学校での子どもたちの様子をお伝えします。

大人の修学旅行 〜 京都慕情2  慈照寺 銀沙灘と向月台

大人の修学旅行 〜 京都慕情2  慈照寺 銀沙灘と向月台

東求堂の見学は、10人ずつ2グループに分かれ説明されます。僕らのグループは先に同仁斎の見学をし、その後、方丈(本堂)を見学しました。
前回言い忘れましたが、同仁斎の違い棚の横にある机、出文机(だしふづくえ)と読みます。付け書院ともいわれるようです。

方丈には、与謝蕪村と池大雅、富岡鉄斎、奥田玄宗の襖絵がありました。
方丈は江戸時代に建てられたようです。蕪村も大雅も享保年間の生まれです。享保といえば、徳川八代将軍吉宗の治世です。彼らが襖絵を描いたのは1760年前後だそうです。襖には仙人が描かれていました。杜甫の飲中八仙歌をモチーフに多くの画人が画題としており、後で訪れる海北友松(かいほうゆうしょう)にも飲中八仙図があります。

余談ですが、以前「渡辺崋山」をこの欄で紹介した際に(2015.1.26)、「18世紀半ば以降に、明・清の南画の影響を受けた文人画(南画)と呼ばれる画風がおこり、池大雅と与謝蕪村の合作「十便十宜図」がその代表作です。」と紹介しました。南画は見るとすぐに、中国の影響を受けてるな、とわかります。

大雅の作は、仙人が釣りをしたり酒を飲んだりしています。
蕪村といえば蕉風復興を提唱した江戸中期の俳諧のリーダー的存在です。その蕪村の飲中八仙図の仙人は大変ユニークで、酒に酔った仙人が弟子たちに介抱されています。ただの飲んべえ親爺(失礼)といった感じで、親近観を覚えました。
鉄斎は明治期を中心に、玄宗は昭和期に活躍した人物だそうです。

かの有名な銀閣は観音殿で、東山殿内で最後に建てられ、また創建当初からの遺構を現在に伝える建物だそうです。宝形造(ほうぎょうづくり)、柿葺(こけらぶき)の二重の楼閣で、1階は心空殿(しんくうでん)と呼ばれる書院造、2階は潮音閣(ちょうおんかく)と呼ばれる禅宗様(唐様)で観音像が安置されており、屋根には鳳凰が飾られています。
銀閣には銀が貼られていたのか調査したところ金属反応はなく、銀ではなく漆が塗られていたとの説明がありました。

銀閣(本堂)の内部は公開しないのでしょうか? 
是非、観てみたいですね。
観てみたいというのは、内部はもちろんですが、本堂から見ると月明かりを反射した銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台(こうげつだい)は、どのような感じになるのでしょうか。興味を引かれます。

銀沙灘は砂で急流の流れを表し、中国の西湖の波打つ風景を描写したものといわれます。また円錐状に盛られた「向月台」は西湖の山をかたどったといい、月に照らされる光の反射を意識して造られたといわれてます。
いつ見ても、美しさと不思議が混在し、印象に残ります。
ただ、向月台と銀沙灘は、足利義政の時代からあったものではなく、江戸時代の18世紀半ば以降に生まれたとされています。どのような理由や背景のもと、だれが最初につくったのかなど、はっきりしたことはわかってはいないようです。

「太陽の塔」や「芸術は爆発だ」、「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」で知られるモダンアートの巨匠岡本太郎さんも、「日本の伝統」という著書のなかで、「銀閣寺の銀沙灘はまったく、だれにも意外なものであるに違いありません。正直にいって、はじめて見たとき、私じしんがギクッとしました。」といってます。

余談ですが、私の住む真鶴町には中川一政美術館があります。
1990年代の初めの頃だったと思いますが、中川美術館を訪れた時、中川一政や武者小路実篤、岸田劉生らの所属する春陽会に岡本太郎が入会したいと申し出たのに対し、“岡本は変わり者だから入会を断ろう”と、相談する内容の書簡がありました。これを見て、僕は大変興味を持ち、岡本氏の著書を読んだのでした。
「日本の伝統」も、今から60年ほど前に書かれたものですが、文庫本として復刻されてます。
「法隆寺は焼けてけっこう。自分が法隆寺になればよい・・・」
興味を引かれませんか?
川崎の岡本太郎美術館も素敵ですよ。

まだまだ袈裟型の手水鉢など、慈照寺の魅力は紹介しきれていませんが、日帰りの旅なので、先を急ごうと思います(笑)。

本日はここまでといたします。



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