戦国や幕末の動乱は、人々を魅了する人物や事象が多いのでしょうね。

「軍師官兵衛」も佳境に入ってきました。先日は、秀次が謀反の疑いをかけられ切腹し、再度、朝鮮出兵(慶長の役、1597)が始まるあたりを扱っていました。
翌年、秀吉は死去するのですが、今後は秀吉後の家康の台頭と石田三成との対立を中心に官兵衛の動向について扱われるのだと思われます。

やがて家康と三成は関ヶ原で、いわゆる天下分け目の合戦を戦うことになります。
石田治部少輔(じぶしようゆう)三成率いる西軍約8万4千と徳川家康率いる東軍7万5千の兵が激突します。現在、その関ヶ原周辺には戦国時代の武将の陣地を示す石碑が多く残されています。

「軍師官兵衛」で三成は、どちらかというと奸物のように描かれていますが、なかなかの知将であり、ゆかりの史跡を訪れる人も多く、現代人にとっての人気は高いようです。
司馬遼太郎さんの「関ヶ原」では、京都大学解剖学教室の足立博士の調査をも
とに三成は「非常な優男(やさおとこ)」であったと書いています。
当時も今位の人気があれば勝敗の行方は変わっていたかもしれません。

なにせ8万4千の軍勢のうち、毛利や長宗我部は傍観者を決め込み最後まで戦いに参戦しませんでしたし、小早川秀秋らは土壇場で東軍に寝返ります。いわゆる反乱軍です。
そもそも秀吉子飼いの黒田長政や福島正則は始めから東軍につきます。
三成との確執もあったのかもしれません。

秀吉と三成の出会いには、「三献茶」、「三碗の才」などと呼ばれるエピソードが
あります。
夏に鷹狩りをしていた秀吉は喉が渇き、ある寺に入ったところ、寺で修行してい
た三成が三杯の茶を入れた。
最初はぬるめの茶を、二杯目は量を半分にし茶を熱くした。
三杯目は湯の量はわずかでとても熱かったそうです。
三成の配慮に秀吉は感動したのでしょう。
JR長浜駅のロータリーには茶を持った三成と秀吉の銅像があります。

小説やドラマの構成で、歴史上の人物像は大きく異なって描かれます。
「功名が辻」の山内一豊だって、三成から見れば裏切り者です。
わかっているのは史実としての関ヶ原の戦いだけです。
西軍は小早川らの裏切りで総崩れとなり、三成は捕らえられ大坂を引き回され
た後、京都六条河原で斬首され、三条河原で晒されます。 

三成の生誕地・滋賀県長浜市だけでなく琵琶湖周辺地域では、
三成は郷土の誇りとして顕彰されています。

11月6日(旧暦10月1日)は石田三成414回忌です。
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