学校での子どもたちの様子をお伝えします。

鍵屋の辻 最終回

今回は、決闘の“その後”についてお話し、「鍵屋の辻」を終了しようと思います。

決闘が終わると地元、津藩の役人の事情聴取を受けた後、藤堂家に預けられ、傷の手当や介護を受けるなど丁重に扱われました。

鳥取藩(元岡山藩)の池田家は、三人揃っての帰参を望みます。が、大和郡山藩が又右衛門の帰参を強く求め、数馬と又右衛門はしばらくの間、藤堂家へ身柄御預けとなります。また3人の討伐をほのめかすような、旗本の不穏な動きもあったようです。

藤堂藩に御預けとなって4年後の寛永15年(1638年)8月13日、やっと3人は鳥取に移封された池田家に帰ります。
しかし、鳥取藩は、鳥取到着17日後に荒木又右衛門の死を発表します。毒殺説等もありますが、その死因も明確ではなく死亡日までまちまちで、真相は定かではありません。又右衛門の死には謎が多くあります。享年は41歳です。

岩本六助は鳥取藩に、中小姓の身分で50俵5人扶持で仕官すると、父親の名である岩本孫右衛門を継ぎ、子孫にも代々岩本孫右衛門を名乗らせます。

余談ですが、武士の俸禄について簡単に触れます。
俸禄とは簡単に言うと給料のことですが、「知行米(ちぎょうまい)」と「切米(きりまい)」があります。
江戸幕府においては、直属の家臣(旗本、御家人)のうちに、知行地を与えられた知行取と、知行地をもたない蔵米取がいましたが、後者に与えられたものが切米です。
切米は、御目見以下の下級武士、御家人の俸給で、現物支給です。
六助のような扶持米取りは、正確には「現米取り」といい、「蔵米(切米)取り」の一種です。蔵米取りは玄米が直接支給され、春(二月)4分の1、夏(五月)4分の1、秋(十月)2分の1というように支給されました。蔵米取り以下の者には扶持米が付随しました。
「給金取り」というのもあります。字の通り現金を支給される者です。最下級武士の給金は3両1人半扶持でした。このことから、身分の低い武士を卑しんで「さんぴん侍」や「さんぴん奴」という言葉が生まれます。
(石高制については、2015.9.30日付「家康没後400年に際して その4 亀姫2」で扱ってますのでそちらもご覧ください。)

岩本六助の収入を誤差があるのを承知で、現代の金額に換算してみます。
 1石=2.5俵ですので、六助の場合は50俵ですから20石。
 一人扶持は、一日当男は5合、女は3合換算で毎月支給されますから、
 5合×360日×5人=9000合
 (9000合=900升=90斗=9石)
 合計29石です。(全員男性として計算)
 29石=72.5俵 1俵=60キロですから
 72.5×60=4350キロ
 仮に米価が10キロ3000円とすると
 435×3000=1,305,000円
 年間130万円で5人を養っていくのですから・・・
 結構、生活は苦しかったと思われます。

話を元に戻します。
「鍵屋の辻の仇討ち」の話は全国に広まり、三人の名声は高まっていきます。さらに、講釈などでは荒唐無稽なまでに脚色され、荒木又右衛門が倒した敵の数は、三十六人にまで膨れ上がります。しかし、実際には2人しか斬っていません。

渡辺数馬は忠義の家臣として厚遇されたようです。しかし、鳥取に戻ってから4年後、34歳の若さで亡くなります。

以上が日本三大仇討ち、「鍵屋の辻」の顛末です。
しかし、日本三大仇討ちと言われていますが、実際には、仇討ちではなく、上意討ちの形をとった決闘です。忠臣蔵や曾我兄弟の仇討ちとは少し違いますね。

歴史も少し掘り下げてみると、なかなか面白いですね。
「鍵屋の辻」の決闘が行われた前後には、様々な事件が起こっています。

 1615年 大阪夏の陣、豊臣家滅亡
 1616年 坂崎出羽守が謀反を企てる
     大御所・家康他界する
     家康六男、松平忠輝、改易される
 1619年 福島正則、改易される。
 1622年 本多正純「宇都宮釣り天井事件」で改易される
 1623年 家光、三代将軍となる
 1629年 沢庵、「紫衣事件」で出羽上山に流される
 1630年 池田忠雄の家臣・渡部源大夫、河合又五郎に殺害される
 1631年 大納言忠長(二代将軍秀忠の三男)、
     領地没収され、甲斐に蟄居される
 1632年 二代将軍秀忠、他界する
 1634年 大納言忠長、上野国高崎に幽閉され、自害する
     「鍵屋ノ辻」の決闘で荒木又右衛門・渡部数馬が
      河合又五郎と河合甚左衛門、桜井半兵衛を討つ
 1637年 島原の乱起こる(島原・天草一揆)

坂崎出羽守の謀反や駿河大納言忠長(国千代)の件も興味深いものがあります。
いずれまた、ここでお話ししようと思います。



鍵屋の辻 その3

本日、足柄小学校では朝会で、今シーズンのプール使用上のルールと安全を子どもたちと確認し、プール開きを宣言しました。
残念ながら気温が低く、実際にプールに入ることはできませんでした。


さて今回は、江戸所払いとなった又五郎や数馬と又右衛門らの動向、そして決闘の様子についてお話ししようと思います。

幕府の裁定の結果、江戸所払いとなり安藤邸にいられなくなった又五郎は、江戸を出て大和郡山付近に住む叔父の河合甚左衛門の屋敷等に潜伏します。

これも不思議なことですが、大和郡山には殺害した渡辺源太夫の姉が嫁いでおり、その夫は剣術指南役の荒木又右衛門です。
荒木又右衛門と河合甚左衛門は、ともに大和郡山藩の剣術師範を務めていて(荒木又右衛門の方が後輩で格下)付き合いも当然あったことと思われます。
なぜその様なところへ潜伏したのでしょう?
“灯台下暗し”でも狙ったのでしょうか。

数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜します。講談等では全国を行脚したように話が展開しますが、実際は河合一族の動向を監視するなかで、潜伏先を突き止めたようです。
甚左衛門の方も危険を察知し、又五郎を再び江戸に移すことにします。しかしこの又五郎脱出計画は、数馬や又右衛門の知るところとなります。

大和から江戸に行くには大和街道で鈴鹿郡関宿に出て、西の追分から東海道に出ることになりますが、交通手段としては陸路と、途中まで木津川の舟を利用する方法がありました。
鍵屋の辻は、東海道に向う大和街道と南下して津や伊勢方面に向う伊賀街道との分岐点となっていました。付近を流れる木津川には舟着き場もあり、徒歩と舟の両方を補足できます。ここで、数馬と又右衛門は又五郎を待ちます。

また鍵屋の辻は、上野城の西大手門のすぐ近くです。白鳳城とも呼ばれる上野城は、藤堂高虎が改修した高石垣で有名な城です。津藩の本城でしたが、大坂夏の陣以降は交通の便のよい津城を本城とし、上野城は支城として高虎の弟の藤堂高清が城代となります。仇討ち決行の際、藤堂家の家中の者が大和街道を封鎖し、邪魔が入らないようにしたという言い伝えもありますが、真偽の程は定かでありません。

寛永11年(1634年)11月7日の早朝。ついに河合又五郎は、護衛や使用人ら11名(20人という説もあります)とともに鍵屋の辻に現れます。

数馬方は又右衛門の他に、門弟の岩本六助(岩本孫右衛門)と河合武右衛門の4人。相手方は11人もいましたが、多くは槍持ちや使用人でした。武芸に秀でた者は、又五郎の妹婿の霞の半兵衛こと尼崎藩槍術師範桜井半兵衛と、叔父の元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門です。

又右衛門は、渡辺数馬に又五郎を、岩本六助と河合武右衛門に桜井半兵衛と小姓を相手にさせ、又右衛門自身は河合甚左衛門と対峙するという作戦を立てます。
馬に乗った河合甚左衛門が又右衛門の前にさしかかったとき、全員が一斉に飛び出して斬りかかり、決闘が始まります。

又右衛門は甚左衛門が落馬した際に斬り殺します。大和郡山藩剣術師範としては、あっけない最後でした。
強敵の桜井半兵衛に向った六助と武右衛門ですが、武右衛門は半兵衛に斬られてしまいます。その後、又右衛門が駆けつけて半兵衛を倒します。甚左衛門と半兵衛が倒れたところで、他の従者はみな逃げてしまったようです。

数馬と又五郎はともに剣術が未熟であったため、互いに手傷を負いながらも、致命傷には至らないなか、駆けつけた又右衛門と六助が助成し、やっと又五郎の首をとることができました。

講談では又右衛門は36人を切り倒したなどと語られますが、これは講談師による脚色で、実際は甚左衛門と桜井半兵衛の2人だけです。

次回は、数馬と又右衛門、六助のその後についてお話します。




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