学校での子どもたちの様子をお伝えします。

卒業式

本日3月23日(水)、足柄小で平成27年度の卒業式が行われました。
67名の卒業生の皆さん、卒業おめでとうございます。
あわせて保護者の皆さまには、お子様のご卒業おめでとうございます。
また、多くの来賓の皆さまにご臨席を賜り、まことにありがとうございました。
子どもたちは少し緊張しながら少し寂しそうに、そして嬉しそうに笑顔で飛び立って行きました。

卒業式での校長の話を掲載いたします。

日に日に日ざしの温かさが増し、春の息吹が ひしひしと感じられるようになりました。
今日、この佳き日に、多くのご来賓、保護者の皆様にご臨席いただきまして、足柄小学校、平成二十七年度卒業式を挙行できますことに、心から感謝申し上げます。

 ただ今、67名 一人ひとりに卒業証書を渡しました。
 卒業生のみなさん 卒業、おめでとうございます!

保護者の皆様も、この六年間の足柄小学校での数々のお子様との思い出が浮かんでは消え、感慨もひとしおであろうと推察いたします。

皆様のお子様に寄せる愛情と本校に寄せる期待、そうした思いが本校の教育を支えて下さいました。
お子様のご卒業を心よりお祝い申し上げますと共に、保護者の皆様の六年間にわたります献身的なPTA活動に、改めて御礼申し上げます。

さて、卒業生の皆さんの胸には、今、どんな思いが駆け巡っているでしょうか?
おうちの方に手を引かれて、伝統ある足柄小学校の門を初めてくぐったとき、不安と共に、どきどきするような期待でいっぱいだったことでしょう。

あの日から六年間、運動会、音楽朝会、にこにこ班活動、宿泊学習、体育大会、日光修学旅行、多くの行事を通して、できない自分に悔し涙を流したこともあったでしょう。
人と比べて自分が小さく見え、自信を失くしたこともあったでしょう。
また、自分らしく がんばりぬくことで、自分でも気づかなかった可能性に出会う喜びを感じたこともあったでしょう。
そして、何よりもここでしか出会えなかった友と出会い、友から影響を受け、力を合わせ一つのことをやり抜くことの素晴らしさを味わったことでしょう。
この足柄小学校での思い出を胸に、皆さんは本校を巣立っていきます。

これからの時代は 予測不可能な時代です。
そんな時代の中で、知識や技能を獲得するだけでは、これからの人生を、生き抜く力にはなりません。
本校で先生方と学んできたように、自分で論理的に考えて表現し、他者と議論し、他者の考えの中で、受け入れるべきことは受け入れて、新たな社会、世界を創っていくことが重要になっていきます。

ところで皆さんは、アイデアを持ってますか?
アイデアは、みなさんの頭の中にあります。

時には一つのアイデアが、社会の仕組みを根っこから覆すこともあります。
しかも、アイデアを生むには、工場もいらなければ、資源もいりません。
あなたと、アイデアを一緒に育てる仲間がいればいいのです。
「こうしたら もっとうまくいくのに」
「なぜ、そういう仕組みがいいのだろう?」
はじまりは、 ちょっとした 気づきや閃き(ひらめき)。
それは誰の中にも眠っています。
そのアイデアがどんどん実現されたら、日本は今よりもっと豊かで、もっと楽しい国になります。

明日から皆さんを待つ新しい環境は、アイデアを持つ人たちが集い、そのアイデアを実現させていく実践の場です。
人との新たな出会いを大切にし、あなたの中に眠るアイデアを形にし、新しく創造していくことにチャレンジしてください。

一人ひとりが自分の可能性を見出し、その可能性を拓いていって欲しいと思います。
「生まれてきてよかった、生きてきてよかった。」
と、誰もが思える社会を、真のリーダーとして、皆さんたちの手で創っていって欲しいのです。

地球には、日本には、そして私たちの身の回りには今、考えるべき問題があふれています。
その解決に向け、
 “一人ひとりが持っている無限のアイデアで 新しいものを創造せよ”

この言葉を贈り、私からの餞(はなむけ)とさせていただきます。

卒業、おめでとうございます。 





PTA総会での校長の話

PTA総会での校長の話

暖冬といわれた今年の冬ですが、結構寒い日もありました。
昨日、今日と暖かな日和です。
寒さと暖かさを繰り返しながら、少しずつ春の気配が感じられるようになってきました。

本日は、PTA総会・学級懇談会にご多用な中、多数ご参会いただきまして誠にありがとうございます。

3月23日にはこの場所で、卒業式が行われ、67名の6年生に卒業証書を渡すこととなります。

2月半ばから昨日まで、6年生と面接を行ってきました。
小学校での思い出や、将来の夢などについて話を聞いたのですが、
小学校の6年間はあっという間だった、部活や勉強を頑張りたいと、みな、中学校生活への大きな憧れと期待を語ってくれました。

私からは、中学を卒業した後はどうするの?
と、少し先のことへの質問をしました。

明確な進路について話した人もいましたが、
多くの人は、“まだわからない”と話しました。
そこで、中学校の3年間で自分がどんなことに向いているのか、何をやりたいのか1年生のうちから少しずつ考えておくといいねと話しました。
3年後、彼らは進路選択を迫られることになります。
自分の道は自分できり拓くことが求められます。

進路選択に関連して、
県立高校改革と大学入試改革についてお話ししようと思います。

まず「県立高校改革」です。
昭和48年度から62年度まで、生徒の急増期への対応として
県立高校が100校新設されました。
平成12年度から21年度までは、生徒の減少と多様化への対応として統廃合や新設のコース、総合学科などの科が創られました。
そして、平成28年度から平成39年度にかけて、
活力ある魅力にあふれた高校づくりに向けた改革が始まります。

県がつくった中学生向けのパンフレットがありますのでご覧ください。

この全てをお話しすることはできませんが、一部を紹介します。
平成28年度からの変更点が載っています。現在の中学2年生が受験するときから変更されます。
 大井高校・・・クリエイティブスクールへの変更
 山北体育コース、西湘高校理数コース・・・専門コースの解消
 小田原総合ビジネス高校・・・普通科の併設
 吉田島総合高校・・・総合学科を単位制農業科に改編

まだまだ先のことだから、小学生には関係ないということはありません。やがて、本校の子どもたちも中学を出た後の進路について真剣に考える時期が来ます。
是非、今後の情報や動向に関心を持っていただければと思います。

次に「大学入試改革」です。
現在の大学入試は、まず大学入試センター試験を受け、
各大学ごとの入学試験、いわゆる二次試験で選抜されています。

2020年度(平成32)以降、社会の変化に対応するため
大学入試制度が大きく変わります。
現在の中学1年生から小4までは、大学入試センター試験が
新しい試験・大学入学希望者学力評価テストにかわります。
現在の中1が高3になる頃に導入が予定されています。
教科書の内容さえ覚えておけば解ける問題は減り、
思考力・判断力・表現力が問われる問題が増えます。

さらに、現在の小3からは2つの新しいテストが始まります。
高校在学中に「高等学校基礎学力テスト」が始まり、その成績を大学入試に活用する可能性があります。
そして、先程の「大学入学希望者学力評価テスト」の2本立てで入試が行われるようになります。
このように、大学入試もかわってきます。

また、早ければ3年後、今の3年生が5年生に、4年生が6年生になった時から小学校5・6年で英語が教科として扱われ、成績もつくようになります。

学校は勿論のこと、社会全体で知識だけでなく、思考力・判断力・表現力が問われ、主体的に学ぶ力を培うことが求められていることの現れです。

以上、雑ぱくですが県立高校改革と大学入試改革について
お話しさせていただきました。

哀愁のスカンジナビア

哀愁のスカンジナビア

前回までの話の主な舞台となった伊豆は距離的にも近く、個人的にもなじみの深い場所の一つです。
四半世紀前に亡くなった祖母は伊豆の出身で伊豆の各地に親戚が多く、戸田にも親戚がありました。子どもの頃は祖母に連れられ、沼津から船で戸田を訪ねたりしていました。高校生の時には修善寺から河津までテントを持ってキャンプしながら寄り道をして歩きました。自転車でも何度か走ってるのですが、坂が多く・・・。免許を取ってからはオートバイや車で何度も出かけたものでした。
今でも伊豆半島はお手頃なドライブコースです。
そんななじみの深い伊豆半島ですが、忘れられない景色があるので紹介しようと思います。

沼津市西浦といっても地理的にピンとこないですよね。内浦湾、三津浜といった方がわかりやすいでしょうか。淡島マリンパークや三津シーパラダイスがあるところです。
シーパラダイスからさらに下田方面に1キロほど行ったところに長井崎トンネルがあります。そのトンネルを抜けたところに今回お話しする「スカンジナビア号」が係留されていたのでした。
されていたということは、現在はされていないということで、結論から先に言うとこの船は、2006年9月2日上海へ向け曳航中、潮岬沖で沈没してしまったのです。

この船には様々な思い出があります。
言葉で表現するのは難しいのですが、白い船体に2本のマスト、大変優雅な姿で内浦の静かな海にたたずんでおり、何ともいえない気品がありました。
この船はホテルとレストランを営んでおり、レストランのバイキングに何度か行きました。結構なお値段でしたが、ダイニングには贅をこらした調度品や木製のレリーフや美しいガラス彫刻などの美術品が多くありました。勿論、船内を見学することもできました。特にダイニングの天窓の北極星を中心に星座を描いたガラス彫刻は見事でした。船内の階段にも様々な意匠が凝らしてありました。映画タイタニックの船内をイメージしていただけるとよいかと思います。

船の由来について少し触れてみます。
スカンジナビア号は1927(昭和2)年2月23日にスウェーデンのエイナー・ハンセン氏のプライベートヨットとして建造されました。全長127メートル、船底からマストトップまでは44メートル、総トン数5105トンもあるこの船はヨットというよりも豪華客船そのものです。本来の船名はステラポラリス号といい、北極星を意味するのだそうです。この船で世界の富豪や著名人を乗せ、クルージングツアーを行っていたのです。
クイーン・メリー号(1936〜1967)やクイーン・エリザベス号(1969〜2004)などの内装や設備は、このステラポリス号を参考にして決められたそうです。

1970(昭和45)年日本に回航され、西伊豆三津浜に錨をおろし、海に浮かぶホテル・スカンジナビアとして営業していました。
晩年は営業悪化からホテル営業をやめ、レストランのみ2005年3月末まで営業していました。

営業が悪化する中、2004年5月にはカリブ海にあるイギリス領バージン諸島のランティー社との売却交渉が始まりますが、失敗に終わります。その後2006年8月31日にスウェーデンの不動産会社への売却が決まります。
そして、同年9月2日、上海で改修した後、生まれ故郷のスウェーデンへ引き渡す予定であったスカンジナビア号は、上海への曳航中に潮岬沖3キロの地点で浸水し、沈没してしまいます。

スカンジナビア号が係留されていた西浦にあるレストラン「海のステージ」では、今週末2月27日(土)に、
「世界海事遺産 伝説の船 ステラポラリス(スカンジナビア)の航海(たびだち)」
と題して、建造90年記念講演と思い出を語る会が開かれます。

お時間のある方は、戸田と併せて訪ねてみてください。

スカンジナビア号の優雅な船体と富士の見える風景は、忘れられない景色の一つです。

また、船に興味のある方は、横浜の日本郵船歴史博物館も楽しいですよ。
創業130周年を記念して特別展を行っています。
氷川丸を見学した後、是非お立ち寄りください。




プチャーチンが来た(6)

プチャーチンが来た(6)

だいぶ本題からそれましたが、今回は戸田での造船とロシア人の帰国についてお話しして「プチャーチンが来た」を終了したいと思います。

戸田には伊豆天城山系の良質の木材があり、港には波がなく静かなので、以前より船作りが行われていました。幕府は八名の造船御用掛を選び、船大工・棟梁も造船世話掛に任命します。プチャーチンはディアナ号同様の洋式帆船建造を考えていたので、日本人船大工にとっては初めての経験です。ディアナ号乗組員にも造船の経験者はいなかったようですが、本に載っていた二本マストのスクーナー船(帆船)の設計図をもとに作図したようです。

和船とスクーナー船とでは構造的に全く違ったので、日本の船大工にとってだいぶ勝手が違ったようです。さらにロシア語がわかる日本人通訳はおらず、ロシア語からオランダ語に、オランダ語から日本語に翻訳するのですから意思を疎通するにも大変だったことは想像に難しくありません。長さの単位も何もかも全てが違うのですから、相当難儀であったことと思われます。
その言葉の壁をも乗り越え、船は造られていきます。ロシア士官や船員たちは日本人船大工の器用さと優れた技術に驚かされます。竜骨に差し込まれた肋材はすこしの隙間もなく、見事な出来栄えだったそうです。
日本人船大工の創意工夫の結果、全長24.57m、最大幅7.02m、深水約3m、帆柱2本、積載量4百石の船が安政2年3月10日に進水します。着工が前年の12月10日ですから、3ヶ月での完成です。ここに日本初の本格的洋式帆船が完成したのです。

この間、アメリカ船カロライン・E・フート号が、安政2(1855)年1月27日に下田に入港します。プチャーチンは船長・ワースと直接交渉し、戸田に滞在するロシア人士卒のうち先ず160人位をカムチャッカへ送ってもらう傭船契約を結びます。
2月25日、士官等160名ほどがカムチャッカのペトロパウロフスクに向け出港します。フート号のワース船長は、船長や乗員の妻子らアメリカ人を下田に残して出港します。この件でも下田奉行らは頭を抱えたようです。

その後もアメリカ船が下田に入港するとプチャーチンは、船を借りようと部下に命じ交渉をさせますが、金銭面での折り合いがなかなかつかなかったようです。

この様な状況下で、戸田で建造していた船が完成したのでした。
安政2年(1855)年3月22日、戸田号と名付けられた建造船に乗り込んだプチャーチンら47名は、カムチャッカに向け出港し、5月7日(1855年6月20日)にニコラエフスクのあるアムール河口に着き、その後、馬で陸行し、約7ヶ月後の安政2年10月1日(1855年11月10日)、首都ペテルブルグに到着しました。
翌年、約束どおり戸田号はロシア軍艦に引かれて返還されます。

しかし、ロシア人が全てこの船に乗り込めたわけではありません。
まだ、280名近くのロシア人が戸田に残されていたのです。

この間、4月12日に下田にフート号が帰帆します。ロシア側は船長との間に再びカムチャッカに送る約束を取り付けていたようですが、クリミア戦争の影響でイギリス艦に拿捕されることへの恐れと下田で待っていた妻子たちの要請もあり、契約は履行されませんでした。

5月21日、アメリカ艦隊司令長官に雇われたドイツ商船グレタ号が下田に入港します。この船長との間でロシア側と輸送費用についての折り合いがつき、6月1日、戸田から全てのロシア人を乗せカムチャッカに向かい出港します。
しかし、グレタ号は6月19日、イギリス軍艦・バラクータ号に拿捕され、クリミア戦争終了後まで拘禁されてしまします。戦後、ロシアに戻りました。

話が前後しますが、薩摩の島津斎彬(なりあきら)は海防に関心が強く、幕府に大型船建造の禁を解くように建言し、嘉永6年に禁が解かれます。薩摩は大型船の伊呂波丸、昇平丸を、幕府は鳳凰丸を建造しましたが、形が洋式船に似ているだけで船体強度や性能は低かったようです。

戸田号が名実ともに日本製西洋型帆船の第一号だったのです。
幕府は戸田号と同型の船6隻を作るよう命じています。建造にあたっては戸田号の詳細な記録があり、技術も習得したので設計・建造も容易だったことでしょう。幕府に2隻、会津、薩摩に2隻ずつ貸し与えられ、洋式の練習船として使われます。

戸田が君沢郡の一部だったため、戸田で建造された船型は「君沢型」と命名され、日本の洋式船の基となり日本各地に伝わっていったそうです。
戸田村の船大工たちは貴重な存在として処遇され、長崎の海軍傳習所、石川島造船所、横須賀製鉄所(のちの海軍工廠)などの主要造船所の基礎を築いていきます。

戸田には「沼津市戸田造船郷土資料博物館」があります。
戸田港の入り江の先端にある小さな博物館ですが、戸田号建造についての資料や、1970年の大阪万博でソ連館に展示されていたディアナ号の模型とステンドグラスが寄贈され展示されています。
この資料館の建設にあたり、当時のソ連政府から費用の一部が寄付されています。
また、明治20(1887)年、プチャーチンの娘オリガ・プチャーチナが戸田を訪れています。オリガは関係者に記念品を贈り、造船所跡地や宿舎となっていた宝泉寺などを見学します。後にオリガの遺言により100ルーブルが戸田村へ寄贈されています。
戸田の人々のプチャーチンをはじめロシア人に対する善意に感謝したのでしょう。
プチャーチンを介し、時代をこえたロシアとの繋がりにも興味深いものがあります。

この資料館には、ラブカやオロシザメ、タカアシガニなどの駿河湾の深海生物の標本を展示した深海生物館も併設されています。
戸田の港から見る富士山も素敵です。修善寺・達磨山経由、沼津・西浦経由でアクセスできます。西伊豆方面へお出かけの際は、是非、足を伸ばしてみてください。

これを持ちまして、「プチャーチンが来た」を終了させていただきます。




プチャーチンが来た(5)

プチャーチンが来た(5)

戸田でのプチャーチン一行の様子をお話ししようと思うのですが、その前に、せっかくの機会ですので「朱印船」についても少しお話ししておきたいと思います。
江戸時代に国内では北前船(きたまえぶね)や菱垣廻船(ひがきかいせん)、樽廻船(たるかいせん)で多様な物資の運搬が行われています。これらについては、いずれ機会を改めてお話ししたいと思います。

「朱印船貿易」について歴史の時間に勉強したことと思います。
朱印船とは、16世紀末から17世紀初頭にかけ日本の支配者の朱印状(海外渡航許可証)を得て、海外交易を行った船をさします。
朱印状を携帯する日本船は、当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船やルソン(フィリピン)、アンナン(ベトナム)、カンボジア、シャム(タイ)などの東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができました。江戸時代には慶長9年(1604)から寛永12年(1635)までに350通余りの朱印状が発行されています。

朱印船を出して貿易の利益をあげた者には、大名では島津家久、松浦鎭信(しげのぶ)、有馬晴信。商人では長崎の末次平蔵、摂津の末吉孫左衛門、京都の角倉了以(すみくらりょうい)や茶屋四郎次郎、堺の納屋助左衛門(なやすけざえもん)、松坂の角屋七郎兵衛らがいました。
日本人の朱印船貿易は、オランダ船・明船をしのぎ、ポルトガル船に匹敵するほど盛んな時期もありました。輸出には銀・銅・鉄・樟脳(しょうのう)などがあてられ、特に銀の輸出額は世界の銀産出額の3分の1におよびました。

この約30年間で海外に渡航した日本人の数は約10万人と推定され、そのうちの1割ほどが東南アジア各地に居住し、自治制を敷いた日本人町を形成したところもありました。
シャムのアユタヤ朝の王室に用いられた山田長政のように、日本人町の長になった者も現れました。(シャムの国王になったという説はタイ側に記録がなく、史実ではなさそうです。)

朱印船として用いられた船は、初期には中国式の木造帆船(ジャンク船)でした。後には末次平蔵の末次船や荒木宗太郎の荒木船に代表される木造帆船(ジャンク船)に大航海時代の帆船であるガレオン船(パイレーツ オブ カリビアンに出てくる帆船をイメージしてください。)の技術やデザインを融合させた独自の帆船が使われます。乗員は200名程度で、木材の品質もよく造船技術も優れていたシャムのアユタヤで、大量の船が注文・購入されたようです。

日本での西洋船の造船は、前回お話しした「サン・ファン・バウティスタ号」の他に、1607年、「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」(120トン)が徳川家康の命令でウィリアム・アダムスによって伊豆国伊東の松川河口で建造されています。この船が日本で最初に建造された西洋式の大型帆船とされています。

オランダ船リーフデ号で豊後(大分県)の臼杵(うすき)に漂着したオランダ人ヤン・ヨーステン(耶揚子:やよす)とイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針:みうらあんじん)は徳川家康の外交・貿易顧問として活躍し、日本名も持っています。

ヤン・ヨーステン(耶揚子)の屋敷は海に近く耶揚子河岸(やよすかし)と呼ばれ、それが現在の八重洲(やえす)に転訛したそうです。ウィリアム・アダムスは三浦半島に領地と江戸日本橋に屋敷を与えられています。神奈川新聞では、青い目のサムライ「按針タイムス」として月に1回、定期的に特集を組んでいます。

このように、17世紀の初頭に家康や伊達政宗によって西洋船が建造されたのですが、その後の幕府の政策により段階的に鎖国が実施され、大型船の建造は行われなくなります。

江戸幕府初期の対外政策は、キリスト教は禁じるが貿易は奨励し、海外貿易は活発でした。しかし、幕府がキリスト教の禁教を進めたため、日本人の海外渡航や貿易にも制限を加えざるを得なくなります。
1635年には日本人の海外渡航の全面的禁止ならびに海外在住の日本人の帰国を禁止します。1637年から翌年にかけておこった島原の乱から、幕府のキリスト教に対する警戒心はさらに高まります。1639年のポルトガル船の来航禁止、1641年には平戸にあったオランダ商館を出島に移します。これにより鎖国が完成します。
これ以降、約210年にわたる鎖国により、日本の船大工がせっかく取得したと思われる西洋式の造船技術も、伝承されることなく幕末を迎えることとなります。

鎖国により、貿易港は長崎に限られ、来航する貿易船はオランダ船と中国船だけになります。オランダはバタヴィア(ジャカルタ)においた東インド会社の出張所として長崎の出島に商館をおき、貿易の利益を独占します。日本からは銀や銅が輸出され、特に伊万里焼や柿右衛門の陶磁器は人気を集めたようです。オランダからは毛織物・綿織物・絹織物などの繊維製品や薬品・時計・書籍などがもたらされました。

オランダ船の来航のたびにオランダ商館長が提出するオランダ風説書(ふうせつがき)によって、海外事情を知ることができました。が、科学技術の発展等、世界の流れからは取り残されていくことになりました。

次回こそ、戸田での様子についてお話ししようと思います。




プチャーチンが来た(4)

プチャーチンが来た(4)

2月6日午前3時57分(現地時間)に台湾南部・高雄市を震源とするM6.4の強い地震が発生し、震源近くの倒壊した住宅には依然、多くの方が取り残されているようです。
台湾からは東日本大震災の際に多くの義援金を送っていただいたこともあり、日本からも心配の声があがり、義援金を送るという動きが高まっています。宮城県をはじめ、東北各地からの支援の動きが報道されています。地震国同士、互いに支え合えればと思います。

造船のお話しをする前に・・・
皆さんは「石ノ森章太郎」または「石森章太郎」の名前をご存じでしょうか?
「石ノ森章太郎、石森章太郎」・・・この名前から「サイボーグ009」をすぐに回想できる方は同世代です。

石ノ森さんはかつては石森章太郎と表記していました。「さるとびエッちゃん」や「仮面ライダー」の作品もあります。中でも僕は「佐武と市捕り物控え」が好きで、少年サンデーを毎週楽しみに読んでました。テレビ放映もされ、小学生の僕には結構遅い時間帯だったので、母に「早く寝なさい!」と叱られていました。小学生の頃はいつも「テレビばかり見ているんじゃない」と叱られる「テレビっ子」でした。

その石ノ森章太郎さんを顕彰する「石ノ森萬画館」が石巻市にあります。震災前に一度訪れたことがあります。

本日のテーマである戸田での造船と直接的には関係がないのですが、この萬画館は日本の造船ということに関しては大きな意味を持つ場所ですので、簡単に紹介しておきたいと思いました。

プチャーチンが来航する240年ほど前、仙台藩主伊達政宗がイスパニア(スペイン)人ビスカイノに協力させ、この地で日本製西洋型軍船を建造しているのです。その造船所があった場所が「石ノ森萬画館」となっているのでした。

船の名は「サン・ファン・バウティスタ号」(伊達丸とも呼ばれていたらしい)といい、支倉長常(はせくらながつね)を慶長遣欧使節として、イスパニア(スペイン)に派遣しメキシコと直接に貿易を行おうとし、その貿易交渉にあたらせたのでした。(船名の「サン・ファン・バウティスタ」Sant Juan Bautista とは、洗礼者 聖ヨハネのことだそうです。使節船の建造に携わることとなったビスカイノと伊達政宗公の江戸市中で出会った日(1611年6月24日)が、洗礼者聖ヨハネの祭日に当たっていたことから命名されたものと推定されているそうです。)

1612年に月の浦(石巻)から出港し、3ヶ月の航海を経てメキシコのアカプルコに到着します。支倉らは陸路で大西洋岸へ移動し、ベラクルスから大西洋を渡り、スペインへ上陸し国王に謁見します。その後、陸路でローマに行き、ローマ教皇にも謁見し、ヨーロッパ各地に滞在した後、1620年帰国しましたが、貿易交渉の目的は達成されませんでした。

サン・ファン・バウティスタ号の建造にあたっては、勿論日本の船大工が活躍することになります。西洋の船など見たこともない当時の人々が、イスパニア(スペイン)人の指導の下にどのように船を造ったのか、その想像力と適応力にはただただ頭が下がります。
大工800人、鍛冶600人、雑役3000人の人手を使い、約45日で建造されたそうです。
このあたりの事情については、吉村昭氏の「磔」という文庫本の中の「洋船建造」という短編に詳しく記載されています。興味のある方はご一読ください。

伊達正宗は月の浦から世界を見つめていたのでしょうか? 
月の浦には、「支倉長常」の銅像と「サン・ファン・バウティスタ号」を復元し係留・展示する博物館、宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)がありました。

震災後は松島までは行ったことがあるのですが、石巻へは行っていません。
赤いマフラーの戦士たちにも会いたいですし、機会を見つけてもう一度訪ねてみたいと思います。

いつものことながら前置きが長く、なかなか本題に入れません(笑)。
戸田での様子につきましては、次回にさせていただきます。




プチャーチンが来た(3)

今日は立春です。
暦の上では春ですが・・・まだまだ寒い日が続きます。
インフルエンザに罹患する子どもも出てきています。
皆様も、十分ご留意ください。

さて今回は、日露和親条約締結までの経緯についてお話ししたいと思います。少し長くなりますが、時系列で整理してみます。

弘化3年閏5月26日(1846年7月19日)、アメリカインド東艦隊司令官ビットルが浦賀に来航し、国交と通商を要求しますが、幕府はこれを拒否します。アメリカは産業革命を推し進めて中国との貿易に力を入れ、太平洋を航行する船舶や捕鯨船の寄港地として日本の開国を求めたのでした。

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカインド東艦隊司令官ペリーが浦賀に軍艦4隻を率いて来航し、フィルモア大統領の国書を提出し開国を求めます。ペリーの強硬な態度に幕府は朝鮮・琉球以外の国からの国書は受け取らないという従来の方針を改め国書を受け取り、翌年回答することを約束します。

嘉永6年7月18日(1853年8月22日)、プチャーチン率いるロシア艦隊4隻が国書を携え長崎に入港します。
長崎奉行を通じて幕府に届けられた国書の内容は、
 1 樺太・千島の国境を定めること
 2 条約を締結し交易を始めること
というものでした。
これを受け幕府は応接掛(交渉役)として、西丸留守居筒井政憲(つついまさのり)勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)らが交渉にあたりました。交渉に臨むにあたり、川路は間宮林蔵から樺太や北辺地域の知識を得ます。日露両国民が混在する樺太についてはオランダの地図に国境を北緯50度の地としていることから、それに従うべきだと考え、また、千島列島については、択捉島はむろんのこと得撫(ウルップ)島まで日本の領土とするのが妥当であると考えていたようです。

当時は通信手段は飛脚ですし、基本徒歩で江戸から長崎まで行くわけですから時間的にはかなりかかります。嘉永6年12月20日から長崎での実際の交渉が始まります。
長崎での交渉は条約締結前の予備交渉的内容で、
 1 樺太の日露国境を定めるため日本の調査役を派遣すること
 2 択捉島は日本領であること
 3 食料、薪、水を求めてきたロシア船に対し、江戸から離れた港で無償提供すること
で合意し、プチャーチンは嘉永7年1月8日に長崎を出港します。

この間、ロシアとイギリス・フランスとの間でクリミア戦争が始まります。(余談ですが、2014年3月1日にはロシア軍がクリミア半島の領有を巡りウクライナへ侵入し、世界の注目を集めました。黒海に突き出したこの土地は、多くの戦争の舞台となってきました。)

嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーがサスケハナ号など7隻の軍艦で再び浦賀へ来航します(プチャーチンが来た(1)の冒頭部分です)。ここでも、川路聖謨(かわじとしあきら)、筒井政憲(つついまさのり)らが、プチャーチンとの長崎での交渉が終わるや否や江戸に呼び戻され、その対応にあたります。

嘉永7年3月3日(3月31日)、幕府はアメリカの開国要求を受け入れ日米和親条約(神奈川条約)を締結・調印し、箱館と下田の2港を開港します。これにより家光以来続いた鎖国がここに終了します。

プチャーチンは嘉永7年8月30日(1854年10月21日)、箱館に入港しますが、同地での交渉を拒否されたため大坂へ向います。9月17日には天保山沖に到着します。大坂奉行から下田へ回航するよう要請を受けて、嘉永7年10月14日(12月3日)に下田に入港します。報告を受けた幕府は、再び筒井政憲、川路聖謨らを下田へ派遣し、プチャーチンとの交渉にあたります。幕府側は、
 1 樺太は、日本人とロシア人が混在しているので国境策定は困難であること
 2 択捉島は日本領であること
 3 開港については、アメリカに許可した条件に従うこと
を念頭に交渉に臨みます。
筒井政憲、川路聖謨らは11月1日(12月20日)から交渉を始めます。その3日後に安政の大地震が起こり罹災することになり、交渉は中断されます。

嘉永7年11月13日(1855年1月1日)、中断されていた外交交渉が再開され、5回の会談の結果、下田で安政元年12月21日(1855年2月7日 ※年度の途中で改元され、嘉永7年はそのまま安政元年になります)、ロシアとの間に日露和親条約(日魯通好条約)の締結・調印をします。
この条約で初めて日露両国の国境は、択捉島と得撫島の間に決められ、択捉島から南は日本の領土とし、得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領としました。また、樺太は今までどおり国境を決めず両国民の混住の地と定められました。

安政3年7月(1856年8月)、日米和親条約により日本初の総領事として下田に赴任したハリスは、翌安政4年(1857)江戸に入って将軍に謁見し、通商条約の締結を強く求めます。老中堀田正睦(まさよし)は勅許を得ることにより、水戸藩徳川斉昭をはじめとする国内の反対意見を収めようと朝廷の説得に当たります。
しかし、孝明天皇をはじめ条約締結反対、鎖国・攘夷の色合いが濃く、勅許を得ることはできませんでした。この直後、堀田は病没してしまいます。
その後に大老に就任したのが井伊直弼(なおすけ)です。
井伊は勅許を得られないまま、安政5年6月19日(1857年7月29日)日米修好通商条約に調印します。この条約で、神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港し自由貿易を開始することになります。

安政5年7月11日(1858年8月19日)、日露修好通商条約が結ばれ、通商(交易)が始まります。安政6年7月10日(1859年8月18日)に批准されています。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって総て無効になります。

安政年間に結ばれた通商条約(安政の5カ国条約)は、いずれも関税自主権が無く、外国の領事裁判権(治外法権)を認めた不平等な内容のものでした。条約改正は明治政府の重要課題となっていきます。陸奥宗光や小村寿太郎が条約改正に奔走することになります。

※安政の五カ国条約
幕府はアメリカに次いで、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも通商条約を結び、欧米諸国との貿易が始まります。このことは資本主義的世界市場の中に日本が組み込まれていくことを意味します。

その後の「ロシア外交」についても、簡単に触れておきます。

1875年(明治8年)、明治政府は樺太千島交換条約を結び、樺太を放棄する代償としてロシアから千島列島を譲り受けました。この条約では、日本に譲渡される千島列島の島名を一つひとつ挙げていますが、列挙されている島は得撫(ウルップ)島以北の18の島であって、歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島は含まれていません。

1905年(明治38年)、日露戦争の結果、ポーツマス条約が締結され北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました。

1951年(昭和26年)、日本はサン・フランシスコ平和条約に調印しました。この結果、日本は、千島列島と北緯50度以南の南樺太の権利、権限及び請求権を放棄しました。しかし、放棄した千島列島に固有の領土である北方四島は含まれていません。

1956年7月、鳩山内閣下で日ソ国交回復交渉にあたったのが重光葵(しげみつまもる)です。焦点の一つは北方領土問題でした。四島一括返還を主張する日本と二島のみの部分返還を提案するソ連との交渉は難航を極めたようです。領土問題を棚上げすることで1956年10月19日、日ソ共同宣言が行われ、同年12月、国連総会で日本の国連加盟が承認されます。
(余談ですが、重光葵は翌1957年1月26日に湯河原で逝去しています。)

1981年(昭和56年)1月に、北方領土問題への国民の関心と理解を深めるため、日露和親条約が制定された安政元年12月21日(1855年2月7日)にちなんで2月7日を北方領土の日と定めました。

次回は、戸田での造船とロシア人の帰国についてお話しようと思います。




プチャーチンが来た(2)

プチャーチンが来た(2)

前回は、幕末の日本外交の一端をアメリカとロシアに焦点を当て簡単にお話しました。
今回は被災時のプチャーチン一行の様子についてお話ししてみます。

異国の地での自然災害に遭遇し、現在とは違い、情報収集もままならず、さらに、当時ロシアはイギリス・フランスと戦争状態(クリミア戦争)にあり、個人としても艦長としても、相当、心細かったことと思われます。

安政の大地震の震源地は紀伊半島南端で、マグニチュード8.4。
被害は九州から本州全域に及び、沿岸部各地に津波被害を発生させました。大坂、下田で被害が大きく、大坂では流出家屋1万5千、死者3千、下田では全家屋856戸のうち全壊流失813戸、半壊25戸、死者85人と壊滅状態だったそうです。

下田港に停泊していたディアナ号も大津波に遭遇します。
波に持ち上げられ、碇が抜け、渦に巻込まれ、沈没はまぬかれましたが、竜骨が破損し、船底に亀裂が入り、舵は流失し、船としての機能は失ってしまいます。この時、船員一名が死亡しています。

幕府は修理を下田で行うよう指示しますが、甚大な被害を受けた下田の港や町は使えません。
プチャーチンは浦賀や浜松での修理を要求します。江戸に近い浦賀での修理には絶対拒否の姿勢で、伊豆半島の戸田(へた)がロシア側との調査の結果選ばれます。
傷んだディアナ号の応急修理をして下田から戸田まで回漕します。しかし、その途中でしけに遭い、風に流され宮島村沖(現富士市)で航行不能になり、乗組員は村人の救助を受け全員無事でしたが、船は沈没してしまいます。

プチャーチンだけでなく、500名近くの乗組員がロシアに帰らなければなりません。
「20名が乗れる船を作り、それでロシアに帰り、残り全員が帰られる大型船を連れてくる。」というプチャーチンの提案で、戸田で船を作ることが幕府に認められました。
この際に、洋船の建造技術も手にしたいという幕府の考えもあったのでしょう、全面的に協力するようとの指示もありました。

もちろん、戸田も地震・津波の被害を受けていましたが、大勢のロシア人を受け入れ、しかも大工事を始めるのですから地元の人々には大変な苦労です。宿舎建造、食事、どれをとっても大変です。しかし、彼らは持ち物もないロシア人を哀れと思い、地震や津波の被害に遭いながらも手厚く温かく迎え入れました。プチャーチンをはじめロシア人たちの感謝の気持ちが記録に残っています。

この戸田の地に責任者として派遣されたのが韮山の代官、江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)です。(江川家では代々の当主が太郎左衛門を名乗っています。)
蘭学に通じた江川英龍は、西洋砲術の導入、鉄製洋式砲の生産、台場の設置、洋式船による海軍の創設、洋式の訓練を施した農兵制度の導入など、一連の海防政策を幕府に提言しました。このうち、鉄製砲を鋳造するために必要な溶解炉が反射炉です。韮山反射炉は、嘉永6年(1853)のペリー来航を受けて、幕府直営の反射炉として築造が決定されました。(2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に正式登録されました。)
海防に明るく、地元の代官でもある英龍は、幕府にとって適材であったのでしょう。また、戸田には沼津藩や小田原藩からも警護の兵が派遣されています。
 
余談ですが、江川英龍は戸田の地で体調を崩しながらも指示をしている最中、幕府に呼び出され、江戸に到着するも登城できず、容態が悪化し、安政2年1月16日(1855年3月4日)に江戸墨田区(両国国技館、江戸東京博物館の近く、北斎通りの緑町公園には太郎左衛門終焉の標柱があります。)で病没しています。 

英龍に関わる逸話は多くあります。
蘭学との関係もあるのでしょうか、英龍はパンを焼き、日本の製パン業界では“パン祖”と呼ばれているらしいですし、西洋式軍隊の号令(気をつけ、回れ右、右むけ右など)を取り入れたのも英龍だそうです。
また、福沢諭吉と英龍が直接的な関わりがあったかについては確認していないのですが、英龍の江戸屋敷跡を福沢諭吉が慶應義塾の塾舎として使っています。英龍が亡くなったとき、諭吉はまだ21歳で、長崎で学んだ後、大坂の緒方洪庵の適塾で学んでいる頃です。
この他にも、学問を言志四録の佐藤一斎、絵を谷文晁から学び、渡辺崋山や佐久間象山との関わりや、榎本武揚が英龍の塾でジョン万次郎から蘭語を学んでいるなど、なかなか交友も広く興味深い人物です。

本題とはそれますが、そのジョン万次郎(中浜万次郎)についてお話します。
万次郎は土佐清水の漁師で、仲間4人と漂流しているところをアメリカの捕鯨船に助けられ、仲間がホノルルで下船する中、船長と意気投合しアメリカ本土で生活します。当時万次郎は14歳だったそうです。詳細は省略しますが、万次郎が帰国して取り調べを受けた後に土佐の藩校「教授館」で後藤象二郎、岩崎弥太郎などを指導します。その後、直参旗本として幕府に招聘され英龍の配下となります。軍艦教授所教授にも任命され、日米和親条約の締結に際しても活躍します。小説では、童門冬二さんの「ジョン万次郎」や津本陽さんの「椿と花水木」もおもしろいですが、僕らの世代は、井伏鱒二さんの「ジョン万次郎漂流記」が印象に強く残っています。

話を英龍に戻しますね。
英龍と小田原との関係も深いものがあります。
天保十一年(1840)には、江川英龍は二宮尊徳を韮山に招聘し、面談しています。英龍からの要請により、伊豆の商人であった多田弥次右衛門に資金を貸し付け財政立て直しを行います。尊徳から農地改良についての指導も受けています。尊徳翁の影響もあり、のちに英龍は江川大明神と敬われるような立派な代官になったのかも知れません。

英龍は尊徳翁との関わりだけでなく、海防面での小田原との関わりもあります。
嘉永6(1853)年、ペリーが来航した直後、江川英龍は老中阿部正弘の命で品川台場の建設に従事します。が、何とその前に小田原で台場をつくっています。
弘化元年(1844)、幕府より相模伊豆の2カ国の海防の命を受けた小田原藩主大久保忠愨(ただなお)は、英龍へ台場の築造を依頼し、小田原藩から3名の藩士を英龍のもとに弟子入りさせます。3名の小田原藩士は藩の海防に尽力し、嘉永3年(1850)には、荒久、代官町、万町の3箇所に台場の築造を開始しているのです。あわせて32門の和・洋式大砲が設置されたそうです。
僕の住む町の半島の先端にも台場跡が残っています。
伊豆韮山の代官という地理的な面だけでなく、当時の先端技術を備え、外国事情にも詳しい英龍をたよりにしたのでしょう。

今回はここで終了です。
次回は、日露交渉を中心にお話ししようと思います。




プチャーチンが来た(1)

プチャーチンが来た(1)

今回から数回に分け、江戸時代末期のロシアとの外交についてお話をしようと思います。

嘉永7年(1854)、アメリカ遣日大使ペリーがサスケハナ号など7隻の軍艦で浦賀に来航した10ヶ月のち、伊豆半島下田沖に3本マストの異国船が姿を現します。ロシア遣日大使海軍中将プチャーチンを乗せディアナ号(約2000トン)です。

少し長くなりますが、この間の経緯についてお話しますね。

ロシアはかねてよりアジア進出を企て、寛政2年(1792)、ロシア・ロマノフ王朝の女帝エカチェリーナ二世の命を受け、アダム・ラクスマンが国書を持って根室に来航し通商を求めます。
この時、天明2年(1782)にロシア領アリューシャン列島に漂着した大黒屋光太夫ら日本人漂流民を連れていました。
松前藩は幕府の指示に従い、漂流民の受け取りは箱館(函館)で、国書の受け取りは長崎で、と伝えます。ラクスマンは箱館(函館)で漂流民を引き渡しましたが、長崎には向かいませんでした。

文化元年(1804)にはレザノフが長崎の出島に通商を求め来航します。レザノフは半年間出島に留め置かれた後、幕府に通商を拒否されています。

米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀に入港します。6月9日(7月14日)、幕府側が指定した久里浜に護衛とともに上陸し、大統領の親書を日本側に手渡します。ここでは具体的な協議は行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの回答の猶予を求められ、翌年の来航を告げ引き上げます。

その後、嘉永6年7月18日(1853年8月22日)、ペリーに遅れること1ヶ月半後に、プチャーチンが4隻の艦隊を率いて長崎に来航し開港と通商を求めます。長崎奉行は幕府へ急飛脚を出し、幕府全権の川路聖謨(かわじとしあきら)、筒井政憲(つついまさのり)が交渉にあたりました。この時はロシア側の要求を拒否し、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与える事などで合意します。

嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に再びペリーが浦賀に来航し、江戸湾奥深くまで侵入します。軍事的圧力をかけたペリーとの交渉を現在の横浜開港記念館の地で行い、幕府は同年3月3日(3月31日)に日米和親条約を締結・調印します。

いよいよ本題です。
前年に引き続き開港と通商を求め、プチャーチンは嘉永7年8月30日(10月21日)、箱館に入港しますが、同地での交渉を拒否されたため大坂へ向かいます。翌月に大坂天保山沖に到着、大坂奉行から下田へ回航するよう要請を受けて、同年10月14日(12月3日)に下田に入港します。報告を受けた幕府では再び川路聖謨(かわじとしあきら)、筒井政憲(つついまさのり)らを下田へ派遣、11月1日(12月20日)からプチャーチンとの交渉を行います。

下田で、日本側の交渉担当としてプチャーチンとの交渉を進めていた川路聖謨たちは、交渉場所や宿に寺を使っていました。
11月4日(12月23日)午前8時に安政の大地震が起きます。石段、石垣が崩れ落ち、地面に亀裂が走ります。
川路たちは庫裏の下敷きになりながらも必死に脱出し、裏山へ走り逃げ、命を取り留めます。大津波で町は波に覆われ、大型の和船も町に流れ込んできたようです。

本題に入ったばかりですが、今回はここまでとします。
次回は、被災後のプチャーチン一行の様子についてお話しする予定です。

※日付については基本的には旧暦(太陰暦)を使用し、( )内にグレゴリオ暦(西暦)で表記しました。




款冬華

款冬華(ふきのはなさく)

暖冬といわれていたこの冬も、このところ厳しい寒さが続いています。
学校から見る丹沢や箱根山連山は先日の雪に覆われたままで、遠目で見る分には雪化粧をした山並みが日差しに映え、美しく見えます。

今日、21日は「大寒」。一年で一番寒さが厳しくなる頃です。
七十二候では「款冬華(ふきのはなさく)」です。
凍てついた地面に蕗(ふき)の薹(とう)が蕾(つぼみ)を出し、花を咲かせる頃という意味だそうです。

今年は梅の開花も早かったようですが、ちゃんと時期が来れば草木は花を咲かせるのですね。強い寒気が日本列島を覆っていますが、草木は春に向けて着実にその準備をしているのです。

僕らも年度の終わりに向けて、この一年の総括をし、次年度への準備を始めているところです。計画していたことが予定通りできたこともあれば、十分でなかった部分もあります。
できたこと、できなかったこと、結果の処理を丁寧に行い、しっかりと分析した上で次年度に対処しなければなりません。春の訪れまでにはもう少し時間がかかりそうです。

蕗の薹は、強い香りと苦みでその存在を示します。

祖母が作った蕗味噌は、子どもの頃は苦くて、とてもおいしいなどとは思えなかったのですが、大人になるにつれ、早春の味として味わうことができるようになりました。
蕗味噌を口にするたび、祖母のことが懐かしく思いだされます。




漱石 没後100年

漱石 没後100年

正月気分もすっかり抜け、慌ただしく毎日を過ごしております。

先日電車の待ち時間を利用して、久しぶりに本屋をのぞいてみました。
夏目漱石没後100年ということで、漱石関連の書籍が平積みにされていました。
その中から数冊手に取り、ぱらぱらとページをめくったのでした。

「山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」

うんうん、その通り、その通り・・・

さらに、『私と個人主義』のページをめくりながら、
「外国の権威にただ盲従するな、疑え」と、警告をしてたな、
などと思い出し、家に帰ったら読み返してみようと思ったのでした。

随分と昔に読んだのですが、改めて、なるほどなあと思う部分がたくさんありました。

「自己の個性の発展を遂げようと思うならば、同時に他人の個性をも尊重しなければならない。自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならない。自己が全力を示そうと願うならば、それに伴う責任を重んじなければならない。」・・・

昨年も漱石と内田百間(ひゃっけん)との会話を取りあげたのですが、百年前の人物たちが、今の世の中を見通しているとしか思えないような発言をしてます。

内田百間の「ノラや」や「偽吾輩は猫である」も、なかなかおもしろいですよ。

漱石関連では、半藤利一さんの「漱石先生ぞな、もし」もなかなかです。半藤さんの奥さんは、漱石の孫だそうです。

没後100年。今年は少し漱石を読み返し、先人に学び直そうと思います。

余談ですが、本の話になったついでに・・・
熱海の海岸に「お宮の松」というのがあるのをご存じの方も多いと思います。そう、「金色夜叉」の舞台の一つが熱海です。
貫一とお宮の像もあります。
♪熱海の海岸散歩する貫一お宮の 二人連れ 共に歩むも 今日限り・・・♪
若い方はご存じないかもしれませんね? 知ってる方は同世代!(笑)

「宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜・・・十年後の今月今夜・・・一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死でも僕は忘れんよ! いいか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が・・・」

内容はさておき、毎年同じ日に、同じ月を見ることができるなんて・・・現在ではあり得ません。なぜでしょう?
これは旧暦(太陰暦)の特徴なんですね。
現在の太陽暦では、貫一のこのせりふは通用しません。

「17夜の月」は、満月から少しかけ始めており、少しもの悲しさを感じさせます。
1995年の1月17日は、阪神淡路大震災のメモリアルデイでもあります。




優柔不断にして大胆不敵

穏やかなお正月を迎えられたことと思います。

新しい年を迎えることは、前の年より世の中がよくなるという、新たな希望が訪れること。お正月、人々の思いとともに、街や社会も新しく生まれ変われるように・・・

今年はエルニーニョの影響で高気圧に覆われ、暖かな年末年始でした。
正月2日、近くの公園を散歩したのですが、梅がすでに咲いていました。
世界や日本を取り巻く情勢は厳しいものがありますが、季節だけでなく、本当に穏やかな一年であって欲しいと願います。

さて、今年はどんな年にしよう?
僕の今年の目標は、『その時々、場面での必要な情報や分析等々をいかに充実させ、「優柔不断にして大胆不敵」の精神で対応する』ことです。
そのためにはやはり、「鋭い洞察力」、「的確な判断力」、「迅速な行動力」の3つが必要になるわけです。今年もベースは「力」です。

今年もやることがたくさんあって、上手にこなしていかないと大変です。
毎年「勝負の年」なのは同じですが、内的にも外的にも、しっかり対応していかないといけないと思ってます。

「目標設定と努力、習慣化」はもちろんですが、チームワークで仕事をすることが何より大事です。個人の実力、それだけでは全ての仕事をこなすことはできないと思っています。チームで進むことを推進していきます。

皆がもっている「力」をまとめ、より大きな「力」にし、それを原動力にする。
今、僕たちには「力」が必要なんです。
実行力、検証力、反省力、計画力、継続力、工夫力、さらには教師力、人間力等々、挙げてみればきりがないほど「力」は大切です。

子どもの将来に携わることを生業としている僕たちは、組織として強い集合体でなくてはなりません。組織としても個人としても明確な「目標設定」をし、仕事に携わっていきます。

「目標設定と努力・習慣化」を合言葉に「変化への対応」を意識して力をつけ、チームワークで足柄小の子どもたちを鍛えていきたいと思います。

2016年もどうぞよろしくお願いいたします。




冬休みを前に

冬休みを前に 全校朝会での校長の話

明日から、子どもたちにとって待ちに待った冬休みです。
今年も日一日ごとに少なくなります。もうすぐお正月です。

年の瀬という実感が年々薄らいできているように感じますが、皆様はいかがですか?

色々な節目・節目があって、また次の年を迎えることになるのですが、若い頃は漠然と新しい年を迎えていたような気がします。年が変わるという意識はそんなに無かったですね。

しかしここ数年、「よい年を迎える」という意識を意図的に持つようにしております。
「一年の計は元旦にあり」といいますが、目標を持って新しい年に臨みたいと考えるようになりました。
目標を掲げることは大切ですし、そのための準備もしっかりしておかないといけません。「目標設定と努力、習慣化」が、ここ数年の私の個人テーマです。
結構せっかちなので鬼に笑われそうですが、今年の仕事は、今年のうちに始末しておかないと、鬼に叱られてしまいます(笑)。

そんな思いもあり、今日の朝会では子どもたちに、林羅山の「即除日起講」(すなわちじょじつにこうをおこす)を話しました。


おはようございます。
今日は12月24日です。
今日は何の日ですか?
もういくつ寝るとお正月・・・
年末年始は楽しいことが多くありますね。

その前に、この一年をしっかり振り返ってみてほしいのです。
今年頑張って 結果が出たこと
頑張ったけど 結果に結びつかなかったこと
いろいろあると思います。

まずは今年一年 色々なことに頑張った自分を褒めてください。
次に、もう少し頑張れるといいなと思うことを考えてみましょう。

そして新しい年を迎えるにあたり、
2016年、この一年、頑張ることは何か、
目標をいだき、決意し、新たな計画を立ててください。

「一年の計は元旦にあり」と言われます。
自分の志や目標に向かって努力すること、
実行することを願っています。

江戸時代の儒学者「林羅山」さんについてお話ししますね。

林羅山は江戸幕府の学問所、昌平坂学問所の学長です。
その林先生のところへ、大晦日に若者がやってきて、
「先生、来年から是非勉強を教えて下さい」と頼みました。
すると林先生は、
「学びたい君の気持ちはよく分かった。
 それほど勉強したいなら、なぜ来年からはじめるのか。
 早速。今日、今からはじめよう」
と、大晦日のその日から勉強をはじめたそうです。

明日からと思う気持ちは大切ですが、
 「いまやろうと思っていたのに・・・」
と思うだけでは、何も始まらないことに気づいて欲しいのです。
 「今が大切。今やらない人が、明日やる保証はない」
という思いも込められています。

また、年末年始は家族と過ごす時間が多くなると思います。
家族の一員として、自分のできること、
しなければならないことを積極的に行ってください。

それでは皆さん、家族みんなでよい年をお迎えください。
元気な姿で、1月にあいましょう。



四方山話

四方山話

ふたご座流星群を見ようと毎晩夜空を眺めているのですが・・・
15日朝3時頃が極大ということで、午前1時半ごろから空を見上げていたのですが、本日も雲に覆われていて見ることはかないません。先週の金曜日は、雲の合間から星空がのぞけていたので30分ほど眺めていました。その後、雲に覆われ流星を見ることはかないませんでした。
8月の「ペルセウス座流星群」の二の舞にならぬよう期待しながら、もう暫く粘ってみます。

今日は星になった方のお話をしようと思います。
今年も、多くの方が鬼籍に入りました。

作家では、野坂昭如氏、陳舜臣氏、宮尾登美子氏・・・
漫画家では、水木しげる氏、平井和正氏・・・
スポーツ界では、北の湖敏満氏、上田昭夫氏、高橋一三氏、斉藤仁氏・・
みな、それぞれの分野で活躍された方々です。
思いつくままに少しお話ししますね。

野坂さんは、1970年代によくマスコミを賑わしていた感があります。五木寛之氏との「対論」なども読みました。「マリリンモンローノーリターン」のさびの部分は今でも鮮明に覚えてますし、「みんな悩んで大きくなった・・・」のCMも忘れられません。

平井和正氏は、僕らの世代のヒーローのひとりである東八郎、そうです「8マン」の作者です。少年マガジンに連載されていました。
当時、漫画雑誌は月刊誌と週刊誌があり、月刊誌には付録がついていました。週刊誌は40円位だったと思います。
「8マン」はマガジンよりもテレビの方が印象が強いです。

水木さんの漫画も「墓場の鬼太郎」をはじめよく読んでました。テレビでは「ゲゲゲの鬼太郎」として放映されました。
また、「悪魔くん」「河童の三平」がアニメではなく、実写(もちろん白黒)でおもしろかったです。魔法陣を前に「エロイムエッサイム、我は求め訴えたり」と呪文を唱えるとメフィストが登場しました。数学で魔方陣を扱ったりすると、「悪魔くん」を思い出してました。

このところラグビー人気が再燃しておりますが、上田昭夫氏は慶応大学のラグビー部員で、全日本でも活躍したラガーマンです。後に低迷していた母校の監督となり、創部100周年となる1999年に監督として2度目、大学として3度目の日本一を果たします。
僕がラグビーを秩父宮ラグビー場で見たのは、中学3年生の(1972年)10月29日の早稲田対日体大戦でした。
早稲田の主将は故宿沢広朗さん。71、72年の日本選手権で社会人を破り連覇を果たした早稲田でしたが、72年のシーズンは北島忠治監督率いる明治に敗れ、日体大(綿井永寿監督)に引き分けながらも対抗戦では優勝。大学選手権では明治が1点差で初優勝します。この時の明治のスタンドオフが、後に新日鉄釜石で活躍する松尾雄治さんです。
70年代から80年代前半にかけ、秩父宮にはよく通いました。

故人を偲びながら、往時の様々なことを思い出しました。

さて、「今年の漢字」は例年12日に発表されていたのですが、今年は本日、清水寺貫首森清範氏により揮毫(きごう)されます。どんな世相を表す漢字が登場するやら・・・




12月の「宙」模様 その2

12月の「宙」模様 その2

40年来、毎週日曜日は「サザエさん」が我が家の定番です。
かつて、日曜日の午後6時、7時台は子どもにとってまさにゴールデンタイムでした。
宇宙エース、忍風カムイ外伝、おばけのQ太郎、ポパイ、忍者部隊月光、ウルトラマン・・・
「サザエさん」の中島くん役の声優が白川澄子さんの逝去に伴い、次週から落合るみさんに代わります。今年9月にフネ役の麻生美代子さんが降板したばかりだったのに・・・
最初からの声優は、サザエ役の加藤みどりさんとタラオ役の貴家堂子(さすがたかこ)さんだけです。
カツオの声は、最初は「オバQ」や「ドラえもん」の大山のぶ代さんだった気がします。

オッと、本題からそれてしまいそうです。
いずれ後日、この件はお話しますね。

今日は、「ふたご座流星群」のお話しです。

その前に、「あかつき」について一言。
どうやら「あかつき」も順調にいっているようで、ひと安心です。
宇宙航空研究開発機構(JAXA)は本日7日午前8時51分、予定通り金星に接近した探査機「あかつき」を金星周回軌道に投入するため、姿勢制御用エンジンの20分間の逆噴射しました。
JAXAによると、機体に異常は無いとのことで、噴射に成功したようです。
金星軌道投入の成否については暫く追跡した後、9日の18時に記者発表されます。

それでは、「ふたご座流星群」についてお話しいたします。

夜空を流れる星を見ると、いくつになっても心がときめきます。
小学校5年生の時、理科の授業で星座の学習をした後、真冬の校庭にクラスみんなで集まり、飽きることもなく星空を眺めていたことを思い出します。
1960年代の我が町は、夕刻ともなれば開いているお店もなく、街灯と家の灯りが灯っているだけでした。

流れ星(流星)について科学的に説明すると、宇宙空間にある直径1ミリから数センチ程度のチリの粒が地球の大気に飛び込んで大気と激しく衝突し、高温になったチリが気化する一方で、大気や気化したチリの成分が光を放つ現象のことです。

彗星はこのようなチリの粒を軌道上に放出し、放出されたチリの粒は、放出した彗星の軌道上に密集します。彗星の軌道と地球の軌道が交差すると、チリの粒がまとまって地球の大気に飛び込んできます。地球が彗星の軌道を横切る日時は毎年ほぼ決まっていますので、毎年特定の時期に特定の流星群が出現することになるのだそうです。

毎年12月中旬は、ふたご座流星群が活動する時期です。
とりわけ、今年のふたご座流星群は絶好の条件です。11日が新月のため月明かりの影響はほぼありません。
また、流星群の活動が最も活発になるのが15日の午前3時頃と予想されていて、日本での観察にたいへん適しています。
このように2つのよい条件がそろうため、今年のふたご座流星群は前後10年ほどの間でも最もよい条件で観察することができる。と国立天文台では広報しております。

ふたご座流星群は、年間を通して最大の流星群と言われています。
今年は一晩で観測できる流星の数が、1時間に最大で60個から80個くらいの出現が期待できるそうです。夏のペルセウス座流星群は雲が多く見ることができませんでしたので、期待は膨らみます。

1月の「しぶんぎ座流星群」、8月の「ペルセウス座流星群」、12月の「ふたご座流星群」の3つが、流星群の中でも毎年安定して出現数が多いので、特に三大流星群と呼ばれています。
11月の「しし座流星群」は年によって出現率が異なり、今年は残念ながら、安定して見ることができませんでした。

ふたご座流星群の一般的な出現時期は、12月5日〜12月20日頃で、極大は14日頃です。極大を過ぎると急に流星数が減る傾向にあるそうです。
14日だけしか見ることができないというのではなく、14日に最大数の流星が見られると言うことです。
小田原では9日までは15時過ぎに、10日から12日は新月ですし、16日は21時半ごろには月は沈みます。日没後でも運が良ければ見ることができます。

防寒対策をしながら、夜空を見上げてみてください。
満天の星空を、多くの星が流れるのを見ることができるかもしれません。

星が流れたら、星が消えないうちに願い事をしてください。
素敵な夢が叶うかもしれませんから・・・

でも、首が痛くならない程度にしてくださいね!
本当は寝転がって空を見ることができるといいんだけれど・・・




昨夜のテレビから

昨夜のテレビから

昨日(12月3日)、家に帰るなり「はやぶさ2」の地球スイングバイ関連のニュースを見ようとテレビをつけたところ、NHKクローズアップ現代をやってました。
番組では、ノーベル賞授賞式を前に「チームでつかんだノーベル賞」と題して、梶田隆章さんの「ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」に至る研究過程を取りあげていました。

素粒子物理学は凡人の僕には、解説を聞いても難解で全く理解できません。トホホ状態です。
しかし、番組を見終わって、タイトルの「チームでつかんだノーベル賞」ということについては、“なるほどなぁ!” と思ったのでした。

素粒子物理学の世界では、理論が著しく先行していくなかで、後から現象を実証確認するといった研究・作業が行われています。
梶田さんは、師であるノーベル賞受賞者の小柴さんやチームリーダー、その他多くの人との協力関係があったからこそ、ニュートリノに質量があることを実証できたのだと語ります。

今回の研究は、宇宙の起源を解き明かす新たな粒子の発見や物質世界を説明する「大統一理論」につながるとされ、多くの科学者が梶田さんの理論をもとに更なる理論研究、実証研究を進めている姿が映し出されていました。

ガリレオ・ガリレイが1609年、手作りの望遠鏡で天体観測を始めてから400年余り、科学技術の進歩はとどまるところを知りません。
それどころか、加速度的に進化しているように感じます。
その科学技術の分野でも、人格形成を含めた師弟関係や同僚・仲間との関係、自分の専門以外の分野の人たちとの関係があってこそ、進歩があるのだと再認識したのでした。

余談ですが、江戸時代に全国を歩き「大日本沿海輿地全図」という日本地図を作った伊能忠敬は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた伊能家に婿入りします。詳細は省略しますが、忠敬は若くして名主としても活躍します。

その忠敬は天文学に興味を持ち、江戸へ出て元大坂(明治4年の廃藩置県以前までは大坂。以後は大阪)の同心であった天文方高橋至時(たかはしよしとき)に師事します。
至時は大坂では麻田剛立(あさだごうりゅう)の天文塾(先事館)で学び、そこの同僚に町人の間重富(はざましげとみ)がおりました。間重富も幕府の要請で至時と一緒に江戸で暦の改正にあたります。忠敬との関係では、測量機器の製作に尽力します。
この二人の助けがあったからこそ、「大日本沿海輿地全図」は作ることができます。忠敬の死後は高橋至時の長男、高橋景保(かげやす)が中心となって完成させます。

また、蝦夷地を探検した間宮林蔵は測量術を忠敬からも学んでいます。「輿地全図」の蝦夷地部分は林蔵の測量図も使われています。
さらに、この地図を国外へ持ち出そうとした「シーボルト事件」には、高橋景保が大きく関わります。

興味のある方は、次の本がお薦めです。
 吉村昭    「ふぉん・しいほるとの娘」、「間宮林蔵」
 高橋大輔   「間宮林蔵・探検家一代 海峡発見と北方民族」
 童門冬二   「伊能忠敬:日本を測量した男」
 井上ひさし  「四千万歩の男」

いつの時代も人間の社会においては、人との関わりでの中で物事は形成され、そして成就するのですね。

さあ、次は7日の「あかつき」です。
「ふたご座流星群」については次回お話します。




12月の「宙」模様 その1

12月の「宙」模様 その1

今年のカレンダーも、残り1枚になってしまいました。
先日、小学校長会で相模原市立若草小学校を訪ね、ユニバーサルデザインの授業づくりについての研修を行った後、JAXAで宇宙の謎に迫る説明を受けてきました。
本日は、久しぶりに宇宙のお話をしようと思います。

その1 「はやぶさ2」について
(1)「はやぶさ2」の目指す小惑星1999 JU3の名称が公募の結果、決まりました。
平成27年10月5日、国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、小惑星探査機「はやぶさ2」が目指す小惑星1999 JU3の名称を「Ryugu」(リュウグウ)に決定しました。
・「浦島太郎」の物語で、浦島太郎が玉手箱を持ち帰るということが、「はやぶさ2」が小惑星のサンプルが入ったカプセルを持ち帰ることと重なること。
・小惑星1999 JU3は水を含む岩石があると期待されており、水を想起させる名称案であること。
・既存の小惑星の名称に類似するものが無く、神話由来の名称案の中で多くの提案があった名称であること。
を選定理由に挙げています。

(2)2015年12月3日 地球スイングバイ
昨年12月3日に、鹿児島県の種子島宇宙センターから打ちあげられた小惑星探査機「はやぶさ2」が、ちょうど1年を経て、地球の近くに戻ってきます。そして、地球の引力を利用した「スイングバイ」によって、目的地の小惑星「Ryugu」(リュウグウ)へ向かいます。
スイングバイ後は小惑星「Ryugu」(リュウグウ)の軌道に近い軌道に入り、太陽を約2周したあと、2018年夏頃に「Ryugu」(リュウグウ)に到着します。

スイングバイの観測を川崎「宙と緑の科学館」の他、各地の天文所が行う予定です。観測成功の場合は、ホームページ等で掲載するようです。

 
「スイングバイ」とは、少ない燃料(推進剤)しか積めない惑星探査機が遠くまで行く時に惑星の重力を使って加速する方法です。簡単に言うと惑星の引力を利用し、惑星に近づくほど引力が強くなり探査機の速度がじょじょに速くなることを活用したものです。今回は地球の引力を活用するため、地球スイングバイと呼ばれています。
詳しくはJAXAの、小惑星探査機「はやぶさ」物語をご覧ください。詳しく説明されております。
 http://spaceinfo.jaxa.jp/hayabusa/about/princip...


その2 金星探査機「あかつき」
    失敗から5年 軌道投入へ再挑戦

5年前の2010年5月21日、H-IIAロケット17号機によって打ち上げられた金星探査機「あかつき」は、同年12月7日、金星を周回する軌道に入るための軌道制御エンジンの噴射を実施しましたが、金星周回軌道への投入に失敗しました。その「あかつき」が、再び金星を回る軌道に投入されることになりました。

前回の失敗は、異常燃焼が生じスラスターと呼ばれるセラミック製の噴射口が破損したことが直接的な原因だそうです。JAXAでは金星周回軌道投入の再計画を検討し、2015年12月7日に軌道投入を実施することに決定しました。

先日のNHKニュースウォッチ9でも取りあげていましたが、不可能と言われた再挑戦の道を切り開いたのは、探査機の軌道計算を担当した一人の女性研究者です。

その後の解析で、姿勢制御用のエンジンを使い、再び金星を回る軌道に入る可能性を探ることになった廣瀬史子さんは、新たな軌道探しをパソコンだけでなく手帳に計算を書き出し軌道を探し続け、数値や条件を変えながら2年半、計算を繰り返し、数万ケースから最適な軌道にたどり着いたそうです。
廣瀬さんは「様々なエンジニア的な準備を行ってきました。考え漏らしがないように、これまでも準備していますが。12月7日までよくよく不具合の対策をとっていけたらと思っています」と話してました。

「あかつき」の設計寿命は4.5年。すでに寿命を超えていますし、残っている燃料は今回の投入でほとんど使い切ってしまうため、もし失敗すれば、再々挑戦の可能性はありません。燃料系の問題だけでなく、科学観測機器も太陽熱や宇宙放射線に晒されており、故障してもおかしくありません。

地球と双子星と呼ばれている金星の謎の多い気象条件についての探査を行い、多くの発見がなされることを期待します。 

「あかつき」の金星軌道投入の成否は、数日かけて確認をしないとわからないそうです。JAXAは、12月9日の18時から記者会見を行うとのことです。

「はやぶさ」の時もそうでしたが、人知の結集でこの艱難辛苦を乗り越えて欲しいものですね。

その3 双子座流星群
今年、最大で最後の天体ショーが・・・長くなったので次回お話しします。




再度、ピラカンサ

再度、ピラカンサ

給食を食べながら、今日はだいぶ冷え込むななどと思いつつ、
ふと、今日、11月25日は三島事件があった日だったことを思いだしてました。

事件の詳細は省略しますが、45年前の1970年に作家の三島由紀夫が憲法改正を掲げ、自衛隊のクーデターを呼びかけた後に割腹自殺をした事件です。
僕は中学1年生でした。あれから45年が経ったんだと、漠然と思いながら新聞を見たのですが、三島事件に触れる記事はありませんでした。

この事件があった1970年という年はいろいろな変化のあった年で、プロ野球の産経アトムズがヤクルトに買収されヤクルトアトムズに、よど号ハイジャック事件、大阪千里でExpo70日本万国博覧会の開催、夏の甲子園で東海大相模が優勝、等々いろいろありました。野球関連でいえば巨人はこの年、セリーグV6を達成します。(V9まで続きます)

中学時代の記憶は割と鮮明に覚えているもんですね。
高度経済成長真っ盛り! なんてノスタルジックな気分になっていたところ・・・
一本の電話が鳴り・・・

昨日の「校長室から」の「ピラサンカの実」の花の名前は、「ピラカンサ」ではないか。とご指摘を受けました。

そんな・・・と思いながら、ネットで検索してみると「ピラサンカ」「ピラカンサ」いずれでもヒットします。
写真や記述内容を見ても同一の植物を説明しているように思えます。

「ピラカンサ」についてウィキペディアによると、
トキワサンザシ属(トキワサンザシぞく)とはバラ科の属の一つ。学名Pyracantha。ラテン名のままピラカンサ属ともいう。
トキワサンザシ(P. coccinea)
ヨーロッパ南部〜西アジア原産。花期は4〜5月頃、11月頃に果実が赤く熟し、翌年1月頃まで果実がついている。単に「ピラカンサ」というと本種のことが多い。
とあります。

なるほど。そうなんだ!
ピラサンカだとばかり思ってました。

ありがとうございました。
記憶なんて結構、曖昧ですね。
僕の場合、さらに思い込みというのもありますし・・・注意、注意!
早速、訂正させていただきました。

また、お気づきの点がありましたらお知らせください。


ピラカンサの実

ピラカンサの実

この3連休はあまり体調が良くないなか、法事や外出しなければならないことがあっただけでなく、年末の大掃除の序章ともいうべき床のワックス塗布を行ったりと、なかなかせわしなく過ごしました。

昨日は、金魚の水槽の清掃をしたあと薄日が差してきたので町中を少し歩いてみました。
散歩しているとピラカンサの実が目につきます。
花は6月ごろに筒状の白い細かい花が咲くのですが、冬の寒さに向かうこの時期、枝にぎっしりついたピラカンサの赤い実は、パワーのかたまりのようで自信がつきます。
花言葉は「燃える思い」「輝きのある日」「慈悲」だそうです。
花よりも、秋に色付く実にふさわしい言葉だと思います。

桜が咲いていました。
本来、春に咲くはずの花が咲く「帰り花」です。
今年は「小春日和」という感じの日がないような気もしますが、例年に比べてもそれほど寒くない日和です。
でも、花にとっては偽りの季節です。
春咲きの花は、冬の厳しい寒さに耐え、それを越えてこそ美しい花を咲かせることができるのですから。

人には「やらなければならないこと」のほかに、「やれること」と「やりたいこと」があるのですが、やりたいことはなかなかできません。
ワックス塗布も水槽掃除も、残念ながら「やりたいこと」ではありません。
一時の悦楽に惑わされずに、春一番の風が吹くまでじっくり耐えることが大切であることは十分承知しておりますが・・・
「明日できることは今日する必要は無い」と悪魔が囁きます。

ピラカンサの実を見て、「今日やれることを明日に延ばすな!」と再確認というか、自分に言い聞かせたのでした。



「金盞香」

「金盞香」

二十四節気の立冬も七十二候(しちじゅうにこう)の末候、第57候(今年は11月18日から22日)を迎えました。

七十二候とは立春を第一候とし、二十四節気をさらに約5日ずつの3つ(初候・次候・末候)に分けた期間のことで、気象の動きや動植物の変化を知らせるものです。二十四節気が古代中国で作られたものをそのまま使っているのに対し、七十二候は日本の風土に合うように改められています。現在は、明治7(1874)年の「略本暦」に掲載されたものが主に使われているそうです。

 第57候の名称は、「金盞香(きんせんかさく)」です。

漢字やよみからは、金盞花(きんせんか)を連想してしまいそうですが、水仙が咲き芳香を放つ頃ということです。「金盞」は金の盃のことで、水仙の黄色い冠を見立てているのだそうです。

我が家の水仙はまだ咲いてはおりません。
例年、12月下旬ごろにならないと咲きません。蕾もまだまだです。
水仙の香りはもう暫くお預けです。

余談ですが、水仙の原産地は地中海周辺で、日本には室町期以前に中国から伝わったそうです。学名はNarcissus(ナルシサス)で、ギリシャ神話に登場するナルキッソスという美少年が由来とされています。
もうお気づきのことと思いますが、ナルシストの語源となっています。

ナルキッソスはそのあまりの美しさから周囲の女性を虜にし、多くのアプローチを受けます。しかし高慢な性格と自分の美しさを鼻にかけていたナルキッソスは、決して誰かを愛そうとはしませんでした。

その態度に怒りを覚えた復讐の女神ネメシスによって、自分しか愛せない呪いをかけられ、水面に映った自分に恋をすることになります。
やがて、恋する気持ちで食事もできなくなったナルキッソスは憔悴して息絶えてします。その姿が水辺でうつむきながら咲く水仙の花に変わったのだそうです。

自信を持つことは大切なことです。しかし、自己肯定感も度が過ぎると高慢になり、「うぬぼれ」ということになりかねません。さらに他を受け入れなければ、「エゴイスト」にも通じることになります。

やはり、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、かつ通常の感覚で理解できること。自分を認めることとともに、他をも認めることが大切なのでしょう。

可憐な花を咲かせる水仙にも、謂われがあるのですね。

西行は、
 花見ればその謂われとはなけれども心のうちぞ苦しかりける
と詠み、花鳥風月、雪月花(せつげっか)、様々なものの中に「哀惜」があるといいます。

西行の境地には遠く及びませんが、
何事も、ほどほどにしておかないと・・・



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