学校での子どもたちの様子をお伝えします。

オリンピック異聞

オリンピック異聞

ピョンチャンオリンピックも終盤に近づいてきました。
開幕前は、さほど気にもしていなかったのですが、競技が始まると連日テレビをつけっぱなしで、アスリートの活躍に一喜一憂しております。メダルの数も2月21日現在11個となりました。

冬季オリンピックというと、20年前の長野と、46年前の札幌を思い出します。
長野も、ついこの間のような気がしているのですが・・・
20年前の長野ではジャンプ陣が個人・団体でメダルを獲得し、スピードスケート500Mでは清水宏保が金、岡崎朋美が銅、スキーモーグルでは里谷多英が金、と大活躍でした。
小田原市中学校体育連盟で距離競技を観戦に行った事を思い出します。

1972年は非常に衝撃的な年でした。
2月3日に開幕した札幌大会は、スケートでは銀盤の妖精といわれたジャネット・リンが人気を独占してましたし、スキージャンプ70m級では、笠谷幸生が1位、金野昭次が2位、青地清二が3位と、日本人が冬季オリンピックでは初めて表彰台を独占しました。当時中学2年生の僕は、トワ・エ・モアが歌う「虹と雪のバラードを」聴きながら、連日テレビに釘付けになっていました。
この札幌オリンピックは2月13日に閉幕したのですが、その6日後の19日から28日にかけ、日本中を震撼させた「浅間山荘事件」が起こった年でもあります。

当時、神奈川方式と呼ばれる高校選抜方法が行われており、中学1年、2年の3月に県下一斉に行うアチーブメントテストがありました。2・3年の内申(50%)に加え、ア・テストの段階点(25%)、入試(25%)の3本立てで選抜が行われました。現在の入試重視の選抜とは違い、中学校での内申とアテストの結果で入試資料の75%が決まり、一定の成績をとっていれば、入試での逆転が起こらないシステムです。ですから、2月から3月は中学生にとって、入試も含め勉強の季節でした。部活動もア・テスト1ヶ月前から中止となりました。
その直前にオリンピックと浅間山荘事件が重なったのですから、もう勉強どころではありませんでした。

この年の9月に行われたミュンヘンオリンピックでは、松平康隆監督率いる男子バレー、男子体操で塚原、中山、加藤の各選手が金メダルをとりました。その一方、パレスチナ武装組織「黒い9月」により、イスラエル選手人質11人全員が射殺されるという事件も起こります。

同月、田中角栄首相が中国の北京を訪れ、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に、周恩来首相と共に署名し、日中国交正常化が実現します。
これを記念し、11月には中国からパンダ(カンカン、ランラン)が寄贈され、上野動物園にやってきたのでした。この時もパンダ人気で上野というか、日本中が盛り上がったのでした。

ピョンチャンオリンピックをテレビで観ながら、時の移ろいと、平和であることの喜びを再確認したのでした。


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