学校での子どもたちの様子をお伝えします。

鍵屋の辻

鍵屋の辻

先日、職員室で曽我の傘焼き祭りの話題から「三大仇討ち」の話になったとき、若い職員は下を向いてしまいました。

最近では時代劇を扱ったテレビ番組も少なく、地上波ではNHKの大河ドラマと木曜時代劇、BSでは再放送ものは結構ありますが、新作はやはりNHKのBS金曜時代劇ぐらいです。民放で扱わないのは、視聴率が低いからなのでしょう。
以前にもお話ししましたが、僕が子どもだった頃は時代劇や忍者ものはテレビでも、漫画でも、小説でも大人気でした。これも時代の流れなのでしょうか。

三大仇討ちに戻ります。
三大仇討ちとは、曾我兄弟の仇討ち、鍵屋の辻(伊賀越えの仇討ち)、忠臣蔵(赤穂浪士)をさします。

本校であまり知られていないのが、荒木又右衛門の鍵屋の辻(伊賀越えの仇討ち)でした。
そこで今回から数回、鍵屋の辻についてお話ししようと思います。

このお話には、昨年ここで取りあげた「督姫」(とくひめ:北条氏直に嫁ぎ、その後池田輝政に嫁いだ徳川家康の娘)との関連も出てきます。一昨年、芭蕉に関連して伊賀を訪れた際、鍵屋の辻にも行ってきましたので紹介します。(督姫については「家康没後400年の年に際して」2015/11/4.10を、芭蕉については「芭蕉没後320年」2014/11/18のこの欄をご覧ください)

鍵屋の辻とは寛永11年(1632年)、剣豪の荒木又右衛門が、義弟の仇である河合又五郎と、又五郎の護衛をしていた河合甚左衛門(又五郎の叔父で郡山藩剣術指南役)、同じく尼崎藩槍術指南役「霞の半兵衛」こと桜井半兵衛らと対決し、討ち倒した場所のことです。
鍵屋の辻があった三重県伊賀市小田町には鍵屋の辻史跡公園が整備され、伊賀越復讐記念碑の石碑が建ち、資料館もあります。資料館には渡辺数馬に助太刀した荒木又右衛門の自筆の起請文や伊賀越仇討の錦絵などが展示されていました。その裏には、討たれた河合又五郎の首を洗った池というものが復元されていました。数馬茶屋というのもありました。

この事件は人々に語り継がれ、後に講談の人気演目となります。
さらにそれが歌舞伎や人形浄瑠璃にも取り入れられて「伊賀越乗掛合羽(作:奈河亀輔1776年)」や「伊賀越道中双六(作:近松半二・近松加助1783年)」といった作品が生まれています。

次回は、事件の起こりについてお話ししようと思います。







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