学校での子どもたちの様子をお伝えします。

プチャーチンが来た(6)

プチャーチンが来た(6)

だいぶ本題からそれましたが、今回は戸田での造船とロシア人の帰国についてお話しして「プチャーチンが来た」を終了したいと思います。

戸田には伊豆天城山系の良質の木材があり、港には波がなく静かなので、以前より船作りが行われていました。幕府は八名の造船御用掛を選び、船大工・棟梁も造船世話掛に任命します。プチャーチンはディアナ号同様の洋式帆船建造を考えていたので、日本人船大工にとっては初めての経験です。ディアナ号乗組員にも造船の経験者はいなかったようですが、本に載っていた二本マストのスクーナー船(帆船)の設計図をもとに作図したようです。

和船とスクーナー船とでは構造的に全く違ったので、日本の船大工にとってだいぶ勝手が違ったようです。さらにロシア語がわかる日本人通訳はおらず、ロシア語からオランダ語に、オランダ語から日本語に翻訳するのですから意思を疎通するにも大変だったことは想像に難しくありません。長さの単位も何もかも全てが違うのですから、相当難儀であったことと思われます。
その言葉の壁をも乗り越え、船は造られていきます。ロシア士官や船員たちは日本人船大工の器用さと優れた技術に驚かされます。竜骨に差し込まれた肋材はすこしの隙間もなく、見事な出来栄えだったそうです。
日本人船大工の創意工夫の結果、全長24.57m、最大幅7.02m、深水約3m、帆柱2本、積載量4百石の船が安政2年3月10日に進水します。着工が前年の12月10日ですから、3ヶ月での完成です。ここに日本初の本格的洋式帆船が完成したのです。

この間、アメリカ船カロライン・E・フート号が、安政2(1855)年1月27日に下田に入港します。プチャーチンは船長・ワースと直接交渉し、戸田に滞在するロシア人士卒のうち先ず160人位をカムチャッカへ送ってもらう傭船契約を結びます。
2月25日、士官等160名ほどがカムチャッカのペトロパウロフスクに向け出港します。フート号のワース船長は、船長や乗員の妻子らアメリカ人を下田に残して出港します。この件でも下田奉行らは頭を抱えたようです。

その後もアメリカ船が下田に入港するとプチャーチンは、船を借りようと部下に命じ交渉をさせますが、金銭面での折り合いがなかなかつかなかったようです。

この様な状況下で、戸田で建造していた船が完成したのでした。
安政2年(1855)年3月22日、戸田号と名付けられた建造船に乗り込んだプチャーチンら47名は、カムチャッカに向け出港し、5月7日(1855年6月20日)にニコラエフスクのあるアムール河口に着き、その後、馬で陸行し、約7ヶ月後の安政2年10月1日(1855年11月10日)、首都ペテルブルグに到着しました。
翌年、約束どおり戸田号はロシア軍艦に引かれて返還されます。

しかし、ロシア人が全てこの船に乗り込めたわけではありません。
まだ、280名近くのロシア人が戸田に残されていたのです。

この間、4月12日に下田にフート号が帰帆します。ロシア側は船長との間に再びカムチャッカに送る約束を取り付けていたようですが、クリミア戦争の影響でイギリス艦に拿捕されることへの恐れと下田で待っていた妻子たちの要請もあり、契約は履行されませんでした。

5月21日、アメリカ艦隊司令長官に雇われたドイツ商船グレタ号が下田に入港します。この船長との間でロシア側と輸送費用についての折り合いがつき、6月1日、戸田から全てのロシア人を乗せカムチャッカに向かい出港します。
しかし、グレタ号は6月19日、イギリス軍艦・バラクータ号に拿捕され、クリミア戦争終了後まで拘禁されてしまします。戦後、ロシアに戻りました。

話が前後しますが、薩摩の島津斎彬(なりあきら)は海防に関心が強く、幕府に大型船建造の禁を解くように建言し、嘉永6年に禁が解かれます。薩摩は大型船の伊呂波丸、昇平丸を、幕府は鳳凰丸を建造しましたが、形が洋式船に似ているだけで船体強度や性能は低かったようです。

戸田号が名実ともに日本製西洋型帆船の第一号だったのです。
幕府は戸田号と同型の船6隻を作るよう命じています。建造にあたっては戸田号の詳細な記録があり、技術も習得したので設計・建造も容易だったことでしょう。幕府に2隻、会津、薩摩に2隻ずつ貸し与えられ、洋式の練習船として使われます。

戸田が君沢郡の一部だったため、戸田で建造された船型は「君沢型」と命名され、日本の洋式船の基となり日本各地に伝わっていったそうです。
戸田村の船大工たちは貴重な存在として処遇され、長崎の海軍傳習所、石川島造船所、横須賀製鉄所(のちの海軍工廠)などの主要造船所の基礎を築いていきます。

戸田には「沼津市戸田造船郷土資料博物館」があります。
戸田港の入り江の先端にある小さな博物館ですが、戸田号建造についての資料や、1970年の大阪万博でソ連館に展示されていたディアナ号の模型とステンドグラスが寄贈され展示されています。
この資料館の建設にあたり、当時のソ連政府から費用の一部が寄付されています。
また、明治20(1887)年、プチャーチンの娘オリガ・プチャーチナが戸田を訪れています。オリガは関係者に記念品を贈り、造船所跡地や宿舎となっていた宝泉寺などを見学します。後にオリガの遺言により100ルーブルが戸田村へ寄贈されています。
戸田の人々のプチャーチンをはじめロシア人に対する善意に感謝したのでしょう。
プチャーチンを介し、時代をこえたロシアとの繋がりにも興味深いものがあります。

この資料館には、ラブカやオロシザメ、タカアシガニなどの駿河湾の深海生物の標本を展示した深海生物館も併設されています。
戸田の港から見る富士山も素敵です。修善寺・達磨山経由、沼津・西浦経由でアクセスできます。西伊豆方面へお出かけの際は、是非、足を伸ばしてみてください。

これを持ちまして、「プチャーチンが来た」を終了させていただきます。




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