学校での子どもたちの様子をお伝えします。

家康没後400年に際して その5  亀姫 3

亀姫 その3
 「宇都宮城釣天井事件」

「ロッキード事件」って何ですか・・・?
そうか、「ロッキード事件」知らないんだ。
1976年、僕が大学に入学する年に発覚した汚職事件ですからね。
田中角栄首相の秘書であった榎本敏夫秘書官の妻美恵子さんの証言「蜂の一刺し」に至ってはいわずものがな、「とどめの一撃」「逆転満塁ホームラン」に言い換えましょうか(笑)

元和8年(1622年)、将軍・秀忠が家康の七回忌に日光東照宮に参拝した後、宇都宮城に泊まる予定でした。
本多正純は城主としての腕の見せどころとばかりに、しっかりと城兵を管理し、将軍家の味方として屈強なと見せたかったのでしょう。城を修復し、鉄砲を準備しと、将軍家を迎えいる準備を入念に行い始めます。

城の改修や武器等の増強は武家諸法度(元和令:1615年、秀忠が発布)に従い、幕府に届け出て許可を得るべき内容なのですが、正純としては、本多家の忠義を秀忠に見せたいという思いと、本多家は父の代からの側近中の側近という、おごりともいえる甘い考えが相まって、幕府に無許可のまま準備を進めます。

常日頃からチャンスをうかがい、本多家の情勢を内偵していた亀姫は、早速、行動を開始します。

参拝を終えた秀忠に、姉の亀姫から「宇都宮城の普請に不備がある」と密訴があります。
簡単に言うと、「宇都宮は、城を修復し、仕掛けを講じて、無届けで鉄砲などをそろえ、何やらたくらんでいる様子。危ないから行かないほうがいい」ということです。

内容の真偽を確かめるのは後日とし、秀忠は「御台所(みだいどころ:将軍の正室)が病気である」との知らせが来たとして、予定を変更して宇都宮城を通過して江戸城へ帰還します。

この一件について、後日、真実かどうか正純への詰問が行われます。
もともと、よかれと思っての様々な準備ですから、正純は否定する事なく、城の修復や鉄砲の買い入れを認め「将軍家の御ため」と弁明しますが、それこそ「ルールはルール」です。城の公共物を持ち逃げしたのとは、ワケが違います。

取りようによっては、謀反とも取れる無届の改修工事と武器調達。
必死の弁明は一蹴され、正純は所領は召し上げられます。が、先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽由利郡に5万5000石を与えられます。
謀反に身に覚えがない正純がその5万5000石を固辞したところ、逆に秀忠は怒り、本多家は改易となり、正純の身柄は久保田藩主に預けられ、出羽横手への流罪となります。

これが、有名な『宇都宮城釣天井事件』です。
釣天井とは、つり上げておき、下に落として室内にいる人を押し殺すように仕掛けた天井のことです。後の検分では釣天井は存在しなかったようです。

もちろん、これには、幕府内の権力争いも絡んではいたんでしょうが、もしかすると亀姫は、そんな権力争いも計算に入れていたのかも知れません。

やがて、成長した忠昌は5千石の加増を受けて、実際には釣天井など存在しなかった宇都宮城に、見事、返り咲きます。

釣天井は、将軍の頭の上ではなく、本多正純の上に仕掛けられていたわけです。
まさに、亀姫こそが釣天井だったのですね。
幼くして藩主となった孫たちの後見役を見事果たした亀姫ですが、寛永2年(1625年)、加納において66歳で死去します。
亀姫についてのお話はこれでおしまいです。

余談ですが秀忠は、大名・公家・寺社に領知(地)の確認文書(領知宛行状:りょうちあてがいじょう)を発給し、自ら全国の土地所有者としての地位を明示します。
大名とは1万石以上の領地を与えられ、将軍との主従関係を結んだ武士をいいますが、軍事力を備えているだけにその統制には苦心します。元和5年(1619年)、広島城主福島正則(49万8千石)を武家諸法度の城郭補修の項に違反したとして津軽へ、そののち信州川中島(4万5千石)へ転封しています。もともと福島正則は豊臣秀吉の側近でしたが石田三成との仲が悪く、関ケ原では徳川に従い武功をあげ、安芸広島と備後鞆(びんごとも)49万8,000石(広島藩)を得た外様大名です。将軍よりも年功の西国有力外様大名をも処分できる圧倒的な力を示したのでした。

その後、奥平家は出羽山形9万石、丹後宮津9万石、そして最後は豊前中津10万石の領主となります。
豊前中津は当初、黒田如水(官兵衛)の所領でした。歴代の藩主としては黒田⇒細川⇒小笠原⇒奥平と続きます。
中津藩出身者には『解体新書』を著した前野良沢や下級藩士出身の福澤諭吉がいます。

豊前中津(大分県中津市)も訪ねてみたいところです。耶馬溪(やばけい)や中津城、黒田官兵衛ゆかりの平田城、長岩城、一ツ戸城も素敵なところなのでしょうね。




鉄道の日

鉄道の日

今年のノーベル賞では医学生理学賞に大村智さん、物理学賞に梶田隆章さんのお二人が受賞されました。ノーベル賞ウイーク初日から2日続けての朗報です。本日までの日本人受賞者は24名となりました。
湯川秀樹さんから小柴昌俊さんあたりまではよく覚えているのですが、その後は曖昧になってしまっています。物理学と化学賞の受賞が圧倒的に多いですね。

僕が小学生だった1960年代には、朝永振一郎さんと川端康成さんが受賞し、大きな話題となりました。特に文学賞を受賞した川端さんの「雪国」の冒頭は、当時の小学生は本を読んだことがなくても誰もが知ってました。
 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」

ノーベル賞とは関係ありませんが、当時の小学生の間で知名度が大きかった作品に芥川龍之介の「トロッコ」があります。地元が作品の舞台となっていることもあり、親近感を覚えたのでした。また、新聞記者をしていた隣町の力石平蔵さんが原作者だということもよく知られていました。
 「小田原・熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。」

鉄道に興味を持っていた僕にとって、いずれもの作品にも鉄道が関連していることで記憶に残っていたのかもしれません。

来週、10月14日は「鉄道の日」(鉄道記念日)です。

 ♪汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり
   愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として♪

「鉄道唱歌」、最近はあまり耳にしなくなりました。全6集・374番もある長い歌です。東海道編は66番まであるそうです。その12番には小田原が歌われています。

 ♪国府津おるれば馬車ありて 酒匂小田原とほからず
   箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より♪
    (後に「馬車ありて」を「電車あり」に訂正)

国府津駅前から小田原町(小田原市)までは「小田原馬車鉄道」(1900年に路面電車化し、1920年廃止)という馬車鉄道が開通していました。鉄道唱歌が発表されたのは1900年ですから、この馬車は小田原馬車鉄道を指すのでしょう。

小田原〜熱海間には、「豆相人車鉄道」がありました。明治28(1895)年7月に熱海〜吉浜間で営業を開始し、翌29年3月に熱海〜小田原間が開通しています。明治41(1907)年8月に社名を熱海鉄道と改めて、蒸気機関車牽引の軽便鉄道へ切り替えました。
熱海駅には、当時の蒸気機関車が保存展示されています。

1922年に新東海道本線の小田原駅〜真鶴駅間が「熱海線」の名で開業すると、その並行区間を廃止して残存区間で営業を継続しますが、大正12(1923)年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、豆相人車鉄道(熱海鉄道)は復旧はされずそのまま廃線となりました。

1924年に熱海線は予定通り熱海駅までの開業を果たし、1934年には丹那トンネルが開通して熱海線は東海道本線へ改められることになります。(丹那トンネルの開通については、昨年度の「JR御殿場線開業80周年」をご覧ください。)

日本初の鉄道が新橋(後の汐留貨物駅、現・廃止)〜横浜(現・根岸線桜木町駅)間に開業したのは、明治5年9月12日(新暦1872年10月14日)のことです。
これを記念し、1922年から10月14日を鉄道記念日として鉄道省により制定されました。
1994年に運輸省(現・国土交通省)が「鉄道記念日から「鉄道の日」と改称を提案し、JRだけでなく全ての鉄道事業者が祝う記念日となったのでした。

「鉄道の日」に関連して、鉄道各社では様々なイベントを開催するようです。
 鉄道フェスティバル  :東京日比谷公園
 ファミリー鉄道展(小田急電鉄):海老名電車基地(海老名検車区)
興味のある方は是非、参加されてみてください。

僕は連休を利用し、昔読んだ本を読み返してみようと思ってます。

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