学校での子どもたちの様子をお伝えします。

初冬の雨 時雨

時雨

今年の11月は、例年に比べ雨が多いような気がします。
初冬は雨の多い季節です。気象庁によると、この時期の雨の周期は約5日で、一雨ごとに気温が1度下がっていくのだそうです。この時期の雨を時雨といいます。
時雨とは、晩秋から初冬にかけて降っては止み、止んでは降るという通り雨のことです。

時雨は、初冬の季語にも使われます。

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   松尾芭蕉
 蓑虫のぶらと世にふる時雨かな   与謝蕪村
 うしろすがたのしぐれてゆくか  種田山頭火

木枯らし吹く季節では、小雨といえども体感温度は下がり、コートが欲しくなります。
猿だけでなく、芭蕉も蓑が欲しかったのでしょう。

民謡にも時雨は登場します。
♪さんさ時雨か、萱野の雨か、音もせで来て濡れかかる
 しょうがいな ハァ めでたい めでたい♪
宮城県の民謡「さんさ時雨」です。一説には伊達政宗との所縁もあると伝えられます。

余談ですが、「さんさ」とはササの擬音語で俗謡のはやしの声、と広辞苑にはあります。さらに、さんさ節については、江戸中期ごろ諸国に流行。歌詞の中に「さんさ」という囃子詞(はやしことば)がつく。さんさ時雨も同一系統にある。と記されてます。
盛岡さんさ踊りでは、悪魔払いに笹の葉をもって踊ったことから、笹がさんさになったなどの説もあります。
こきりこ節にも「マドのサンサはデデレコデン ハレのサンサもデデレコデン」と、さんさが登場します。何か意味がありそうな気がしませんか?
さんさは単なる囃子詞なのでしょうか? 

話を時雨に戻しますね。
時雨については、1000年も前の平安期にも詠まれてます。
 神無月ふりみ降らずみ定めなき 時雨ぞ冬のはじめなりける
                      (和漢朗詠集)

和漢朗詠集は藤原公任(ふじわらのきんとう)撰の歌集で、寛仁2(1018)年頃編纂されたといわれています。

 夕日かげ群れたる鶴はさしながら 時雨の雲ぞ山めぐりする
                       (藤原定家)

定家は後鳥羽上皇の命で藤原家隆らと「新古今和歌集」の撰をおこなった鎌倉時代の人物です。この時期、定家と前後して西行や鴨長明が活躍します。同じ鎌倉期でも吉田兼好は100年ほど後に登場します。

京都嵐山の天竜寺から嵯峨野方面を散策すると、常寂光寺を過ぎ落柿舎と滝口寺の間に厭離庵(えんりあん)という寺があります。ここに藤原定家の小倉山荘(時雨亭)があったとされ、そこで小倉百人一首が選ばれたのだそうです。(時雨亭は、二尊院や常寂光寺にもあったとされ、本来の場所は定かではありません。小倉山の何処かにあったのでしょう。)

光琳カルタというのがありまして、江戸時代の画家尾形光琳の作で、現在残っている小倉百人一首の中でもっとも豪華で華麗な「歌かるた」といわれています。読み札には歌の作者を描き、取り札には歌意を表す花鳥風月が描かれてます。
複製品でも結構なお値段です。カルタ取りに使うには勇気がいります。観賞用でしょうか。

今年は、本阿弥光悦が京都鷹峯に「光悦村」を拓いて400年目の年にあたります。光悦や俵屋宗達の技法を取り入れ、絵画や蒔絵に新風を吹き込んだのが京都の呉服屋(雁金屋:かりがねや)出身の尾形光琳です。大和絵の伝統的な装飾と王朝文学趣味を持ったこの流派は琳派と呼ばれました。

箱根の岡田美術館では「箱根で琳派 大公開」と銘打って、二期に分けて本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、鈴木其一(きいつ)らの作品が展示されています。

嵐山には「時雨殿」という、百人一首の博物館もあります。
嵯峨野の竹林や大河内山荘からの保津川、嵐山の紅葉も見事です。

冬間際の紅葉の季節、京都や箱根を機会があれば訪ねてみてください。
なお、これからの季節に京都等の寺社に行かれる際は、「靴下」を一枚余分に持って行かれることをお薦めいたします。
廊下や畳は大変冷たいです(笑)。



家康没後400年の年に際して その7 督姫 2

督姫 その2 「毒饅頭事件」の真相

立冬を過ぎ、山茶花(さざんか)の咲く頃となりました。
家康関係のお話も、だいぶ長くなりました。
少々、飽きてきました・・・というか、ねたがきれてきました!?
戦国期の政略結婚について、家康に絡めて真田家のお話もと思っていたのですが、「真田丸」が始まったら追々お話しします。
今回は、「督姫毒饅頭事件」の真相です。これで、家康関連はおしまいとします。

督姫を妻にした池田輝政(てるまさ)は、慶長6(1601)年に姫路城(兵庫県姫路市)を大改築し、9年後に完成し今の姿になりました。白鷺城とも呼ばれるこの城は、平成5年に世界文化遺産に登録されました。

当時の姫路城は、豊臣秀頼(ひでより)のいる大坂城(大阪市)を攻略する拠点の1つであり、秀吉の小姓として仕えた秀頼を慕う、安芸国(広島県西部)の福島正則(まさのり)や肥後国(熊本県)の加藤清正らが攻め上ってきた場合の山陽道の防御を担う徳川幕府の要の城でもありました。

督姫は輝政との間に、忠継(ただつぐ)、忠雄(ただお)、輝澄(てるずみ)、政綱(まさつな)、輝興(てるおき)と5人の男子に恵まれています。

前回お話ししましたが、輝政には4人の男子がいます。督姫の一子、忠継が誕生したとき、輝政の長男利隆は16歳、次男政虎は10歳。そこで、忠継を次男とし政虎を三男とします。その後督姫は4人の子を生んだので、政虎は七男になった。本来四男の利政は九男として扱われます。
なぜ、このような不可解な兄弟関係が作られたのでしょうか・・・?
当時の大名家では、正室の子を側室の子よりも優先するのがならいであったようです。
ですから、年齢的には上でも側室の子である政虎は七男とされたのでした。

池田家は次男・忠継の備前国岡山藩28万石、三男・忠雄の淡路国洲本藩6万石、弟・長吉の因幡国鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)の所領となり、輝政は「西国将軍」「播磨宰相」「姫路宰相」ともいわれています。

慶長18(1613)年1月、輝政が痛風で50歳で亡くなると、督姫は良正(りょうせい)院と号します。

督姫の望みは、自分が産んだ息子が亡き夫の跡を継ぐことでしたが、督姫の息子たちは、まだ幼く、姫路52万石の家督は、先妻の絲(いと)の息子、利隆(としたか)が継ぐことになります。

そこで登場するのが「督姫毒まんじゅう事件」です。
簡単に言うと、「督姫が実子忠継を世継ぎにしようと、毒入り饅頭で嫡子利隆の毒殺を企てる。ところが、その饅頭を忠継が食べて死んでしまう。悲観した督姫も毒をあおって後追い自殺をした。」という内容です。

督姫は何としてでも自分の息子に跡を継がせるため、饅頭(まんじゅう)に毒を仕込んで、利隆を毒殺しようとした。が、それに対し、忠継は母の陰謀を恥じて、利隆に代わって、毒入り饅頭を食べて死んだという噂が流れます。

実際に二人は慶長20(1615)年に相次いで亡くなっています。督姫は天然痘が原因で2月4日に、忠継は19日後の2月23日に亡くなります。
昭和39(1964)年に忠継の墓所移転にともない骨を鑑定しています。が、毒物反応は検知されていません。翌年6月には利隆が亡くなっています。
利隆を督姫が毒饅頭で殺したという説もあるようですが、利隆の死は元和2年(1616)で、督姫はその1年前に亡くなってますから、この説は成立しません。
池田氏の主要人物3人が立て続けに亡くなったことで生まれた噂が、「督姫毒まんじゅう事件」の真相のようです。

その後、池田氏は相次ぐ不幸で家中が不安定になり、幕府から国替えを命じられ、因幡国(鳥取県東部)に転封となります。

代わって親藩の本多忠政(ただまさ)が、元和3(1617)年に姫路城に入城します。父は本多忠勝。真田信之の妻・小松殿と、亀姫の長男奥平家昌の妻・もり姫は忠政の実の姉です。

幕府は、忠政の息子、忠刻(ただとき)に、第2代将軍秀忠・お江(ごう)の娘、千姫を嫁がせています。(千姫は秀吉の次男・豊臣秀頼の正室でしたが、慶長20(1615)年の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により大坂城から救出され、翌年、忠刻に嫁ぎます。秀頼の母は、お江の姉ちゃちゃです。)
お江は浅井長政(あざいながまさ)の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。浅井三姉妹の長姉は豊臣秀吉の側室・淀殿(茶々)、次姉は京極高次の正室・常高院(初)。秀吉の意向で、お江は信長の次男の織田信雄(のぶかつ)の家臣で従兄の佐治一成に嫁ぎます。次に秀吉の甥の豊臣秀勝に嫁ぎますが、朝鮮への出兵(文禄の役)で秀勝が亡くなります。3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠です。

岡山藩主、池田光政(利隆の嫡男、督姫の孫)には池田家永代墓地として「和意谷墓所」がありますが督姫の墓碑はありません。また、光政は岡山城内に祖廟を設けていますが、ここでは、父利隆の実母絲姫(離縁)を祀り、督姫は祀っていません。
督姫の墓所は京都知恩院にあるようです。

以上が督姫にまつわるお話しです。

20数年前、改修前の姫路城(白鷺城)は行ったことがあるのですが・・・改修された城も見てみたいですね。
城内にはお菊の井戸というのがあります。この井戸は播州皿屋敷の井戸として有名です。

余談ですが、各地に皿屋敷に関する話しが残っているようです。江戸を舞台とした番町皿屋敷も有名ですね。内容的には播州皿屋敷も番町皿屋敷も似ています。
番町皿屋敷の概略は次の通りです。

火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため:何処かで聴いたことがありますね。そうです、鬼平犯科帳の長谷川平蔵と同じ役職です。)・青山播磨守主膳の屋敷があり、菊という下女が奉公していた。承応二年(1653年)正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまう。怒った主膳は皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁します。菊は縄付きのまま部屋を抜け出し、裏の古井戸に身を投げます。まもなく夜ごとに井戸の底から「一まい、二まい・・・」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさを青山一家は味わうことになります。

菊は平塚宿宿役人眞壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳の屋敷で行儀見習いをしていたようです。そのお墓は平塚の晴雲寺近くの眞壁家墓所にあります。元々は平塚駅の近くにあり、現在、紅谷町公園には菊塚と刻まれた石碑が建っています。

幕府は凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることにし、「盗賊改」を寛文5(1665)年に設置し、その後「火付改」を天和3(1683)年に設けています。
しかし、「番町皿屋敷」の時代にはまだ火付盗賊改は役職として存在していません。
青山主膳も架空の人物です。
では、「貞室菊香信女」の戒名をもつお菊は・・・・

夏でもないのに、余談が怪談になってしまいました。



家康没後400年の年に際して その6 督姫

家康と北条氏 〜 督姫

前回まで亀姫についてお話ししてきましたが、戦国時代の姫君というのは、自らの意思とは関係なく、同盟や駆け引きのための道具として政略結婚に使われることが日常的に行われていました。
家康は亀姫の外にも督姫(とくひめ)を北条氏直に嫁がせておりますし、家康の譜代家臣である本多忠勝の娘(小松殿)を家康の養女にして、真田信幸(関ケ原以降は信之と改名)に嫁がせています。

今回は徳川家康の娘で、北条氏直に嫁いだ督姫(とくひめ)についてお話しです。
北条五代祭りでも、督姫が登場しますね。
天正10年(1582年)に織田信長が本能寺で明智光秀によって倒されると、甲斐国や信濃国を巡って徳川家康と北条氏直との間に領土争い(天正壬午の乱)が始まります。一進一退の攻防が続く中、旧織田領の甲斐と信濃を徳川氏が、上野国を北条氏が治めることを互いに認めて和睦します。家康は自分の娘、督姫(とくひめ)を天正11(1583)年、19歳で北条氏直(22歳)へ嫁がせ、北条氏と同盟を結んだのでした。

この同盟の背景には、真田氏が絡んできます。
家康としては、自分が羽柴秀吉とならんで中央進出を果たすためには、どうしても背後の北条父子と争うわけにはいきません。しかし、北条父子に関東から上信二州へ、大きく進出されることは、家康にとって「おもしろくない」ことです。
そこで家康は、「真田安房守昌幸(真田源二郎信繁(幸村)の父)を傘下におさめ、北条の進出を押さえよう」と考えます。
安房守昌幸が、上田と沼田を確保しているからには、この上、北条軍の侵入を決して許さないであろうと、上州沼田を中心にした真田−北条両家の、過去の争乱や確執を、家康は充分にわきまえていたのでした。

後日、家康は冒頭にも述べたとおり、真田安房守昌幸の長男、源三郎信幸をひどく気に入り、家康の譜代家臣である本多忠勝の娘(小松殿)を家康の養女にして、信幸に嫁がせています。このことについてはいずれお話しします。

話を督姫に戻しますね。
永禄8(1565)年、徳川家康と側室の西郡局(にしごおりのつぼね)との間に生まれたのが督(とく)姫です。

余談ですが、西郡局の祖母は、今川義元(よしもと)の妹といわれてます。
承知の通り、家康(幼名:竹千代)は今川義元の人質として駿府で幼年期を過ごします。
家康の父である岡崎城主の松平忠広は、今川との同盟の際、6歳の家康を人質として差し出します。ところが、家臣の裏切りにより今川と対立していた織田に引き渡され、2年後、織田から今川に引き渡されます。
今川家では厚遇だったようですが、家康自身は人質として苦労したと語り、苦労人というイメージが植え付けられています。

北条氏直との結婚生活は長くは続きません。関東の覇者である北条氏は、伊達も上杉も秀吉の傘下にあるなか、家康の説得を聞き入れず、天正18(1590)年、小田原城に籠城し、豊臣秀吉と戦うことを選択します。

籠城戦もむなしく北条氏は降伏。氏直の父、氏政(うじまさ)と弟、氏照(うじてる)は切腹。氏直は、家康の娘婿だったため、家康の助命嘆願で秀吉から助命されて高野山に送られました。
氏直はしばらくすると、秀吉から許され、河内国(大阪府)に1万石を与えられます。しかし、督姫の威光で北条氏を再興することに悩み続け、翌、天正19(1591)年、30歳で病没します。

文禄3年(1594年)、北条氏を滅ぼした秀吉の計らい(仲人)で池田輝政(てるまさ)に嫁ぎます。輝政には既に4人の男児がいましたが、督姫は忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興、振姫など5男2女をもうけました。

話が前後しますが、家康と秀吉は天正12(1584)年、小牧(こまき)・長久手(ながくて)の合戦で激突します。この時、秀吉に従軍し、合戦を主導した池田輝政の父、恒興(つねおき)は、家康軍に敗れ戦死してます。池田氏にとって家康は、憎い敵でした。秀吉はこの両者の間を取り持とうとしたのでした。
池田氏には複雑な思いがあったのでしょうが、お家安泰を考えれば、家康は豊臣政権で最大の実力者であり、悪い話ではありません。家康が慶長5(1600)年の関ケ原の合戦で勝利すると、輝政は、播磨国(兵庫県)姫路52万石を与えられ、大大名へと成長します。

今回はここまでです。
次回は、督姫「毒饅頭事件」をお話ししようと思います。




家康没後400年に際して その5  亀姫 3

亀姫 その3
 「宇都宮城釣天井事件」

「ロッキード事件」って何ですか・・・?
そうか、「ロッキード事件」知らないんだ。
1976年、僕が大学に入学する年に発覚した汚職事件ですからね。
田中角栄首相の秘書であった榎本敏夫秘書官の妻美恵子さんの証言「蜂の一刺し」に至ってはいわずものがな、「とどめの一撃」「逆転満塁ホームラン」に言い換えましょうか(笑)

元和8年(1622年)、将軍・秀忠が家康の七回忌に日光東照宮に参拝した後、宇都宮城に泊まる予定でした。
本多正純は城主としての腕の見せどころとばかりに、しっかりと城兵を管理し、将軍家の味方として屈強なと見せたかったのでしょう。城を修復し、鉄砲を準備しと、将軍家を迎えいる準備を入念に行い始めます。

城の改修や武器等の増強は武家諸法度(元和令:1615年、秀忠が発布)に従い、幕府に届け出て許可を得るべき内容なのですが、正純としては、本多家の忠義を秀忠に見せたいという思いと、本多家は父の代からの側近中の側近という、おごりともいえる甘い考えが相まって、幕府に無許可のまま準備を進めます。

常日頃からチャンスをうかがい、本多家の情勢を内偵していた亀姫は、早速、行動を開始します。

参拝を終えた秀忠に、姉の亀姫から「宇都宮城の普請に不備がある」と密訴があります。
簡単に言うと、「宇都宮は、城を修復し、仕掛けを講じて、無届けで鉄砲などをそろえ、何やらたくらんでいる様子。危ないから行かないほうがいい」ということです。

内容の真偽を確かめるのは後日とし、秀忠は「御台所(みだいどころ:将軍の正室)が病気である」との知らせが来たとして、予定を変更して宇都宮城を通過して江戸城へ帰還します。

この一件について、後日、真実かどうか正純への詰問が行われます。
もともと、よかれと思っての様々な準備ですから、正純は否定する事なく、城の修復や鉄砲の買い入れを認め「将軍家の御ため」と弁明しますが、それこそ「ルールはルール」です。城の公共物を持ち逃げしたのとは、ワケが違います。

取りようによっては、謀反とも取れる無届の改修工事と武器調達。
必死の弁明は一蹴され、正純は所領は召し上げられます。が、先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽由利郡に5万5000石を与えられます。
謀反に身に覚えがない正純がその5万5000石を固辞したところ、逆に秀忠は怒り、本多家は改易となり、正純の身柄は久保田藩主に預けられ、出羽横手への流罪となります。

これが、有名な『宇都宮城釣天井事件』です。
釣天井とは、つり上げておき、下に落として室内にいる人を押し殺すように仕掛けた天井のことです。後の検分では釣天井は存在しなかったようです。

もちろん、これには、幕府内の権力争いも絡んではいたんでしょうが、もしかすると亀姫は、そんな権力争いも計算に入れていたのかも知れません。

やがて、成長した忠昌は5千石の加増を受けて、実際には釣天井など存在しなかった宇都宮城に、見事、返り咲きます。

釣天井は、将軍の頭の上ではなく、本多正純の上に仕掛けられていたわけです。
まさに、亀姫こそが釣天井だったのですね。
幼くして藩主となった孫たちの後見役を見事果たした亀姫ですが、寛永2年(1625年)、加納において66歳で死去します。
亀姫についてのお話はこれでおしまいです。

余談ですが秀忠は、大名・公家・寺社に領知(地)の確認文書(領知宛行状:りょうちあてがいじょう)を発給し、自ら全国の土地所有者としての地位を明示します。
大名とは1万石以上の領地を与えられ、将軍との主従関係を結んだ武士をいいますが、軍事力を備えているだけにその統制には苦心します。元和5年(1619年)、広島城主福島正則(49万8千石)を武家諸法度の城郭補修の項に違反したとして津軽へ、そののち信州川中島(4万5千石)へ転封しています。もともと福島正則は豊臣秀吉の側近でしたが石田三成との仲が悪く、関ケ原では徳川に従い武功をあげ、安芸広島と備後鞆(びんごとも)49万8,000石(広島藩)を得た外様大名です。将軍よりも年功の西国有力外様大名をも処分できる圧倒的な力を示したのでした。

その後、奥平家は出羽山形9万石、丹後宮津9万石、そして最後は豊前中津10万石の領主となります。
豊前中津は当初、黒田如水(官兵衛)の所領でした。歴代の藩主としては黒田⇒細川⇒小笠原⇒奥平と続きます。
中津藩出身者には『解体新書』を著した前野良沢や下級藩士出身の福澤諭吉がいます。

豊前中津(大分県中津市)も訪ねてみたいところです。耶馬溪(やばけい)や中津城、黒田官兵衛ゆかりの平田城、長岩城、一ツ戸城も素敵なところなのでしょうね。




鉄道の日

鉄道の日

今年のノーベル賞では医学生理学賞に大村智さん、物理学賞に梶田隆章さんのお二人が受賞されました。ノーベル賞ウイーク初日から2日続けての朗報です。本日までの日本人受賞者は24名となりました。
湯川秀樹さんから小柴昌俊さんあたりまではよく覚えているのですが、その後は曖昧になってしまっています。物理学と化学賞の受賞が圧倒的に多いですね。

僕が小学生だった1960年代には、朝永振一郎さんと川端康成さんが受賞し、大きな話題となりました。特に文学賞を受賞した川端さんの「雪国」の冒頭は、当時の小学生は本を読んだことがなくても誰もが知ってました。
 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」

ノーベル賞とは関係ありませんが、当時の小学生の間で知名度が大きかった作品に芥川龍之介の「トロッコ」があります。地元が作品の舞台となっていることもあり、親近感を覚えたのでした。また、新聞記者をしていた隣町の力石平蔵さんが原作者だということもよく知られていました。
 「小田原・熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。」

鉄道に興味を持っていた僕にとって、いずれもの作品にも鉄道が関連していることで記憶に残っていたのかもしれません。

来週、10月14日は「鉄道の日」(鉄道記念日)です。

 ♪汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり
   愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として♪

「鉄道唱歌」、最近はあまり耳にしなくなりました。全6集・374番もある長い歌です。東海道編は66番まであるそうです。その12番には小田原が歌われています。

 ♪国府津おるれば馬車ありて 酒匂小田原とほからず
   箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より♪
    (後に「馬車ありて」を「電車あり」に訂正)

国府津駅前から小田原町(小田原市)までは「小田原馬車鉄道」(1900年に路面電車化し、1920年廃止)という馬車鉄道が開通していました。鉄道唱歌が発表されたのは1900年ですから、この馬車は小田原馬車鉄道を指すのでしょう。

小田原〜熱海間には、「豆相人車鉄道」がありました。明治28(1895)年7月に熱海〜吉浜間で営業を開始し、翌29年3月に熱海〜小田原間が開通しています。明治41(1907)年8月に社名を熱海鉄道と改めて、蒸気機関車牽引の軽便鉄道へ切り替えました。
熱海駅には、当時の蒸気機関車が保存展示されています。

1922年に新東海道本線の小田原駅〜真鶴駅間が「熱海線」の名で開業すると、その並行区間を廃止して残存区間で営業を継続しますが、大正12(1923)年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、豆相人車鉄道(熱海鉄道)は復旧はされずそのまま廃線となりました。

1924年に熱海線は予定通り熱海駅までの開業を果たし、1934年には丹那トンネルが開通して熱海線は東海道本線へ改められることになります。(丹那トンネルの開通については、昨年度の「JR御殿場線開業80周年」をご覧ください。)

日本初の鉄道が新橋(後の汐留貨物駅、現・廃止)〜横浜(現・根岸線桜木町駅)間に開業したのは、明治5年9月12日(新暦1872年10月14日)のことです。
これを記念し、1922年から10月14日を鉄道記念日として鉄道省により制定されました。
1994年に運輸省(現・国土交通省)が「鉄道記念日から「鉄道の日」と改称を提案し、JRだけでなく全ての鉄道事業者が祝う記念日となったのでした。

「鉄道の日」に関連して、鉄道各社では様々なイベントを開催するようです。
 鉄道フェスティバル  :東京日比谷公園
 ファミリー鉄道展(小田急電鉄):海老名電車基地(海老名検車区)
興味のある方は是非、参加されてみてください。

僕は連休を利用し、昔読んだ本を読み返してみようと思ってます。

家康没後400年に際して その4  亀姫 2

亀姫 その2 「本多家との確執」

いよいよ本日で9月も終わりです。
運動会の練習とともに前期の終了にむけ、慌ただしい日々を送っております。

早速ですが、亀姫の晩年についてお話ししてみます。

奥平信昌は慶長7年(1602年)加納で隠居し、三男・忠政に藩主の座を譲ります。慶長19年(1614年)には、忠政と下野国(しもつけこく)宇都宮10万石の長男・家昌に先立たれますが高齢を案じられてか、息子たちに代わる大坂の陣への参陣を免除されています。翌、元和元年(1615年)、信昌も世を去ります。

今回は宇都宮藩と亀姫の関わりを中心にお話ししたいと思います。下野国宇都宮10万石は亀姫の長男・家昌が藩主でしたが、その家昌が38歳で亡くなり、その息子(亀姫にとっては孫)の奥平忠昌が、わずか7歳で家督を継ぐ事になります。
当時の宇都宮は、徳川にとっては東北の玄関口となる重要な場所です。2代将軍となった異母弟の徳川秀忠から「やはり幼い領主では・・・」との提言があり、結局、元和5年(1619年)江戸に近いが宇都宮より格下の下総古河への転封(てんぽう、移封:国替え)となります。

このことは亀姫も理解していました。宇都宮は要所ですし、領地替えに際しては1万石の加増もされ、引越し準備にあたっていました。が、そんな亀姫のもとに、宇都宮城の後任は亡き家康に寵愛された本多正純で、しかも3万3000石から15万5000石に加増されての宇都宮入りとの情報が入ってきます。
正純は父・本多正信と共に知恵袋、参謀として家康の側近として初期幕政を牛耳った謀臣です。しかし武功は皆無に等しく、そのために戦場働きの武功派の功臣に妬まれていました。正純にとっては栄転といって良いでしょう。
その本多正純と亀姫との間に確執があったようです。秀忠の姉である亀姫は、長篠で大手柄を立てた奥平家より文治派の正純を大幅に加増して宇都宮に置いたことと、忠昌が12歳になってからの転封に大いに不満で、秀忠に抗議までしています。

亀姫と本多家との確執は、慶長19年(1614年)亀姫の四女の嫁ぎ先であった大久保忠常の父・忠燐(ただちか)が、不可解な改易を申し渡され失脚したことに始まります。この件には、大久保家のライバルであり、幕政に強い影響力を持つ本多正信・正純親子が関与していたのでした。亀姫が娘の嫁ぎ先を失脚させた本多家が転封に際し、大幅に加増されて宇都宮城に入城することを腹立たしく思ったのも道理です。亀姫は城の植木や畳、建具のいっさいがっさいを持ちだしての引越しを決行します。

転封の場合、一般的には私物以外は全てそのまま後任に引き継ぐのが定めですから、将軍の姉とはいえ、結構、無茶なことを行ったわけです。
結局、国境で見つかり、全て返すように要求され、もとに戻します。
将軍の姉が、家臣に注意される格好になったワケですから・・・
面目は丸つぶれです。
 “この怨み、晴らさずにはおくものか”
と、思ったかどうかは推測に過ぎませんが・・・
亀姫は、相当頭にきたのでしょう。その後、亀姫は本多家の内偵を命じます。

余談ですが「石高制」について少しお話しします。
豊臣秀吉が実施したいわゆる太閤検地の検地帳は石高で記載され、全国の生産力が米の量で換算された「石高制」が確立します。それまでは貫高制(かんだかせい)等が用いられてました。秀吉は曲尺(かねじゃく)1尺(約30.3センチ)の検地尺を基準に全国統一基準で6尺3寸(約191センチ)四方を1歩(ぶ)、30歩を1畝(せ)、300歩(10畝)を1段(たん)、10段を1町(ちょう)とする新しい単位を採用します。今でも1反(段)=300坪(歩)といった使われ方がされますね。
また、穀物の量を量る枡(ます)も京枡に統一し、これに基づく石(こく)、斗(と)、升(しょう)、合(ごう)を基本単位としました。この単位の歴史は古く、何と大宝律令(文武天皇の時代701年に制定、刑部親王(おさかべ)、藤原不比等(ふひと)らにより編纂)にも記されています。

江戸幕府も300歩=1段の基準を採用しますが、6尺(182センチ)四方を1歩としたため、土地の面積表示は太閤検地の時よりも大きくなりました。また、京枡も太閤検地の時よりも大きな容量のものが使われていたようです。

太閤検地では、村ごとに田畑、屋敷地の面積、等級を調査し石高を定めました。個々の田畑に等級がつけられその生産力を米で表したのです。年貢率は石高の3分の2を領主に納入する2公1民が一般的でした。各村ごとの石高を集計した村高に応じて、村が一括して納入するといった村請制度(むらうけせいど)がとられ、連帯性で年貢の取り立ては厳しいものがあったようです。年貢率は時代と共に5公5民、4公6民など変化します。
年貢米は城下町に集められ家臣に給付したり、城下町商人に売却したほかは大阪の蔵屋敷に廻米(かいまい)され、米市場(こめいちば)で換金して藩財政にあてました。

加賀100万石の前田家を例にあげると、年貢米として40万石ほどが税収としてあったと云うことです。

当時と今とではシステム上の違いがありすぎますので現在の金額に単純に換算することはできませんが、不都合を承知で換算してみます。

1 米の重さに換算すると1合の米は約150グラムですから、1石は約150キロということになります。仮に米10キロ=3000円とすると、1石は45000円です。
2 江戸時代は1両で1石の米が買えたといわれています。米ではなく当時の大工などの労働賃金水準などを目安に考えると金1両は、20万円から30万円の価値だそうです。

映画にもなった磯田道史さんの著書「武士の家計簿」に、石高と現代価値の対応表があります。この本の時代背景は天保14年(1843年)の加賀藩です。
 米価換算だと    1石= 50,000円
 労働価値換算だと  1石=270,000円
ということでこれをもとに計算すると、米価換算と労働換算とではとんでもない差が出てきます。
  5万円×100万石×0.4= 2000億円
  27万円×100万石×0.4=1兆800億円 (4公6民で算出)
ちなみに、平成27年度の石川県の歳入概算は5438億6400万円です。

さらに秀吉は、一揆を防止し農民を農業に専念させるため「刀狩令」を出し、建設中であった京都方広寺の大仏の釘として再利用するという名目で武器を没収します。
また、人掃令(ひとばらいれい)を出して、武家奉公人が町人や百姓になること、百姓が商売や職人仕事に従事することを禁止します。
今年は国勢調査の年でしたが、当時も職業別にそれぞれの戸数、人数を調査、確定する全国的戸口調査が行われ、諸身分が確定することになり兵農分離、農商分離が完成します。

やがて、江戸幕府はキリスト教禁止令を発布し、寺請(てらうけ)制度を確立させ、民衆がどのような宗教宗派を信仰しているかを定期的に調査するようになります。これを宗門改(しゅうもんあらため)と呼び、これによって作成された宗門改帳(宗門人別帳)が、今でいう戸籍原簿や租税台帳として使われたのでした。

余談のほうが長くなってしまいました。
このへんで本日は終了とします。

次回は亀姫の “蜂の一刺し” についてお話しいたします。
・・・ロッキード事件を連想された方は同世代です(笑)!




家康没後400年に際して その3  亀姫 1

本日もあいにくの雨ですが、色とりどりのコスモスが見頃を迎え、秋の訪れを伝えています。
秋分も過ぎ、朝夕も肌寒さを感じるようになってきましたが、コスモスを見るにつけ、季節は夏から秋へと着実に移ろいでいるなと感じます。

前回は、長篠城主「奥平家」にまつわるお話を真田家と絡めてお話ししました。
「奥平家」の寝返りを別の視点から見ると、また違ったものが見えてきます。
今回は徳川家から嫁いだ「亀姫」に視座を置いて、少し詳しく奥平家を見てみましょう。

徳川家康の正室の長女「亀姫」は奥平信昌へ嫁いでます。
戦国の姫君というのは、自らの意思とは関係なく、同盟や駆け引きのための道具として政略結婚の果てに、非業の死を遂げたり、寂しい晩年を送る事が多いのですが・・・

この姫が生まれた永禄三年(1560年)3月18日は、桶狭間の戦いの2ヶ月前です。彼女もまた歴史の渦中に飲み込まれていく事になります。亀姫の母は、桶狭間に散った今川義元の姪・瀬名姫(後の築山殿)です。

義元の死によって人質生活から開放された父・家康(松平元康)でしたが、今川衰退の後、一旦は同盟を結んでいた武田信玄が、駿河国の今川領(静岡県東部)に侵攻します。その後、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に起こった武田信玄軍2万7,000〜4万3,000人と徳川家康、織田信長からの連合軍1万1,000〜2万8,000人との間で行われた三方ヶ原の戦いでは、武田軍200人の死傷者に対し徳川軍は2,000人。さらに有力な武将を失うという手痛い敗北を味わいます。

成長した亀姫に、三河北部に位置する長篠城主・奥平貞能の嫡男・貞昌との縁談の話が舞い込んできます。武田氏の勢力を牽制するため有力な武士団・奥平氏を味方に引き入れることを考えた家康は織田信長に相談すると、信長は「家康の長女・亀姫を貞能の長男・貞昌に与えるべし」との意見を伝えたのでした。

長篠は武田家の傘下にありましたが、家康としては是非とも手に入れておきたい要所です。当時の家康は、三河(愛知県東部)の田舎大名でしたが、奥平は、さらにその下の国人、土豪ような身分です。政略結婚といえども完全に格下の家に長女を嫁に出すとは、いかに家康が長篠を手に入れたかったかがわかります。
逆に、奥平からすると願ってもない良縁です。この縁談を承諾することは、武田から徳川に寝返るという事になります。奥平家は武田方に祖父を中心とする一族がとどまります。徳川方とに一族が分かれても「家」を護ることを選択します。

元亀4年6月22日、貞能は家康に貞能・貞昌親子の徳川帰参の意向を伝え、再び徳川氏の家臣となります。貞能・貞昌親子の寝返りを受け、天正元年(1573年)9月21日に武田勝頼は奥平氏が差し出していた人質を処刑します。

亡き武田信玄の後を継いだ武田勝頼は、天正3年(1575年)5月に1万5,000の大軍を率いて長篠城へ押し寄せます。
天下の武田を相手に奥平だけでは到底防ぎようもなく、貞能は家康に救援を要請します。織田信長も駆けつけ、織田鉄砲隊の「三段撃ち」なる戦術が展開された「長篠の戦い」が勃発するのです。

この戦は、長篠城の包囲を巡る攻防戦と設楽原(したらがはら)の戦いの二つ分けることができます。設楽原の戦が「鉄砲VS騎馬隊」の戦いで、その後の兵法・戦術に大きな変化をもたらす鉄砲の集団的使用による日本初の戦いです。

家康と信長が到着するまでの間、若干21歳の貞昌は、勝頼の攻撃に耐え、見事、長篠城を守り抜きます。磔に散った鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の話もありますが省略します。
長篠の合戦は、織田・徳川連合軍の勝利に終りますが、これには、武田方からの再三の開城要求に応じなかった貞昌の力に負うところも多く、信長は大いに喜び、貞昌に自分の一字を取って信昌という名前を与えます。小田原征伐にも従軍し、慶長6年 (1601年)には美濃加納10万石の大名へと大出世を遂げます。

信昌の妻となった亀姫は、その後、加納御前と呼ばれます。しかし、4年後の天正7年(1579年)に悲劇がおこります。
謀反の疑いをかけられた兄・信康と、母・築山殿が、父である家康の手によって死に追いやられたのです。戦国の世とはいえ、家康および亀姫の心情はいかばかりであったでしょうか。

司馬遼太郎氏は、「武士の人間関係は主従という繋がりと、父子、夫婦という関係があって成立している。後の世の朋友、友達といった関係はきわめて濃度が薄く、現実にその関係があっても、近代のように“友情”といった倫理概念にまでは発達していない。」と著書「関ケ原」の中でいってます。時代背景と共に人々の心のあり方も違うのでしょうか。

 
長くなりましたので、今回はここまでといたします。
次回は、亀姫の晩年についてお話ししようと思います。




家康没後400年に際して その2 戦国期の知恵

戦国期の知恵 真田家と奥平家

このところ雨の日が多く続きます。
暑さが去ったあとの長雨が降り続くこの時期を、「秋黴雨(あきついり)」「秋湿り」「秋霖(しゅうりん)」と古くは云ったそうです。
なかなか趣のある言葉です。
しかし、現実に目をやると大雨により各地で災害が起こったり、運動会の練習ができなかったりで、困っております。

さて今回は、関ヶ原の戦いで活躍した真田家と、長篠の戦いで活躍した奥平家に焦点を当ててお話をしてみます。

“来年の「真田丸」も原作・脚本は三谷幸喜さんです。三谷流の幸村が登場するのでしょうね。もう50年ほど前のことですが、TBSでナショナル劇場「戦国太平記 真田幸村」というのをやっておりまして、眠い目をこすりながら見ていた記憶があります。中村錦之助(萬屋錦之介)さんが主演でした。猿飛佐助、霧隠才蔵ら真田十勇士の名を覚えたのもこの番組の影響でした。幸村の実名は信繁ですが、幸村の方が認知されてますね。”
と昨年度のこの欄、「佐久間象山」のところで書いたのですが、いよいよ9月1日から「真田丸」の撮影が開始されたそうです。

「六文銭」、「真田の赤備え」、「真田十勇士」と、真田家にまつわる話題は大変豊富です。とりわけ石田三成らが挙兵した関ヶ原の戦いで、父・真田昌幸と幸村(信繁)共に西軍に加勢し、兄・真田信之の妻が本多忠勝の娘であったことから家康率いる東軍についた兄と袂を分かち、父子、兄弟が争ったことが有名です。

戦国の世は、親、兄弟、骨肉といえども心を許さず、袂を分かつことはしばしばあったようです。考えようによっては真田家も賢い選択をしたのかもしれません。敵味方に分かれ争いが始まったとしても、いずれか一方の「真田家」は後世に残ることができるのですから・・・「家」を重んじるという点からは、日本的な賢者の選択かもしれません。

関ケ原の際の真田家より25年ほど前の「長篠の戦い」でも同じような例が見られます。
長篠城主「奥平家」にまつわるお話をしてみたいと思います。

「奥平家」は三河北部の有力な国人でした。奥平家は今川家に属していましたが、桶狭間の戦い以降、今川家の衰退を見て徳川家に従います。奥平信昌(のぶまさ:初名は貞昌さだまさ)は、徳川家の合戦に従軍して姉川の戦いなどで奮闘しています。しかし徳川家康と武田信玄の抗争が始まり、武田家が優勢になって三河にも侵攻を始めると、奥平家は武田家に寝返り、信昌も父・定能(さだよし)に従い武田軍に参加して徳川軍と戦います。

1573年に武田信玄が死去し、徳川家康が反撃を始めると、奥平定能・信昌父子は徳川家へ寝返り、賛同した一門と家臣を連れて武田領から逃亡し、徳川領へ移ります。一方、祖父の貞勝をはじめ奥平一門の半数が武田家に従い続けることを選び、甲斐へ移住します。
奥平父子の寝返りを受け、武田家は奥平昌勝(信昌の弟)や分家の娘を含む人質を処刑します。

一族の間で武田と徳川に別れて戦うことは戦国期に強国の間に挟まれた小豪族の宿命というか、「家」を護るための知恵だったのでしょう。

余談ですが、武田の騎馬隊は最強といわれていました。が、当時の「馬」はサラブレッドではありません。映画やテレビで戦国ものや時代劇を扱うときに馬が登場しますが、これらはみな明治期以降に日本に入ってきたアラブ系や西洋系の馬です。
日本の在来馬は「駒」とも呼ばれ、その平均体高は130センチ程度、平均体重は250kgで、サラブレッドの160センチ、500kg程度と比較するとかなり小さいです。が、当時の日本人の身長も成人で150センチほどであったそうです。簡単に言うと、ポニーに乗った騎馬軍団です。想像できますか?
刀と弓、槍の時代の足軽(人)VS騎馬隊の時代の戦いから、鉄砲隊VS騎馬隊の時代になると・・・いくら“飛び道具を使うとは卑怯なり”といったところで雌雄は決するわけで、時代の変化について行けないものは滅びる運命だったのでしょう。

次回は、奥平家について少し詳しくお話しします。






「カシオペア」廃止の報に接して

「カシオペア」廃止の報に接して

8月に「北斗星」が最終運転となり、これでブルトレが全国から姿を消したとお話ししたばかりなのに、今度はカシオペア廃止の報道が14日にありました。
北海道新幹線の開業に伴い青函トンネルなど在来線との共用走行区間で電圧や運行システムが新幹線用に変更され、現在使用している機関車が走れなくなるのだそうです。廃止時期の詳細は報道されていませんが、早ければ10月のダイヤ改正で、遅くとも来年3月にはその勇姿を消すことになるのでしょう。
1988年3月の青函トンネル開業以来、本州と北海道を結んできた寝台特急は全て姿を消すこととなります。

カシオペアツイン・・・、何度か利用させていただきました。カシオペアスイートには乗らずじまいです。人気がありなかなか予約できませんでした。

青函トンネルができる前は、北海道方面へ向かう寝台列車の終着駅は青森でした。トンネル開通後も青森止まりの寝台車は東北本線経由の「はくつる」、常磐線経由の「ゆうづる」、羽越本線経由の「鳥海」、「あけぼの」(平成9年までは奥羽本線経由)が活躍していました。
僕が鉄道に興味を覚えた小学生の頃は、「ゆうづる」は常磐線が電化されておらずC62蒸気機関車が牽引してました。

北斗星、エルム、カシオペアが青函トンネルを通過して札幌まで行った寝台列車です。エルムは臨時列車で食堂車や個室寝台は連結されていませんでした。

寝台車での楽しみの一つに食堂車での食事がありました。北斗星やカシオペアではフレンチのコース料理も提供されました。この予約も大変だったことを覚えてます。
学生時代に乗った20系の「ふじ」や「みずほ」には、ナシ20形食堂車が連結されてました。引退後は大阪の交通科学博物館に展示されていましたが、その博物館も昨年4月に閉館しました。ここは鉄道だけでなく、飛行機や車の展示もありました。
閉館といえば、京都の梅小路蒸気機関車館も8月末をもって閉館しています。ここも何度か足を運んだ懐かしの場所です。魅惑の蒸気機関車が動態、静態保存されていました。来年春に京都鉄道博物館として生まれ変わり、展示も再開されます。前出のナシ20形食堂車も展示されるようです。

かつて日本各地で活躍していた機関車や寝台列車も、時代の流れと共に博物館でしか目にすることしかできません。保存されずに消え去ったものもたくさんあります。
鉄道に限らず、様々なものを自分の記憶の中にしっかり留めておきたいと思います。



風流韻事(ふうりゅういんじ)

昨日は井細田八幡神社の例大祭でした。縁起には四〇〇年以上前から地区の鎮守としてまつられているとありました。地区の子どもたちも山車や神輿を担ぎ、年に一度の祭りに興じていました。かつては秋の収穫をみなで喜び合ったのでしょう。

祭礼に際し“実家”へ里帰りされた方も多かったようで、白山中時代の懐かしい子ども(失礼、立派に成長したお父さん、お母さん)にも数名お会いし、二十数年ぶりにお話しすることができました。11日の白山学区パトロールの際も久野小のPTAの方に、“隣のクラスでした・・・”と声をかけられました。話をしているうちに昔日の面影がよみがえり、様々な出来事を懐かしく思い出すとともに時間の流れの早さに驚かされたのでした。

さて、今日14日の日の出は5時23分、日没は17時54分です。確実に日照時間が短くなってきています。秋が確実に近づいてきています。秋分の日も近いですね。

秋といえば月見。旧暦8月15日は中秋(仲秋)ですが、新暦に直すと今年は9月27日になります。
十五夜は「芋名月」とも呼ばれます。昨年は9月8日でした。この時もスーパームーンが話題になりましたが、今年もスーパームーンが見られます。

十五夜の翌日、9月28日に月と地球との最短距離が356876キロになります。昨年は3回スーパームーンが出現したのですが、2014年一番近かった8月の356896キロよりも20キロ地球に近づきます。最接近するタイミングは11時51分ごろだそうです。日中ですから残念ながらこの時間では見えません。が、夕方から夜半にかけていつもより大きな月、スーパームーンを見ることができます。来年は11月14日です。

余談ですが、古事記や日本書紀(記紀)には、星に関するものはほとんどありませんが、太陽と月については伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の左の目から天照大神、右の目から月読命(つきよみのみこと)が生まれたと、「古事記」に記されています。昔人も太陽や月に畏敬の念を持っていたのでしょう。

月を題材にした句はたくさんあります。少し紹介してみますね。

めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲かくれにし夜半の月かな
                      紫式部  新古今集

天の海に雲の波たち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ      万葉集  

あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月
                             明恵

夜る窃(ひそか)に虫は月下の栗を穿(うが)つ
名月や池をめぐりて夜もすがら               松尾芭蕉

旅人よ笠島語れ雨の月                 与謝蕪村

「天の海に雲の波たち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ」
三日月でしょうか、月を船に見立てているのですね。なんてロマンチックなんでしょう。万葉人の感性に驚かされます。
旧暦八月十五日の名月に雨が降っているとき、「雨月・雨夜の月・雨名月」といいます。月を目で「見る」のではなく、蕪村は心で「観た」のでしょうか。

風流韻事(ふうりゅういんじ)。月見で一句なんていかがですか。
僕は月見で一杯です!(笑)



家康没後400年に際して その1 鳳来寺〜鳳来山東照宮

家康没後400年に際して その1 鳳来寺〜鳳来山東照宮

6年生は歴史の授業で織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を学習しています。各人の施策等を調べ人物像を浮き彫りにしていました。
今年は家康没後400年ということで、家康関連のお話をしてみようと思います。相変わらず脈絡滅裂ですので、家康像を描きだすことはとてもできませんが、調べたこと、感じたことを思いつくままに書き連ねてみます。お付き合いください。
7月初旬に「鳳来寺〜鳳来山(ほうらいさん)東照宮」、「長篠城址」、「設楽原(したらがはら)決戦場祭り」を訪ねてきました。今回は鳳来寺と鳳来山東照宮を中心にお話しします。

鳳来山東照宮は、久能山東照宮、日光東照宮と並ぶ三東照宮の一つです。
駿府城で亡くなった家康は当初(1616年)、久能山東照宮へ埋葬されます。清水と静岡の間に位置し、近くには日本平や草薙があり、久能山は石垣イチゴでも有名です。
翌、元和3年(1617年)に下野国(しもつけのくに)日光に改葬され朝廷から東照大権現の神号を受けます。寛永11年(1634年)には、3代将軍家光が日光に参詣し、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替(ぞうたい)が始められ、今日見られる荘厳な社殿への大規模改築が行われました。

慶安元年(1648年)、家光が日光東照宮へ参拝した折に改めて『東照社縁起』を読み、その縁起に「松平広忠がりっぱな世つぎを得たいと思い、奥方とともに鳳来寺にこもり祈願して生まれた子供が家康であった」と書いてあったことに感銘し、鳳来寺の本堂修復と薬師堂の再建を発願、それにあわせて新たに東照宮の創祀(そうし)を計画します。慶安4年(1651年)、4代将軍家綱の代に落成しています。江戸時代初期の建築方法を残すものとし国の重要文化財になっています。

鳳来寺はおよそ1300年前に利修仙人によって開かれ、大宝3年(703年)に文武天皇から鳳来寺の名を賜って建立されたと伝えています。以来広い信仰圏を持って栄え、源頼朝も厚く信仰し、七道伽藍を寄贈し隆盛期を迎えたようです。
鳳来寺の参道の石段は1425段あり、社殿に行くには一山登るといった感じです。鳳来寺は、山の上の方にあります。さらにその奥に東照宮や奥の院があります。

鳳来寺は仏法僧(ブッポウソウ)と鳴く「このはずく」の生息地としても有名です。参道を歩いて行くと、モリアオガエル群棲地という標識もありました。春に、木に卵を産む、変わったカエルです。いろいろな生物が棲んでいるようです。

余談ですが、聖徳太子は十七条憲法の中で、
 一に曰く「和をもって貴し」
 二に曰く「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」
と、太子の教えを鳴き声にする鳥とは・・・世の人は、ブッポウソウと鳴く鳥を長く「ぶっぽうそう」という鳥であると信じていたようですが、実は「このはずく」がブッポウソウと鳴くのだそうです。「このはずく」と「ぶっぽうそう」の二種類の鳥が存在し、鳴き声から人々が誤解をしていたようです。

参道には多くの碑があり、松尾芭蕉や若山牧水、種田山頭火の歌碑や像などがありました。
  芭蕉    こがらしに 岩吹きとがる 杉間かな
  牧水    仏法僧仏法僧となく鳥の 声をまねつつ飲める酒かも
  山頭火   たたずめば山氣しんしんせまる

僕が種田山頭火に出会ったのは中学生の頃、若山牧水は大学生の頃です。
当時の愛読書の一つに水島新司さんの「あぶさん」という野球漫画がありまして、その中で牧水の「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」という句が紹介されます。丁度、酒を飲める年頃でしたので興味を覚え、旅と自然とともに酒をこよなく愛した漂泊の歌人牧水に心を惹かれたのでした。

山頭火は数年おきにブームがあるようで、小田原の八小堂書店で山頭火関連の書物が多く平積みにされていたのを手にしたのが最初です。その後近くの書店で「定本山頭火全集」を注文するも、中学生の小遣いでは支払いができず二巻で解約しました。
山頭火の実家は造り酒屋を営んでいたのですが破産し、酒に溺れた日々を送ることとなります。世間から脱し、自由を愛し、酒を愛し、行乞(ぎょうこつ:お坊さんが乞食をして歩くこと)の旅を続けながら俳句を作り続けた山頭火。形式にとらわれない自由な俳句やわかりやすく飾り気のないことばが、独特な雰囲気をかもしだし、しみじみと心にしみとおる句となり、親近感を覚えるのでしょう。

 さて、どちらへ行かう 風が吹く
 分け入っても 分け入っても 青い山
 ここで泊ろう つくつくぼうし
 温泉はよい、ほうんたうによい。ここは山もよし海もよし、
   出来ることなら滞在したいのだが、いや一生動きたくないのだが。
 私にはどうにもこうにも 解けきらない矛盾のかたまりがあります、
   その矛盾を抱えて微苦笑する外ありません。
 動くものは美しい。水を見よ。雲を見よ。

感じたことをありのままに詠んだ句や言葉ばかりです。
世間や家族ばかりか、自分さえも捨て、放浪の旅に生きた山頭火の人生そのものなのでしょう。山頭火の旅は、自分を見つめる旅、自分探しの終わりのない旅です。
人生の岐路、あなたにはどんな風が吹いていますか?

1425段の石段の上の本堂の前の田楽堂の欄間には、「山頭火献詠」がありました。
 トンネルいくつ おりたところが木の芽の雨
 ここからお山のさくらまんかい
 たたずめば山氣しんしんせまる
 春雨の石仏みんな濡れたまふ
 石段のぼりつくして ほつと水をいただく
 人聲もなく散りしいて白椿(薬師院)
 霧雨のお山は濡れてのぼる
 お山しづくする真実不虚(ふこ)
 山の青さ大いなる御佛おはす
 水があふれて水が音たてゝしづか
 山霧のふかくも苔の花
 ずんぶりぬれてならんで 石佛たちは
 水が龍となる頂ちかくも
 水音の千年万年ながるゝ
 石だん一だん一だんの水の音
 霽れるよりお山のてふてふ

 漂白の俳頭陀山頭火昭和十四年
 四月廿二日当山に拝登して賦吟を貽せり
 今茲五十年忌辰に値い之を録して奉納す
    昭和六十三年十月十一日  三河知多山頭火の会

山頭火は鳳来寺で16句詠んでいるのですね。
何気なく訪れた鳳来山東照宮でしたが、深山の中にひっそりとたたずむ趣のある社でした。
鳳来寺もなかなか興味深いところで、多くの歌人が訪れていることに驚かされました。
近くの湯谷温泉では鮎料理を食することもできます。また、訪ねてみたい所です。




9月1日 全校朝会

9月1日 全校朝会

足柄小に元気な子どもたちが戻ってきました。
朝会での校長の話を掲載いたします。

おはようございます。

「みなさん 長い夏のお休みは面白かったですね。
 これからは二学期で秋です。
 むかしから秋は一番からだもこころもひきしまって、
 勉強のできるときだといってあるのです。
 ですから、みなさんも今日からまたいっしょに
 しっかり勉強しましょう。」

これは、今から80年ほど前に書かれた宮沢賢治さんの
「風の又三郎」という童話の中での又三郎の先生の言葉です。
6年生は、国語で宮沢賢治さんの「やまなし」を学習しますね。

時代は大きく変わり、大変便利な世の中になりましたが、
今も昔も小学生の生活に大きな変化はありません。

今日は雨が降っています。
宮沢賢治さんの詩に「雨にも負けず」がありますので紹介します。


雨にも負けず             宮沢賢治

雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだをもち
慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず
そういうものに わたしはなりたい

冬休みまでの4ヶ月間、運動会をはじめいろいろな行事があります。
心と体を鍛え、しっかり勉強しましょう。

夏の日の思い出2015

夏の日の思い出2015

今年の夏も様々な出来事がありました。
いくつになっても夏の終わりが近づくと寂しさを感じてしまいます。
今年も忘れられない夏の思い出がいくつかありました。

例年、夏の夜はペルセウス座流星群を眺めています。頻繁に流星が見られるので今年もペルセウス座流星群を楽しみにしていました。今年はちょうど8月のお盆の時期でしたが雲が多く、残念ながら流星を確認することはできませんでした。
少し先の話ですが、「ふたご座流星群」が今年は12月15日未明(3時頃)にピークとなり、一晩で500個ほど見られるそうです。寒い時期ですが再度チャレンジしたいと思います。

この夏、個人的に気になった話題を掲げてみます。

7月23日
日本人宇宙飛行士の“油井亀美也”さんがソユーズ宇宙船でISS(国際宇宙ステーション)へ行きました。これで日本人の宇宙飛行士は10人目となりました。

8月3日  
集英社が発行する月刊少女漫画雑誌『りぼん』が、創刊から60周年を迎えました。

8月6日
広島に原爆が投下されてから70年が経ち、この日「平和記念式典」が開催され、約5万5,000人が参列しました。海外からも過去最高の100か国の代表が集まりました。

8月9日
長崎に原爆が投下されてから70年が経過。長崎市の平和公園で「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が行われました。

8月12日
30年前の昭和60年、東京発大阪行きの日航123便ボーイング747SR-46 が群馬県の御巣鷹山に墜落。乗員乗客524名の内、死者520名を出しました。国内の飛行機事故では最多の死者数を出した大事故でした。
747−400型までのジャンボジェット機は、旅客機としては昨年3月末に日本の空から消えました。後続機としての747−8型機は主に貨物用として利用されているようです。

8月14日
安倍首相は戦後70年の首相談話を閣議決定しました。

8月15日
戦後70年、節目の年でした。
余談ですが、マッカーサーが厚木に飛来したのは8月30日。
東京湾のミズリー号船上で、降伏の調印を行ったのは9月2日です。
この時の全権は外相の重光葵。
重光は「願わくは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んでます。不名誉の終着点でなく、再生の出発点と捉えたのでしょう。
また、国連加盟に先立ちソ連との国交回復にも尽力し1956年10月19日日ソ共同宣言が行われ、ソ連から国連加盟に反対しないとの内諾を得ます。同年12月18日の国連総会で全会一致で日本の国連加盟が承認されます。重光は全権として国連加盟受諾演説を行い、「霧は晴れ 国連の塔は輝きて 高くかかげし 日の丸の旗」と詠んでます。
重光は翌1957年1月26日に、心筋梗塞で69歳で湯河原町で逝去しています。湯河原の別荘には降伏調印式の心境を詠んだ句が額装されているそうです。

8月19日
H-IIBロケット5号機で打ち上げた「こうのとり」5号機は、8月24日(月)19:29に油井亀美也宇宙飛行士が操作する国際宇宙ステーション(ISS)のロボットアームにより把持されました。また翌25日(月)2時28分にはISSとの結合を完了しました。

8月20日
「高校野球100年」を記念する大会。決勝で東海大相模と仙台育英の試合が行われ、結果は10−6で東海大相模が45年ぶり2回目の優勝! 
現巨人軍監督の原辰徳氏や村中、津末氏らが活躍し、選抜準優勝を果たしたのは1975年のことでした。

8月21日
臨時列車として運行されていた寝台特急「北斗星」が21日の上野発札幌行、22日の札幌発上野行のEF510-515号機が牽引する列車をもってラストランを迎えました。これによりブルトレは全国から姿を消しました。最後のブルトレ・・・言葉がありません。


みなさんは、どのような夏を過ごしたのでしょうか?

土用の丑の日

土用の丑の日

前回、「梅雨寒」を話題にした直後の週末から急に、夏本番を思わせるような日差しと気温の上昇に伴い身体が順応せず、梅雨明け前に夏バテを経験しております。皆様の体調はいかがですか?

夏バテには滋養のあるものをということで・・・「鰻」。
時節柄、土用の丑の日にちなんだお話をしようと思います。

土用の丑の日というと「鰻」といわれるくらい、鰻は日本人の食生活になじみが深いですね。その鰻ですが、生態は詳しくわかっていないようです。フィリピン周辺で産卵し、稚魚(シラスウナギ)が日本の河川に戻ってくるのだそうです。鹿児島や浜松では養鰻業も盛んですが、乱獲のせいかここ数年「シラスウナギ」の捕獲量がめっきり減り、価格の高騰につながっているようです。1キロ(5000匹位)で20〜30万円だったものが10倍の200〜300万円もするそうです。日本鰻は絶滅危惧種にも指定される可能性もあり、ワシントン条約で規制をかけることも検討されてるとか。
シラスウナギ、平塚の馬入川河口でも捕れているようですが・・・稚魚で1匹600円ですから・・・

鰻重が3千円から4千円もするわけですから、清水の舞台から飛び降りたつもりでないと、おいそれとは口にすることはできません。それでも今年は食べられるからよしとしましょうか。いつの日か、お金を出しても食べられなくなるかもしれません。

ここ連日暑い日が続いておりますが、夏の土用の時期は酷暑のための体調を崩しやすく、先人の知恵として食養生(しょくようじょう)の習慣があったことからきているようです(他に、土用餅、土用しじみなど)。

現在の様に「鰻」が有名になったのは、丑の日にちなんで「う」のつくものを食べると良いということで、鰻屋に商売の宣伝を依頼されたエレキテルで有名な平賀源内(享保13年:1728年−安永8年12月18日:1780年1月24日、江戸時代中頃に活躍した本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。いわば和製レオナルド・ダ・ビンチ)が、看板に書いたことがきっかけとなり定着したとする説があります。(平賀源内についてはいずれまたの機会にお話ししたいと思います。)

その土用の丑の日が、今年の夏は何と2回(7月24日と8月5日)あります。
今回は「鰻」ではなく「土用の丑の日」について、その由来について調べてみましたのでお話ししてみます。「暦」との関連があります。

土用というのは、立春、立夏、立秋、立冬の前18日間をさし、正しくは「土旺(王)用事」といわれたのだそうです。土用の期間は土をいじる様な作業を忌む習慣があり、農家にとっては重要な厄日であったようです。
土用の由来は、天地万物全てを5つの素の組み合わせて説明しようとした五行説にあり、春夏秋冬の四季では、五行説にとっては都合が悪いため、5番目の素を四季それぞれの区切りの部分に割り振ったのだそうです。

五行では、春に木気、夏に火気、秋に金気、冬に水気を割り当て、残った土気は季節の変わり目に割り当てられ、これを「土旺用事」、「土用」と呼びます。
土用の間は、土の気が盛んになるとして、土をうごかしたり穴掘り等の土をいじる作業や殺生がうとまれました。僕の祖母もよく土用だから土いじりをするなといってました。

丑の日の「丑」というのは、「僕は戌年生まれです」というように現在でも使われている干支(えと)の十二支です。
由来は古代中国で考え出されたもので、惑星のうちで、もっとも尊い星と考えられていた木星が、約12年で天球を一周することから、その位置を示すために天球を12の区画に分けてそれぞれに名前を付けたものが十二支の名の由来といわれています。
元々は、木星の運行からでた十二支でしたが、12という数が1年の月の数にあたることから、月を表すことにも用いられるようにもなり、日付や比較的長い期間の年数等を表すために使われるようになったのだそうです。
子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)・・・亥(い)は、順に11月、12月、1月、2月、3月・・・10月を示します。
また、夜の0時を「正子(しょうし)」、昼の12時を「正午(しょうご)」等というように、1日の時刻にも十二支は用いられ、子の刻の初刻(しょこく)は23時で正刻(しょうこく、せいこく)は0時(正子)というように呼んでいました。

さらに十干(じっかん)というのがありまして、「丙午(ひのえうま)の年」というような言い方をします。「午」は十二支ですが、その前の「丙」は十干です。
十干の生まれは古く、古代中国の「殷(いん)」の時代(紀元前17世紀頃−紀元前1046年、ざっと三千数百年前)までさかのぼるといわれています。この時代は、10日を1旬と呼び、この10日ごとに繰り返される日にそれぞれ名前を付けたのが始まりだといわれています。
ちなみに、現代でも「7月上旬」のように上中下旬と月を10日(およそ)に分けてよぶのは、この名残だそうです。
十干は、やがて全てを「木火土金水」の5つの根元的成分から生み出されるとした五行説と結びつき5つを更に「兄(え)・弟(と)」に分けたものと対応させるようになりました。そのため「丙」1文字で「火の兄(ひのえ)」と読むようになったそうです。

十二支と十干とを組み合わせることによって、60の組み合わせが出来ます。これを六十干支(ろくっじっかんし)と呼び、古くからこれを年や日に割り振ることによって、その年や日付を示してきました。60年毎に同じ組み合わせが出現します。そうです、60歳を「還暦」と言うのはここに由来しています。

これらは干支暦をもとに、年と月と日の干支を出して、人の運命を占う算命学・四柱推命といった占星術にも関連していきます。

長々と書きましたが、この夏、土用の丑の日が2回(7月24日と8月5日)あるのは、先人の知恵が脈々と受け継がれ今日に至ったということ。
その結果、今年は立秋前の18日間に、十二支との組み合わせ上「丑の日」が2回巡ってくるということです。

大蔵省、いや財務省さえ許せば2度、鰻を口実をつけていただけるというお話でした。



梅雨寒

梅雨寒

ここ数日、梅雨寒(つゆざむ)といわれるような気温の低い日々が続いております。
お天道様が恋しいですね。あまり暑すぎるのも困りものですが・・・
エルニーニョの影響が出始めていて、太平洋高気圧の張り出しが弱いため梅雨前線の北上が遅れ気味なのだそうです。

エルニーニョとは南米エクアドルからペルー沿岸にかけて、海水温が4年から5年おきに上昇する現象のことで、水温の高い状態は半年から1年半程度続きます。例年クリスマスのころになると局所的な水温の上昇が起こることが多いのですが、折からバナナなどの収穫期に当たるため、神の恵みに感謝を込めてスペイン語のエルニーニョ(神の子)と名づけられました。これとは反対に、東太平洋赤道域の海面水温が平年より低くなる現象をラニーニャといいます。スペイン語で“女の子”のことで、エルニーニョの“男の子”に呼応して名づけられました。

エルニーニョ現象は、数1,000km以上にわたって水温の異常上昇を引き起こし、大気の流れを変え、世界各地に高温や低温、多雨や小雨など異常気象を引き起こします。1982〜83年にかけて発生したときはオーストラリア、インド、アフリカなどに干ばつ、アメリカに熱波、日本に梅雨寒や暖冬をもたらすなど世界的規模で異常気象が発生しました。
6月発表の気象庁エルニーニョ監視速報によると、5月はエルニーニョ現象が続いており、強まりつつあるとのことでした。6月の実況は7月10日に発表されます。

地球温暖化の問題についても話題になりますが、
 “現代は何百万年か続いている氷河期の最中です”
といったらみなさんどう思われますか?

氷河期の定義は南半球と北半球に氷床がある時期を意味する事が多く、その意味においてはグリーンランドや南極に氷床があり、現在は氷河期ということになります。
氷河期の中でも、より寒冷な氷期とより温暖な間氷期が何万年か周期で繰り返されています。現代は約1万年前から間氷期に入っており、最大近くに温暖化している状態です。

氷期では概ね西ヨーロッパ全体が氷河で覆われ、北米のアメリカあたりでも氷河が進出します。日本も氷河で覆われます。今の間氷期では縄文の温暖期があって、本州全体が亜熱帯気候だったようで、現在はそれより寒い時期です。

周期性の原因はいろいろ考えられていますが、現在は主に、地球の軌道要素による日射量の周期的な変化が原因とされています。それをミランコビッチサイクルと呼びます。
それによれば、もう5万年程度は今の温暖期が多少の起伏はあっても継続するとされています。

この氷期に関しても太陽活動が影響しているとする説があります。
毎日当たり前のように光、熱を与えてくれる太陽、しかしその太陽も時には活動が活発化(フレア、磁気嵐等)します。太陽放射線や強い磁場が地球に届き、人工衛星の故障、電波障害、送電線への誘導電流による停電発生等の可能性があります。
また逆に黒点活動がほとんどなくなり、地球の小氷期(しょうひょうき)との因果関係も指摘され研究されています。
マウンダー極小期(きょくしょうき)の1645 − 1715年の間は、非常に太陽黒点の数が少なく観測されました。この時期には北半球平均気温は極小期の前後と比べて0.1− 0.2度低下し、小氷期が起きたのではないかとされています。

エルニーニョや氷期は、太陽活動との関係性について指摘され研究がおこなわれてています。
科学的にも地球、太陽、宇宙の誕生など、まだよく解明されていないことがたくさんあります。極端にいうと、わからないことだらけです。身の周りには不思議がいっぱいです。
私たちの暮らすこの地球をはじめ、太陽や宇宙に興味を持っていただけたら嬉しいです。

エルニーニョや太陽、宇宙について詳しくは、
気象庁ホームページ
  http://www.data.jma.go.jp/gmd/cpd/data/elnino/l...
宇宙情報センターホームページ
  http://spaceinfo.jaxa.jp/index.html
をご覧ください。




七夕の日に

七夕の日に

今日は七夕です。
子どもたちは笹竹に、思い思いの願いを込めた短冊をつるしました。

七夕伝説は、中国から日本へ奈良時代に伝わったようです。

こと座の0等星ベガは、織姫星(織女星)として知られてます。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。
夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルです。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めます。
めでたく夫婦となったのですが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなります。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離してしまいます。  
しかし、年に一度、7月7日だけ天帝は逢うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができました。
7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができません。

星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名もあります。
また、この日に降る雨は催(洒)涙雨(さいるいう)とも呼ばれ、催(洒)涙雨は織姫と夏彦が流す涙(逢えずに流す涙、逢ったあとの惜別の涙)といわれています。

余談ですが、「カササギ」とはスズメ目カラス科に属する鳥で、国の天然記念物に指定されています。
カササギの仲間は北半球の広い範囲に分布しているのですが、なぜか日本では、そのほとんどが佐賀平野を中心とした狭い範囲に生息しています。黒いカラスに比べてひと回り小ぶりで、胸とお腹の白い鳥を観察することができます。
一般にはカササギといいますが、「カチカチ」という鳴声から、佐賀ではカチガラスとも呼ばれ、佐賀県民の方々に親しまれているようです。
この鳥は、サギとついていますが、実はサギの仲間ではなくカラス科の鳥で、学名を「Pica Pica Japonica 」(英語では Magpie) といいます。

“ピカピカ”といえば、こと座の織姫星ベガ(0等星)と、はくちょう座α星のデネブ、わし座α星のアルタイルの2つの1等星で「夏の大三角」と呼ばれる大きな二等辺三角形を形成し、一際輝いて見えます。ベガは0等星で、夏の星空の中で最も明るく見える星です。
夏の大三角は直角三角形に近く、冬や春の大三角は正三角形に近い形をしています。

本来の七夕は旧暦に祝われたもので、旧暦の7月7日は新暦だと今年は8月20日です。旧暦7月は季節的には秋で天候も安定し、七夕は秋の行事として位置づけられていました。
月遅れ(旧暦7月)の七夕では、北東から南西の宵の空高く天の川が流れ、その両側の岸辺にはべガ(織姫)とアルタイル(彦星)、天の川の川下には、なかなか逢えない二人の間を無情に通り過ぎる、連れない舟人にたとえられる上弦の月がかかり、中国に古くから伝えられてきた七夕伝説の夜をみることができます。

中国や日本で使われていた旧暦(太陰太陽暦)では、7日の月は必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもあったようです。そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてきます。
新暦(グレゴリオ暦)7月では、月の満ち欠けは毎年異なるため、晴れていても月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多いです。
二人にとっては、旧暦の方が都合がよいのではないでしょうか。

深黒の天蓋 きらきらと煌く天の川の岸辺
織女の織る美しい布にも似た短冊に願いを込めて
今宵 二人が逢えますように

7月7日の夜
天に流れる天の川の岸辺を見つめて・・・
織姫と彦星に何を願いますか?


<ロマンチックじゃないからよせばいいのに、おまけ>
“逢えない時間が、愛育てるのさ”と郷ひろみさんはうたってましたが・・・
織姫星は、こと座のベガという名前で0等星です。地球からの距離は25光年。一方の夏彦星は、わし座のアルタイルで1等星で、地球からの距離は17光年。この二つの星の間の距離は約16光年あり、光(秒速30万km)でも16年かかります。残念ながら、1年に1度のデートは無理かも・・・




宇宙に関する話題

宇宙に関するあれこれ

先週末に、徳川家康ゆかりの鳳来山東照宮と長篠城址を訪ねてきました。
鳳来山東照宮は三東照宮の一つです。長篠城は長篠の戦い(天正3年5月21日:1575年6月29日)で有名です。長篠の戦いとは、三河国長篠城をめぐって、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦いです。織田軍が新戦法・鉄砲三段撃ちを行った話で有名です。

このお話の詳細は後日させていただくとして、本日は宇宙に関するお話です。
最近はサイエンスネタが多いとのご指摘もいただいておりますが、おつきあいください。

明日、7月7日は七夕です。
ここ数年の七夕の日は雨降りや曇り空が多く、天の川を目にすることは少ないですね。
七夕の日に天の川を見ることができる機会は少ないですが、近年は宇宙に関する話題が多くあり、国民の関心も高まっているように感じます。
国際宇宙ステーション(ISS)での日本人宇宙飛行士の活躍、小惑星探査機「はやぶさ」「はやぶさ2」の打上げ等が影響しているのでしょうね。
今回は宇宙に関する話題を3つ紹介します。

その1 「金星と木星が接近」
キラキラ光る宵の明星「金星」と、黄色い光を放つ木星が西の夕空で接近しています。6月頃より近づいて見えるようになり7月1日に最も近づきました。
しかし1日は天気が悪く星を見ることはできませんでした。
1日以降は金星と木星の距離は離れて見えるようになっていきますが、しばらくの間は近づいた姿を見ることができます。午後8時頃に西の夜空を見上げてみてください。
肉眼でもちろん見えますが、双眼鏡があれば一段とよく見えます。
次回接近するのは2022年5月です。

余談ですが、僕らの世代は「明星」と聞くと「即席ラーメン」と「明星・平凡」といった雑誌、そして「巨人の星座の中でも一際輝く明星になれ」という「星一徹」の言葉を思い出してしまいます(笑)。
わかるかなぁ? わっかんねぇだろぉなぁ!
松鶴家千とせ・・・これも、わかりませんよね。


その2 「ニューホライズンズ、冥王星(めいおうせい)到着」
2006年1月に打ち上げられたNASAの無人探査機ニューホライズンズが9年半をかけて48億キロを旅し7月14日、冥王星に到着します。
到着といっても着陸するのではありません。時速約5万キロのスピードで冥王星から1万2500キロの距離をかすめるように通り過ぎるのです。
わずかな時間で地表や大気系などを観測し、カイパーベルトと呼ばれる無数の天体が密集する太陽系の外縁部へむけて飛び去りながら、数ヶ月かけて地球にデータを送信してきます。
この探査機は「はやぶさ」のような太陽電池パネルではなく、プルトニウムの崩壊熱をエネルギー源として利用する原子力電池を搭載しています。

冥王星は1930年に発見された太陽系9番目の惑星でした。
僕が中学・高校生の頃は「水金地火木土天海冥」と覚えたものです。が、2006年に小惑星に近い「準惑星」に降格されました。
地球を含めた水星から海王星までの8個の惑星にはすでに探査機が到達しています。冥王星はハッブル望遠鏡でも鮮明に見ることはできていません。誰も目にしたことのない冥王星の姿がニューホライズンズの到着で明らかになるよう期待します。


その3 「油井飛行士 23日にソユーズで国際宇宙ステーション(ISS)へ」
無人の宇宙輸送船の事故を受けて、5月の打ち上げ予定が延期されていた日本人宇宙飛行士の油井亀美也(きみや)さんが乗り組むロシアの宇宙船「ソユーズ」の打ち上げが、日本時間で7月23日の午前6時2分に行われることになりました。
しかし、またもや無人宇宙船が6月28日に爆発し打ち上げに失敗したのでその影響が懸念されましたが、予定通りに打ち上げられるようです。

元航空自衛隊のパイロットで日本人10人目の宇宙飛行士、油井亀美也さんが国際宇宙ステーションに長期滞在するために乗り組むロシアの宇宙船「ソユーズ」は、当初5月27日に打ち上げられる予定でしたが、ことし4月に起きた同じタイプのロケットを使った無人の宇宙船の事故を受けて打ち上げが延期されていました。
油井さんの国際宇宙ステーションでの滞在は当初の計画より1か月ほど短いおよそ5か月間となり、無重力状態での科学実験などを行う予定です。
また8月16日には、日本の無人補給機「こうのとり」が宇宙ステーション(ISS)へ水を届ける予定です。


宇宙に関する話題は尽きませんね。
梅雨の晴れ間に、夜空を是非見上げてください。
城達也さんのナレーションのごとく、星座の瞬きが聞こえてきます。

遠い地平線が消えて
深々とした夜の闇に心を休める時
遥か雲海の上を、音もなく流れ去る気流は
たゆみない宇宙の営みを告げています。
満天の星をいただく、果てしない光の海を
ゆたかに流れ行く風に心を開けば
きらめく星座の物語も聞こえてくる
夜の静寂の何と饒舌なことでしょうか。
光と影の境に消えて行った
遥かな地平線も、瞼に浮かんでまいります。



「時」にまつわるお話 その5

「時」にまつわるお話 その5  「朝のリレー」から「時差」

本日の「うるう秒」挿入はいかがでしたでしょうか?
コンピュター関連では、このうるう秒挿入が様々な問題を引き起こし、プログラム修正も大変なようです。

前回、協定世界時(UTC)と日本標準時(JST)について少し触れましたので、「時」にまつわるお話の最終回として、今回はUTCとJSTに関連したお話をしてみます。

谷川俊太郎さんの「朝のリレー」という詩を紹介いたします。

  カムチャツカの若者が きりんの夢を見ているとき
  メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている
  ニューヨークの少女が ほほえみながら寝がえりをうつとき
  ローマの少年は 柱頭を染める朝陽にウインクする
  この地球では いつもどこかで朝がはじまっている
  ぼくらは朝をリレーするのだ
  経度から経度へと
  そうしていわば交替で地球を守る
  眠る前のひととき耳をすますと 
  どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
  それはあなたの送った朝を 誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

この詩は、かつては中学校国語の教科書にも載ってました。
当時、この詩を使って僕は「時差」の学習をしてました。
10年ほど前になりますが、この詩はコーヒーのコマーシャルにも使われ、
テレビでよく流れていましたので、ご存じの方も多いと思います。

日本標準時(JST)は協定世界時(UTC)に対し9時間進んでいます。
これは日本が東経135°に位置するためです。
中学校の地理で時差の問題を扱います。
地球は24時間かけて1自転(角度に直すと360°回転)しますから、1時間では15°進みます。
本初子午線より東側に位置してるので9時間早いわけです。
日本が7月1日の13時のときロンドンは9時間前の午前4時、ニューヨーク(西経75°)はさらに5時間前の6月30日の23時ということになります。

太平洋上のキリバス共和国という島国は国土の中を日付変更線が通っており、極端な話し、同じ国内で東キリバスと西キリバスとでは時差が24時間ありました。
東から西へ数キロ移動するだけでクリスマスが2回できたり、今日と昨日、今日と明日を行ったり来たりできたわけです。
これではあまりに不都合だということで1995年に時差を無くしました???
日付変更線の通過区分をかえたのでした。

ロシアとアメリカ(アラスカ)の間のベーリング海峡には大ダイオミード島(ロシア領)と小ダイオミード島(アメリカ領)があります。
この二つの島の間は3.7kmで、両島の中間点を国境と日付変更線が通っていて、アメリカ領とロシア領の最も接近している場所でもあります。
そこから南では変更線は斜めに通っています。かつての東西冷戦期の象徴でもあります。

世界地図を見ていただくと判るのですが、日付変更線は東経180°の南北につらなる経線ではありません。国境や、国の事情によって便宜上定められており、複雑に入り組んでおります。

時差の問題の作問としては、
成田を7月1日18時に出発した飛行機が、9時間かけてロンドンに到着しました。到着時間は現地時間の何月何日何時でしょうか?

というような問題を作ってました。
この問題が解けた方は、
世界地図や地球儀をながめ、「朝のリレー」を確認してみてください。




「時」にまつわるお話 その4

「うるう秒」その2

前回に引き続き「うるう秒」についてお話しします。

うるう秒とは、簡単に言うと地球の自転にムラがあり、そのムラを修正するためにうるう秒を設けています。

私たちの日常生活は太陽の動きと深くかかわっています。そのため、日常的に使われている時系は、地球の運行に基づく天文時系である世界時(UT)に準拠するように調整された原子時系です。これを協定世界時(UTC)と呼びます。

地球の自転速度は、潮汐摩擦(ちょうせきまさつ:潮流によっておこる海水と海底との摩擦。これによって地球の自転速度は遅れ、1日の長さが 100年につき 1000分の1秒ほど長くなり、その運動量の移動によって、月の公転は加速され、1年に3cmの割合で月は地球から遠ざかる)などの影響によって変化するため、世界時(UT)と協定世界時(UTC)との間には差が生じます。そこで、協定世界時(UTC)に1秒を挿入・削除して世界時(UT)との差が0.9秒以上にならないように調整しています。この1秒は「うるう秒」と呼ばれています。

ここからが少し複雑なのですが、
うるう秒調整は1972年の特別調整以降導入されました。
2012年までに行われたうるう秒調整は25回ありますが、すべて協定世界時(UTC)にうるう秒を挿入する調整であったため、協定世界時(UTC)は国際原子時(TAI)に対して35秒遅れています。今回は26回目のうるう秒の挿入となります。

国際原子時(TAI)とは、セシウム133原子の遷移(せんい)周期(91億9263万1770周期)を使い、数十万年に1秒ずれるだけの高精度な時計です。
ちなみに1秒の長さの定義は、かつては地球の自転や公転に基づいた天文学からの定義が採用されていたのですが、1967年に原子放射の周波数に基づく量子力学からの定義に改定されました。
その結果、原子時計に基づく時刻と天文時に基づく時刻との間でずれが生じるようになりました。その調整に、うるう秒が挿入されます。(うるう秒が挿入されるのは協定世界時(UTC)です。)

世界時(UT)、協定世界時(UTC)、日本標準時(JST)、国際原子時(TAI)の関係について確認しないと混乱が生じます。

詳しくは情報通信研究機構のホームページをご覧ください。
情報通信研究機構のホームページには、閏秒に関するQ&Aものってます。
情報通信研究機構(NICT)本部:東京都小金井市貫井北町4−2−1

余談ですが、原発事故で話題になったセシウムはセシウム137です。
この放射性セシウムは、核実験や原発事故によって大気中に放出される人間が作り出した放射性物質です。半減期は30.07年で長い間放射能の影響が残ります。

私たちが通常使っている時計の多くは、水晶振動子を利用したクォーツ時計です。電波時計も多くなってきておりますが、情報通信研究機構では原子時計を元に作られた正確な時刻情報を標準電波(JJY)として、福島県田村市と福島県双葉郡川内村境界の大鷹鳥谷山(おおたかどややま)、佐賀県佐賀市と福岡県糸島市境界の羽金山(はがねやま)の2カ所から送信してます。その電波を受信してクォーツ時計の誤差を修正しているのが電波時計です。

たかが1秒、されど1秒・・・
小泉吉宏(よしひろ)さんの「一秒の言葉」という詩にもありますが、うるう秒の挿入に際し、1秒が社会に与える影響について考えてみるというのはいかがでしょうか。


時に関するお話 その3

「うるう秒」その1

今年の7月1日に、3年ぶりに「うるう秒」の挿入が実施されます。
日本標準時の維持・通報をおこなっている情報通信研究機構(NICT)では、前回はうるう秒の挿入にあたって、「午前8時59分60秒を見てみませんか?」とさかんにPRしていました。

一般に市販されている電波時計は常時信号を受信しているわけではありませんし、うるう秒の表示には対応しません。それでは、どうやって午前8時59分60秒を見ようと言うのでしょうか。

東京都小金井市にあるNICT本部のビルには、大型のデジタル時計が設置され、うるう秒表示に対応しています。2012年7月1日と2009年1月1日のうるう秒実施当日には、大勢の見学者が集まったそうです。前回は日曜日でしたから見ることも可能でしたが、今回は平日なので難しいですが、可能であれば「午前8時59分60秒」を見てみたいものです。

なぜ、うるう秒の挿入が必要なのか?
簡単に説明することは難しいです。

うるう年とうるう秒についての説明は大変長くなります。
まず、どうしてうるう年があるのかについて、説明してみますね。

1年は365日といいますが、4年毎に366日となる(2月29日のある年)年があります。この年を「うるう年」といいます。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。
この原因は、1年の長さ(地球が太陽の周囲を一周する時間)が1日の長さ(地球が太陽を基準にして、1回転自転する時間)で割り切れないことにあります。では、1年の本当の長さは何日なのでしょうか。

  1年(太陽年)=365.2422日(太陽日)

1年の長さは、365日より少し(約5時間49分)長いようです。ですから、もし全ての年を365日とすると、約4.1年で1日、100年で24.22日分、暦が実際の季節より先行することになります。
この様に、暦と実際の季節がかけ離れてしまうことを防ぐために、うるう年を設けて調整しています。現在、用いられている太陽暦(グレゴリオ暦)では、うるう年を次のように決めています。

 ア 西暦年が、4で割り切れる年は、うるう年とする
    例 1966年
 イ アであっても、100で割り切れる年は平年とする
    例 1900年、2100年、2200年、2300年
 ウ イであっても、400で割り切れる年はうるう年とする
    例 1600年、2000年
身近な年としては、西暦2000年は、上記のウに当てはまりますので、うるう年となります。

グレゴリオ暦に従ってうるう年を設けると、400年間に97回のうるう年が入ります。グレゴリオ暦での400年間の日数と400太陽年の長さを比較すると、
 400年の長さ
  グレゴリオ暦  146097日
  太陽年     146096.88日

400年で0.12日(約3時間)の差が生ずるだけです。
グレゴリオ暦より、差の小さな置閏法(うるう年の入れ方)も考案されていますが、うるう年の置き方が簡単で覚えやすいことから、今でもグレゴリオ暦が広く使われております。

日本がグレゴリオ暦へ移行したのは明治6年(1873年)になってからです。それまでは太陰暦に基づいて、暦をつくっていました。いわゆる旧暦です。
この旧暦には様々なものがありまして、一般的には太陰太陽暦(天保壬寅暦)を指します。太陰太陽暦は月の満ち欠けをもとにしますので、うるう月をはじめ様々な誤差が生じてきます。
(太陰暦につきましては、自分自身がよく理解できてない上に、その説明は非常に長くなりますので、いずれまたの機会とさせていただきます。(笑))

長くなったので、本日はここまでとします。
次回は、「うるう秒」についてお話しします。

    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

学校便り

保健便り

給食便り

HP掲載資料