学校での子どもたちの様子をお伝えします。

大河ドラマ「花燃ゆ」 〜松蔭と象山 1

大河ドラマ「花燃ゆ」 〜松蔭と象山 1

 「軍師官兵衛」も毎回楽しみにしていたのですが、「花燃ゆ」も興味深く見ています。吉田松陰の妹で後に久坂玄瑞の妻となる杉家の四女文(ふみ)が主人公です。
 松蔭は杉家の次男ですが、叔父の吉田家に養子に入ります。また、同じく叔父で玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けます。11歳の時、藩主毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事で、その才能が認められます。第4回の放送で、松蔭はアメリカ船(1854年ペリーが日米和親条約を締結するために浦賀に来航)に同郷で足軽の金子重之輔と乗船し渡航を懇願しますが拒否され、幕府から国もとでの蟄居を命ぜられます。藩では国禁を犯した松蔭の処遇を巡って、毛利慶親が「松蔭は国の宝だ」というシーンがあります。このセリフからも松蔭のその英才ぶりを庇護していたことがうかがえます。

 最初にペリーが来航した際(1853年)、松蔭は佐久間象山と黒船を見て外国留学を決意します。このシーンは「八重の桜」でも扱っていました。その後、長崎でプーチャーチンのロシア艦に前出の金子共々乗船しようとしますが、出港が早まったため未遂に終わります。そして、アメリカ船への乗船となるわけです。この密航計画に連座したとして佐久間象山も投獄されます。 

 前置きが長くなりましたが、今日は佐久間象山についてのお話です。

 あまり知られていませんが、象山は物理学者でもあります。ガラス製造を試みたり、電線をつくってみたり、電信での交信も行っています。また、地震予知器なるものも安政5年(1858年)に作っています。安政5年といえば、安政の大獄が始まった年です。

 安政の大獄とは、江戸幕府が行なった弾圧です。江戸幕府の大老井伊直弼らは勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また次の将軍を徳川家茂に決定します。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件で、弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上になります。吉田松陰や橋本左内、頼三樹三郎らが斬罪。一橋慶喜(徳川最後の将軍)も隠居謹慎を受けてます。その後、井伊直弼は桜田門外の変で水戸の浪士に暗殺され、攘夷運動は激化の一途を辿るなか公武合体策として、孝明天皇の妹である和宮と14代将軍家茂(いえもち)の婚姻が成立します。

 和宮に関する悲話は様々あります。箱根塔之沢は和宮終焉の地であり、徳川将軍家の菩提寺芝・増上寺の修行寺であった塔之沢の阿弥陀寺住職が和宮の増上寺における本葬に先立って通夜・密葬を執り行ったこともあり、阿弥陀寺は和宮香華院とも呼ばれ、「皇女和宮葵の御堂」には三つ葉葵の御紋が刻まれた額が掲げられています。篤姫との確執も有名ですが、これはまたの機会にします。

 四半世紀以上も前のことですが白山中学校には学校林が有り、その見学を兼ねて阿弥陀寺の脇を通り明神・明星へ遠足に行き、帰りは久野林道で学校まで帰りました。結構距離がありました。下見と遠足、PTA運営委員会で学校林の枝打ちと、一週間の間に3回も登ったことを思い出しました。
 まだ寒いですが、少し暖かくなったら阿弥陀寺周辺を散策してみるのも良いですね。箱根旧街道八里には13の甘酒茶屋と13の坂が有り、坂には「猿滑り坂(さるすべりさか)」「追込坂(おいこみさか)」「於玉坂(おたまさか)」等の名前がついてます。箱根の坂を歩いてみるのも楽しそうです。

 桜田門外の変ののち水戸藩の処遇をめぐり、会津藩松平容保が意見したことから会津の悲劇はスタートします。京都所司代守護職、戊辰戦争、白虎隊、日新館・・・・四半世紀以上前、白虎隊を扱った正月ドラマがありまして、アリスの堀内孝雄が主題歌「愛しき日々」を唄ってました(古い話で恐縮です。知ってる方は同世代! だんだん昔語りになってきてます(笑))

どこが佐久間象山の話だかわからなくなってますが、本日はここまでとします。

※ 前回の二・二六事件に関連して、小田原に別邸のあった閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)に関する資料の展示が、27日(金)から3月18日(水)まで小田原文学館で開催されます。事件当時、親王は陸軍参謀総長でした。当日は小田原に滞在されていたようです。興味のある方は是非、訪れてみてください。

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