学校での子どもたちの様子をお伝えします。

鍵屋の辻 その3

本日、足柄小学校では朝会で、今シーズンのプール使用上のルールと安全を子どもたちと確認し、プール開きを宣言しました。
残念ながら気温が低く、実際にプールに入ることはできませんでした。


さて今回は、江戸所払いとなった又五郎や数馬と又右衛門らの動向、そして決闘の様子についてお話ししようと思います。

幕府の裁定の結果、江戸所払いとなり安藤邸にいられなくなった又五郎は、江戸を出て大和郡山付近に住む叔父の河合甚左衛門の屋敷等に潜伏します。

これも不思議なことですが、大和郡山には殺害した渡辺源太夫の姉が嫁いでおり、その夫は剣術指南役の荒木又右衛門です。
荒木又右衛門と河合甚左衛門は、ともに大和郡山藩の剣術師範を務めていて(荒木又右衛門の方が後輩で格下)付き合いも当然あったことと思われます。
なぜその様なところへ潜伏したのでしょう?
“灯台下暗し”でも狙ったのでしょうか。

数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜します。講談等では全国を行脚したように話が展開しますが、実際は河合一族の動向を監視するなかで、潜伏先を突き止めたようです。
甚左衛門の方も危険を察知し、又五郎を再び江戸に移すことにします。しかしこの又五郎脱出計画は、数馬や又右衛門の知るところとなります。

大和から江戸に行くには大和街道で鈴鹿郡関宿に出て、西の追分から東海道に出ることになりますが、交通手段としては陸路と、途中まで木津川の舟を利用する方法がありました。
鍵屋の辻は、東海道に向う大和街道と南下して津や伊勢方面に向う伊賀街道との分岐点となっていました。付近を流れる木津川には舟着き場もあり、徒歩と舟の両方を補足できます。ここで、数馬と又右衛門は又五郎を待ちます。

また鍵屋の辻は、上野城の西大手門のすぐ近くです。白鳳城とも呼ばれる上野城は、藤堂高虎が改修した高石垣で有名な城です。津藩の本城でしたが、大坂夏の陣以降は交通の便のよい津城を本城とし、上野城は支城として高虎の弟の藤堂高清が城代となります。仇討ち決行の際、藤堂家の家中の者が大和街道を封鎖し、邪魔が入らないようにしたという言い伝えもありますが、真偽の程は定かでありません。

寛永11年(1634年)11月7日の早朝。ついに河合又五郎は、護衛や使用人ら11名(20人という説もあります)とともに鍵屋の辻に現れます。

数馬方は又右衛門の他に、門弟の岩本六助(岩本孫右衛門)と河合武右衛門の4人。相手方は11人もいましたが、多くは槍持ちや使用人でした。武芸に秀でた者は、又五郎の妹婿の霞の半兵衛こと尼崎藩槍術師範桜井半兵衛と、叔父の元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門です。

又右衛門は、渡辺数馬に又五郎を、岩本六助と河合武右衛門に桜井半兵衛と小姓を相手にさせ、又右衛門自身は河合甚左衛門と対峙するという作戦を立てます。
馬に乗った河合甚左衛門が又右衛門の前にさしかかったとき、全員が一斉に飛び出して斬りかかり、決闘が始まります。

又右衛門は甚左衛門が落馬した際に斬り殺します。大和郡山藩剣術師範としては、あっけない最後でした。
強敵の桜井半兵衛に向った六助と武右衛門ですが、武右衛門は半兵衛に斬られてしまいます。その後、又右衛門が駆けつけて半兵衛を倒します。甚左衛門と半兵衛が倒れたところで、他の従者はみな逃げてしまったようです。

数馬と又五郎はともに剣術が未熟であったため、互いに手傷を負いながらも、致命傷には至らないなか、駆けつけた又右衛門と六助が助成し、やっと又五郎の首をとることができました。

講談では又右衛門は36人を切り倒したなどと語られますが、これは講談師による脚色で、実際は甚左衛門と桜井半兵衛の2人だけです。

次回は、数馬と又右衛門、六助のその後についてお話します。




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