学校での子どもたちの様子をお伝えします。

プチャーチンが来た(2)

プチャーチンが来た(2)

前回は、幕末の日本外交の一端をアメリカとロシアに焦点を当て簡単にお話しました。
今回は被災時のプチャーチン一行の様子についてお話ししてみます。

異国の地での自然災害に遭遇し、現在とは違い、情報収集もままならず、さらに、当時ロシアはイギリス・フランスと戦争状態(クリミア戦争)にあり、個人としても艦長としても、相当、心細かったことと思われます。

安政の大地震の震源地は紀伊半島南端で、マグニチュード8.4。
被害は九州から本州全域に及び、沿岸部各地に津波被害を発生させました。大坂、下田で被害が大きく、大坂では流出家屋1万5千、死者3千、下田では全家屋856戸のうち全壊流失813戸、半壊25戸、死者85人と壊滅状態だったそうです。

下田港に停泊していたディアナ号も大津波に遭遇します。
波に持ち上げられ、碇が抜け、渦に巻込まれ、沈没はまぬかれましたが、竜骨が破損し、船底に亀裂が入り、舵は流失し、船としての機能は失ってしまいます。この時、船員一名が死亡しています。

幕府は修理を下田で行うよう指示しますが、甚大な被害を受けた下田の港や町は使えません。
プチャーチンは浦賀や浜松での修理を要求します。江戸に近い浦賀での修理には絶対拒否の姿勢で、伊豆半島の戸田(へた)がロシア側との調査の結果選ばれます。
傷んだディアナ号の応急修理をして下田から戸田まで回漕します。しかし、その途中でしけに遭い、風に流され宮島村沖(現富士市)で航行不能になり、乗組員は村人の救助を受け全員無事でしたが、船は沈没してしまいます。

プチャーチンだけでなく、500名近くの乗組員がロシアに帰らなければなりません。
「20名が乗れる船を作り、それでロシアに帰り、残り全員が帰られる大型船を連れてくる。」というプチャーチンの提案で、戸田で船を作ることが幕府に認められました。
この際に、洋船の建造技術も手にしたいという幕府の考えもあったのでしょう、全面的に協力するようとの指示もありました。

もちろん、戸田も地震・津波の被害を受けていましたが、大勢のロシア人を受け入れ、しかも大工事を始めるのですから地元の人々には大変な苦労です。宿舎建造、食事、どれをとっても大変です。しかし、彼らは持ち物もないロシア人を哀れと思い、地震や津波の被害に遭いながらも手厚く温かく迎え入れました。プチャーチンをはじめロシア人たちの感謝の気持ちが記録に残っています。

この戸田の地に責任者として派遣されたのが韮山の代官、江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)です。(江川家では代々の当主が太郎左衛門を名乗っています。)
蘭学に通じた江川英龍は、西洋砲術の導入、鉄製洋式砲の生産、台場の設置、洋式船による海軍の創設、洋式の訓練を施した農兵制度の導入など、一連の海防政策を幕府に提言しました。このうち、鉄製砲を鋳造するために必要な溶解炉が反射炉です。韮山反射炉は、嘉永6年(1853)のペリー来航を受けて、幕府直営の反射炉として築造が決定されました。(2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に正式登録されました。)
海防に明るく、地元の代官でもある英龍は、幕府にとって適材であったのでしょう。また、戸田には沼津藩や小田原藩からも警護の兵が派遣されています。
 
余談ですが、江川英龍は戸田の地で体調を崩しながらも指示をしている最中、幕府に呼び出され、江戸に到着するも登城できず、容態が悪化し、安政2年1月16日(1855年3月4日)に江戸墨田区(両国国技館、江戸東京博物館の近く、北斎通りの緑町公園には太郎左衛門終焉の標柱があります。)で病没しています。 

英龍に関わる逸話は多くあります。
蘭学との関係もあるのでしょうか、英龍はパンを焼き、日本の製パン業界では“パン祖”と呼ばれているらしいですし、西洋式軍隊の号令(気をつけ、回れ右、右むけ右など)を取り入れたのも英龍だそうです。
また、福沢諭吉と英龍が直接的な関わりがあったかについては確認していないのですが、英龍の江戸屋敷跡を福沢諭吉が慶應義塾の塾舎として使っています。英龍が亡くなったとき、諭吉はまだ21歳で、長崎で学んだ後、大坂の緒方洪庵の適塾で学んでいる頃です。
この他にも、学問を言志四録の佐藤一斎、絵を谷文晁から学び、渡辺崋山や佐久間象山との関わりや、榎本武揚が英龍の塾でジョン万次郎から蘭語を学んでいるなど、なかなか交友も広く興味深い人物です。

本題とはそれますが、そのジョン万次郎(中浜万次郎)についてお話します。
万次郎は土佐清水の漁師で、仲間4人と漂流しているところをアメリカの捕鯨船に助けられ、仲間がホノルルで下船する中、船長と意気投合しアメリカ本土で生活します。当時万次郎は14歳だったそうです。詳細は省略しますが、万次郎が帰国して取り調べを受けた後に土佐の藩校「教授館」で後藤象二郎、岩崎弥太郎などを指導します。その後、直参旗本として幕府に招聘され英龍の配下となります。軍艦教授所教授にも任命され、日米和親条約の締結に際しても活躍します。小説では、童門冬二さんの「ジョン万次郎」や津本陽さんの「椿と花水木」もおもしろいですが、僕らの世代は、井伏鱒二さんの「ジョン万次郎漂流記」が印象に強く残っています。

話を英龍に戻しますね。
英龍と小田原との関係も深いものがあります。
天保十一年(1840)には、江川英龍は二宮尊徳を韮山に招聘し、面談しています。英龍からの要請により、伊豆の商人であった多田弥次右衛門に資金を貸し付け財政立て直しを行います。尊徳から農地改良についての指導も受けています。尊徳翁の影響もあり、のちに英龍は江川大明神と敬われるような立派な代官になったのかも知れません。

英龍は尊徳翁との関わりだけでなく、海防面での小田原との関わりもあります。
嘉永6(1853)年、ペリーが来航した直後、江川英龍は老中阿部正弘の命で品川台場の建設に従事します。が、何とその前に小田原で台場をつくっています。
弘化元年(1844)、幕府より相模伊豆の2カ国の海防の命を受けた小田原藩主大久保忠愨(ただなお)は、英龍へ台場の築造を依頼し、小田原藩から3名の藩士を英龍のもとに弟子入りさせます。3名の小田原藩士は藩の海防に尽力し、嘉永3年(1850)には、荒久、代官町、万町の3箇所に台場の築造を開始しているのです。あわせて32門の和・洋式大砲が設置されたそうです。
僕の住む町の半島の先端にも台場跡が残っています。
伊豆韮山の代官という地理的な面だけでなく、当時の先端技術を備え、外国事情にも詳しい英龍をたよりにしたのでしょう。

今回はここで終了です。
次回は、日露交渉を中心にお話ししようと思います。




    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

学校便り

保健便り

給食便り

HP掲載資料