学校での子どもたちの様子をお伝えします。

嚶鳴フォーラム 〜渡辺崋山〜

 月末に「嚶鳴フォーラム」が市民会館で開催されます。嚶鳴フォーラムは郷土の先人を顕彰し、14の市町が参加しています。僕が知っていたのは上杉鷹山、佐久間象山、佐藤一斎、渡辺崋山、細井平洲、所郁太郎、滝廉太郎、そして二宮尊徳でした。
 佐藤一斎は『言志四録』の「三学戒」が有名ですが、象山、崋山の師でもあり、勝海舟、吉田松陰、坂本竜馬、西郷隆盛ら幕末の志士も多大な影響を受けたとされています。西郷隆盛は『言志四録』を座右の書とし、「南洲翁遺訓」には佐藤一斎の影響がうかがえます。
 今日は渡辺崋山という方のお話をしたいと思います。
 この名前にピンときた方はなかなか歴史通です。「蛮社の獄」(1839)・・・中学の社会科で習いましたね?

 渡辺崋山と高野長英、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門(英龍)らは海防の必要性を説き、老中水野忠邦の天保の改革のもと目付や南町奉行として取り締まりを行った鳥居耀蔵(とりいようぞう)と対立し、「蛮社の獄」で崋山は罪には問われなかったものの、幕府の対外政策を批判して書いた「慎機論」が発見され蟄居し、生活に困窮し絵を売ります。そのことが幕府で問題となり、藩に迷惑をかけられぬと自刃します。長英は投獄されますが後に脱獄し、詳細は定かでないのですが一時、足柄上郡(大井町山田付近?)に潜伏していたとする書物もあります。江川太郎左衛門(英龍)は高島秋帆に近代砲術を学びその普及に努め、佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(木戸孝允)らが彼の門下で学びます。韮山(伊豆の国市)には反射炉が残っています。

 崋山は三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士で画家です。のちに田原藩の家老となるのですが、少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売り、のちに谷文晁(たにぶんちょう)に入門し絵の才能が大きく花開きます。20代半ばには画家として著名となったことから、ようやく生活にも苦労せずにすむようになったようです。

 余談ですが、この時期は様々な画風が生まれます。特に庶民に愛されたのは浮世絵で、18世紀半ばに鈴木春信は「錦絵」と呼ばれる多色刷りの浮世絵の版画を創作し、寛政期には「美人画」の喜多川歌麿や役者絵の東洲斎写楽、天保期には風景版画が流行し、「富嶽三十六景」の葛飾北斎、「東海道五十三次」の歌川(安藤)広重らが人気でした。18世紀半ば以降に、明・清の南画の影響を受けた文人画(南画)と呼ばれる画風がおこり、池大雅と与謝蕪村の合作「十便十宜図」がその代表作です。この画風は化政期以降、江戸の谷文晁、その門人の田能村竹田、渡辺崋山が出て全盛期を迎えます。崋山の作には「鷹見泉石像」「一掃百態」があります。また、円山応挙は客観的な写生を重んじ、洋画の遠近法を取り入れて日本的な写生画の様式を作り上げます。文人画と応挙の長所を取り入れた呉春(松村月渓)の風景画は、幕末の上方豪商に歓迎されます。

 話を渡辺崋山に戻します。崋山は学問にも励み、儒学(朱子学)を学び、18歳のときには昌平坂学問所(幕府の正式な学問所)に通います。また、佐藤信淵から農学を学び、天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや「凶荒心得書」という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けています。

 田原藩は小さくてお金もない。でも、家老として大きな交渉をしなければいけない。そんな時に、周りの人は何をしてたかというと・・・意識をしない、危機感がない、自分には関係ない、と一人で、どうしようもない状況だったようです。そこで、交渉前に皆を集めて話をします。
 「みんな仕事をしていない。何かを感じてるか?」
 「大功は緩にあり、機は急にありという事を忘れるな!」

 『大功は緩にあり、機は急にあり』の意味としては、大きな仕事は時間をかけてやった方が良い。だが、その機会は突然やってくるから常々油断をしてはいけないという事でしょうか。何事も『意識』を持っていなければいけない。そんな意味だと思います。
 また、『面前の功を期して後面の備えを忘れることなかれ』ともいってます。みんな、目先の利益にとらわれ自分にとって都合の良い事しかしない。そして、その利益を手に入れるために焦る。本来はその後の損失や負担も考えなくてはいけないはずですね。

 足柄小は実のあるもの、伝えられるものを創っていきたいと思います。何事も困難なことはたくさんあります。プロジェクトでも研修でも会議でも、具体的に関わろうとしないと困難を乗り越えることはできません。
 『面前の功を期して後面の備えを忘れることなかれ』という風に、目の前で様々な困難にぶつかったとしても、後にもっと良い事があるかもしれませんよね!そこのところをしっかりと見据えておく必要があります。

 嚶鳴フォーラムでは「北条五代と二宮尊徳を語る」と題し、報徳小と桜井小の学習発表と作家の童門冬二氏、伊東潤氏の講演もあります。童門冬二、伊東潤の両氏は歴史小説家で、童門氏はとりわけ幕末の人物についての著作が多く、伊東氏は北条氏や戦国期を扱ったものが多いです。どのようなお話がうかがえるのか講演が楽しみです。

興味のある方は是非、参加してみてください。

 日時 平成27年1月31日(土)  12時45分から16時40分
 場所 小田原市民会館大ホール

113年目の八甲田山

 年末から年始にかけ「高倉健」さんを追悼する映画が放映されていました。その何本かを見たのですが、今日はその中から「八甲田山」についてお話をします。

 原作は新田次郎氏の「八甲田山死の彷徨」です。新田次郎氏の山岳小説は、学生時代によく読んだものです。この本も学生時代に読み、映画も小田原の東宝で観ました。「天は我々を見放した」のセリフが有名になりました。

 物語は、日露戦争直前の1902年(明治35年)1月に寒冷地における戦闘の予行演習、青森−八戸間の物資輸送の可否調査として、日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季に雪中行軍の訓練中に遭難した事件を扱います。
 訓練への参加者210名中199名が死亡する山岳遭難事故としては最大のものであること、気象条件的にもこの日は全国各地で最低気温を記録していて、旭川では日本の最低気温である-41度を記録していること、同時期に訓練を実施した弘前31連隊は全員が無事帰還していることなどが印象に残り、いつかは訪ねてみたいと思ったのでした。数年前にやっと舞台となった岩木山・白神・八甲田・奥入瀬・八幡平と駆け足で回り、東北の自然を見聞してきました。

 神成大尉(小説・映画では神田大尉:北大路欣也)に率いられた青森5連隊がほぼ全滅、福島大尉(徳島大尉:高倉健)に率いられた弘前31連隊が全員生還ということで、この事件については、リーダーシップのあり方について、比較されることが多いようです。
 青森隊の悲劇は、稚拙な装備、指揮系統の混乱、極端な情報不足、寒さに対する認識不足などの諸要因が重なります。一方、弘前隊が、全員無事帰還できた理由は次のようなものとされています。
 ・雪中行軍に関する服装、行軍方法等について、3年がかりで研究・実践し、準備周到であったこと。
 ・連隊を率いた指揮官・福島大尉が、寒冷に対するさまざまな工夫(例:川を渡る際は裸足で渡川し、ぬれた足を完全に拭き取ってから靴下を履く等)を考案しており、周知徹底していた。
 ・連隊が比較的少人数で、最後まで統率を失わなかった。
 ・天候不良とみるや深さ4メートルに至る穴を掘りビバークし、途中で寝込んでしまう隊員がいると皆で踏みつけて起こすなど、冬山の怖さを熟知していた。

 今起きている問題、青森5連隊隊で起きているようなことが、本校でも起きていないだろうか?

 当時は軍隊で、命令は絶対、命令違反は死を意味します。しかし、今は民主主義の世の中。自分の頭で考えて、自分で行動することが求められる時代です。指示がないから、周りがみんなそうするから・・・と、冬の寒さで凍死することを選ぶようなことになっていないだろうか? また、青森5連隊のリーダーのように、部下(子どもたち)を知らず知らずのうちに危険に追い込んでいないだろうか?

 映画を見ながら後藤伍長の銅像を思いだし、一度冷静に見直しをしてみるタイミングなのかもしれないと、そんなことを思ったのでした。

 1月23日、青森5連隊は青森〜田代温泉間(約20キロ)の雪中行軍演習を一泊二日の予定で始めます。悲劇から113年目の八甲田は豪雪で、積雪が3メータを超えているそうです。今なお厳しい、厳寒の地です。

正月の伝統文化

正月の伝統文化

 そろそろ正月気分も抜けた頃かと思います。
 いまだに、おせちの残りをいただいてますが、先日、我が家でも七草がゆを炊きました。本来は7日の朝に食するのだそうですが、夕食にいただきました。セリ(芹)、ナズナ(薺)、ゴギョウ(御形)、ハコベラ(繁縷)、ホトケノザ(仏の座)、スズナ(菘)、スズシロ(蘿蔔)、すぐに我が家でまかなえるのはセリ、スズナ、スズシロだけです。セットになっているものを近所の八百屋さんで調達しました。「七草」をまな板の上に載せ、母は歌を歌いながら包丁の背で叩いて細かくしてました。
 ♪七草なずな 唐土の鳥が 日本の国に 渡らぬ先に ストトントン♪
皆さん、聞いたことがありますか?

 七草がゆの由来は、1月7日は、五節句の一つ「人日(じんじつ)の節句」で、「人日の節句」の「人日」は「人の日」で、元日からそれぞれの日に獣畜などを当てはめて占う風習が中国にあり、七日目が「人」で、その日を人を大切にする節句にしたとも言われ、それにまつわる中国の風習が日本に伝わったとも言われているようです。
 また、6世紀の半ばに、中国、梁の宗懍(そうりん)が著した年中行事記の「荊楚歳時記(けいそさいじき)」には、
 「正月七日を人日と為す。七種の菜を以て、羹(あつもの)を為(つく)る」
とあり、これが日本の七草がゆの起源ともされます。
 疲れた胃腸をいたわるには、丁度良いのでしょう。

 江戸時代後期に塙保己一が編纂した「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」に、鎌倉時代初期頃に成立したとされる「年中行事秘抄(ねんじゅうぎょうじひしょう)」に、
 七種菜。薺。蘩蔞。芹。菁。御形。須々代。佛座。
  金谷云。正月七日。以七種菜作羮食之。令人無万病。
とあり、鎌倉時代には七草の風習があったことがうかがえます。

 今度の日曜日、11日は鏡開きです。正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事です。神仏に感謝し、またその供えられたものを頂いて無病息災などを祈って、汁粉・雑煮などにして食べてきました。

 かつて1月15日は成人の日でした。この日、左義長と呼ばれる賽の神を祭る行事も行われます。僕の住む街では「どんど焼き」を町内ごとに行っていました。道祖神祭りとも呼ばれ山車を牽き、松飾りや竹を集めて火をつけ、習字を燃やし高く舞い上がると字がうまくなると云われてました。この火で団子を焼いて食べると風邪をひかないとも云われ、最後にはアカメの木に紅白の団子をさし、残り火で焼いて食べたものです。アカメの木も最近は見たことがありません。今では山車は出ますが、町内ごとに行われていた「どんど焼き」は海岸一カ所で行われています。

 左義長もこの週末に行われるのでしょうか。良き伝統・文化は継承していきたいものです。

1月8日 朝会での校長の話

1月8日 朝会での校長の話

冬休み明けで、子どもたちが足柄小へ戻ってきました。
懸念されていたインフルエンザで休む子も少なく、一安心しました。
久しぶりに見る子どもたちの顔には、新たな年を迎えた喜びと希望とが満ちあふれていました。

表彰を行った後、私からは次のような話をしました。

新しい年が始まりました。2015年、平成27年です。
皆さんは年末年始、家族と楽しく過ごしたことと思います。
しかし、今の日本や世界にはたくさんの課題があります。

30年後の自分を想像することは難しいですが、
2045年にはリニア新幹線が東京−大阪間を1時間で結びます。
その計画が動き出しています。
特に、これからの日本を担い、リーダーとなるのはあなたたちです。
一人ひとりの思いの強さが、日本や世界を変えていくのです。

そこで、年の初めに、足柄小の皆さんには二つのことを求めたいと思います。

一つ目は、様々なことに興味を持ち、視野を広げ、深く考えてほしい。
つまり、思い切り勉強しよう。ということです。

二つ目は、思い切り勉強できるように、強くなれ、身体も心も鍛えよう。
つまり、自分で決めたことをやり遂げられる人になろう。ということです。

そのためには、小さなことから始めて、
一つずつ決めたことをやり遂げていくことです。
絶対にやり抜くぞ、と強く決心することが大切です。

早く起きる、家族におはようと挨拶する、など、
小さなことからでいいので、強く決心して、やり通してください。
決めたことを一つずつやり遂げていくと、
いろんなことに挑戦できる強さが身につきます。

高学年は、大いに学び、日本や世界の未来を作る礎になってほしい。
中学年、低学年は、
自分を磨くぞと決心して、もう少し自分を鍛えてほしいと思います。

4月からは、6年生は中学生になる。5年生は小学校での最上級生にというように、各学年が1つずつ上の学年に進級します。
1月から3月までの3ヶ月間は、4月からの新しい学校生活へむけての助走期間です。良い助走をしないと力強いジャンプをすることは難しいです。

力強いジャンプをするためにも、思い切り勉強すること、やり遂げることができる人になること、
この二つのことを忘れずに、自分の成長に挑戦してください。

今日から明日へ 〜変化への対応〜

今日から明日へ 〜変化への対応〜

 毎年のことですが、今年の正月も朝からテレビをつけっ放しで箱根駅伝を見てました。かつては箱根で観戦していたのですが、最近はもっぱらテレビばかりです。

 新春の東京−箱根間、全長217.1キロを10区間にわけ、21チーム、それぞれ10人の選手が駆け抜ける。その魅力は、仲間とひとつの目標に向かって練習に励む姿や、駅伝ならではの駆け引き、起伏に富んだコース、そして何よりも襷を繋ぐことにあります。力走を見せた選手が襷を渡した瞬間、崩れ倒れる姿に、颯爽と走っていたが、本当は苦しかったんだ。と、気楽なテレビ観戦者ははじめて気づくのです。

 よく人生はマラソンにたとえられますが、ある人は、人生は一人で走る駅伝ではないかといってます。好むと好まざるにかかわらず、今日を走って明日の自分に襷を渡している。今日の自分がやってきたことを明日の自分が引き継いで、その日その時を走る。明日は明日でその襷を受け取って走る。昨日までの実績を引きずって今日を走る、その積み重ねが人生ではないかというのです。その「明日」を「あって当然の明日」にするのか、「とっても大切な明日」にするのか・・・、辛い山坂が立ちはだかり、一人の力ではゴールにたどり着けないことと人生とが二重写しになってテレビ画面にちらつきます。自分にゴールの意識がなければ終着点にはたどり着くことはできません。

 さて、今年はどんな年にしよう?
 ひとつは「力」でしょう! 「力」をつけよう。「力」を持とう。
 それはねじ伏せる力ではなく、前進させ、変化させる力です。「勢い」だけでは物事は進みません。その「勢い」に加えなければならないのが「力」です。持つべきは「力」です。皆がもっている「力」をまとめ、より大きな「力」にし、それを原動力にする。「力」が必要なんです。実行力、検証力、反省力、計画力、継続力、工夫力等々、挙げてみればきりがないほど「力」は大切です。進むための「力」は成長すること、自分の進むべき道を見つけることに繋がると思います。

 ダーウィンは、進化論の中で「強いものが生き残るのではない。賢いものが生き残るのではない。変化に対応できたものが生き残るのだ」と述べています。向かい風など、いかなる困難に直面しても目標を見失わずに「とっても大切な明日」を迎えるために、「力」をつけ、「一歩前へ」そして「変化への対応」を意識し、今年という年を駆け出したいものです。「目標設定と努力、習慣化」ができる足柄小をめざして進んでいきます。

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