学校での子どもたちの様子をお伝えします。

鳥獣人物戯画

鳥獣人物戯画 〜 明恵「阿留辺畿夜宇和」

6年生の国語の教材に「鳥獣戯画」があります。
正式には「鳥獣人物戯画」というのですが、擬人化されたウサギやサル、カエルを誰もが一度は見たことがあるのではないでしょうか。日本で最も有名な絵巻の一つです。
この平安時代に描かれた国宝・鳥獣戯画は、墨のみで動物や人物たちを躍動的に描き、漫画のルーツともいわれています。
僕が高校生だった頃は鳥羽僧正覚猷(とばそうじょう かくゆう)の作と伝えられてましたが、それを裏付ける資料はなく、各巻の成立は年代・作者が異なるとみられることなどから、誰が何のために描いたのか、謎多き絵巻です。
手塚治虫さんはかつて「鳥獣戯画と私」という番組の中で「非常に影響を受けた」とコメントを残し、この絵巻に登場する動物を描いていました。
このたび全4巻の修復が行われ、東京国立博物館で2期に分け公開されることとなりました。

僕には、「明恵上人」に興味を持った時期がありまして、本日は「鳥獣戯画」ではなく「明恵上人」についてお話しします。

明恵は承安三年(1173年)、紀州有田に生まれ、八歳のとき両親と死別し、その後、京都の神護寺に入門して修学に励みます。のちに後鳥羽上皇から賜わった京都西北の栂尾(とがのお)の地に高山寺を創建し、また東大寺の学頭にもなった僧です。
頼朝が鎌倉に幕府を立て、武家政権が始まった時期と明恵が活躍する時期とが重なります。貴族社会から武家社会への変革期に登場した人物です。

明恵は月をこよなく愛し、月を歌った歌が多いため「月の歌人」とも言われています。自撰の歌集『遺心和歌集』があり、これを中心に弟子高信が編んだ「明恵上人集」もあります。
   「あかあかやあかあかあかやあかあかや
           あかあかあかやあかあかや月」
この歌は一風変わった歌ですが、月の明るさ、清らかさ、さらには、求道一途の彼が理想とする、人のあるべき姿を詠んだものという説が一般的です。

歌人としての明恵については、「月の歌人」のとおり月の季語である秋にお話しすることとして、哲学者としての明恵についてお話ししたいと思います。

明恵は、「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」を座右の銘にしていたといわれています。「栂尾明恵上人遺訓」には、
 『人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり。』
とあり、武士の道理として制定される御成敗式目(貞永式目:1232年)の精神的な裏付けとして、意義深いものであったようです。

河合隼雄さんは、「明恵夢を生きる」で『「あるべきようわ」は、日本人好みの「あるがままに」というのでもなく、また「あるべきように」でもない。時により事により、その時その場において「あるべきようは何か」と問いかけ、その答えを生きようとする』ものであると述べています。

白州正子さんは「明恵上人」で、高山寺内での生活(勤行)の次第について明恵の自筆で細かに定められており、学問所や持仏堂で守るべき行儀作法について記していた。例えば厠(かわや)が汚れていることにより、高山寺を訪れた人々が、この寺は居心地が悪いなどと思われては、勿体ないかぎりである。その程度のことは皆で見つけ次第、きちんとすべきである。寺にいる以上、「寺を護持する心」を保つのが、僧たるものの「あるべきよう」であり、明恵は形式主義者ではなかったが、形式が大切なことは知っていた。栄西との交流についてもふれ、そこには茶道の萌芽というべきものが見られ、事実お茶は高山寺からはじまったといっていいと述べ、道元や親鸞との相違についても語ります。

明恵は、人間同士の争いや諍い(いさかい)を嫌い、山で座禅を組み、ただただ釈尊の教えを修学しようとしていた理想家だったようです。明恵はほかの鎌倉時代の僧侶と違い、一宗を興したわけではありません。

明恵は亡き父母へを慕う気持ちが強く、子犬を見ても、父母の生まれ変わりではないかと懐かしく思っていたようです。鎌倉期の彫刻家、運慶が彫った木彫の子犬(高山寺蔵)をいつも机のそばに置き、こよなく愛したといわれています。

鎌倉仏教の多くが阿弥陀仏の力で極楽往生するといった「他力本願」であったのに対し、「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」を常に問いながら自然体で臨機に対応し、その時その場において「あるべきようは何か」と問いかけ、その答えを生きようとしたのでしょう。

京都栂尾高山寺には何度となく行ったのですが、高山寺に展示されている鳥獣戯画は全てレプリカです。本物は東京国立博物館と京都国立博物館に委託保管されています。

今回の展覧会では、鳥獣人物戯画の他、先ほどの子犬の展示もあるようです。連休中に時間を見つけ、本物と対面したいと思います。


東京国立博物館 
特別展「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」
平成館 特別展示室 2015年4月28日(火) 〜 2015年6月7日(日)

「明恵上人集」    岩波文庫      久保田 淳、山口 明穂 (編纂)
「明恵上人」   講談社文芸文庫 白州正子
「明恵夢を生きる」 講談社α文庫 河合隼雄 

春風駘蕩

「春風駘蕩」

 週の初めから体調が思わしくありません。今年になってからすでに4回も風邪をひき、体力の衰えを自覚するようになりました。
 体力の衰えというよりも、自己管理せずにいることが多いのだと思います。油断というか、咳やだるさを感じてから、ああそういえば薄着してたなと。油断していた、予見する力が衰えているというよりも、はじめから気にしていないことが多くなってきています。気をつけなければいけません。

 さて今週末は、授業参観、PTA総会、学級懇談会です。
 4月ですから、学校でも会議や配布文書が多くあります。忙しさを理由に、仕事や配布物等が「雑」なつくりにならないようにしないといけません。「雑」っていうと「雑用」とか「雑多」とか、まぁ扱いが、「これやっといて」「あれやっといて」とかいうように簡単な気持ちでするものということですね。

 ただ僕は仕事や、仕事だけでなくあらゆることにいえると思うんですが最初から「雑用」なんてないと思うんですよね。

 先週末のNHK特集「戦後70年ニッポンの肖像〜日本人と象徴天皇〜」を見ながら、昭和天皇の「雑草という名の草はありません。全ての草には名前があります」という言葉を思い出していたのでした。

 
 主体となる人が心のこもらない仕事をしたときに、そのときに「雑用」になってしまうのだと思います。関わる人の心がこもってないのが「雑用」です。だから、例えば行事をやろうというときには、皆で分担して準備していくのですが、自分の担当ではないからといって「俺には関係ないことだから」という気持ちで他の分担を手伝ったりすると、それはもう「雑用」になってしまうんですね。
 関係ないなんてことは、本来ないはずです。組織として行っているんだから。「雑」でいいということはありえないんですね。これは、子どもも僕たち大人も同じです。

 最初から「雑用」はありません。関わる人が「雑」にしてしまったときから、その仕事は「雑用」になってしまうんです。気をつけましょう。

 来週は月末です。もうすぐゴールデンウィークです。5月以降の動きのために、しっかりと自分たちの一月を検証しましょう。お題目で終わってしまったことはなかったか? 計画が遅れていることは? 目標に達しなかったことを隠そうというのは一番ダメですね。

 僕たちはだいたいいつも「どうにかなる」って楽観しています。その楽観するのは僕はいいことだと思っています。ただ「どうにかなる」と思っているのなら「どうにかする努力」をいかにするかということ。それをしないでいるってのは話にならないですね。責任を回避してはいけません。

 学校でも家庭でも4月は本当に慌ただしいです。
 慌ただしいときだからこそ、気持ちだけはゆったりしていたいものです。

 “春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)”

 素敵な言葉ですね。
 春風に吹かれながらのんびりしたり、春風のように人に優しく接したいものです。

桜に関するお話

桜に関するお話

 入学式以来、気温の低い日が続いています。
 低学年の子どもたちの中には、熱を出して休んでいる子もおります。
 みなさん、体調管理に十分留意されてください。

 さて、春といえば「桜」ですね。
 盛りは過ぎた感もありますが、このところの寒さで日持ちしているようです。
 雨に打たれながら、花びらが舞ってます。
 今日は桜についてのお話を二つ紹介します。

 能の演目に「西行桜」というのがあります。室町時代の世阿弥の作だそうです。
 京都の西行庵。春になると、美しい桜が咲き、多くの人々が花見に訪れます。しかし、この年は西行は思うところがあって、花見を禁止します。 一人で桜を愛でていると、例年通り多くの人々がやってきました。桜を愛でていた西行は、はるばるやってきた人を追い返す訳にもいかず、招き入れます。西行は、「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎(とが)にはありける」という歌を詠みます。「美しさゆえに人をひきつけるのが桜の罪なところだ」という意味でしょうか。
 
 西行が、夜すがら桜を眺めようと木陰で休んでいると、その夢に老桜の精が現れ、「桜の咎(とが)とはなんだ」と聞きます。「桜はただ咲くだけのもので、咎(とが)などあるわけがない。」と言い、「煩わしいと思うのも人の心だ」と西行を諭します。老桜の精は、桜の名所を西行に教え、舞をまう。そうこうしているうちに、西行の夢が覚め、老桜の精も消え、ただ老木の桜がひっそりと息づいているという内容です。
 
 桜の花に罪があるのではなく、それを見る人の心や振る舞い次第で騒がしくもなるものであり、また、それを煩わしく思うのも人の心だということなんですね。いつの世も、人の関わりについては同じです。


 米国ワシントンD.C.のポトマック川の川沿いには、毎年すばらしい花を咲かせ、アメリカ人をその美しさで喜ばせている桜並木があります。戦時中、アメリカ人の中には日本から贈られたこの桜の木々を敵国日本の象徴だとし、すべて切り倒せと叫んだ人も多くいたそうですが、守ってくれる人々も多くいたことは嬉しいですね。
 
 この桜をアメリカに贈ったのは、時の東京市長の尾崎行雄氏です。1912年にアメリカに贈ったのでした。尾崎行雄と言えば、「憲政の神様」と呼ばれる人物であることはよく知られてます。

 昨年10月、相模原市では、旧津久井県又野村(現相模原市緑区)出身で日本の立憲民主政治の発展に多大な貢献をした尾崎行雄(咢堂)の没後60年を記念し、「尾崎咢堂展」を市立博物館で開催してました。
 
 尾崎氏は常に内政に対しては国民を中心に、外交に関しては日本の立場と国際理解の立場をとり、1912年より憲政擁護活動を活発化させたことで有名です。1942年には時の首相、東条英機に対し翼賛選挙の中止を訴え、強く体制批判しながらも当選したことも、その時代背景を考えればすごいことです。

 尾崎氏は、「人生の本舞台は未来にあり」という言葉を残しています。
 自分が持っている知恵、知識や経験を世の中の必要としている人々に与え、死ぬその時まで懸命に伝えなさい。そして働く本舞台を未来に求めなさい・・・といったところだと思います。
 
 尾崎行雄氏は1890年の第1回総選挙で当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくり、95歳まで衆議院議員を務めて憲政の最長老として国会のシンボルとなり、1954年に逝去されます。
 
 余談ですが、国会議事堂の近くに憲政記念館が有ります。ここは加藤清正の江戸屋敷でした。その後改易され、井伊家(彦根藩)の上屋敷となります。桜田門外の変(安政7年3月3日−1860年3月24日)で暗殺される井伊直弼もこの屋敷から登城する際に襲撃されます。ホテルニューオータニも屋敷跡の一部であり、ニューオータニの庭園は元々は加藤家によってつくられ、井伊家に引き継がれ、現在に至っているようです。

 憲政記念館の玄関には先ほどの尾崎行雄氏の、
  「人生の本舞台は未来にあり」
の石碑が建ってます。

 憲政記念館には、幕末から昭和期にかけての資料(薩長同盟裏書、新政府綱領八策、田中正造足尾銅山鉱毒についての質問書、伊藤博文遭難事件関連資料、原敬首相演説草稿、斎藤隆夫関連資料)も展示されています。

 桜の盛りは過ぎましたが、ホテルの庭園で季節の花を愛でながらお茶を飲み、人の心情や歴史上の人物などに思いを巡らすのも素敵ですね。
 機会があれば是非、立ち寄ってみてください。


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