学校での子どもたちの様子をお伝えします。

プチャーチンが来た(3)

今日は立春です。
暦の上では春ですが・・・まだまだ寒い日が続きます。
インフルエンザに罹患する子どもも出てきています。
皆様も、十分ご留意ください。

さて今回は、日露和親条約締結までの経緯についてお話ししたいと思います。少し長くなりますが、時系列で整理してみます。

弘化3年閏5月26日(1846年7月19日)、アメリカインド東艦隊司令官ビットルが浦賀に来航し、国交と通商を要求しますが、幕府はこれを拒否します。アメリカは産業革命を推し進めて中国との貿易に力を入れ、太平洋を航行する船舶や捕鯨船の寄港地として日本の開国を求めたのでした。

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカインド東艦隊司令官ペリーが浦賀に軍艦4隻を率いて来航し、フィルモア大統領の国書を提出し開国を求めます。ペリーの強硬な態度に幕府は朝鮮・琉球以外の国からの国書は受け取らないという従来の方針を改め国書を受け取り、翌年回答することを約束します。

嘉永6年7月18日(1853年8月22日)、プチャーチン率いるロシア艦隊4隻が国書を携え長崎に入港します。
長崎奉行を通じて幕府に届けられた国書の内容は、
 1 樺太・千島の国境を定めること
 2 条約を締結し交易を始めること
というものでした。
これを受け幕府は応接掛(交渉役)として、西丸留守居筒井政憲(つついまさのり)勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)らが交渉にあたりました。交渉に臨むにあたり、川路は間宮林蔵から樺太や北辺地域の知識を得ます。日露両国民が混在する樺太についてはオランダの地図に国境を北緯50度の地としていることから、それに従うべきだと考え、また、千島列島については、択捉島はむろんのこと得撫(ウルップ)島まで日本の領土とするのが妥当であると考えていたようです。

当時は通信手段は飛脚ですし、基本徒歩で江戸から長崎まで行くわけですから時間的にはかなりかかります。嘉永6年12月20日から長崎での実際の交渉が始まります。
長崎での交渉は条約締結前の予備交渉的内容で、
 1 樺太の日露国境を定めるため日本の調査役を派遣すること
 2 択捉島は日本領であること
 3 食料、薪、水を求めてきたロシア船に対し、江戸から離れた港で無償提供すること
で合意し、プチャーチンは嘉永7年1月8日に長崎を出港します。

この間、ロシアとイギリス・フランスとの間でクリミア戦争が始まります。(余談ですが、2014年3月1日にはロシア軍がクリミア半島の領有を巡りウクライナへ侵入し、世界の注目を集めました。黒海に突き出したこの土地は、多くの戦争の舞台となってきました。)

嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーがサスケハナ号など7隻の軍艦で再び浦賀へ来航します(プチャーチンが来た(1)の冒頭部分です)。ここでも、川路聖謨(かわじとしあきら)、筒井政憲(つついまさのり)らが、プチャーチンとの長崎での交渉が終わるや否や江戸に呼び戻され、その対応にあたります。

嘉永7年3月3日(3月31日)、幕府はアメリカの開国要求を受け入れ日米和親条約(神奈川条約)を締結・調印し、箱館と下田の2港を開港します。これにより家光以来続いた鎖国がここに終了します。

プチャーチンは嘉永7年8月30日(1854年10月21日)、箱館に入港しますが、同地での交渉を拒否されたため大坂へ向います。9月17日には天保山沖に到着します。大坂奉行から下田へ回航するよう要請を受けて、嘉永7年10月14日(12月3日)に下田に入港します。報告を受けた幕府は、再び筒井政憲、川路聖謨らを下田へ派遣し、プチャーチンとの交渉にあたります。幕府側は、
 1 樺太は、日本人とロシア人が混在しているので国境策定は困難であること
 2 択捉島は日本領であること
 3 開港については、アメリカに許可した条件に従うこと
を念頭に交渉に臨みます。
筒井政憲、川路聖謨らは11月1日(12月20日)から交渉を始めます。その3日後に安政の大地震が起こり罹災することになり、交渉は中断されます。

嘉永7年11月13日(1855年1月1日)、中断されていた外交交渉が再開され、5回の会談の結果、下田で安政元年12月21日(1855年2月7日 ※年度の途中で改元され、嘉永7年はそのまま安政元年になります)、ロシアとの間に日露和親条約(日魯通好条約)の締結・調印をします。
この条約で初めて日露両国の国境は、択捉島と得撫島の間に決められ、択捉島から南は日本の領土とし、得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領としました。また、樺太は今までどおり国境を決めず両国民の混住の地と定められました。

安政3年7月(1856年8月)、日米和親条約により日本初の総領事として下田に赴任したハリスは、翌安政4年(1857)江戸に入って将軍に謁見し、通商条約の締結を強く求めます。老中堀田正睦(まさよし)は勅許を得ることにより、水戸藩徳川斉昭をはじめとする国内の反対意見を収めようと朝廷の説得に当たります。
しかし、孝明天皇をはじめ条約締結反対、鎖国・攘夷の色合いが濃く、勅許を得ることはできませんでした。この直後、堀田は病没してしまいます。
その後に大老に就任したのが井伊直弼(なおすけ)です。
井伊は勅許を得られないまま、安政5年6月19日(1857年7月29日)日米修好通商条約に調印します。この条約で、神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港し自由貿易を開始することになります。

安政5年7月11日(1858年8月19日)、日露修好通商条約が結ばれ、通商(交易)が始まります。安政6年7月10日(1859年8月18日)に批准されています。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって総て無効になります。

安政年間に結ばれた通商条約(安政の5カ国条約)は、いずれも関税自主権が無く、外国の領事裁判権(治外法権)を認めた不平等な内容のものでした。条約改正は明治政府の重要課題となっていきます。陸奥宗光や小村寿太郎が条約改正に奔走することになります。

※安政の五カ国条約
幕府はアメリカに次いで、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも通商条約を結び、欧米諸国との貿易が始まります。このことは資本主義的世界市場の中に日本が組み込まれていくことを意味します。

その後の「ロシア外交」についても、簡単に触れておきます。

1875年(明治8年)、明治政府は樺太千島交換条約を結び、樺太を放棄する代償としてロシアから千島列島を譲り受けました。この条約では、日本に譲渡される千島列島の島名を一つひとつ挙げていますが、列挙されている島は得撫(ウルップ)島以北の18の島であって、歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島は含まれていません。

1905年(明治38年)、日露戦争の結果、ポーツマス条約が締結され北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました。

1951年(昭和26年)、日本はサン・フランシスコ平和条約に調印しました。この結果、日本は、千島列島と北緯50度以南の南樺太の権利、権限及び請求権を放棄しました。しかし、放棄した千島列島に固有の領土である北方四島は含まれていません。

1956年7月、鳩山内閣下で日ソ国交回復交渉にあたったのが重光葵(しげみつまもる)です。焦点の一つは北方領土問題でした。四島一括返還を主張する日本と二島のみの部分返還を提案するソ連との交渉は難航を極めたようです。領土問題を棚上げすることで1956年10月19日、日ソ共同宣言が行われ、同年12月、国連総会で日本の国連加盟が承認されます。
(余談ですが、重光葵は翌1957年1月26日に湯河原で逝去しています。)

1981年(昭和56年)1月に、北方領土問題への国民の関心と理解を深めるため、日露和親条約が制定された安政元年12月21日(1855年2月7日)にちなんで2月7日を北方領土の日と定めました。

次回は、戸田での造船とロシア人の帰国についてお話しようと思います。




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