学校での子どもたちの様子をお伝えします。

プチャーチンが来た(4)

プチャーチンが来た(4)

2月6日午前3時57分(現地時間)に台湾南部・高雄市を震源とするM6.4の強い地震が発生し、震源近くの倒壊した住宅には依然、多くの方が取り残されているようです。
台湾からは東日本大震災の際に多くの義援金を送っていただいたこともあり、日本からも心配の声があがり、義援金を送るという動きが高まっています。宮城県をはじめ、東北各地からの支援の動きが報道されています。地震国同士、互いに支え合えればと思います。

造船のお話しをする前に・・・
皆さんは「石ノ森章太郎」または「石森章太郎」の名前をご存じでしょうか?
「石ノ森章太郎、石森章太郎」・・・この名前から「サイボーグ009」をすぐに回想できる方は同世代です。

石ノ森さんはかつては石森章太郎と表記していました。「さるとびエッちゃん」や「仮面ライダー」の作品もあります。中でも僕は「佐武と市捕り物控え」が好きで、少年サンデーを毎週楽しみに読んでました。テレビ放映もされ、小学生の僕には結構遅い時間帯だったので、母に「早く寝なさい!」と叱られていました。小学生の頃はいつも「テレビばかり見ているんじゃない」と叱られる「テレビっ子」でした。

その石ノ森章太郎さんを顕彰する「石ノ森萬画館」が石巻市にあります。震災前に一度訪れたことがあります。

本日のテーマである戸田での造船と直接的には関係がないのですが、この萬画館は日本の造船ということに関しては大きな意味を持つ場所ですので、簡単に紹介しておきたいと思いました。

プチャーチンが来航する240年ほど前、仙台藩主伊達政宗がイスパニア(スペイン)人ビスカイノに協力させ、この地で日本製西洋型軍船を建造しているのです。その造船所があった場所が「石ノ森萬画館」となっているのでした。

船の名は「サン・ファン・バウティスタ号」(伊達丸とも呼ばれていたらしい)といい、支倉長常(はせくらながつね)を慶長遣欧使節として、イスパニア(スペイン)に派遣しメキシコと直接に貿易を行おうとし、その貿易交渉にあたらせたのでした。(船名の「サン・ファン・バウティスタ」Sant Juan Bautista とは、洗礼者 聖ヨハネのことだそうです。使節船の建造に携わることとなったビスカイノと伊達政宗公の江戸市中で出会った日(1611年6月24日)が、洗礼者聖ヨハネの祭日に当たっていたことから命名されたものと推定されているそうです。)

1612年に月の浦(石巻)から出港し、3ヶ月の航海を経てメキシコのアカプルコに到着します。支倉らは陸路で大西洋岸へ移動し、ベラクルスから大西洋を渡り、スペインへ上陸し国王に謁見します。その後、陸路でローマに行き、ローマ教皇にも謁見し、ヨーロッパ各地に滞在した後、1620年帰国しましたが、貿易交渉の目的は達成されませんでした。

サン・ファン・バウティスタ号の建造にあたっては、勿論日本の船大工が活躍することになります。西洋の船など見たこともない当時の人々が、イスパニア(スペイン)人の指導の下にどのように船を造ったのか、その想像力と適応力にはただただ頭が下がります。
大工800人、鍛冶600人、雑役3000人の人手を使い、約45日で建造されたそうです。
このあたりの事情については、吉村昭氏の「磔」という文庫本の中の「洋船建造」という短編に詳しく記載されています。興味のある方はご一読ください。

伊達正宗は月の浦から世界を見つめていたのでしょうか? 
月の浦には、「支倉長常」の銅像と「サン・ファン・バウティスタ号」を復元し係留・展示する博物館、宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)がありました。

震災後は松島までは行ったことがあるのですが、石巻へは行っていません。
赤いマフラーの戦士たちにも会いたいですし、機会を見つけてもう一度訪ねてみたいと思います。

いつものことながら前置きが長く、なかなか本題に入れません(笑)。
戸田での様子につきましては、次回にさせていただきます。




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