学校での子どもたちの様子をお伝えします。

端午の節句

端午の節句

5月5日は五節句のうちの「端午の節句」です。
 ♪甍(いらか)の波と雲の波 重なる波の 中空(なかぞら)を
  橘(たちばな)かおる 朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり♪
最近は、あまり鯉のぼりも見かけなくなったような気がするのですが、これも少子化の影響でしょうか。

端午の節句は古くから継承されてきた文化の一つですが、1948(昭和23)年に国民の祝日に制定されてからは、「こどもの日」の方が多く使われているように思われます。

子どもは“国の宝”、“社会の宝”ともいわれますが、1951(昭和26)年のこの日には、国際連合による1959(昭和34)年の児童権利宣言に先立ち「児童憲章」が制定されました。1989年の第44回国連総会において採択され、1990年に発効した「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」は、子どもの生存、発達、保護、参加という包括的な権利を実現・確保するために必要となる具体的な事項を規定しています。

65年前に制定された児童憲章は、
われらは、日本国憲法の精神にしたがい、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める。
 児童は、人として尊ばれる。
 児童は、社会の一員として重んぜられる。
 児童は、よい環境の中で育てられる。
の前文から始まります。

さて、前置きが長くなりましたが、今回はこどもの日にちなんで「端午の節句」について調べてみました。
節句とは、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦における、伝統的な年中行事を行う季節の節目となる日のことです。

端午の節句の由来は諸説あるのですが、今から2300年ほど前の中国の戦国時代、楚(そ)の国の国王の側近に、屈原(くつげん)(前340頃〜前278頃)という政治家がおり、詩人でもあった彼は正義感が強く、人々の信望を集めていました。しかし、屈原は陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。故国の行く末に失望した屈原は、5月5日に川に身を投げてしまったのでした。楚の国民達は、小舟で川に行き、太鼓を打ってその音で魚をおどし、さらに粽(ちまき)を投げて、「屈原」の遺体を魚が食べないようにしたそうです。

また、中国では昔から5月(旧暦)の時期は病気が流行し亡くなる人が多かったことから、5月は悪月、5日は5が重なることから悪日として、厄除けに菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を門に挿し、菖蒲を浸した酒を飲んで厄除けや健康祈願をしていたそうです。

このような風習が奈良時代に日本に伝わり、やがて日本独自の端午の節句の風習が生まれていきました。すなわち、端午の節句とは元は中国から伝わったものだったのです。

端午にちまきを食べる習慣と「屈原」の故事とは、直接関係が無いとする説もあります。
海野厚の作詞に中山晋平が作曲し、大正時代に発表された童謡「せいくらべ」も、最近では聴く機会がめっきり少なくなりました。知らない方もいるかも知れません。
 ♪柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ
  粽(ちまき)たべたべ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ
  きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
  やっと羽織の 紐(ひも)のたけ♪
この曲の中にも粽が登場しています。

粽については、中国の故事に習って食したのでしょう。一方、節句につきものの「柏餅」は江戸時代中期頃より端午の節句の食べ物として定着したようです。柏の木の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちません。このことが「子供が生まれるまで親は死なない」という思いにつながり、「家系が絶えない」「子孫繁栄」という縁起を担いだのだそうです。

日本の端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。
端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。

平安朝のころから、子供らは菖蒲で飾った紙のかぶとをつけ、石合戦などの遊びをしていたそうです。

古来よりおこなわれていた宮廷での端午の行事も、鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。しかし、武士のあいだでは尚武(しょうぶ:武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになっていきます。

室町時代から武家では5月5日の端午の節句に、竹竿に布を張り「吹き流し」 を立ててました。

江戸時代になると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参内し、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝いました。

元禄時代(1688〜1704)になると紙や木でつくった 菖蒲人形を庭先に立てるようになり、それがいつしか室内に飾るようになり、人形美術も発達して種類も増えました。
また、江戸時代には庶民も紙で作った「鯉のぼり」を竿につけて高く掲げて楽しんでいたようです。歌川広重作の浮世絵、「水道橋駿河台」にも鯉と吹き流しが描かれています。

コイはもともと威勢のいい魚で、鯉が滝を上って竜になる中国の伝説「登竜門」から、「鯉の滝上り」などと伝えられ、子供が元気に育つように、立身出世という親の願いが「鯉のぼり」にこめられているのでしょう。

このような時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへ、そして子どもの健やかな成長へと結びついていったと考えられているようです。

今、この瞬間も、子どもたちを取り巻く様相は変化しているのでしょうね。
私たちが未来を託す子どもたちをどう育てるかは、大人全体が考えなければならない問題です。私の少年時代は豊かではありませんでしたが、人と人との関わり合いの中で気持ちはとても豊かでした。

近頃は子ども受難の時代なのか、家では親による虐待があり、外では不審者に襲われたりする一方で、簡単に金銭を与え甘やかす風潮や、幼い子の髪を染め、化粧を施し、大人の真似を誉めそやす、言葉遣いや服装、挨拶の乱れを見過ごしているなど、子どもたちを取り巻く環境があまりよくないと感じています。もう一度、児童憲章の理念を再確認する必要があるのではないでしょうか。
大人は、子どもに善悪の判断、社会規範を教える必要があります。その大人が率先して範を示さなければ、健全育成は題目に終わってしまいます。

もちろん褒めて育てることは重要ですが、是は是、非は非。叱ることをためらわず、注意することを避けないことです。叱られなければ、子どもは褒められたときの喜びを味わえません。

こどもの日は、子どもたちが「大きな未来」を信じて生きて行けるように、大人の責任として、今何をなすべきかを考え、実行するかを考える日なのかもしれません。

余談ですが、本日の足柄小の給食は「こどもの日」にちなんで、
「中華おこわ」 と 「かしわ餅」
がでます。




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