学校での子どもたちの様子をお伝えします。

113年目の八甲田山

 年末から年始にかけ「高倉健」さんを追悼する映画が放映されていました。その何本かを見たのですが、今日はその中から「八甲田山」についてお話をします。

 原作は新田次郎氏の「八甲田山死の彷徨」です。新田次郎氏の山岳小説は、学生時代によく読んだものです。この本も学生時代に読み、映画も小田原の東宝で観ました。「天は我々を見放した」のセリフが有名になりました。

 物語は、日露戦争直前の1902年(明治35年)1月に寒冷地における戦闘の予行演習、青森−八戸間の物資輸送の可否調査として、日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季に雪中行軍の訓練中に遭難した事件を扱います。
 訓練への参加者210名中199名が死亡する山岳遭難事故としては最大のものであること、気象条件的にもこの日は全国各地で最低気温を記録していて、旭川では日本の最低気温である-41度を記録していること、同時期に訓練を実施した弘前31連隊は全員が無事帰還していることなどが印象に残り、いつかは訪ねてみたいと思ったのでした。数年前にやっと舞台となった岩木山・白神・八甲田・奥入瀬・八幡平と駆け足で回り、東北の自然を見聞してきました。

 神成大尉(小説・映画では神田大尉:北大路欣也)に率いられた青森5連隊がほぼ全滅、福島大尉(徳島大尉:高倉健)に率いられた弘前31連隊が全員生還ということで、この事件については、リーダーシップのあり方について、比較されることが多いようです。
 青森隊の悲劇は、稚拙な装備、指揮系統の混乱、極端な情報不足、寒さに対する認識不足などの諸要因が重なります。一方、弘前隊が、全員無事帰還できた理由は次のようなものとされています。
 ・雪中行軍に関する服装、行軍方法等について、3年がかりで研究・実践し、準備周到であったこと。
 ・連隊を率いた指揮官・福島大尉が、寒冷に対するさまざまな工夫(例:川を渡る際は裸足で渡川し、ぬれた足を完全に拭き取ってから靴下を履く等)を考案しており、周知徹底していた。
 ・連隊が比較的少人数で、最後まで統率を失わなかった。
 ・天候不良とみるや深さ4メートルに至る穴を掘りビバークし、途中で寝込んでしまう隊員がいると皆で踏みつけて起こすなど、冬山の怖さを熟知していた。

 今起きている問題、青森5連隊隊で起きているようなことが、本校でも起きていないだろうか?

 当時は軍隊で、命令は絶対、命令違反は死を意味します。しかし、今は民主主義の世の中。自分の頭で考えて、自分で行動することが求められる時代です。指示がないから、周りがみんなそうするから・・・と、冬の寒さで凍死することを選ぶようなことになっていないだろうか? また、青森5連隊のリーダーのように、部下(子どもたち)を知らず知らずのうちに危険に追い込んでいないだろうか?

 映画を見ながら後藤伍長の銅像を思いだし、一度冷静に見直しをしてみるタイミングなのかもしれないと、そんなことを思ったのでした。

 1月23日、青森5連隊は青森〜田代温泉間(約20キロ)の雪中行軍演習を一泊二日の予定で始めます。悲劇から113年目の八甲田は豪雪で、積雪が3メータを超えているそうです。今なお厳しい、厳寒の地です。

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