学校での子どもたちの様子をお伝えします。

プチャーチンが来た(5)

プチャーチンが来た(5)

戸田でのプチャーチン一行の様子をお話ししようと思うのですが、その前に、せっかくの機会ですので「朱印船」についても少しお話ししておきたいと思います。
江戸時代に国内では北前船(きたまえぶね)や菱垣廻船(ひがきかいせん)、樽廻船(たるかいせん)で多様な物資の運搬が行われています。これらについては、いずれ機会を改めてお話ししたいと思います。

「朱印船貿易」について歴史の時間に勉強したことと思います。
朱印船とは、16世紀末から17世紀初頭にかけ日本の支配者の朱印状(海外渡航許可証)を得て、海外交易を行った船をさします。
朱印状を携帯する日本船は、当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船やルソン(フィリピン)、アンナン(ベトナム)、カンボジア、シャム(タイ)などの東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができました。江戸時代には慶長9年(1604)から寛永12年(1635)までに350通余りの朱印状が発行されています。

朱印船を出して貿易の利益をあげた者には、大名では島津家久、松浦鎭信(しげのぶ)、有馬晴信。商人では長崎の末次平蔵、摂津の末吉孫左衛門、京都の角倉了以(すみくらりょうい)や茶屋四郎次郎、堺の納屋助左衛門(なやすけざえもん)、松坂の角屋七郎兵衛らがいました。
日本人の朱印船貿易は、オランダ船・明船をしのぎ、ポルトガル船に匹敵するほど盛んな時期もありました。輸出には銀・銅・鉄・樟脳(しょうのう)などがあてられ、特に銀の輸出額は世界の銀産出額の3分の1におよびました。

この約30年間で海外に渡航した日本人の数は約10万人と推定され、そのうちの1割ほどが東南アジア各地に居住し、自治制を敷いた日本人町を形成したところもありました。
シャムのアユタヤ朝の王室に用いられた山田長政のように、日本人町の長になった者も現れました。(シャムの国王になったという説はタイ側に記録がなく、史実ではなさそうです。)

朱印船として用いられた船は、初期には中国式の木造帆船(ジャンク船)でした。後には末次平蔵の末次船や荒木宗太郎の荒木船に代表される木造帆船(ジャンク船)に大航海時代の帆船であるガレオン船(パイレーツ オブ カリビアンに出てくる帆船をイメージしてください。)の技術やデザインを融合させた独自の帆船が使われます。乗員は200名程度で、木材の品質もよく造船技術も優れていたシャムのアユタヤで、大量の船が注文・購入されたようです。

日本での西洋船の造船は、前回お話しした「サン・ファン・バウティスタ号」の他に、1607年、「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」(120トン)が徳川家康の命令でウィリアム・アダムスによって伊豆国伊東の松川河口で建造されています。この船が日本で最初に建造された西洋式の大型帆船とされています。

オランダ船リーフデ号で豊後(大分県)の臼杵(うすき)に漂着したオランダ人ヤン・ヨーステン(耶揚子:やよす)とイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針:みうらあんじん)は徳川家康の外交・貿易顧問として活躍し、日本名も持っています。

ヤン・ヨーステン(耶揚子)の屋敷は海に近く耶揚子河岸(やよすかし)と呼ばれ、それが現在の八重洲(やえす)に転訛したそうです。ウィリアム・アダムスは三浦半島に領地と江戸日本橋に屋敷を与えられています。神奈川新聞では、青い目のサムライ「按針タイムス」として月に1回、定期的に特集を組んでいます。

このように、17世紀の初頭に家康や伊達政宗によって西洋船が建造されたのですが、その後の幕府の政策により段階的に鎖国が実施され、大型船の建造は行われなくなります。

江戸幕府初期の対外政策は、キリスト教は禁じるが貿易は奨励し、海外貿易は活発でした。しかし、幕府がキリスト教の禁教を進めたため、日本人の海外渡航や貿易にも制限を加えざるを得なくなります。
1635年には日本人の海外渡航の全面的禁止ならびに海外在住の日本人の帰国を禁止します。1637年から翌年にかけておこった島原の乱から、幕府のキリスト教に対する警戒心はさらに高まります。1639年のポルトガル船の来航禁止、1641年には平戸にあったオランダ商館を出島に移します。これにより鎖国が完成します。
これ以降、約210年にわたる鎖国により、日本の船大工がせっかく取得したと思われる西洋式の造船技術も、伝承されることなく幕末を迎えることとなります。

鎖国により、貿易港は長崎に限られ、来航する貿易船はオランダ船と中国船だけになります。オランダはバタヴィア(ジャカルタ)においた東インド会社の出張所として長崎の出島に商館をおき、貿易の利益を独占します。日本からは銀や銅が輸出され、特に伊万里焼や柿右衛門の陶磁器は人気を集めたようです。オランダからは毛織物・綿織物・絹織物などの繊維製品や薬品・時計・書籍などがもたらされました。

オランダ船の来航のたびにオランダ商館長が提出するオランダ風説書(ふうせつがき)によって、海外事情を知ることができました。が、科学技術の発展等、世界の流れからは取り残されていくことになりました。

次回こそ、戸田での様子についてお話ししようと思います。




プチャーチンが来た(4)

プチャーチンが来た(4)

2月6日午前3時57分(現地時間)に台湾南部・高雄市を震源とするM6.4の強い地震が発生し、震源近くの倒壊した住宅には依然、多くの方が取り残されているようです。
台湾からは東日本大震災の際に多くの義援金を送っていただいたこともあり、日本からも心配の声があがり、義援金を送るという動きが高まっています。宮城県をはじめ、東北各地からの支援の動きが報道されています。地震国同士、互いに支え合えればと思います。

造船のお話しをする前に・・・
皆さんは「石ノ森章太郎」または「石森章太郎」の名前をご存じでしょうか?
「石ノ森章太郎、石森章太郎」・・・この名前から「サイボーグ009」をすぐに回想できる方は同世代です。

石ノ森さんはかつては石森章太郎と表記していました。「さるとびエッちゃん」や「仮面ライダー」の作品もあります。中でも僕は「佐武と市捕り物控え」が好きで、少年サンデーを毎週楽しみに読んでました。テレビ放映もされ、小学生の僕には結構遅い時間帯だったので、母に「早く寝なさい!」と叱られていました。小学生の頃はいつも「テレビばかり見ているんじゃない」と叱られる「テレビっ子」でした。

その石ノ森章太郎さんを顕彰する「石ノ森萬画館」が石巻市にあります。震災前に一度訪れたことがあります。

本日のテーマである戸田での造船と直接的には関係がないのですが、この萬画館は日本の造船ということに関しては大きな意味を持つ場所ですので、簡単に紹介しておきたいと思いました。

プチャーチンが来航する240年ほど前、仙台藩主伊達政宗がイスパニア(スペイン)人ビスカイノに協力させ、この地で日本製西洋型軍船を建造しているのです。その造船所があった場所が「石ノ森萬画館」となっているのでした。

船の名は「サン・ファン・バウティスタ号」(伊達丸とも呼ばれていたらしい)といい、支倉長常(はせくらながつね)を慶長遣欧使節として、イスパニア(スペイン)に派遣しメキシコと直接に貿易を行おうとし、その貿易交渉にあたらせたのでした。(船名の「サン・ファン・バウティスタ」Sant Juan Bautista とは、洗礼者 聖ヨハネのことだそうです。使節船の建造に携わることとなったビスカイノと伊達政宗公の江戸市中で出会った日(1611年6月24日)が、洗礼者聖ヨハネの祭日に当たっていたことから命名されたものと推定されているそうです。)

1612年に月の浦(石巻)から出港し、3ヶ月の航海を経てメキシコのアカプルコに到着します。支倉らは陸路で大西洋岸へ移動し、ベラクルスから大西洋を渡り、スペインへ上陸し国王に謁見します。その後、陸路でローマに行き、ローマ教皇にも謁見し、ヨーロッパ各地に滞在した後、1620年帰国しましたが、貿易交渉の目的は達成されませんでした。

サン・ファン・バウティスタ号の建造にあたっては、勿論日本の船大工が活躍することになります。西洋の船など見たこともない当時の人々が、イスパニア(スペイン)人の指導の下にどのように船を造ったのか、その想像力と適応力にはただただ頭が下がります。
大工800人、鍛冶600人、雑役3000人の人手を使い、約45日で建造されたそうです。
このあたりの事情については、吉村昭氏の「磔」という文庫本の中の「洋船建造」という短編に詳しく記載されています。興味のある方はご一読ください。

伊達正宗は月の浦から世界を見つめていたのでしょうか? 
月の浦には、「支倉長常」の銅像と「サン・ファン・バウティスタ号」を復元し係留・展示する博物館、宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)がありました。

震災後は松島までは行ったことがあるのですが、石巻へは行っていません。
赤いマフラーの戦士たちにも会いたいですし、機会を見つけてもう一度訪ねてみたいと思います。

いつものことながら前置きが長く、なかなか本題に入れません(笑)。
戸田での様子につきましては、次回にさせていただきます。




プチャーチンが来た(3)

今日は立春です。
暦の上では春ですが・・・まだまだ寒い日が続きます。
インフルエンザに罹患する子どもも出てきています。
皆様も、十分ご留意ください。

さて今回は、日露和親条約締結までの経緯についてお話ししたいと思います。少し長くなりますが、時系列で整理してみます。

弘化3年閏5月26日(1846年7月19日)、アメリカインド東艦隊司令官ビットルが浦賀に来航し、国交と通商を要求しますが、幕府はこれを拒否します。アメリカは産業革命を推し進めて中国との貿易に力を入れ、太平洋を航行する船舶や捕鯨船の寄港地として日本の開国を求めたのでした。

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカインド東艦隊司令官ペリーが浦賀に軍艦4隻を率いて来航し、フィルモア大統領の国書を提出し開国を求めます。ペリーの強硬な態度に幕府は朝鮮・琉球以外の国からの国書は受け取らないという従来の方針を改め国書を受け取り、翌年回答することを約束します。

嘉永6年7月18日(1853年8月22日)、プチャーチン率いるロシア艦隊4隻が国書を携え長崎に入港します。
長崎奉行を通じて幕府に届けられた国書の内容は、
 1 樺太・千島の国境を定めること
 2 条約を締結し交易を始めること
というものでした。
これを受け幕府は応接掛(交渉役)として、西丸留守居筒井政憲(つついまさのり)勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)らが交渉にあたりました。交渉に臨むにあたり、川路は間宮林蔵から樺太や北辺地域の知識を得ます。日露両国民が混在する樺太についてはオランダの地図に国境を北緯50度の地としていることから、それに従うべきだと考え、また、千島列島については、択捉島はむろんのこと得撫(ウルップ)島まで日本の領土とするのが妥当であると考えていたようです。

当時は通信手段は飛脚ですし、基本徒歩で江戸から長崎まで行くわけですから時間的にはかなりかかります。嘉永6年12月20日から長崎での実際の交渉が始まります。
長崎での交渉は条約締結前の予備交渉的内容で、
 1 樺太の日露国境を定めるため日本の調査役を派遣すること
 2 択捉島は日本領であること
 3 食料、薪、水を求めてきたロシア船に対し、江戸から離れた港で無償提供すること
で合意し、プチャーチンは嘉永7年1月8日に長崎を出港します。

この間、ロシアとイギリス・フランスとの間でクリミア戦争が始まります。(余談ですが、2014年3月1日にはロシア軍がクリミア半島の領有を巡りウクライナへ侵入し、世界の注目を集めました。黒海に突き出したこの土地は、多くの戦争の舞台となってきました。)

嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーがサスケハナ号など7隻の軍艦で再び浦賀へ来航します(プチャーチンが来た(1)の冒頭部分です)。ここでも、川路聖謨(かわじとしあきら)、筒井政憲(つついまさのり)らが、プチャーチンとの長崎での交渉が終わるや否や江戸に呼び戻され、その対応にあたります。

嘉永7年3月3日(3月31日)、幕府はアメリカの開国要求を受け入れ日米和親条約(神奈川条約)を締結・調印し、箱館と下田の2港を開港します。これにより家光以来続いた鎖国がここに終了します。

プチャーチンは嘉永7年8月30日(1854年10月21日)、箱館に入港しますが、同地での交渉を拒否されたため大坂へ向います。9月17日には天保山沖に到着します。大坂奉行から下田へ回航するよう要請を受けて、嘉永7年10月14日(12月3日)に下田に入港します。報告を受けた幕府は、再び筒井政憲、川路聖謨らを下田へ派遣し、プチャーチンとの交渉にあたります。幕府側は、
 1 樺太は、日本人とロシア人が混在しているので国境策定は困難であること
 2 択捉島は日本領であること
 3 開港については、アメリカに許可した条件に従うこと
を念頭に交渉に臨みます。
筒井政憲、川路聖謨らは11月1日(12月20日)から交渉を始めます。その3日後に安政の大地震が起こり罹災することになり、交渉は中断されます。

嘉永7年11月13日(1855年1月1日)、中断されていた外交交渉が再開され、5回の会談の結果、下田で安政元年12月21日(1855年2月7日 ※年度の途中で改元され、嘉永7年はそのまま安政元年になります)、ロシアとの間に日露和親条約(日魯通好条約)の締結・調印をします。
この条約で初めて日露両国の国境は、択捉島と得撫島の間に決められ、択捉島から南は日本の領土とし、得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領としました。また、樺太は今までどおり国境を決めず両国民の混住の地と定められました。

安政3年7月(1856年8月)、日米和親条約により日本初の総領事として下田に赴任したハリスは、翌安政4年(1857)江戸に入って将軍に謁見し、通商条約の締結を強く求めます。老中堀田正睦(まさよし)は勅許を得ることにより、水戸藩徳川斉昭をはじめとする国内の反対意見を収めようと朝廷の説得に当たります。
しかし、孝明天皇をはじめ条約締結反対、鎖国・攘夷の色合いが濃く、勅許を得ることはできませんでした。この直後、堀田は病没してしまいます。
その後に大老に就任したのが井伊直弼(なおすけ)です。
井伊は勅許を得られないまま、安政5年6月19日(1857年7月29日)日米修好通商条約に調印します。この条約で、神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港し自由貿易を開始することになります。

安政5年7月11日(1858年8月19日)、日露修好通商条約が結ばれ、通商(交易)が始まります。安政6年7月10日(1859年8月18日)に批准されています。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって総て無効になります。

安政年間に結ばれた通商条約(安政の5カ国条約)は、いずれも関税自主権が無く、外国の領事裁判権(治外法権)を認めた不平等な内容のものでした。条約改正は明治政府の重要課題となっていきます。陸奥宗光や小村寿太郎が条約改正に奔走することになります。

※安政の五カ国条約
幕府はアメリカに次いで、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも通商条約を結び、欧米諸国との貿易が始まります。このことは資本主義的世界市場の中に日本が組み込まれていくことを意味します。

その後の「ロシア外交」についても、簡単に触れておきます。

1875年(明治8年)、明治政府は樺太千島交換条約を結び、樺太を放棄する代償としてロシアから千島列島を譲り受けました。この条約では、日本に譲渡される千島列島の島名を一つひとつ挙げていますが、列挙されている島は得撫(ウルップ)島以北の18の島であって、歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島は含まれていません。

1905年(明治38年)、日露戦争の結果、ポーツマス条約が締結され北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました。

1951年(昭和26年)、日本はサン・フランシスコ平和条約に調印しました。この結果、日本は、千島列島と北緯50度以南の南樺太の権利、権限及び請求権を放棄しました。しかし、放棄した千島列島に固有の領土である北方四島は含まれていません。

1956年7月、鳩山内閣下で日ソ国交回復交渉にあたったのが重光葵(しげみつまもる)です。焦点の一つは北方領土問題でした。四島一括返還を主張する日本と二島のみの部分返還を提案するソ連との交渉は難航を極めたようです。領土問題を棚上げすることで1956年10月19日、日ソ共同宣言が行われ、同年12月、国連総会で日本の国連加盟が承認されます。
(余談ですが、重光葵は翌1957年1月26日に湯河原で逝去しています。)

1981年(昭和56年)1月に、北方領土問題への国民の関心と理解を深めるため、日露和親条約が制定された安政元年12月21日(1855年2月7日)にちなんで2月7日を北方領土の日と定めました。

次回は、戸田での造船とロシア人の帰国についてお話しようと思います。




プチャーチンが来た(2)

プチャーチンが来た(2)

前回は、幕末の日本外交の一端をアメリカとロシアに焦点を当て簡単にお話しました。
今回は被災時のプチャーチン一行の様子についてお話ししてみます。

異国の地での自然災害に遭遇し、現在とは違い、情報収集もままならず、さらに、当時ロシアはイギリス・フランスと戦争状態(クリミア戦争)にあり、個人としても艦長としても、相当、心細かったことと思われます。

安政の大地震の震源地は紀伊半島南端で、マグニチュード8.4。
被害は九州から本州全域に及び、沿岸部各地に津波被害を発生させました。大坂、下田で被害が大きく、大坂では流出家屋1万5千、死者3千、下田では全家屋856戸のうち全壊流失813戸、半壊25戸、死者85人と壊滅状態だったそうです。

下田港に停泊していたディアナ号も大津波に遭遇します。
波に持ち上げられ、碇が抜け、渦に巻込まれ、沈没はまぬかれましたが、竜骨が破損し、船底に亀裂が入り、舵は流失し、船としての機能は失ってしまいます。この時、船員一名が死亡しています。

幕府は修理を下田で行うよう指示しますが、甚大な被害を受けた下田の港や町は使えません。
プチャーチンは浦賀や浜松での修理を要求します。江戸に近い浦賀での修理には絶対拒否の姿勢で、伊豆半島の戸田(へた)がロシア側との調査の結果選ばれます。
傷んだディアナ号の応急修理をして下田から戸田まで回漕します。しかし、その途中でしけに遭い、風に流され宮島村沖(現富士市)で航行不能になり、乗組員は村人の救助を受け全員無事でしたが、船は沈没してしまいます。

プチャーチンだけでなく、500名近くの乗組員がロシアに帰らなければなりません。
「20名が乗れる船を作り、それでロシアに帰り、残り全員が帰られる大型船を連れてくる。」というプチャーチンの提案で、戸田で船を作ることが幕府に認められました。
この際に、洋船の建造技術も手にしたいという幕府の考えもあったのでしょう、全面的に協力するようとの指示もありました。

もちろん、戸田も地震・津波の被害を受けていましたが、大勢のロシア人を受け入れ、しかも大工事を始めるのですから地元の人々には大変な苦労です。宿舎建造、食事、どれをとっても大変です。しかし、彼らは持ち物もないロシア人を哀れと思い、地震や津波の被害に遭いながらも手厚く温かく迎え入れました。プチャーチンをはじめロシア人たちの感謝の気持ちが記録に残っています。

この戸田の地に責任者として派遣されたのが韮山の代官、江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)です。(江川家では代々の当主が太郎左衛門を名乗っています。)
蘭学に通じた江川英龍は、西洋砲術の導入、鉄製洋式砲の生産、台場の設置、洋式船による海軍の創設、洋式の訓練を施した農兵制度の導入など、一連の海防政策を幕府に提言しました。このうち、鉄製砲を鋳造するために必要な溶解炉が反射炉です。韮山反射炉は、嘉永6年(1853)のペリー来航を受けて、幕府直営の反射炉として築造が決定されました。(2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に正式登録されました。)
海防に明るく、地元の代官でもある英龍は、幕府にとって適材であったのでしょう。また、戸田には沼津藩や小田原藩からも警護の兵が派遣されています。
 
余談ですが、江川英龍は戸田の地で体調を崩しながらも指示をしている最中、幕府に呼び出され、江戸に到着するも登城できず、容態が悪化し、安政2年1月16日(1855年3月4日)に江戸墨田区(両国国技館、江戸東京博物館の近く、北斎通りの緑町公園には太郎左衛門終焉の標柱があります。)で病没しています。 

英龍に関わる逸話は多くあります。
蘭学との関係もあるのでしょうか、英龍はパンを焼き、日本の製パン業界では“パン祖”と呼ばれているらしいですし、西洋式軍隊の号令(気をつけ、回れ右、右むけ右など)を取り入れたのも英龍だそうです。
また、福沢諭吉と英龍が直接的な関わりがあったかについては確認していないのですが、英龍の江戸屋敷跡を福沢諭吉が慶應義塾の塾舎として使っています。英龍が亡くなったとき、諭吉はまだ21歳で、長崎で学んだ後、大坂の緒方洪庵の適塾で学んでいる頃です。
この他にも、学問を言志四録の佐藤一斎、絵を谷文晁から学び、渡辺崋山や佐久間象山との関わりや、榎本武揚が英龍の塾でジョン万次郎から蘭語を学んでいるなど、なかなか交友も広く興味深い人物です。

本題とはそれますが、そのジョン万次郎(中浜万次郎)についてお話します。
万次郎は土佐清水の漁師で、仲間4人と漂流しているところをアメリカの捕鯨船に助けられ、仲間がホノルルで下船する中、船長と意気投合しアメリカ本土で生活します。当時万次郎は14歳だったそうです。詳細は省略しますが、万次郎が帰国して取り調べを受けた後に土佐の藩校「教授館」で後藤象二郎、岩崎弥太郎などを指導します。その後、直参旗本として幕府に招聘され英龍の配下となります。軍艦教授所教授にも任命され、日米和親条約の締結に際しても活躍します。小説では、童門冬二さんの「ジョン万次郎」や津本陽さんの「椿と花水木」もおもしろいですが、僕らの世代は、井伏鱒二さんの「ジョン万次郎漂流記」が印象に強く残っています。

話を英龍に戻しますね。
英龍と小田原との関係も深いものがあります。
天保十一年(1840)には、江川英龍は二宮尊徳を韮山に招聘し、面談しています。英龍からの要請により、伊豆の商人であった多田弥次右衛門に資金を貸し付け財政立て直しを行います。尊徳から農地改良についての指導も受けています。尊徳翁の影響もあり、のちに英龍は江川大明神と敬われるような立派な代官になったのかも知れません。

英龍は尊徳翁との関わりだけでなく、海防面での小田原との関わりもあります。
嘉永6(1853)年、ペリーが来航した直後、江川英龍は老中阿部正弘の命で品川台場の建設に従事します。が、何とその前に小田原で台場をつくっています。
弘化元年(1844)、幕府より相模伊豆の2カ国の海防の命を受けた小田原藩主大久保忠愨(ただなお)は、英龍へ台場の築造を依頼し、小田原藩から3名の藩士を英龍のもとに弟子入りさせます。3名の小田原藩士は藩の海防に尽力し、嘉永3年(1850)には、荒久、代官町、万町の3箇所に台場の築造を開始しているのです。あわせて32門の和・洋式大砲が設置されたそうです。
僕の住む町の半島の先端にも台場跡が残っています。
伊豆韮山の代官という地理的な面だけでなく、当時の先端技術を備え、外国事情にも詳しい英龍をたよりにしたのでしょう。

今回はここで終了です。
次回は、日露交渉を中心にお話ししようと思います。




  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29          

学校便り

保健便り

給食便り

HP掲載資料