学校での子どもたちの様子をお伝えします。

鍵屋の辻 その2

本日5月31日は、以前お話した「火星大接近」の日であります。
ここ数日、雨や曇りの日が多く星空を見ることができません。
本日も、雲量が多く・・・20時から23時頃、夜空を見上げてみてください。大きな火星を見ることができるかも知れません。
ただし、今日だけしか見られないということではありません。6・7月頃まで、いつもより大きな火星を見ることができます。
次に火星が地球に近づくタイミングは2018年です。
この時は、今回よりもさらに接近します!

さて、本題の事件の起こりについて触れてみましょう。

1630年の夏、岡山藩士河合半左衛門の息子又五郎が、渡辺源太夫という少年の家に遊びに行ったところから事件は始まります。二人の間にどんな経緯があり、会話があったのかは知る由もありませんが、結果として又五郎は源太夫を殺してしまいます。

河合又五郎が、渡辺源太夫殺害に及んだ理由については諸説有ります。

1 源太夫は岡山城下でも知られた美少年であり、藩主池田忠雄の寵を得ていた。又五郎はそれに嫉妬しての兇行であったとする説。
2 又五郎は源太夫に恋慕したが、撥ね付けられたので遺恨に思っての兇行説。
3 源太夫が又五郎の差料(さしりょう:腰にさす刀)を欲しがったので、又五郎が源太夫の家まで届けてやると、「その様な、なまくらな差料はいらない」と、突っ返してよこしたので、又五郎がその刀を以って、「斬れ味を見よ!」と源太夫を斬り殺したとする説。

等があります。

この事件は、藩士の子弟の喧嘩として藩の目付役が処理する問題です。
三大仇討ち事件になるような話ではありません。が、殺された源太夫は藩主池田忠雄(ただかつ)に寵愛された小姓で、藩主が直々にこの件に介入してきます。一方、河合半左衛門も息子を守るべく、又五郎を城下から脱出させてしまいます。そのため事件が複雑化し、旗本と外様大名を巻き込んだ特異な仇討ち事件となっていきます。

河合半左衛門は息子を知人にあずけ、江戸の旗本、安藤正珍(まさよし)にかくまってもらいます。安藤家は三河武士団の一員として、家康及び徳川政権に貢献しています。

当時の旗本は「我こそ、三河以来徳川家を支えてきた直属の武士」という自負があり、外様大名を見下し対抗意識を持っていたようです。池田氏に個人的な恨みを持つ旗本もいたそうです。安藤正珍は又五郎の受け入れを承諾し、岡山藩主、池田忠雄からの犯人引き渡し要求を拒否します。

この対応に池田忠雄は激怒します。
徳川家康の次女督姫(とくひめ)は、北条氏直の死後池田輝政(てるまさ:居城は姫路城)に嫁いでいます。輝政には既に4人の男児がいましたが、督姫は忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興、振姫など5男2女をもうけました。忠雄は督姫の実子、家康の孫にあたり、あらゆる手段を使って幕府に働きかけ、反撃にでます。

旗本と外様大名との軋轢は、このような形で露見してきます。
幕府は困惑し、調停を模索しますが解決には至りません。
その様な中で池田忠雄が急死します。死因は天然痘ですが、毒殺されたという説もあります。
幕府は忠雄が亡くなったことに配慮し、喧嘩両成敗と言うことで又五郎には江戸所払い、かくまった安藤正珍など旗本には寺預け(監禁謹慎罰の一種)という裁定を下します。

幕府は忠雄の後継ぎである長男光仲(みつなか)が3歳とまだ幼かったため、岡山藩の統治は難しいとし、因幡鳥取にいた忠雄の甥、池田光政と移封(いほう:領地替え)を命じます。池田忠雄は戦国武将の宇喜田秀家、小早川秀秋から受け継がれた岡山城を整備拡張した人物でもありました。

池田忠雄は死に際し、家臣に又五郎を討つことを厳命します。源太夫の兄渡辺数馬は、主君の「遺言」として又五郎の討伐を命じられたため、本懐を遂げるまでは鳥取に引っ越す事もでず、脱藩して渡辺家だけで対処する事態となっていきます。

河合又五郎を主君の遺言により討たねばならなくなった渡辺数馬は、又五郎を討ち、目的を為し遂げないことには、自分の未来は拓けてきません。また河合一族にとっても、大切な跡取り息子をおいそれと討たれるわけにはいかないわけです。

本来武士の仇討ちは、親や兄といった尊属の仇を討ち、尊属の地位や財産を相続するために行うものです。「兄が弟」の、「親が子」の仇を討つというようなことは通常許されていません。子弟や家臣など卑属の仇討ちはしないのが習わしなのだそうです。
数馬は剣術が未熟であったようです。藩主の「遺言」とはいえ、そんな中で弟の仇を討つこととなった数馬の気持ちはいかがなものであったでしょう。

そこで数馬は、寛永10年(1633年)ごろに大和郡山藩剣術指南として召し抱えられていた義兄の荒木又右衛門に助太刀を要請し、又右衛門もこれを了承して大和郡山藩を退身します。

長くなりましたので、今回はここまでといたします。
次回は、講談等で有名な36人斬りの荒木又右衛門と、河合又五郎の動向についてお話します。




鍵屋の辻

鍵屋の辻

先日、職員室で曽我の傘焼き祭りの話題から「三大仇討ち」の話になったとき、若い職員は下を向いてしまいました。

最近では時代劇を扱ったテレビ番組も少なく、地上波ではNHKの大河ドラマと木曜時代劇、BSでは再放送ものは結構ありますが、新作はやはりNHKのBS金曜時代劇ぐらいです。民放で扱わないのは、視聴率が低いからなのでしょう。
以前にもお話ししましたが、僕が子どもだった頃は時代劇や忍者ものはテレビでも、漫画でも、小説でも大人気でした。これも時代の流れなのでしょうか。

三大仇討ちに戻ります。
三大仇討ちとは、曾我兄弟の仇討ち、鍵屋の辻(伊賀越えの仇討ち)、忠臣蔵(赤穂浪士)をさします。

本校であまり知られていないのが、荒木又右衛門の鍵屋の辻(伊賀越えの仇討ち)でした。
そこで今回から数回、鍵屋の辻についてお話ししようと思います。

このお話には、昨年ここで取りあげた「督姫」(とくひめ:北条氏直に嫁ぎ、その後池田輝政に嫁いだ徳川家康の娘)との関連も出てきます。一昨年、芭蕉に関連して伊賀を訪れた際、鍵屋の辻にも行ってきましたので紹介します。(督姫については「家康没後400年の年に際して」2015/11/4.10を、芭蕉については「芭蕉没後320年」2014/11/18のこの欄をご覧ください)

鍵屋の辻とは寛永11年(1632年)、剣豪の荒木又右衛門が、義弟の仇である河合又五郎と、又五郎の護衛をしていた河合甚左衛門(又五郎の叔父で郡山藩剣術指南役)、同じく尼崎藩槍術指南役「霞の半兵衛」こと桜井半兵衛らと対決し、討ち倒した場所のことです。
鍵屋の辻があった三重県伊賀市小田町には鍵屋の辻史跡公園が整備され、伊賀越復讐記念碑の石碑が建ち、資料館もあります。資料館には渡辺数馬に助太刀した荒木又右衛門の自筆の起請文や伊賀越仇討の錦絵などが展示されていました。その裏には、討たれた河合又五郎の首を洗った池というものが復元されていました。数馬茶屋というのもありました。

この事件は人々に語り継がれ、後に講談の人気演目となります。
さらにそれが歌舞伎や人形浄瑠璃にも取り入れられて「伊賀越乗掛合羽(作:奈河亀輔1776年)」や「伊賀越道中双六(作:近松半二・近松加助1783年)」といった作品が生まれています。

次回は、事件の起こりについてお話ししようと思います。







火星接近

火星接近

久しぶりに宇宙に関するお話です。

NASAは5月3日、太古の火星で氷河の下にある火山が噴火した痕跡を発見したと発表しました。無人探査機マーズ・リコネサンス・オービターに搭載した分光器を使って上空から観測し、地球の卓上火山に特徴的なゼオライトや硫酸化物、粘土鉱物があることを突き止めたそうです。太陽系の起源の解明に、また一歩近づいたようです。

その火星が5月31日に地球に最接近します。
国立天文台によると、最接近時の火星と地球の間の距離は7,528万キロメートルだそうです。

国立天文台のホームページには、
火星は地球のひとつ外側にある惑星で、約780日(約2年2カ月)の周期で地球への接近(会合)を繰り返しています。地球の軌道はかなり円に近い形をしていますが、火星の軌道は少しつぶれた楕円形をしています。また、会合周期がちょうど2年ではなく2年2カ月であるため、火星と地球が接近する位置は毎回ずれ、距離も大きく変わります(最も近い位置での接近と最も遠い位置での接近では、距離が2倍ほど違います)。 今回の最接近距離まで近づくのは、2005年11月20日以来です。2018年には5,759万キロメートルまで大接近します。

火星の接近というと最接近の日ばかりが話題になりますが、最接近前後の数週間は、地球と火星の距離はあまり変わりません。火星の直径は地球の半分程度と小さく、遠い時は表面のようすがよく観察できませんが、地球との最接近を迎えるころは火星が大きく見えるため、観察の好機となります。この機会に、ぜひ火星を望遠鏡で観察してみてください。

とあります。

火星が見えるのは、21時のころは南東の低い空、真夜中なると南東の高い空へ移動します。火星はたいへん明るいので、すぐ見つかるでしょう。

見つけ方のポイントは、火星はかなり明るい星で、オレンジ色に輝いていることです。また、他の星座の星は、チカチカと瞬きますが、火星は瞬きません。このようなポイントを押さえると、見つけることができます。
なお、すぐ東側に、土星があるのですが、明るさがかなり違うのですぐに区別がつきます。また、南側に同じオレンジ色に輝く、さそり座の1等星アンタレスがあります。アンタレスは1等星で、火星や土星より少し暗いのですが、3つの星の並びは、目立つ存在になっています。

火星は、肉眼では、ただの明るい星にしか見えません。しかし、天体望遠鏡を使うと、模様が見えてきます。
望遠鏡がなくても、双眼鏡でもいつもより大きく見ることができますよ。

相模原市立博物館では7月10日まで、火星が地球に接近する動きを再現した映像とNASA(アメリカ航空宇宙局)やESA(欧州宇宙機関)の撮影した最新の火星の映像を用いて解説をしています。
宇宙に興味のある方は、少し遠いのですが博物館の隣にはJAXAもありますので、時間を作ってお出かけになってみてはいかがでしょう。




端午の節句

端午の節句

5月5日は五節句のうちの「端午の節句」です。
 ♪甍(いらか)の波と雲の波 重なる波の 中空(なかぞら)を
  橘(たちばな)かおる 朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり♪
最近は、あまり鯉のぼりも見かけなくなったような気がするのですが、これも少子化の影響でしょうか。

端午の節句は古くから継承されてきた文化の一つですが、1948(昭和23)年に国民の祝日に制定されてからは、「こどもの日」の方が多く使われているように思われます。

子どもは“国の宝”、“社会の宝”ともいわれますが、1951(昭和26)年のこの日には、国際連合による1959(昭和34)年の児童権利宣言に先立ち「児童憲章」が制定されました。1989年の第44回国連総会において採択され、1990年に発効した「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」は、子どもの生存、発達、保護、参加という包括的な権利を実現・確保するために必要となる具体的な事項を規定しています。

65年前に制定された児童憲章は、
われらは、日本国憲法の精神にしたがい、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める。
 児童は、人として尊ばれる。
 児童は、社会の一員として重んぜられる。
 児童は、よい環境の中で育てられる。
の前文から始まります。

さて、前置きが長くなりましたが、今回はこどもの日にちなんで「端午の節句」について調べてみました。
節句とは、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦における、伝統的な年中行事を行う季節の節目となる日のことです。

端午の節句の由来は諸説あるのですが、今から2300年ほど前の中国の戦国時代、楚(そ)の国の国王の側近に、屈原(くつげん)(前340頃〜前278頃)という政治家がおり、詩人でもあった彼は正義感が強く、人々の信望を集めていました。しかし、屈原は陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。故国の行く末に失望した屈原は、5月5日に川に身を投げてしまったのでした。楚の国民達は、小舟で川に行き、太鼓を打ってその音で魚をおどし、さらに粽(ちまき)を投げて、「屈原」の遺体を魚が食べないようにしたそうです。

また、中国では昔から5月(旧暦)の時期は病気が流行し亡くなる人が多かったことから、5月は悪月、5日は5が重なることから悪日として、厄除けに菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を門に挿し、菖蒲を浸した酒を飲んで厄除けや健康祈願をしていたそうです。

このような風習が奈良時代に日本に伝わり、やがて日本独自の端午の節句の風習が生まれていきました。すなわち、端午の節句とは元は中国から伝わったものだったのです。

端午にちまきを食べる習慣と「屈原」の故事とは、直接関係が無いとする説もあります。
海野厚の作詞に中山晋平が作曲し、大正時代に発表された童謡「せいくらべ」も、最近では聴く機会がめっきり少なくなりました。知らない方もいるかも知れません。
 ♪柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ
  粽(ちまき)たべたべ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ
  きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
  やっと羽織の 紐(ひも)のたけ♪
この曲の中にも粽が登場しています。

粽については、中国の故事に習って食したのでしょう。一方、節句につきものの「柏餅」は江戸時代中期頃より端午の節句の食べ物として定着したようです。柏の木の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちません。このことが「子供が生まれるまで親は死なない」という思いにつながり、「家系が絶えない」「子孫繁栄」という縁起を担いだのだそうです。

日本の端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。
端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。

平安朝のころから、子供らは菖蒲で飾った紙のかぶとをつけ、石合戦などの遊びをしていたそうです。

古来よりおこなわれていた宮廷での端午の行事も、鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。しかし、武士のあいだでは尚武(しょうぶ:武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになっていきます。

室町時代から武家では5月5日の端午の節句に、竹竿に布を張り「吹き流し」 を立ててました。

江戸時代になると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参内し、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝いました。

元禄時代(1688〜1704)になると紙や木でつくった 菖蒲人形を庭先に立てるようになり、それがいつしか室内に飾るようになり、人形美術も発達して種類も増えました。
また、江戸時代には庶民も紙で作った「鯉のぼり」を竿につけて高く掲げて楽しんでいたようです。歌川広重作の浮世絵、「水道橋駿河台」にも鯉と吹き流しが描かれています。

コイはもともと威勢のいい魚で、鯉が滝を上って竜になる中国の伝説「登竜門」から、「鯉の滝上り」などと伝えられ、子供が元気に育つように、立身出世という親の願いが「鯉のぼり」にこめられているのでしょう。

このような時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへ、そして子どもの健やかな成長へと結びついていったと考えられているようです。

今、この瞬間も、子どもたちを取り巻く様相は変化しているのでしょうね。
私たちが未来を託す子どもたちをどう育てるかは、大人全体が考えなければならない問題です。私の少年時代は豊かではありませんでしたが、人と人との関わり合いの中で気持ちはとても豊かでした。

近頃は子ども受難の時代なのか、家では親による虐待があり、外では不審者に襲われたりする一方で、簡単に金銭を与え甘やかす風潮や、幼い子の髪を染め、化粧を施し、大人の真似を誉めそやす、言葉遣いや服装、挨拶の乱れを見過ごしているなど、子どもたちを取り巻く環境があまりよくないと感じています。もう一度、児童憲章の理念を再確認する必要があるのではないでしょうか。
大人は、子どもに善悪の判断、社会規範を教える必要があります。その大人が率先して範を示さなければ、健全育成は題目に終わってしまいます。

もちろん褒めて育てることは重要ですが、是は是、非は非。叱ることをためらわず、注意することを避けないことです。叱られなければ、子どもは褒められたときの喜びを味わえません。

こどもの日は、子どもたちが「大きな未来」を信じて生きて行けるように、大人の責任として、今何をなすべきかを考え、実行するかを考える日なのかもしれません。

余談ですが、本日の足柄小の給食は「こどもの日」にちなんで、
「中華おこわ」 と 「かしわ餅」
がでます。




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