学校での子どもたちの様子をお伝えします。

家康没後400年に際して その4  亀姫 2

亀姫 その2 「本多家との確執」

いよいよ本日で9月も終わりです。
運動会の練習とともに前期の終了にむけ、慌ただしい日々を送っております。

早速ですが、亀姫の晩年についてお話ししてみます。

奥平信昌は慶長7年(1602年)加納で隠居し、三男・忠政に藩主の座を譲ります。慶長19年(1614年)には、忠政と下野国(しもつけこく)宇都宮10万石の長男・家昌に先立たれますが高齢を案じられてか、息子たちに代わる大坂の陣への参陣を免除されています。翌、元和元年(1615年)、信昌も世を去ります。

今回は宇都宮藩と亀姫の関わりを中心にお話ししたいと思います。下野国宇都宮10万石は亀姫の長男・家昌が藩主でしたが、その家昌が38歳で亡くなり、その息子(亀姫にとっては孫)の奥平忠昌が、わずか7歳で家督を継ぐ事になります。
当時の宇都宮は、徳川にとっては東北の玄関口となる重要な場所です。2代将軍となった異母弟の徳川秀忠から「やはり幼い領主では・・・」との提言があり、結局、元和5年(1619年)江戸に近いが宇都宮より格下の下総古河への転封(てんぽう、移封:国替え)となります。

このことは亀姫も理解していました。宇都宮は要所ですし、領地替えに際しては1万石の加増もされ、引越し準備にあたっていました。が、そんな亀姫のもとに、宇都宮城の後任は亡き家康に寵愛された本多正純で、しかも3万3000石から15万5000石に加増されての宇都宮入りとの情報が入ってきます。
正純は父・本多正信と共に知恵袋、参謀として家康の側近として初期幕政を牛耳った謀臣です。しかし武功は皆無に等しく、そのために戦場働きの武功派の功臣に妬まれていました。正純にとっては栄転といって良いでしょう。
その本多正純と亀姫との間に確執があったようです。秀忠の姉である亀姫は、長篠で大手柄を立てた奥平家より文治派の正純を大幅に加増して宇都宮に置いたことと、忠昌が12歳になってからの転封に大いに不満で、秀忠に抗議までしています。

亀姫と本多家との確執は、慶長19年(1614年)亀姫の四女の嫁ぎ先であった大久保忠常の父・忠燐(ただちか)が、不可解な改易を申し渡され失脚したことに始まります。この件には、大久保家のライバルであり、幕政に強い影響力を持つ本多正信・正純親子が関与していたのでした。亀姫が娘の嫁ぎ先を失脚させた本多家が転封に際し、大幅に加増されて宇都宮城に入城することを腹立たしく思ったのも道理です。亀姫は城の植木や畳、建具のいっさいがっさいを持ちだしての引越しを決行します。

転封の場合、一般的には私物以外は全てそのまま後任に引き継ぐのが定めですから、将軍の姉とはいえ、結構、無茶なことを行ったわけです。
結局、国境で見つかり、全て返すように要求され、もとに戻します。
将軍の姉が、家臣に注意される格好になったワケですから・・・
面目は丸つぶれです。
 “この怨み、晴らさずにはおくものか”
と、思ったかどうかは推測に過ぎませんが・・・
亀姫は、相当頭にきたのでしょう。その後、亀姫は本多家の内偵を命じます。

余談ですが「石高制」について少しお話しします。
豊臣秀吉が実施したいわゆる太閤検地の検地帳は石高で記載され、全国の生産力が米の量で換算された「石高制」が確立します。それまでは貫高制(かんだかせい)等が用いられてました。秀吉は曲尺(かねじゃく)1尺(約30.3センチ)の検地尺を基準に全国統一基準で6尺3寸(約191センチ)四方を1歩(ぶ)、30歩を1畝(せ)、300歩(10畝)を1段(たん)、10段を1町(ちょう)とする新しい単位を採用します。今でも1反(段)=300坪(歩)といった使われ方がされますね。
また、穀物の量を量る枡(ます)も京枡に統一し、これに基づく石(こく)、斗(と)、升(しょう)、合(ごう)を基本単位としました。この単位の歴史は古く、何と大宝律令(文武天皇の時代701年に制定、刑部親王(おさかべ)、藤原不比等(ふひと)らにより編纂)にも記されています。

江戸幕府も300歩=1段の基準を採用しますが、6尺(182センチ)四方を1歩としたため、土地の面積表示は太閤検地の時よりも大きくなりました。また、京枡も太閤検地の時よりも大きな容量のものが使われていたようです。

太閤検地では、村ごとに田畑、屋敷地の面積、等級を調査し石高を定めました。個々の田畑に等級がつけられその生産力を米で表したのです。年貢率は石高の3分の2を領主に納入する2公1民が一般的でした。各村ごとの石高を集計した村高に応じて、村が一括して納入するといった村請制度(むらうけせいど)がとられ、連帯性で年貢の取り立ては厳しいものがあったようです。年貢率は時代と共に5公5民、4公6民など変化します。
年貢米は城下町に集められ家臣に給付したり、城下町商人に売却したほかは大阪の蔵屋敷に廻米(かいまい)され、米市場(こめいちば)で換金して藩財政にあてました。

加賀100万石の前田家を例にあげると、年貢米として40万石ほどが税収としてあったと云うことです。

当時と今とではシステム上の違いがありすぎますので現在の金額に単純に換算することはできませんが、不都合を承知で換算してみます。

1 米の重さに換算すると1合の米は約150グラムですから、1石は約150キロということになります。仮に米10キロ=3000円とすると、1石は45000円です。
2 江戸時代は1両で1石の米が買えたといわれています。米ではなく当時の大工などの労働賃金水準などを目安に考えると金1両は、20万円から30万円の価値だそうです。

映画にもなった磯田道史さんの著書「武士の家計簿」に、石高と現代価値の対応表があります。この本の時代背景は天保14年(1843年)の加賀藩です。
 米価換算だと    1石= 50,000円
 労働価値換算だと  1石=270,000円
ということでこれをもとに計算すると、米価換算と労働換算とではとんでもない差が出てきます。
  5万円×100万石×0.4= 2000億円
  27万円×100万石×0.4=1兆800億円 (4公6民で算出)
ちなみに、平成27年度の石川県の歳入概算は5438億6400万円です。

さらに秀吉は、一揆を防止し農民を農業に専念させるため「刀狩令」を出し、建設中であった京都方広寺の大仏の釘として再利用するという名目で武器を没収します。
また、人掃令(ひとばらいれい)を出して、武家奉公人が町人や百姓になること、百姓が商売や職人仕事に従事することを禁止します。
今年は国勢調査の年でしたが、当時も職業別にそれぞれの戸数、人数を調査、確定する全国的戸口調査が行われ、諸身分が確定することになり兵農分離、農商分離が完成します。

やがて、江戸幕府はキリスト教禁止令を発布し、寺請(てらうけ)制度を確立させ、民衆がどのような宗教宗派を信仰しているかを定期的に調査するようになります。これを宗門改(しゅうもんあらため)と呼び、これによって作成された宗門改帳(宗門人別帳)が、今でいう戸籍原簿や租税台帳として使われたのでした。

余談のほうが長くなってしまいました。
このへんで本日は終了とします。

次回は亀姫の “蜂の一刺し” についてお話しいたします。
・・・ロッキード事件を連想された方は同世代です(笑)!




家康没後400年に際して その3  亀姫 1

本日もあいにくの雨ですが、色とりどりのコスモスが見頃を迎え、秋の訪れを伝えています。
秋分も過ぎ、朝夕も肌寒さを感じるようになってきましたが、コスモスを見るにつけ、季節は夏から秋へと着実に移ろいでいるなと感じます。

前回は、長篠城主「奥平家」にまつわるお話を真田家と絡めてお話ししました。
「奥平家」の寝返りを別の視点から見ると、また違ったものが見えてきます。
今回は徳川家から嫁いだ「亀姫」に視座を置いて、少し詳しく奥平家を見てみましょう。

徳川家康の正室の長女「亀姫」は奥平信昌へ嫁いでます。
戦国の姫君というのは、自らの意思とは関係なく、同盟や駆け引きのための道具として政略結婚の果てに、非業の死を遂げたり、寂しい晩年を送る事が多いのですが・・・

この姫が生まれた永禄三年(1560年)3月18日は、桶狭間の戦いの2ヶ月前です。彼女もまた歴史の渦中に飲み込まれていく事になります。亀姫の母は、桶狭間に散った今川義元の姪・瀬名姫(後の築山殿)です。

義元の死によって人質生活から開放された父・家康(松平元康)でしたが、今川衰退の後、一旦は同盟を結んでいた武田信玄が、駿河国の今川領(静岡県東部)に侵攻します。その後、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に起こった武田信玄軍2万7,000〜4万3,000人と徳川家康、織田信長からの連合軍1万1,000〜2万8,000人との間で行われた三方ヶ原の戦いでは、武田軍200人の死傷者に対し徳川軍は2,000人。さらに有力な武将を失うという手痛い敗北を味わいます。

成長した亀姫に、三河北部に位置する長篠城主・奥平貞能の嫡男・貞昌との縁談の話が舞い込んできます。武田氏の勢力を牽制するため有力な武士団・奥平氏を味方に引き入れることを考えた家康は織田信長に相談すると、信長は「家康の長女・亀姫を貞能の長男・貞昌に与えるべし」との意見を伝えたのでした。

長篠は武田家の傘下にありましたが、家康としては是非とも手に入れておきたい要所です。当時の家康は、三河(愛知県東部)の田舎大名でしたが、奥平は、さらにその下の国人、土豪ような身分です。政略結婚といえども完全に格下の家に長女を嫁に出すとは、いかに家康が長篠を手に入れたかったかがわかります。
逆に、奥平からすると願ってもない良縁です。この縁談を承諾することは、武田から徳川に寝返るという事になります。奥平家は武田方に祖父を中心とする一族がとどまります。徳川方とに一族が分かれても「家」を護ることを選択します。

元亀4年6月22日、貞能は家康に貞能・貞昌親子の徳川帰参の意向を伝え、再び徳川氏の家臣となります。貞能・貞昌親子の寝返りを受け、天正元年(1573年)9月21日に武田勝頼は奥平氏が差し出していた人質を処刑します。

亡き武田信玄の後を継いだ武田勝頼は、天正3年(1575年)5月に1万5,000の大軍を率いて長篠城へ押し寄せます。
天下の武田を相手に奥平だけでは到底防ぎようもなく、貞能は家康に救援を要請します。織田信長も駆けつけ、織田鉄砲隊の「三段撃ち」なる戦術が展開された「長篠の戦い」が勃発するのです。

この戦は、長篠城の包囲を巡る攻防戦と設楽原(したらがはら)の戦いの二つ分けることができます。設楽原の戦が「鉄砲VS騎馬隊」の戦いで、その後の兵法・戦術に大きな変化をもたらす鉄砲の集団的使用による日本初の戦いです。

家康と信長が到着するまでの間、若干21歳の貞昌は、勝頼の攻撃に耐え、見事、長篠城を守り抜きます。磔に散った鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の話もありますが省略します。
長篠の合戦は、織田・徳川連合軍の勝利に終りますが、これには、武田方からの再三の開城要求に応じなかった貞昌の力に負うところも多く、信長は大いに喜び、貞昌に自分の一字を取って信昌という名前を与えます。小田原征伐にも従軍し、慶長6年 (1601年)には美濃加納10万石の大名へと大出世を遂げます。

信昌の妻となった亀姫は、その後、加納御前と呼ばれます。しかし、4年後の天正7年(1579年)に悲劇がおこります。
謀反の疑いをかけられた兄・信康と、母・築山殿が、父である家康の手によって死に追いやられたのです。戦国の世とはいえ、家康および亀姫の心情はいかばかりであったでしょうか。

司馬遼太郎氏は、「武士の人間関係は主従という繋がりと、父子、夫婦という関係があって成立している。後の世の朋友、友達といった関係はきわめて濃度が薄く、現実にその関係があっても、近代のように“友情”といった倫理概念にまでは発達していない。」と著書「関ケ原」の中でいってます。時代背景と共に人々の心のあり方も違うのでしょうか。

 
長くなりましたので、今回はここまでといたします。
次回は、亀姫の晩年についてお話ししようと思います。




家康没後400年に際して その2 戦国期の知恵

戦国期の知恵 真田家と奥平家

このところ雨の日が多く続きます。
暑さが去ったあとの長雨が降り続くこの時期を、「秋黴雨(あきついり)」「秋湿り」「秋霖(しゅうりん)」と古くは云ったそうです。
なかなか趣のある言葉です。
しかし、現実に目をやると大雨により各地で災害が起こったり、運動会の練習ができなかったりで、困っております。

さて今回は、関ヶ原の戦いで活躍した真田家と、長篠の戦いで活躍した奥平家に焦点を当ててお話をしてみます。

“来年の「真田丸」も原作・脚本は三谷幸喜さんです。三谷流の幸村が登場するのでしょうね。もう50年ほど前のことですが、TBSでナショナル劇場「戦国太平記 真田幸村」というのをやっておりまして、眠い目をこすりながら見ていた記憶があります。中村錦之助(萬屋錦之介)さんが主演でした。猿飛佐助、霧隠才蔵ら真田十勇士の名を覚えたのもこの番組の影響でした。幸村の実名は信繁ですが、幸村の方が認知されてますね。”
と昨年度のこの欄、「佐久間象山」のところで書いたのですが、いよいよ9月1日から「真田丸」の撮影が開始されたそうです。

「六文銭」、「真田の赤備え」、「真田十勇士」と、真田家にまつわる話題は大変豊富です。とりわけ石田三成らが挙兵した関ヶ原の戦いで、父・真田昌幸と幸村(信繁)共に西軍に加勢し、兄・真田信之の妻が本多忠勝の娘であったことから家康率いる東軍についた兄と袂を分かち、父子、兄弟が争ったことが有名です。

戦国の世は、親、兄弟、骨肉といえども心を許さず、袂を分かつことはしばしばあったようです。考えようによっては真田家も賢い選択をしたのかもしれません。敵味方に分かれ争いが始まったとしても、いずれか一方の「真田家」は後世に残ることができるのですから・・・「家」を重んじるという点からは、日本的な賢者の選択かもしれません。

関ケ原の際の真田家より25年ほど前の「長篠の戦い」でも同じような例が見られます。
長篠城主「奥平家」にまつわるお話をしてみたいと思います。

「奥平家」は三河北部の有力な国人でした。奥平家は今川家に属していましたが、桶狭間の戦い以降、今川家の衰退を見て徳川家に従います。奥平信昌(のぶまさ:初名は貞昌さだまさ)は、徳川家の合戦に従軍して姉川の戦いなどで奮闘しています。しかし徳川家康と武田信玄の抗争が始まり、武田家が優勢になって三河にも侵攻を始めると、奥平家は武田家に寝返り、信昌も父・定能(さだよし)に従い武田軍に参加して徳川軍と戦います。

1573年に武田信玄が死去し、徳川家康が反撃を始めると、奥平定能・信昌父子は徳川家へ寝返り、賛同した一門と家臣を連れて武田領から逃亡し、徳川領へ移ります。一方、祖父の貞勝をはじめ奥平一門の半数が武田家に従い続けることを選び、甲斐へ移住します。
奥平父子の寝返りを受け、武田家は奥平昌勝(信昌の弟)や分家の娘を含む人質を処刑します。

一族の間で武田と徳川に別れて戦うことは戦国期に強国の間に挟まれた小豪族の宿命というか、「家」を護るための知恵だったのでしょう。

余談ですが、武田の騎馬隊は最強といわれていました。が、当時の「馬」はサラブレッドではありません。映画やテレビで戦国ものや時代劇を扱うときに馬が登場しますが、これらはみな明治期以降に日本に入ってきたアラブ系や西洋系の馬です。
日本の在来馬は「駒」とも呼ばれ、その平均体高は130センチ程度、平均体重は250kgで、サラブレッドの160センチ、500kg程度と比較するとかなり小さいです。が、当時の日本人の身長も成人で150センチほどであったそうです。簡単に言うと、ポニーに乗った騎馬軍団です。想像できますか?
刀と弓、槍の時代の足軽(人)VS騎馬隊の時代の戦いから、鉄砲隊VS騎馬隊の時代になると・・・いくら“飛び道具を使うとは卑怯なり”といったところで雌雄は決するわけで、時代の変化について行けないものは滅びる運命だったのでしょう。

次回は、奥平家について少し詳しくお話しします。






「カシオペア」廃止の報に接して

「カシオペア」廃止の報に接して

8月に「北斗星」が最終運転となり、これでブルトレが全国から姿を消したとお話ししたばかりなのに、今度はカシオペア廃止の報道が14日にありました。
北海道新幹線の開業に伴い青函トンネルなど在来線との共用走行区間で電圧や運行システムが新幹線用に変更され、現在使用している機関車が走れなくなるのだそうです。廃止時期の詳細は報道されていませんが、早ければ10月のダイヤ改正で、遅くとも来年3月にはその勇姿を消すことになるのでしょう。
1988年3月の青函トンネル開業以来、本州と北海道を結んできた寝台特急は全て姿を消すこととなります。

カシオペアツイン・・・、何度か利用させていただきました。カシオペアスイートには乗らずじまいです。人気がありなかなか予約できませんでした。

青函トンネルができる前は、北海道方面へ向かう寝台列車の終着駅は青森でした。トンネル開通後も青森止まりの寝台車は東北本線経由の「はくつる」、常磐線経由の「ゆうづる」、羽越本線経由の「鳥海」、「あけぼの」(平成9年までは奥羽本線経由)が活躍していました。
僕が鉄道に興味を覚えた小学生の頃は、「ゆうづる」は常磐線が電化されておらずC62蒸気機関車が牽引してました。

北斗星、エルム、カシオペアが青函トンネルを通過して札幌まで行った寝台列車です。エルムは臨時列車で食堂車や個室寝台は連結されていませんでした。

寝台車での楽しみの一つに食堂車での食事がありました。北斗星やカシオペアではフレンチのコース料理も提供されました。この予約も大変だったことを覚えてます。
学生時代に乗った20系の「ふじ」や「みずほ」には、ナシ20形食堂車が連結されてました。引退後は大阪の交通科学博物館に展示されていましたが、その博物館も昨年4月に閉館しました。ここは鉄道だけでなく、飛行機や車の展示もありました。
閉館といえば、京都の梅小路蒸気機関車館も8月末をもって閉館しています。ここも何度か足を運んだ懐かしの場所です。魅惑の蒸気機関車が動態、静態保存されていました。来年春に京都鉄道博物館として生まれ変わり、展示も再開されます。前出のナシ20形食堂車も展示されるようです。

かつて日本各地で活躍していた機関車や寝台列車も、時代の流れと共に博物館でしか目にすることしかできません。保存されずに消え去ったものもたくさんあります。
鉄道に限らず、様々なものを自分の記憶の中にしっかり留めておきたいと思います。



風流韻事(ふうりゅういんじ)

昨日は井細田八幡神社の例大祭でした。縁起には四〇〇年以上前から地区の鎮守としてまつられているとありました。地区の子どもたちも山車や神輿を担ぎ、年に一度の祭りに興じていました。かつては秋の収穫をみなで喜び合ったのでしょう。

祭礼に際し“実家”へ里帰りされた方も多かったようで、白山中時代の懐かしい子ども(失礼、立派に成長したお父さん、お母さん)にも数名お会いし、二十数年ぶりにお話しすることができました。11日の白山学区パトロールの際も久野小のPTAの方に、“隣のクラスでした・・・”と声をかけられました。話をしているうちに昔日の面影がよみがえり、様々な出来事を懐かしく思い出すとともに時間の流れの早さに驚かされたのでした。

さて、今日14日の日の出は5時23分、日没は17時54分です。確実に日照時間が短くなってきています。秋が確実に近づいてきています。秋分の日も近いですね。

秋といえば月見。旧暦8月15日は中秋(仲秋)ですが、新暦に直すと今年は9月27日になります。
十五夜は「芋名月」とも呼ばれます。昨年は9月8日でした。この時もスーパームーンが話題になりましたが、今年もスーパームーンが見られます。

十五夜の翌日、9月28日に月と地球との最短距離が356876キロになります。昨年は3回スーパームーンが出現したのですが、2014年一番近かった8月の356896キロよりも20キロ地球に近づきます。最接近するタイミングは11時51分ごろだそうです。日中ですから残念ながらこの時間では見えません。が、夕方から夜半にかけていつもより大きな月、スーパームーンを見ることができます。来年は11月14日です。

余談ですが、古事記や日本書紀(記紀)には、星に関するものはほとんどありませんが、太陽と月については伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の左の目から天照大神、右の目から月読命(つきよみのみこと)が生まれたと、「古事記」に記されています。昔人も太陽や月に畏敬の念を持っていたのでしょう。

月を題材にした句はたくさんあります。少し紹介してみますね。

めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲かくれにし夜半の月かな
                      紫式部  新古今集

天の海に雲の波たち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ      万葉集  

あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月
                             明恵

夜る窃(ひそか)に虫は月下の栗を穿(うが)つ
名月や池をめぐりて夜もすがら               松尾芭蕉

旅人よ笠島語れ雨の月                 与謝蕪村

「天の海に雲の波たち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ」
三日月でしょうか、月を船に見立てているのですね。なんてロマンチックなんでしょう。万葉人の感性に驚かされます。
旧暦八月十五日の名月に雨が降っているとき、「雨月・雨夜の月・雨名月」といいます。月を目で「見る」のではなく、蕪村は心で「観た」のでしょうか。

風流韻事(ふうりゅういんじ)。月見で一句なんていかがですか。
僕は月見で一杯です!(笑)



家康没後400年に際して その1 鳳来寺〜鳳来山東照宮

家康没後400年に際して その1 鳳来寺〜鳳来山東照宮

6年生は歴史の授業で織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を学習しています。各人の施策等を調べ人物像を浮き彫りにしていました。
今年は家康没後400年ということで、家康関連のお話をしてみようと思います。相変わらず脈絡滅裂ですので、家康像を描きだすことはとてもできませんが、調べたこと、感じたことを思いつくままに書き連ねてみます。お付き合いください。
7月初旬に「鳳来寺〜鳳来山(ほうらいさん)東照宮」、「長篠城址」、「設楽原(したらがはら)決戦場祭り」を訪ねてきました。今回は鳳来寺と鳳来山東照宮を中心にお話しします。

鳳来山東照宮は、久能山東照宮、日光東照宮と並ぶ三東照宮の一つです。
駿府城で亡くなった家康は当初(1616年)、久能山東照宮へ埋葬されます。清水と静岡の間に位置し、近くには日本平や草薙があり、久能山は石垣イチゴでも有名です。
翌、元和3年(1617年)に下野国(しもつけのくに)日光に改葬され朝廷から東照大権現の神号を受けます。寛永11年(1634年)には、3代将軍家光が日光に参詣し、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替(ぞうたい)が始められ、今日見られる荘厳な社殿への大規模改築が行われました。

慶安元年(1648年)、家光が日光東照宮へ参拝した折に改めて『東照社縁起』を読み、その縁起に「松平広忠がりっぱな世つぎを得たいと思い、奥方とともに鳳来寺にこもり祈願して生まれた子供が家康であった」と書いてあったことに感銘し、鳳来寺の本堂修復と薬師堂の再建を発願、それにあわせて新たに東照宮の創祀(そうし)を計画します。慶安4年(1651年)、4代将軍家綱の代に落成しています。江戸時代初期の建築方法を残すものとし国の重要文化財になっています。

鳳来寺はおよそ1300年前に利修仙人によって開かれ、大宝3年(703年)に文武天皇から鳳来寺の名を賜って建立されたと伝えています。以来広い信仰圏を持って栄え、源頼朝も厚く信仰し、七道伽藍を寄贈し隆盛期を迎えたようです。
鳳来寺の参道の石段は1425段あり、社殿に行くには一山登るといった感じです。鳳来寺は、山の上の方にあります。さらにその奥に東照宮や奥の院があります。

鳳来寺は仏法僧(ブッポウソウ)と鳴く「このはずく」の生息地としても有名です。参道を歩いて行くと、モリアオガエル群棲地という標識もありました。春に、木に卵を産む、変わったカエルです。いろいろな生物が棲んでいるようです。

余談ですが、聖徳太子は十七条憲法の中で、
 一に曰く「和をもって貴し」
 二に曰く「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」
と、太子の教えを鳴き声にする鳥とは・・・世の人は、ブッポウソウと鳴く鳥を長く「ぶっぽうそう」という鳥であると信じていたようですが、実は「このはずく」がブッポウソウと鳴くのだそうです。「このはずく」と「ぶっぽうそう」の二種類の鳥が存在し、鳴き声から人々が誤解をしていたようです。

参道には多くの碑があり、松尾芭蕉や若山牧水、種田山頭火の歌碑や像などがありました。
  芭蕉    こがらしに 岩吹きとがる 杉間かな
  牧水    仏法僧仏法僧となく鳥の 声をまねつつ飲める酒かも
  山頭火   たたずめば山氣しんしんせまる

僕が種田山頭火に出会ったのは中学生の頃、若山牧水は大学生の頃です。
当時の愛読書の一つに水島新司さんの「あぶさん」という野球漫画がありまして、その中で牧水の「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」という句が紹介されます。丁度、酒を飲める年頃でしたので興味を覚え、旅と自然とともに酒をこよなく愛した漂泊の歌人牧水に心を惹かれたのでした。

山頭火は数年おきにブームがあるようで、小田原の八小堂書店で山頭火関連の書物が多く平積みにされていたのを手にしたのが最初です。その後近くの書店で「定本山頭火全集」を注文するも、中学生の小遣いでは支払いができず二巻で解約しました。
山頭火の実家は造り酒屋を営んでいたのですが破産し、酒に溺れた日々を送ることとなります。世間から脱し、自由を愛し、酒を愛し、行乞(ぎょうこつ:お坊さんが乞食をして歩くこと)の旅を続けながら俳句を作り続けた山頭火。形式にとらわれない自由な俳句やわかりやすく飾り気のないことばが、独特な雰囲気をかもしだし、しみじみと心にしみとおる句となり、親近感を覚えるのでしょう。

 さて、どちらへ行かう 風が吹く
 分け入っても 分け入っても 青い山
 ここで泊ろう つくつくぼうし
 温泉はよい、ほうんたうによい。ここは山もよし海もよし、
   出来ることなら滞在したいのだが、いや一生動きたくないのだが。
 私にはどうにもこうにも 解けきらない矛盾のかたまりがあります、
   その矛盾を抱えて微苦笑する外ありません。
 動くものは美しい。水を見よ。雲を見よ。

感じたことをありのままに詠んだ句や言葉ばかりです。
世間や家族ばかりか、自分さえも捨て、放浪の旅に生きた山頭火の人生そのものなのでしょう。山頭火の旅は、自分を見つめる旅、自分探しの終わりのない旅です。
人生の岐路、あなたにはどんな風が吹いていますか?

1425段の石段の上の本堂の前の田楽堂の欄間には、「山頭火献詠」がありました。
 トンネルいくつ おりたところが木の芽の雨
 ここからお山のさくらまんかい
 たたずめば山氣しんしんせまる
 春雨の石仏みんな濡れたまふ
 石段のぼりつくして ほつと水をいただく
 人聲もなく散りしいて白椿(薬師院)
 霧雨のお山は濡れてのぼる
 お山しづくする真実不虚(ふこ)
 山の青さ大いなる御佛おはす
 水があふれて水が音たてゝしづか
 山霧のふかくも苔の花
 ずんぶりぬれてならんで 石佛たちは
 水が龍となる頂ちかくも
 水音の千年万年ながるゝ
 石だん一だん一だんの水の音
 霽れるよりお山のてふてふ

 漂白の俳頭陀山頭火昭和十四年
 四月廿二日当山に拝登して賦吟を貽せり
 今茲五十年忌辰に値い之を録して奉納す
    昭和六十三年十月十一日  三河知多山頭火の会

山頭火は鳳来寺で16句詠んでいるのですね。
何気なく訪れた鳳来山東照宮でしたが、深山の中にひっそりとたたずむ趣のある社でした。
鳳来寺もなかなか興味深いところで、多くの歌人が訪れていることに驚かされました。
近くの湯谷温泉では鮎料理を食することもできます。また、訪ねてみたい所です。




9月1日 全校朝会

9月1日 全校朝会

足柄小に元気な子どもたちが戻ってきました。
朝会での校長の話を掲載いたします。

おはようございます。

「みなさん 長い夏のお休みは面白かったですね。
 これからは二学期で秋です。
 むかしから秋は一番からだもこころもひきしまって、
 勉強のできるときだといってあるのです。
 ですから、みなさんも今日からまたいっしょに
 しっかり勉強しましょう。」

これは、今から80年ほど前に書かれた宮沢賢治さんの
「風の又三郎」という童話の中での又三郎の先生の言葉です。
6年生は、国語で宮沢賢治さんの「やまなし」を学習しますね。

時代は大きく変わり、大変便利な世の中になりましたが、
今も昔も小学生の生活に大きな変化はありません。

今日は雨が降っています。
宮沢賢治さんの詩に「雨にも負けず」がありますので紹介します。


雨にも負けず             宮沢賢治

雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだをもち
慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず
そういうものに わたしはなりたい

冬休みまでの4ヶ月間、運動会をはじめいろいろな行事があります。
心と体を鍛え、しっかり勉強しましょう。
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