学校での子どもたちの様子をお伝えします。

ぼくの夏休み

ぼくの夏休み

今年の夏は、人生60回目の夏でした。
さらに幼稚園から通算して、56回目の「夏休み」でした。

「夏休み」、何と心地よい響きなのでしょう。
この言葉を聞くだけでワクワクしてきます。

僕が今まで経験してきた夏休みは、およそ42日間でした。
社会の変化と教育環境の変化に伴い、これも今後、変わって行くのかもしれませんね。
蝉を捕ったり蜻蛉を追いかけたり、昼寝をしたりと、小さい頃は一日が本当に長かった。
都会にはそんな自然がないから、ゲームばかりしているのなら学校へ行った方がよいというのは少し乱暴な気もします。
僕が育った時代と今とでは、教育の質も時数も大きく変化してますが、在り来たりな言い方をすれば「不易と流行」・・・変わっちゃいけないもの、なくしちゃいけないものはあるはずですね。夏休みにしかできないことを見つけさせるのも僕らの仕事なのかもしれません。

中国の五行説は、季節を「青春、朱夏、白秋、玄冬」の4つに分け、四季の終わりにそれぞれ「土用(土気)」を設けて、一年を「五時」に分けます(土用の丑の日というのもここに由来します)。また、青、朱、白、黒(玄)4つの色で表しています。

これを人生にあてはめると、
 青春  10代半ばから30代半ば   志学
 朱夏   30代半ばから50代後半   立身 不惑 知天命
 白秋   50代後半から60代後半   従耳
 玄冬   70代から          不超矩
となるのだそうです。

さしずめ今の自分は、人生の夏であり人生の真っ盛りの朱夏を過ぎ、白秋へとさしかかったところでしょうか。
この年代の前半は、子育てにおわれ、与えられた仕事をこなし、一人立ちする年代で、後半は、今までの成果の刈り取りをし、次の白秋や玄冬へつないで行く年代なのだそうです。

「白秋」というと小田原にも所縁の深い北原白秋を連想される方もいらっしゃるかと思います。
白秋は小田原の木菟(みみずく)の家に暮らした8年間で、生涯に作った1,200編におよぶ童謡作品のうち、約半数の作品を創作しています。
名前は中国の五行説に由来するとされてますが、実は学生時代に仲間と同人雑誌を発行する際、白に一字をあてたそろいの雅号をつけることになり、くじ引きで白秋なったそうです。城北中時代に「由紀さおり・安田祥子」さんをお招きし、子どもたちに白秋の童謡を聴かせていただいた際に、そんなお話を由紀さんから聞いたことを思い出しました。
9月2日から来年7月まで、小田原文学館では「白秋と童謡、赤い鳥」と題して、白秋の童謡を巡る主要な作品を館蔵資料から紹介します。

小田原の南町の西海子(さいかち)通りに小田原文学館があります(かつてはこの通りに保健所もありましたね)。

この小田原文学館は田中光顕(みつあき)別邸です。
田中光顕は天保14(1843)年、土佐藩(高知県)に産まれ、尊皇攘夷を掲げる武市半平太の土佐勤王党に参加します。幼名は浜田辰弥。叔父の須賀慎吾は土佐藩主山内容堂が絶大の信頼を置いた開国派の吉田東洋暗殺(1862.5.6)の実行犯で、田中光顕も暗殺計画に荷担したとされています。その後、1863.8.18の政変以降、土佐勤王党への弾圧が始まり、謹慎を命ぜられます。翌64年には土佐藩を脱藩します。このとき浜田辰弥から田中光顕と名前を変え、長州藩を頼り、薩長同盟の成立にも関わります。

1867年の近江屋事件では、坂本龍馬にいわれ軍鶏(しゃも)を買いに出ていた鹿野峰吉が戻り、陸援隊の詰所である白川屋敷へ龍馬らの遭難を知らせに走ります。田中は龍馬、中岡慎太郎の暗殺現場に一早く駆けつけ、中岡死後の陸援隊を統率していきます。維新後は陸軍中将、宮内大臣などを勤めています。

小田原城近く(二宮神社・報徳博物館近く)に「清閑亭」という黒田長成(くろだながしげ:政治家・貴族院副議長、黒田官兵衛から数えて14代目)の別荘があります(場所のイメージとしてはスポーツ会館、旧城内高校の周辺です)。その「清閑亭」の南側(国道側)、「山角天神社」の近く(野地サイクルの裏手)に「対潮閣」(山下亀三郎、山下汽船:現、商船三井創業者の別邸)がありました。ここは、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」、海軍中将秋山真之(さねゆき)の終焉の地でもあります。山下とは同じ愛媛の生まれで、秋山はここから山縣有朋の別邸「古稀庵」を訪ねて国防について語っていたようですが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7年(1918年)2月4日対潮閣で亡くなっています。

小田原の偉人は二宮尊徳翁だけではありません(尊徳翁、映画になるようですね)。
小田原所縁の文学者や政治家、実業家は多いです。
秋の一日、ゆかりの地を訪ねてみるのもよいかも・・・

ウーム、いつもながら脈絡滅裂で・・・

昔、NSPが歌った「ぼくの夏休み」という曲がありまして、夏の終わりになるとこの曲と吉田拓郎の「消えていくもの」という曲を思いだし、懐かしみながら口ずさみ、秋の到来を待つのです。

 遊園地 ローラースケート 二人で行くはずだったのに
 バイトして お金をためて 二人で遊ぶはずだったのに
 ギターを弾いて マークツーを 二人で歌うはずだったのに
 野菜の入ってない カレーライス 二人でたべるはずだったのに
 とうもろこしを 半分にして 向かいあって すわって かじったり
 海に行って 砂浜で かけっこしたり 泳いだり
 そんな夢 見られただけで 幸せだったのかしら ・・・

 僕は角のたばこ屋さんが好きだった
 たいした理由はないけれど好きだった
 毎日あそこを通って学校へ通った
 話をしたことはないけど
 何となく気になるおばさんがいて
 お茶を飲みながらいつも笑ってた

 僕は社会科の先生を覚えてる
 いつも仁丹を片手いっぱいほおばって
 独特の臭いがあの頃好きじゃなかった
 先生のことを少しキライで少し愛してた
 居眠りすると何も言わずに仁丹を食わされた

まぁそういうことで、ぼくの夏休み、朱夏の夏が終わったのでした。

以前にも紹介しましたが、ジョージ・バーナード・ショーというイギリスの作家が面白いことを言ってます。
  We don't stop playing because we grow old.
  We grow old because we stop playing.

  年をとったから遊ばなくなるのではない。
  遊ばなくなるから年をとるのだ!




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