学校での子どもたちの様子をお伝えします。

芭蕉没後320年〜芭蕉忍者説

芭蕉没後320年〜芭蕉忍者説

以前、「石田三成414回忌」と書いたところ、415回忌の誤りではないかとのご指摘をいただきました。先日法要があったので方丈さんに年忌法要について尋ねてみたところ、亡くなって一年目は一周忌、満二年たつと三回忌、満六年たつと七回忌というように仏事では満年齢で数えるとのことでした。したがって415回忌ということになります。しかし、2014石田三成祭実行委員会のホームページには414回忌とあります。仏事では百回忌というのもあるようですが、一般的には三十三回忌、または五十回忌(それぞれ没後32年、没後49年)を最後の年忌とするようです。三成没後414年めということでしょうか?

芭蕉は1644年に生まれ、1694年11月28日(旧暦10月12日)に没しています。今年は生誕370年、没後320年です。

前置きが長くなりました。前回、芭蕉について書いたところ、伊賀といえば忍者なのに、忍者に関する話はないの? とのリクエストにお応えして、忍者関連のお話をします。「芭蕉忍者説」です。
その根拠について調べてみました。次のようになります。

1 出生地が伊賀で名字を持ている点
  「芭蕉=忍者」説の最初の論拠となるのが、この出生地と名字の存在です。
  この当時、伊賀を治めていたのが「変節漢」と呼ばれた戦国武将の藤堂高虎です。高虎は、織田信長の行った伊賀攻めの影響で散らばっていた伊賀忍者を多数配下にしたといわれています。この時、高虎は伊賀忍者たちを武士として取り立てたので名字を名乗れるようになった忍者が多く出たと言うのが「芭蕉=忍者」説の論拠を補強しているようです。
  芭蕉は寛永21年(1644年)に現在の三重県伊賀市で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれる。父は無足人(準武士待遇の農民)松尾氏(松尾家は、農業を業としていたが、正式に松尾の姓を有する家柄)の出。母は、伊予宇和島から伊賀名張に移住した桃地(百地)氏の出と伝えられています。芭蕉は伊賀の下級武士の出身ということになります。伊賀の上級武士は、藩主の藤堂高虎が江戸城改築の功により伊賀並びに伊勢を与えられ伊予今治藩主から津藩主になった際(1608年)に連れてきた武士の子孫ですが、下級武士は元々の伊賀者であった。このことが「芭蕉=忍者」説の根拠の一つとなっているようです。また、母の出身地は、伊賀忍者の祖とされる百地丹波(ももちたんば)や三太夫の出身地でもあります。

2 「奥の細道」に不可解な点がいくつもある点
(1)奥の細道の旅では途中の移動速度が異常に早く、忍の歩行術を使ったのではといわれる点。
  移動距離と日程から割り出される芭蕉の移動速度が人並み外れています。「奥の細道」の総移動距離は約2400キロで、総日程が約150日となっています。これらの数値から一日あたりの移動距離は15キロで、当時の単位に換算すると約4里という所です。しかし、この総日程にはまったく移動しなかった日も含まれています。つまり、150日ずっと移動していたわけではないのです。この移動しなかった分を取り戻すかのように、一日で50キロ以上も移動している日もあります。年齢的には壮年に差し掛かっていた芭蕉が、これほどの移動距離を一日で歩くのは無理があると考えられています。
(2)仙台藩の偵察が目的だったとする説
  芭蕉がこだわった仙台は、独眼竜・伊達政宗の領地です。正宗は「あと20年早く生まれていれば天下を手中におさめていた」といわれる、野望を抱いていた武将です。忍者を放てば正宗に仕えていた忍者・黒脛巾(くろはばき)に察せられる恐れがあります。その点、俳人として名が知られていた芭蕉ならば、創作活動を名目にして仙台藩に入り込み要所を見物していても不審がられません。つまり、芭蕉は幕府から「仙台藩への綿密な偵察」を条件に東北旅行を許されたとする説です。
  また、この旅に連れていった河合曾良という弟子は、後年幕府隠密として活躍しています。

3 資金の出所がよくわからないこと
  旅に何度も出られるほどの資金源と通行手形の出所などを考えると「幕府が公認した密偵として手形と資金を提供されていた」と考えるほうが自然とする説。

大きくはこのようになります。
「なるほどな」と頷ける部分もありますが・・・状況証拠がほとんどです。
興味のある方は、是非、調べてみてください。

芭蕉翁記念館や伊賀流忍者博物館は上野公園内にあり、伊賀上野の象徴ともいえる上野城は、築城の名手といわれる藤堂高虎が手がけた城です。その美しさから白鳳城とも呼ばれ、日本100名城(もちろん小田原城も入ってます)にも数えられています。石垣の高さは約30メートルあり、大阪城に次いで高いそうです。公園の看板には日本で1・2に高いとありました。(大阪城は空堀で高さが確定できるが、上野城は堀に水があり、その高さが確定できないとの理由です。)

芭蕉や忍者、お城だけでなく、近くには赤目48滝(忍者修行の里とも呼ばれてます!)などもあり、自然や食材も豊富です。
機会があれば伊賀市周辺、是非、訪ねてみてください。

又、年末年始のお休みの読み物として、
忍者小説では、
 池波正太郎:真田太平記
 司馬遼太郎:梟の城、風神の門
 柴田錬三郎:真田十勇士
漫画では
 白土 三平:忍者武芸帳、カムイ伝、サスケ
 横山 光輝:伊賀の影丸
  (横山さんは鉄人28号、コメットさん、魔法使いサリーも書いてます)
がお薦めです。

1694年11月28日(旧暦10月12日)、芭蕉は「古人も多く旅に死せるあり」の通り江戸から伊賀へ寄り、さらに大阪へ向かった。その大坂で体調を崩し亡くなります。
最後の句は、
 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
と伝えられています。

芭蕉生誕370年

芭蕉生誕370年

先週末、所用があって豊田市に行ってきました。
豊田市もかつては挙母市(ころもし)と呼ばれ、江戸時代には挙母藩が置かれて
いました。現在はトヨタ関連の企業城下町として栄え、平成の大合併で面積は
愛知県全体の20%を占め、人口も42万人と名古屋に次ぐ愛知県2位の都市
となっています。

所用を済ませた後、伊賀市に行ってきました。かつては上野市と云っていたの
ですが、ここも町村合併で伊賀市となりました。

伊賀というと僕はすぐに忍者を連想するのですが、皆さんはいかがでしょう?
僕らの世代は忍者になじみが大変深いのです。
幼少期から少年期にかけテレビでは風のフジ丸、隠密剣士、忍者部隊月光、
サスケ、仮面の忍者赤影、忍者ハットリ君・・・、伊賀の影丸、忍者武芸帳、
カムイ伝など白土三平さんの漫画もよく読みました。
忍者ものは大人になった今でも好きです。金沢や戸隠の忍者屋敷にも、近くへ
行った折にはよく寄って来ます。

伊賀や甲賀、根来はあまりにも有名ですが、小田原風祭には北条に使えた忍
者、風魔一党がいました。風魔小太郎という名を聞いたことはありますね。
風魔の頭領は代々、小太郎を名乗ったようです。
一昨年には小田原で“忍者サミット”も開催されております。
この時も伊賀と甲賀が参加しております。

風魔一党には二曲輪猪助(にのくるわいすけ)という足の速い忍者がおり、
上杉と北条が河越城で戦った際に太田犬之助という忍者に追いかけられた話も
伝わっています。また、「忍たま乱太郎」にも二郭伊助という名で出てきます。

今回は忍者ではなく「芭蕉」を中心に見学をしてきました。芭蕉は蕉風俳諧の
祖として有名ですが、「奥の細道」は中学の国語教材としても取りあげられ、
日本人にとってはなじみの深い作品となっています。先週、真鶴町で行われた
「かながわ学びづくり実践研究 確かな育ちを支える幼小中連携教育」の授業
公開でも真鶴中では「奥の細道」を題材に授業公開をしていました。
また、この夏NHKでは「日めくり奥の細道」を放送してました。
その芭蕉の生誕の地が伊賀市なのです。

今年は芭蕉生誕370年ということで、芭蕉翁記念館で芭蕉直筆の色紙や俳諧
に関する資料を見学し、芭蕉翁生家、蓑虫庵を見てきました。
 古池や かわずとびこむ 水の音
蓑虫庵には池があり、その傍らには石碑があり石の蛙もおりましたが、
この句は深川の芭蕉庵で読まれたのではないかといわれてます。
記念館では、「俳諧中興時代−芭蕉に帰れ」という企画展が行われており、
 「古池や その後とびこむ かわずなし」
という、川柳も掲げられていました。 

でも芭蕉といえば、何といっても「奥の細道」ですね。
僕らの世代は、中学の国語の時間で暗唱させられました。方丈記も平家物語も
枕草子もみな暗唱させられました。国語だけでなく英語も、みな暗唱でした。
斎藤孝さんの「声に出して読みたい日本語」が話題になったのは25年位前だと
思いますが、「じゅげむ」をはじめ、そのほとんどは小学校や中学校で暗唱させ
られ覚えてました。小・中学校の記憶はなかなか消えません。

芭蕉と同時代に活躍した人物としては、井原西鶴、近松門左衛門がおります。
西鶴は町人物を得意とし、「日本永代蔵」では、
 “ただ金銀こそが町人の氏系図”
と、商人の道はただひたすらに銭もうけにあり、勤倹貯蓄、信用、才覚や
忍耐力を美徳として繰り返し説きます。
近松は武士の出身ですが、歌舞伎や人形浄瑠璃などの脚本を書きます。
役者としては江戸で市川團十郎、上方では坂田藤十郎や芳沢あやめなどが
活躍します。
さらに人形浄瑠璃では、辰松八郎兵衛らの人形遣いと竹本義太夫らの語りとで
歌舞伎以上の共感を人々に呼び起こしたともいわれております。

彼らが活躍するのは、17世紀末から18世紀初めにかけての上方(京・大坂)
が中心です。京では葵祭が復活したり、江戸城松の廊下での刃傷事件や
その後の赤穂浪士の討ち入りがおこったのもこの頃です。
国内外の平和と安定を背景に、徳川5代将軍綱吉の時代を中心とした町人が
文化の主役、担い手であった、いわゆる元禄文化時代です。

話を芭蕉に戻します。
「奥の細道」の冒頭部から、旅に対する想いが、ひしひしと伝わってきます。
特に、
  “日々旅にして旅をすみかとす”
 “片雲の風に誘われて、漂白の想い胸にやまず・・・”
 “前途三千里のおもい胸にふさがりて・・・”
などからは、
  旅の中を旅するのが人生。旅、そのものが人生だ。
  みんな旅の途中、夢の途中なんだ。
と、いっているような気がしてなりません。

僕らの心にも「そぞろ神」を招き入れ、「旅」に出たいものです。

 “本当の旅の発見は、
  新しい風景を見ることではなく、新しい視点を持つことにある。”

電車の中刷り広告で見たマルセル・プルーストの言葉を紹介し、終わりとします。 

「ねばならない」から「やれること」と「やりたいこと」へのコラボ

「ねばならない」から「やれること」と「やりたいこと」へのコラボ

このところ書類作成等の事務仕事に追われております。
段取りを取り、細心の注意を払い、適切に処理していかないと
大変なことになりそうですというか、なってしまいます。

人には「やらなければならないこと」のほかに、
「やれること」と「やりたいこと」がありますね。
日常の生活場面において、仕事でも勉強でも「やらねばならない」という使命
感、圧迫感というものがつきまとうわけです。
日常業務以外の新たなプロジェクトや従来と違うものに取り組むといったとき
は、慣れていないうえに、そのときの実力に比べレベルが高い場合がほとんど
ですから、「やらなければならないこと」をやるのは本人にとって非常に辛いの
です。

「やりたいこと」というのは自分の嗜好で、好きか嫌いかで判断できるわけです。
「やれること」これも自分の実力内で消化できます。
しかし、「やらなければならないこと」というのは窮屈で気が進まないことが多く、
ついつい後回しになるのではないでしょうか。
中には、何事にも挑戦だ、ワクワクする。という方もいらっしゃいます。
また、いやなことは先にやってしまうという方もおられるようですが・・・
なかなかね。

そんなときは、
“やりたくないけど、しょうがない、やってみるか”
という気持ちづくりが大事ですね。

最初に「やらなければならないこと」をやるのは、まぁ仕方ないとして、
「やらなければならないこと」と「やれること」、「やりたいこと」
この三つをうまく繋ぐことができれば、窮屈さを解消とはいわないまでも、
軽減できると思ってます。

子どもの勉強なんて、その最たるものじゃないですか。
子どものうちは誰だって遊びたい。
学校の勉強が好きで好きでたまらないなどという子どもはまずいません。

でも、家でテレビやゲームばかりしていると家の人に叱られるとか、宿題を
やっていないと学校でたたされるなどの理由で(本校にはそんな先生はおりま
せん。私の過去の経験です!)、仕方なく机の前に座るというか座らされる。
そうすると、中にはそうしているうちに、勉強そのものに興味がわいてくる子も
いるし、成績が上がって家の人の喜ぶ顔を見たら、またこの顔みたいとがんば
る子も出てくる。
こうなったとき、この子たちにとっての勉強は、
単なる「やらなければならないこと」から「やれること」「やりたいこと」に変化した
といえます。さらにそれが習慣化すれば、もう云うことはありません。

でも、そのきっかけ作りは結構難しいです。

僕はテレビばかり観ている子どもでした。
勉強をするよりテレビを観ていた方が断然、面白いですからね。
頭ごなしによく言われました。
“テレビばかり観てるんじゃない!”

“お前がテレビをみたい気持ちはよくわかる。テレビ、楽しいもんなっ!
 そんな気持ちは誰にもあるし、あってもいいんだ。
 でも少し勉強して、わからないことがわかると授業がもっと楽しくなるぞ!
 いやな勉強でも、復習だけはしておこうというそんな気持ちが大事なんだ。
 そういう気持ちをつくってみないか。ちょいとがんばってみようよ”

なんていわれていたら・・・・

気持ちをつくる言葉がけを意識できるとよいかもしれませんね。

子どもたちも含め、自分自身が気持ちをつくれるようになると実際の行動にで
き、「やらなければならないこと」から「やれること」「やりたいこと」に変化して
いく可能性がでてくるのではないでしょうか。

「軍師官兵衛」〜石田三成414回忌

「軍師官兵衛」〜石田三成414回忌

大河ドラマ「軍師官兵衛」を毎週楽しみにみています。
ここ数年、大河ドラマは「天地人 直江 兼続」「お江〜姫たちの戦国〜」や「龍馬伝」など、戦国や幕末期を扱ったものが多いような気がします。
戦国や幕末の動乱は、人々を魅了する人物や事象が多いのでしょうね。

「軍師官兵衛」も佳境に入ってきました。先日は、秀次が謀反の疑いをかけられ切腹し、再度、朝鮮出兵(慶長の役、1597)が始まるあたりを扱っていました。
翌年、秀吉は死去するのですが、今後は秀吉後の家康の台頭と石田三成との対立を中心に官兵衛の動向について扱われるのだと思われます。

やがて家康と三成は関ヶ原で、いわゆる天下分け目の合戦を戦うことになります。
石田治部少輔(じぶしようゆう)三成率いる西軍約8万4千と徳川家康率いる東軍7万5千の兵が激突します。現在、その関ヶ原周辺には戦国時代の武将の陣地を示す石碑が多く残されています。

「軍師官兵衛」で三成は、どちらかというと奸物のように描かれていますが、なかなかの知将であり、ゆかりの史跡を訪れる人も多く、現代人にとっての人気は高いようです。
司馬遼太郎さんの「関ヶ原」では、京都大学解剖学教室の足立博士の調査をも
とに三成は「非常な優男(やさおとこ)」であったと書いています。
当時も今位の人気があれば勝敗の行方は変わっていたかもしれません。

なにせ8万4千の軍勢のうち、毛利や長宗我部は傍観者を決め込み最後まで戦いに参戦しませんでしたし、小早川秀秋らは土壇場で東軍に寝返ります。いわゆる反乱軍です。
そもそも秀吉子飼いの黒田長政や福島正則は始めから東軍につきます。
三成との確執もあったのかもしれません。

秀吉と三成の出会いには、「三献茶」、「三碗の才」などと呼ばれるエピソードが
あります。
夏に鷹狩りをしていた秀吉は喉が渇き、ある寺に入ったところ、寺で修行してい
た三成が三杯の茶を入れた。
最初はぬるめの茶を、二杯目は量を半分にし茶を熱くした。
三杯目は湯の量はわずかでとても熱かったそうです。
三成の配慮に秀吉は感動したのでしょう。
JR長浜駅のロータリーには茶を持った三成と秀吉の銅像があります。

小説やドラマの構成で、歴史上の人物像は大きく異なって描かれます。
「功名が辻」の山内一豊だって、三成から見れば裏切り者です。
わかっているのは史実としての関ヶ原の戦いだけです。
西軍は小早川らの裏切りで総崩れとなり、三成は捕らえられ大坂を引き回され
た後、京都六条河原で斬首され、三条河原で晒されます。 

三成の生誕地・滋賀県長浜市だけでなく琵琶湖周辺地域では、
三成は郷土の誇りとして顕彰されています。

11月6日(旧暦10月1日)は石田三成414回忌です。
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